1992年8月16日、甲子園球場で起きた前代未聞の5打席連続敬遠
1992年8月16日、阪神甲子園球場で行われた第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾高校(高知)対星稜高校(石川)戦。
明徳義塾は超高校級スラッガー、星稜の4番打者・松井秀喜を5打席連続して敬遠する作戦を敢行。
この試合は松井が一度もバットを振ることないまま星稜が敗退した。
4打席目は七回二死走者なしの場面でも明徳義塾ベンチの指示は敬遠だった。
そして九回二死三塁で松井が一塁に歩くと、スタンドからメガホンが投げ込まれ、さらに明徳ナインに対する「帰れ」コールや「殺すぞ」などのブーイングが起こり、試合は一時中断となり、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った。
この時、一塁上にいた松井は、憮然とした表情でその光景を見つめていた。
明徳に「5打席連続敬遠」を決意させた怪物、ゴジラ松井秀喜
物議を醸し社会問題にまで発展した「5打席連続敬遠」の影響
星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次いだ(この宿舎には明徳義塾が出場した際に、その後何年も同じ嫌がらせが続いたという)。
また宿舎の周りには、明徳の馬淵監督や選手達の身を守るために、警察官やパトカーが出動するという厳戒態勢がしかれた。
マスコミ陣も大勢が殺到、その影響により明徳の関係者は、宿舎から自由に外出さえも出来ない状態となってしまい、馬淵監督自身も「タバコさえも買いに行けない」と言うほどであった。
また、明徳の宿舎から練習グラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となった。
その後、3回戦の抽選会に訪れた明徳の筒井主将に対して、スタンドから野次を飛ばす者もいた。
また、試合当日夜の報道番組では軒並みこの試合を取り上げた。
高野連の牧野会長は「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」「勝とうというのに走りすぎる。すべてに度合いというものがあり、今回は度がすぎている」といった談話を発表した。
8月22日、明徳は3回戦で広島工業(広島)と対戦。
この年に明徳は広島工業と練習試合で2試合戦い、2試合とも明徳義塾が圧勝していたが、この甲子園での明徳は、前試合からの騒動による精神的ダメージはぬぐえず、本来のプレーをほとんど発揮できないまま、広島工業に0-8と大敗を喫した。
大会の翌年、甲子園大会を前に雑誌『Number』が「敬遠の夏」と題し敬遠事件の特集を組んだ。
特集の中では星稜、明徳両校の視点だけでなく観客からの視点もあり「(入場料を払ってまで)野球を見に来た観客の楽しみは勝敗以前に松井がこの試合で如何にして打つか、また相手投手が松井を如何にして抑えるかにあった。(中略)観客が(入場料を払ってまで)楽しみにしていた物を5打席敬遠という予期せぬ形で奪われたら(明徳へ)『帰れ!!』コールを行ってもその気持ちは十分理解できる」としている。
「5打席連続敬遠」について試合直後のコメントと後の談話
星陵・松井秀喜
「敬遠自体はあの試合だけじゃくて、それまでも何度もありましたので、ほかの敬遠となんの違いもなかったんですけどね。敬遠されたことに関しては何も悔しさだとか、そういう感情みたいなものはそんなになかったですね。負けたことだけですよね、悔しかったのは。あの作戦に対する気持ち、個人的な気持ちは全然なかったですね。僕も最後の夏でしたし、仲間たちともっと試合したかったという気持ちが強かったので、負けた悔しさだけが残りましたね」
「やはり高校野球のあの甲子園の舞台で、5回敬遠されるっていうことは、過去にも、それ以降も、おそらくなかった事だと思いますので、自分自身があそこで敬遠されたバッターだということを、どこかで証明しなくちゃいけないっていう気持ちが、心の中のどこかにあったと思うんです。そういう意味ではエネルギーになったと思うし。自分が努力するというか、頑張っていく、力になってくれたんじゃないかっていう気はします」。
星陵・山下智茂監督
「みんな松井と勝負して、もし打たれてもそれを糧にしてまた大きくなるでしょ。よし、次は抑えてやろうと。それが高校野球だろうと、僕は思うんです。ただこれは、馬淵さんには馬淵さんの、僕には僕の高校野球観があるということでね」
