赤井英和 動画集
ヤンチャ
赤井英和の生家は大阪の西成区太子の漬物屋さんだった。
近くにあいりん地区があった。
あいりん地区というのはJR西日本新今宮駅の南側一帯の地区の愛称で、「釜ヶ崎」ともいう。
路上生活者、住所不定の日雇い労働者が多く、身分証明書がなくても賃貸物件を借りたり、銀行口座が開設できる。
2009年11月リンゼイ・アン・ホーカーさん殺人事件で懸賞金1000万円がかけられた市橋達也受刑者もここに潜伏していた。
暴力団事務所とホームレスの多さから「日本一治安が悪い」ともいわれる。
山口組組長:田岡一雄を狙撃し、後に六甲山中で拷問を受けた後とみられる死体となって発見された鳴海清は、赤井英和の中学校の先輩で家も近所だった。
赤井英和は小学5年から西成警察の少年柔道教室へ通い、ブルース・リーがブームになると空手を習った。
赤井英和は、中学時代からかなりヤンチャで、喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその悪名は響き渡った。
学生服は極ヤン(極道ヤンキー)ファッション。
上着は二回りくらい大きなものを着て応援団風に、下も肥満体用のものを裾をつめボンタン風にした。
ベルトを胸のあたりでしめてもチャックは膝のあたりにあった。
そんなまるでペンギンのような格好で、下駄箱を気合一発、蹴って割ったり、教室の後ろからホウキを投げて黒板に突きさしたりした。
また自分の弁当は午前中の早い時間帯で食べてしまうため、友人の弁当を盗み食いし、50円~100円を入れておいた。
しかしその弁当がマズかったら、ご飯に10円玉を押し込んで製作者の反省を求めた。
カツアゲを行う者や鑑別所に行く仲間もいたが、赤井英和は硬派で姑息なことはしなかった。
自分より弱い者には手は出さず
「ここで一番強いの誰や!
勝負せい!」
と道場破り的なケンカを繰り返した。
友人も多く、中学卒業時の文集には37名の友人のおかげで充実した3年間を送れた事に対する感謝の気持ちを著した。
赤井英和同様、ボクサーだったトミーズ雅
住吉高校を受験した赤井英和を同じく受験しに来ていたトミーズ雅が目撃した。
優等生が集まる名門校の受験会場の中、赤井はただ1人、不良丸出しの学ラン姿で受験に来ていた。
机の上に足を投げ出し周りを威嚇しながら弁当を食べていた。
血気盛んな2人はメンチを切り合い、一触即発の危機となるが、受験会場ということもあって喧嘩は回避された。
後日、雅はそれが赤井であったことを知りトミーズ雅は「ケンカせんで良かった」と安心すると同時に赤井の不合格を祈った。
合格発表の際、自分の受験番号よりも先に赤井の受験番号を探し、その不合格を知り、ホッと胸をなで下ろした。
「先輩、どないしたらえんですか?」
住吉高校を落ちた赤井英和は、浪速高校に進学した。
卒業生に藤本義一、林家ペー、笑福亭鶴瓶らがいた。
赤井英和は、中学を卒業後、まだ高校が始まる前に喫茶店に入ると中学の先輩で浪速高校ボクシング部主将をしていた須藤政彦がいたため挨拶をした。
すると
「そうか。
お前、ボクシング部入れ」
といわれ、翌日からボクシングの道場へ連れていかれ練習を開始した。
そして入学式当日、便所でタバコを吸っているところを教師に見つかり、いきなり停学1ヵ月の処分を受けた。
ボクシング部は須藤キャプテンが怖かったせいか2年生が全員やめてしまい、3年生の他は1年生の赤井英和1人だった。
初めは先輩のマウスピースを洗ったり、ビール瓶に水を入れたり、掃除したりと雑用ばかりした。
初試合は高1の8月、国体の大阪予選だった。
スパーリングどころかシャドーボクシングもほとんどやっていなかったが須藤キャプテンにいわれた。
「赤井、お前出ろ」
「先輩、どないしたらえんですか?」
