ピンでは仕事が少ないさんまは、アルバイト感覚で先輩の小禄とコンビを組んで「若手漫才選手権」に出場。
敗者復活を生き残り、なんとか年末のグランプリ大会への出場権を獲得。
そして笑福亭仁鶴の番組の前説に抜擢された。
ピンで大爆笑を生む仁鶴は、さんまにとって憧れの先輩。
しかし超売れっ子で超忙しい仁鶴は、客をスタジオに入れての公開収録番組に常に遅刻。
当然、前説も延びたが、1度、仁鶴が大遅刻したときに、ついにネタ切れ。
そこでさんまが思いついたのが形態模写。
プロ野球選手のバッティングや守備の動きをおもしろおかしくマネて、最後は巨人のエース、小林繁がキャッチャーのサインに首を振って、投げた後、ポーズを決めるまでマネて笑いをとって何とか乗り切った。
年末の「若手漫才選手権グランプリ」には黒のタキシードに大きな赤い蝶ネクタイをつけて出場したが、優勝したのはオール阪神・巨人。
しかしさんまと小禄はしっかりとインパクトを残し、朝のワイドショー番組「小川宏ショー」への出演が決定。
1976年12月31日、朝7時半、3度目のテレビ出演となるさんまは迎えの車に乗ってフジテレビへ。
「小川宏ショー」が始まると、2人は「1976年を飾った男たち」というコーナーで、この年に活躍したスポーツ選手を形態模写を交えて紹介していった。
最初のネタは「アントニオ猪木 vs モハメド・アリ」
小禄が猪木、さんまがアリをやって滑り出しは順調。
しかし途中、小禄がネタをトバしてしまい、4分の持ち時間が2分半になってしまい、1976年を不完全燃焼で終えた。
翌年、さんまと小禄は、超人気TV番組「ヤングおー!おー!」に出演が決定。
この番組の起こりは、桂三枝。
大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪府池田市の住んでいる桂三枝は、高校生のときに同級生とABCラジオの「漫才教室」に出場。
毎回、一般公募で選ばれた3組が参加し、初等科(1週目)、中等科(2週目)、高等科(3週目)、卒業試験(4週目)と与えられた課題を勝ち抜き進級していくというルール。
賞金は、初等科合格で2000円、中等科合格で4000円、高等科合格で6000円、卒業試験合格で1万円と、アルバイトで1日働いて500円という時代にかなり高額だったが、桂文枝は勝ち抜き、関西の人気者になった。
関西大学の夜間部に進学したとき、ちょうど落語研究会「落語大学」が創設され、一期生となり、ロマンチックをもじった「浪漫亭ちっく」を名乗り、他大学の学園祭にも出演。
そしてプロになることを決意し、桂小文枝に弟子入り志願。
初高座でまったくウケず、プロの厳しさを思い知り、その後も客席は静まり返り、苦悩の日々。
入門数ヵ月後、MBSラジオのオーディションに参加。
新作落語を披露し、「歌え!!MBSヤングタウン」、通称「ヤンタン」のレギュラー出演を決め、
「ひとりぼっちでいるときのあなたにロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」
「オヨヨ」
「いらっしゃーい」
などという語りやギャグでブレイクした。
「ヤングおー!おー!」は、「歌え!MBSヤングタウン」のTV版で、合言葉は「若者の電波解放区」
司会は桂三枝と笑福亭仁鶴が行い、すぐに横山やすし・西川きよしも合流。
吉本芸人による大喜利、コント、漫才、トークをメインに、多彩なゲストも登場し、アイドルが歌を歌うコーナーもあった。
桂三枝は
「あっち向いてホイ!」
「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」
などのゲームを考案。
「ヤングおー!おー!」は爆発的な人気を得た。
「ヤングおー!おー!」は、松竹芸能が独占していた上方のお笑い勢力図を逆転させ、吉本は入ったばかりの桂三枝のおかげで大儲け。