「このゲームだけは、スコア見たくないねえ。敬遠と(投げ込まれた)メガホンと、それしか頭にないな、試合の印象はね」
明徳・馬淵史郎監督
「私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」
「ただ、四六歳の大人になった今振り返れば、大人の作戦のために一八歳の子供たちにいやな思いをさせてしまったこと、特に松井の次の打者に迷惑をかけてしまったことに気づかされます」
「(松井について)一番の思い出の選手だった。(敬遠策で)嫌な思いをさせたこともあり、成功を願っていた。期待以上の成果を残してくれた。 」
「5打席連続敬遠」から7年後、松井と敬遠した河野和洋投手が対談
明徳投手として5打席敬遠をした河野は野手として専修大学に進学して本来のポジションである外野手として活躍。
しかしドラフト指名はかからず、社会人のヤマハを経て、米独立リーグでプレーするために海を渡った。
松井より先に米国の地を踏んだが、夢はかなわなかった。
日本に戻ってからは2008年に千葉熱血MAKINGの選手兼任監督に就任した。背番号は松井と同じ55番である。
現在は開智国際大学野球部のコーチも兼任している。
河野は後に「もし勝負をしていたら、100%負けていたと思います」「でも僕も必死だった。勝つために必死でした」
「(松井の引退に際して)自分にとって、彼は普通の選手とは違う。これから見られなくなると思うと…。残念だし、寂しいです」とコメントしている。
5打席連続敬遠から21年 松井秀喜vs 河野和洋21年後の第6打席
星稜『松井の次の打者』月岩信成の苦悩と悲劇
星稜の5番打者、月岩は松井敬遠後に奮起して打席に立ったものの3回にスクイズこそ決めたが、4打数無安打。
松井が一塁へ歩かされた後、徹底的に打ち取られた。試合中は松井から「普段通りやれ」と声を掛けられ、試合後はそっと肩を何度か叩かれたという。
「自分が打っていれば…」。多感な18歳の少年が精神的に極限まで追い詰められたのは想像に難くない。大阪経済大に進学が決定してしたが、この一件を蒸し返され喧嘩となり進学取り消し。
「まだ子供だったんでしょうね。周囲から面白おかしく言われ、世間全てが敵に思えた。野球を続けること自体で罪悪感にさいなまれた」。
大好きだった野球をやめ、松井をはじめ当時のナインとも卒業後は距離を置いた。
不動産の営業マン・飲食・旅館の従業員など職を転々とし、結婚しても3年で離婚…
人生のどん底状態を味わっていた。
高校野球もプロ野球も見ることは無かった。
だが、ある日ふとテレビを見ているとヤンキースに移籍しての松井秀喜が映っていた。
ホームでのデビュー戦、満塁の状況で対戦相手のピッチャーは前の打者を敬遠して松井との勝負を選んだ。
「あの時の自分と同じだ…」と注目して見ていたら、松井はそこでホームラン。
ホームデビューで満塁ホームランを打ち大歓声を浴びる松井。
「やっぱり松井は凄いな。こんな選手と一緒に野球をやっていたんだ。」と鳥肌が立つほど感動し、涙が止まらなかった。
そして、「なにやっているんだ、俺は。こんなとこで腐っている場合じゃねぇ」と奮起。
心に落ち着きを取り戻すと、松井の帰省時には当時のメンバーで温泉旅行に参加。
月岩は2012年3月に石川県金沢市に焼き鳥・串カツ店「KUSI56(くしころ)」をオープン。
店名の「56」には松井の背番号「55」のあとを受けるという意が込められた。
(現在は閉店)
「今は良い思い出。あれは僕しか経験できないことだったんだから」と考えるようになった。
松井の引退時には、次のようにコメントしている。
「あれから20年という節目の年に松井が引退。感慨深いですよ。僕らの“代表”だったので、会見を見てじーんと来たし、感動しました。それと明徳戦のことは松井が現役である限り、僕も聞かれ続けると思っていたので一安心というか…。ちょっと寂しいというか」
「松井と一緒にプレーできたことは最高の思い出だし、松井のあとの5番を打ったのは僕の誇り。今度松井が帰って来たら、一緒に草野球やろうって仲間で盛り上がっています」
高校球史に残る大事件として今も語りづがれている松井秀喜の「5打席連続敬遠」。
後年明らかになった「敬遠した投手」「勝負を選ばれた5番打者」のエピソードによって、より鮮明に記憶されることになった。
松井だけでなく多くの人に影響を与えたこの出来事は今後も長く語り続かれるだろう。