「蹴ったらアカン。
嚊んだらアカン。
あとはなにしてもええ。
ええか、とにかく両手でどつきまわしたらええんや」
単純な赤井英和はリング上でその通り、最初から思い切りどつきに出て判定で勝った。
そして大阪予選を勝ち抜き三重国体へ進んだが1回戦で鹿児島代表に判定負けした。
高校生活はボクシング部の練習はしんどかったが、それさえクリアすれば天国。
面白くて仕方なかった。
とにかく楽しんだ。
名前を売りたい気持ちもあって、ケンカをするなら派手に電車と決めていた。
中学までは家と学校の周辺の狭い地域の中で肩をいからせていたが、電車通学となるといろんな見知らぬ学校と一緒になる。
先頭車両から巡回を始め、大股を開いて座っている者がいれば蹴りを入れ、お年寄りがいれば席を譲らせるなど世直しを行った。
そして
「なんや、お前。
デカい面しやがって。
降りろ!」
といわれたらホームに降りるや振り向きどついて電車とホームの間から線路に落とし、逃げようとする仲間を引きずり出してどつき回した。
「釜ヶ崎の赤井がまたやった」
「浪高の赤井はホンマにムチャしよる」
「アイツと会うたら逃げろ」
などといわれるのが好きだった。
自分を信じんかったらなんにもでけへん
津田博明
悪さばかりして留年した赤井英和は2年生からボクシングの主将となった。
そして大阪代表としてインターハイに出場した。
大阪はボクシング部が少ないので大阪代表になるのは比較的かんたんだった。
しかし全国大会ともなると沖縄のようにボクシング部が多い県も含め強豪が集うため優勝するのは難しかった。
しかし同じ大阪代表の竹ノ内秀一という選手は楽々と決勝まで行っていた。
話してみるとプロのボクシングジム通いトレーナーに教えてもらっているという。
赤井英和はその津田博明トレーナーを訪ねた。
「赤井、お前はスピードもあるし馬力もある。
せやけどお前はボクシングを知らん。」
「ほな、教えてください。」
「よし明日から来い。」
次の日から練習は始まった。
目標は10月の秋の国体。
津田博明トレーナーは、自身は ボクシングの経験はあったがプロにはなれず、タクシーの仕事をしながらその合間にボクシングのトレーナーをしていた。
津田博明トレーナーと赤井英和は公園で、子供が遊んでいる横で滑り台にサンドバッグを縛りつけ打ったり、タイムを計り忘れて、砂煙を上げながら延々とミットを打った。
トレーナー1人、選手1人の練習は週1回が2日に1回になり、雨の日も不休で行われた。
ロードワークから戻って道路に大の字になる赤井英和に津田博明トレーナーはホースで水をかけた。
焼けたアスファルトの匂いがし青空がみえた。
最初、津田トレーナーは赤井英和に
「左、左、左・・・」
と延々と左ストレートだけを打たせた。
10月になり青森国体が始まった。
赤井英和の相手は佐賀県代表の吉田信二。
2年連続ライト級チャンピオンの超高校級のハードパンチャー、モスクワオリンピック代表の有力候補だった。
しかし試合開始後、赤井英和の左がきれいにヒットした。
吉田のパンチを食わずにバンバン打ちまくり、大阪代表の赤井英和は勝った。
「俺はやろうと思えばやれる男なんや。
自分を信じんかったらなんにもでけへん。」
翌年(昭和53年)、東西対抗戦が東京の後楽園ホールで行われ、ライトウェルター級の強打者、2年連続ライトウェルター級チャンピオン、オリンピックの有力候補の副島保彦選手と対戦。
赤井英和は相手のパンチをかわし有効なパンチを決め有利に試合を進めた。
しかし判定負け。
「なんでや。」
赤井英和は茫然とことばを失った。
日本アマチュアボクシング連盟の期待を背負っていた副島保彦選手と無名のローカル選手。
そういうものが判定に影響したかもしれない。
赤井英和は憧れだった後楽園ホールの便所で泣いた。