貢献者である桂三枝、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよしは「吉本御三家」と呼ばれた。
そしてさんまもこの番組でブレイク。
次々と仕事に以来が舞い込むようになった。
子供の頃、
「あたり前田のクラッカー」
とマネをしていた藤田まことのイベントの前座として小禄と共に漫才をした。
日本発のサファリパーク「宮崎サファリパーク」を紹介するロケでは、チーターの前で漫談するよういわれ、車を降ろされた。
外国人飼育員に
「チーターの目とみる」
「近づかない」
といわれたが、30頭ほどがうろついていて、どの目をみたらいいのかわからず、
「死ぬ」
と思いながらも笑顔でしゃべり抜いた。
その後も車の中から体を出してクマにエサをあげたり、
「人間を一撃で殺せる動物はダチョウだけ」
と説明を受けた後、ダチョウの背中に乗って走らされた。
すべての要求に応えてロケを終え、後日、放送をみると過酷なシーンはすべてカットされていた。
「どぶろく風呂」のロケでは、1時間近く浸かり、ロケが終わった瞬間に倒れた。
吉本は、さんまと小禄に「アトム・スリム」というコンビ名で、なんば花月と京都花月で計18日間、ステージに立つよう指示。
しかしピンにこだわる21歳のさんまは、これを断った。
会社はレギュラー番組を用意するなど好条件をつけたが、さんまは折れず、結果、干されてしまった。
以後4ヵ月間、花月での出番はなくなり、テレビの仕事もすべて白紙。
電気やガス代が払えず、暗い部屋で過ごすことになったが、ピン芸人として意志を貫いたことに後悔はなく、小禄との関係も切れなかった。
さんまと小禄がコンビを解消し、それぞれピンになった直後、吉本に
「紳助が芸人を辞める」
という噂が流れた
島田紳助は、昼間は芸人の仕事、夜はサバークラブ「カルダン」でアルバイトという生活を続けていた。
アルバイト先でセカンドマネージャーに昇格したとき
「真剣に水商売やったろうかな」
と迷いが生じた。
そんな紳助にさんまは聞いた。
「やめるんか?」
「やめたない。
でも相方見つからなどないもならん」
「ほな紹介したる。
ちょうどエエのがおる」
さんまは自分より1つ年下で新喜劇の研究生、なんば花月の進行係をしていた松本竜介を
「根性あるで」
と紹介。
「なんで根性あるねん?」
と紳助に聞かれ
「卓球やってた」
と答えた。
後日、「紳助・竜介」、通称「紳竜」が結成された。
そして紳助の実家で紳助のつくった「漫才教科書」を使って勉強会が始まった。
「・・・という理論でやっていきたい」
「理屈でわかってくれ」
「でけへんかってもエエから俺が何をしようとしてるかだけはわかれ」
紳助はほぼ素人の竜介に教えながら、勉強会は3ヵ月間続き、7月15日に京都花月でのデビューが決まると、2週間前から漫才の稽古を開始。
紳竜は
「若い世代にだけ受ける漫才」
を目指し、リーゼントヘアにつなぎの作業着という不良少年ファッションで落ちこぼれの本音の代弁するツッパリ漫才を行って、若者の圧倒的な支持を得た。
努力と研究を積み重ねてきた紳助と真っ白で純粋な竜介は、1980年代になると漫才ブームを牽引するコンビの1つとなった。
紳竜がデビューして2ヵ月後、「ヤングおー!おー!」に欠員が出たため、桂三枝の推薦でさんまがピンで復帰。
それは収録3日前のことだった。
当日、公開収録が始まると、桂三枝のかけ声で、白のタキシードにシルクハットをかぶった、桂きん枝、桂文珍、桂小染、月亭八方、明石家さんまの5人が登場。
ドラムロールが鳴り、シンバルの合図でシルクハットを投げると全員、坊主。
会場は爆笑。
その後、さんまは漫談でも笑いを浴びた。
そんなさんまをみて桂三枝は、その強烈なバイタリティーを認めつつ
「芸人として大切な繊細さが足りない」
と分析。
以後、教育と育成を開始した。