大阪に帰ってボクシングに嫌気がさしていた頃、一通の手紙が届いた。
「赤井君、あの試合は君が勝っている。
私もあの判定はおかしいと思っている。
とにかくボクシングは倒したら勝ちなんだから、この一件に負けずどうか強くなってください。
期待しています。」
アマチュアボクシング連盟の小林正三からの手紙だった。
「やった!」
赤井英和はうれしくてみんなに手紙をみせて回った。
たった一通の手紙が腐りかけていた心を叩き直し、赤井英和は気持ちを入れ替えで再びボクシングに取り組み、パキスタンのカラチで行われたアジアジュニア選手権のらライトウェルター級で優勝した。
高3の8月、インターハイ優勝。
12月、モスクワオリンピックベルト争奪戦をKO勝ち。
高校生活もあと数ヶ月、受験シーズンに入ると、各大学からお声がかかった。
大好きな大阪と津田トレーナーの教えから離れたくない赤井英和は近畿大学へ進んだ。
そして関西学生リーグで32連勝していた名門:近大ボクシング部で練習し、津田トレーナーともう1度練習してから帰るという日々を送った。
また当時の恋人の影響で茶道部にも籍を置いた。
消えたオリンピック
大学1年生の赤井英和は、オリンピックの国内予選を勝ち進みモスクワオリンピック代表となった。
その強化合宿に、エディ・タウンゼントがいた。
エディ・タウンゼントはたくさんチャンピオンを育てた名トレーナーで、赤井英和にとって高校時代から雲の上の人だった。
「左フックは下から上へアッパー気味に打つのよ。
こうよ!」
エディは自らポーズしてみせた。
「この左フック打てたら右手お尻かいててもいいよ。」
練習中、口から胃を吐きそうなくらいハードな状態になると、エディは魔法をつかって、その力を引き出した。
「アカイ、もう1発。
もう1発、力いっぱい。
これでもう相手倒れる。
疲れてる、 チャンス。」
赤井はエディの気さくでユーモラスな人柄に惹かれた。
「エディさんは暗示をかける名人です。
ボクサーを絶対けなしません。
トレーナーには『アホンダラ、ボケ、打たんかい、アホンダラ』とアホンダラ教みたいにいう奴がいますがエディさんは違います。
パンチをミットで受けながら
『Oh、ナイス。
ナイスパンチ。
それよ、それなのよ。』
『はい(お、そうかな)」』
『でもネ、アカイ、もうちょっとここで強く打ったらもっといいよ。』
こういわれるともう力がわくんです。
エディさんにミット持ってもらったら確かに強うなると思います。
チャンピオンが生まれるわけですわ。
練習が終わると今日はエディさんに稽古つけてもろてちょっと強くなったなと思ってしまうんですよ。
片言の日本語でジョーク入れながらの練習が楽しくてしょうがないんですよ。
10歳くらいから半世紀以上ボクシングやってらっしゃるんやから、そら重みが違いますわ。
とにかくエディさんの選手に暗示をかけて盛り立ててくれる上手さ、ほめることで力を引き出そうとするのは、凡人では到底まねのできない名人芸です。」
ソ連が隣国アフガニスタンへ侵攻し、アメリカのカーター大統領は、ソ連が1ヶ月以内に撤退しなければモスクワオリンピックは参加すべきではないと事実上のボイコットを表明し各国に同調を求めた。
IOC(国際オリンピック委員会)は、カーター声明をオリンピックの基本精神に対する挑戦として拒否。
モスクワオリンピックを予定通り開くことを決め、参加するかしないかは各国のオリンピック委員会の判断に委ねられた
日本国内の世論調査では、日本選手がモスクワオリンピックに「行くべき」55%、、「行くべきでない」45%。
「選手の率直な気持ちを話そうではないか。」
と柔道の佐藤宣践コーチが呼びかけ、日本体育協会に各競技の代表候補選手とコーチが集い涙ながらに参加を訴えた。
しかし西ドイツ、カナダ、オーストラリア、日本などの西側諸国は不参加を決定。
赤井英和を含め、多くの選手が日本がモスクワオリンピックをボイコットしたことに今でも納得していない。
アメリカでは、カーター大統領はホワイトハウスに代表選手を招待して、ボイコット決定を説明し納得してほしいと訴え、順にテーブルを回って不満の声に耳を傾けた。
日本では「認定証」が発行されただけで政府やJOCからはひと言の説明も謝罪もなかった。
金メダルを獲って表彰台に上がる自分をみて涙ぐむ両親、熱狂する日本国民、自分を好きになるたくさんの女性をイメージしてハードなトレーニングしていた赤井英和は、ふてくされ、酒を飲み乱れた。
しかしやがてアマチュアの頂点ではなくプロの頂点を目指してやろうと思い始めた。
「よし、プロボクサーになるで!」
プロ入りするからには学校から身を引くべきと考え、退学届を近畿大学ボクシング部監督:吉川昊允に提出した。
すると吉川昊允監督はそれを破り捨てた。
「プロになるならそれもよかろう。
しかしボクシングだけのために大学に来たんやあるまい。
親は君に勉強してもらいたいから進学させたんじゃないのか。
その気持ちに応えるのが赤井、君のとるべき態度のはずだ。
あと3年間勉強を続けることだ。」
例えば元世界ウェルター級チャンピオンの平仲明信も、赤井英和同様、大学在学中にオリンピックに出場し、その後、プロに転向した。
看板選手を失いたくない大学側はアマチュアとして続けるよういったが、平仲がそれを拒否すると、早々に大学から出ていくようにいい渡し、プロになっても大学に残りたかった平仲は1人の見送りもいない中、寮から去った。
ボクサーである前に、まず人としての道を大切にするように諭した吉川昊允監督は、赤井英和の大切な恩師の1人となった。
KOしかない
赤井英和は、プロテストを受け、スパーリングで相手を30秒で寝させて合格した。
津田博明トレーナーは、大阪の西成区天下茶屋の潮路に自分のジム、「愛寿ボクシングジム」を開き津田博明会長となった。
(愛寿ボクシングジムは、後に「三和愛寿ボクシングジム」、「三和ツダボクシングジム」、「グリーンツダジム」と変名し、現在は「グリーンツダボクシングクラブ」となっている。
「グリーン」は、当時のスポンサー、『グリーン観光』の名残。)
愛寿ボクシングジムは長屋を改造し、狭くて正方形は入りきらないので会長の日曜大工で縄を張った長方形のリングがあった。
ロープ(縄)は壊れるためにもたれることはできず、隣の住人がご高齢だったので騒音に気をつけなければならなかった。
赤井英和は愛寿ボクシングジムの第1号選手だった。
目標は世界チャンピオン。
会長1人、選手1人の小さなジムがそれを叶えるためには戦略が必要だった。
「うちのジムは選手もいなければ業界に対する地位もない。
世界を獲るためにはマスコミを使うのが1番や。
マスコミは記録が好きやから、まずお前はKO記録をつくらないといかんぞ。
力も金もないジムからパッと華やかに売り出すためにはKO記録が必要なんや。
わかるな」
通常、ボクシングの試合は、1Rは様子見、2Rから手を出し、3Rから・・
勝つことを意識すればこのようになるのが当たり前。
しかし赤井英和は
「絶対に倒さないとアカン」
という使命感でゴングが鳴ると弾かれたように飛び出しダッシュで打って打って打ちまくった。
防御もテクニックではなく、何より1発もらったら3発返すようなスタイルは「ケンカボクシング」といわれた。
そして相手を倒して勝った後は、その喜びを派手にアピールして盛り上げた。
そしてインタビューにも力を入れた。
「今日はテレビで流すいうんで散髪してきたんです。
すいません。
テレビカメラどこですか?」
「KOの秘訣ですか?