一方、「ヤングおー!おー!」が放送されると、さんまの周囲は一変。
どこに行ってもファンが群がり、声をかけられ、サインを求められるようになった。
その後、「ヤングおー!おー!」で西川のりお・上方よしお、B&B、ザ・ぼんち、そしてさんまの7人がユニットを結成。
西川のりお、島田洋七、ぼんちおさむ、3人の荒くれ者が好き勝手に暴れるのをみて、吉本の林正之助会長は
「あのバイ菌どもを、はよ降ろせ。
2度と出すな」
と激怒。
それを聞いた7人は自らユニット名を「ビールス(ウィルス)7」と命名。
さんまは6人の先輩の中に入って、コントロールする役目を担った。
桂三枝は、「ヤングおー!おー!」で、さんまを厳しく指導した。
リハーサルでは、表情、語感、緊張と緩和、声の出し方、リアクションのとり方など、息をつく暇を与えないほど細かく指示。
桂三枝は、台本通りに進み、自分の計算通りに客が笑うことを望んだが、誰よりも目立ちたがり屋で本能的に爆笑を獲りにいってしまう生まれながらのお笑いハンター、さんまは、アドリブでギャグを放ちウケることが多々あった。
収録が終わると、
「さんま、ちょっと来い」
という桂三枝の声が響き、楽屋に連れていかれ、
「お前はあれはどういう気持ちでやったんや」
「みんなのおかげでこういうことがやれてることをわかってんのか」
と怒られ、
「はい」
「すいません」
と答えながらも心の中では
(俺がウケたから嫉妬してはる)
と思っていた。
そして
「俺らは屁ぇか!」
と桂三枝が机を叩き、勢いあまってひっくり返るのをみて、さんまは思わず笑ってしまった。
すると
「お前、なに笑ろてんねん!」
と桂三枝は寝たまま、髪の毛をかき上げ、説教を再開させた。
しかしさんまは何度、説教されてもアドリブを続けた。
一方、桂三枝も1人だけ笑いをとれればいいという姿勢を断じて許さず、他のメンバーのミスでも矛先をさんまに向け、2人の愛の説教部屋は毎週続いた。
車で移動中も桂三枝はさんまに、大喜利問題を出したり、
「なんぞオモろいことないか?」
とフリ続け、収録がない日に気が休まらないように
「考えとけよ」
といくつも課題を与えた。
「オモろいことないか?」
さんまは聞かれ続けたが、そんなに面白いことがあるはずがなく、ウソをつくか、話を大きくするしかなく、ある日、
「いや、こないだビックリしたんが、地底人と会うたんです」
と答えると
「それはウソや」
といわれてしまった。
こうしてさんまはどんなこともバラエティーにしてしまう能力を身につけていった。
そして番組では常にアクセル全開でどんなスキも見逃さない。
「たとえつまらなくても出来る限り笑わす方向に行かなきゃダメ」
「最低な、最低、1ブロックに1つ2つ笑いを入れる努力が必要」
「笑いこそ正義」
と病的に全部の話を面白くしようとし、お笑い怪獣が覚醒しつつあった。
誰からも好かれ、あまり叱られたことはなかったさんまは、「ヤングおー!おー!」の収録が行われる火曜日になると憂鬱になった。
「ヤングおー!おー!」で極度の緊張感を味わうさんまにとって、さまざまな芸人が集っておしゃべりをする花月の楽屋は最高のヒーリングスポットだった。
ある日、花月の楽屋で中田ボタンに
「さんまちゃん、テレビに出だして天狗になっとるんちゃうか?」
と冗談まじりに聞かれ
「はい、ならしてもろうてます」
と答えると楽屋はドカンとなった。
その後、
「天狗になっとるんちゃうか?」
「はい、ならしてもろうてます」
は楽屋の鉄板ネタとなった。
そして桂三枝が楽屋にいるときに中田ボタンは
「天狗になっとるんちゃうかって聞いてみはなれ」
とフった。
そして桂三枝に
「さんま、天狗になっとるんちゃうか?」
と聞かれたさんまは
「はい、ならしてもろうてます」
と答えた。
すると桂三枝は
「なってどうすんねん!」
みんなのおかげやろ」
と激怒。
「まあまあまあまあ」
ナダめる周囲に
「まあまあちゃいます!