やっぱりパンチのスピード、タイミング、それに薬です。」
デビュー後、12連続KO
赤井英和はKOで勝つことしか頭になかった。
1Rから思いっきり飛ばしていって、どついて、どついて、どつきまわして、デビュー後12試合連続KO。
ムサシ中野の持つ日本記録(当時)に並んだ。
1980年
9月18日 鷹大拳 2R 2分35秒
11月28日 谷口大五郎 1R 31秒
12月21日 笹川幸二 4R 2分55秒
1981年
3月1日 尾崎富士雄 3R 1分7秒(全日本ジュニア・ウェルター級新人王を獲得)
3月29日 毛利ジョージ 1R1分40秒
6月9日 小木田昇 4R 1分17秒
10月28日 小木田昇 1R 59秒
12月18日 桑田修孝 1R 1分56秒
1982年
2月22日 中尾和美 2R 1分43秒
5月6日 フレッド・ガラン 5R 28秒(世界ランキング入り)
7月19日 フレッド・チン 1R 1分26秒
9月6日 トム・シンサノンサクディ 2R 37秒
新記録がかかった13戦目は、これまで試合でダウンしたことがないタフな日本ランカー:知念清太郎を倒し切れなかった。
(大差の判定勝ち)
ちなみに赤井英和はプロで2敗しかしていないが2敗ともKO負け。
ボクシングは倒すか倒されるか。
KOしかない。
勝っても負けてもKOという赤井英和は、本来のボクシングの醍醐味を体現した男だった。
記録は途切れたもののその人気は衰えず1983年2月21日、それまで関西ローカルのみだった赤井英和の試合が初めて全国放映された。
大阪で行われる試合が全国放映されるのは世界戦以外では異例のことだった。
対戦相手は日本ジュニア・ウェルター級4位:武藤巳治。
足の速いアウトボクサー。
1R、武藤巳治は軽いジャブを打ってランニングを始めた。
赤井英和は最初こそボクシングをしていたが、すぐに逃げ回る相手を殴り倒しにかかる。
武藤巳治はフットワークで強引な攻撃をかわしていたが、赤井英和の速い追い足に次第に逃げられなくなる。
1Rの残り数秒、ニュートラルコーナー付近で赤井英和の右ストレートが武藤巳治の顎を直撃しノックアウトした。
7月7日7R フィーバーさせたる!
連続KO記録は止まったがデビュー後14連勝13KO無敗という圧倒的な勢いは日本、東洋をスルーし、いきなり世界挑戦を可能にした。
相手はWBC世界スーパーライト級チャンピオン:ブルース・カリー。
試合前日、挑戦者:赤井英和は記者会見で宣言した。
「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる。」
1983年7月7日、WBC世界Jウエルター級タイトルマッチ、ブルース・カリー vs 赤井英和。
赤井の母校である近大の記念会館に12000人の大観衆が入った。
1R、開始早々、チャンピオン:ブルース・カリーはグローブタッチを求めたが、挑戦者:赤井英和はバチ当たりにもそれを無視して右ストレートの先制攻撃を見舞った。
明らかに戸惑いの表情をみせ後退するブルース・カリーをロープ際に押し込みパチキ(バッティング、頭突き)をかます。
これは見事に命中したがブルース・カリーの頭が硬く、自分が右眉のあたりをザックリと切ってしまう。
しかしこのラウンドを含め、赤井英和は一貫して捨て身のラッシュファイトを敢行していく。
5R、赤井英和のが左フックで世界チャンピオンは尻餅をつくが、レフリーは「押し倒した」としダウンと見なさなかった。
6R、ラッシュし続ける赤井英和の左フックがブルース・カリーの顎をとらえた。
ブルース・カリーは黒いマウスピースをむき出しになりロープまで吹っ飛んだ。
満場総立ちになった。
赤井英和は休まず攻撃し続け、ブルース・カリーはふらついた。
「赤井、そこだ!
行けぇ~」
テレビ中継の解説をつとめていたガッツ石松はマイクの音声が飛ぶほどの音量で叫んだ。
しかしブルース・カリーはしのいだ。
怒涛のラッシュでスタミナをロスした赤井英和に左フックをヒットさせリングを遊泳させた。
7R、赤井英和の動きが悪化。
ブルース・カリーは反撃に転じ、赤井に容赦ないパンチの雨を降らせた。
赤井英和はこの豪雨の中に沈んだ。
壮絶で見事な討ち死にだった。
ほんとうにサムライのようだった。
それは皮肉にもKO予告した7月7日の7Rだった。