そこに座れぇ!」
「はい」
さんまは正座させられ、天狗の鼻をヘシ折られながら、何事もなかったかように楽屋を出ていく中田ボタンを目撃した。
「西の郷ひろみ」
といわれ、アイドル的人気でたくさんの女性ファもを獲得したさんまは、複数のドラマに出演。
もちろんコントチックなドラマもあったが、シリアスなドラマにも出演し、少しでも目立ち、少しでも印象を残し、少しでも長く映るためアドリブを入れ、休憩中はスタッフや出演者を笑わせ現場を盛上げた。
それまでみていた芸能ニュースの影響で
「ドラマに出たら共演者と恋愛関係になる」
と思い込んでいたさんまは、共演者に恋をしてドキドキしていた。
1978年10月、桂三枝は自身がパーソナリティを務めるラジオ番組「MBSヤングタウン土曜日」、にさんまをレギュラー出演させることを決定。
ヤングタウン、通称ヤンタンは、月~土の深夜に放送されていた。
月~金はスタジオから生放送されていたが、土曜日は素人参加型の公開録音。
「恋のとりもちコーナー」では、
「本日は恵子ちゃんの登場です。
では早速、恵子ちゃんの意中の男性を呼び出してみましょう」
(三枝)
「アッ、もしもし、こちらヤンタンですが、今日はあなたのことを思い続けている女性がスタジオに来てくれてます。
話だけでも聞いてあげて欲しいいんですけど・・」
(さんま)
と依頼者が恋する相手に電話をかけ、その後、なんとか恋を実らせようと奮闘。
さんまが
「ウチのおじいちゃん、シュークリームを食べて『この稲荷寿司うまいわ、でもご飯が少し柔らかいな』っていうんです」
「最近、ウチのおじいちゃん、音声機能のついたポットとしゃべり出したんです。
『お湯が出ます』『ああ、そうかい』ってポットと会話しとったんです」
などと少しボケ始めた祖父、杉本音一のエピソードを話したことがきっかけで「音一ファンクラブ」というコーナーが誕生し、杉本音一は電話出演することになった。
当日、さんまは奈良の実家に
「今日の夕方4時頃電話するから」
と電話。
すると音一は昼から4時間、電話の前で正座。
時間になり三枝が電話。
「もしもーし、音一さんですか?」
「ハロー!」
「歌手では誰が好きですか?」
「ピンクレディですわ」
「ピンクレディのどっちの方が好きです?」
「ワシはピンクの方が好きです」
スタジオは大爆笑。
出番を終えた音一は血圧が上昇し、その後1日寝込んだ。
さんまはスタジオに集まった150名に積極的に話しかけ、あちこちで漫談、小噺、ギャクを放ち、盛り上げた。
そして毎週、収録が終わると三枝に
「余計なことばっかり言うな」
と説教された。
さんまは、収録が行われる毎日放送千里丘放送センターに出入りしていた広告代理店勤める女性に一目ボレ。
会うたびに話しかけ、デートに誘い、断られ続けた末、やっとのことで初デートにこぎつけた。
ヤンタンの収録後、大勢のファンに取り囲まれながら2人でタクシーに乗って甲子園へ向かい、阪神・巨人戦を観戦。
これをしったヤンタンのプロデューサー、渡邊一雄は激怒。
さんまは呼び出され
「ファンがいてこその君、ファンがいてこそのヤンタンやろ。
それをファンがみてる前で女とタクシーに乗るなんて何を考えてるんだ。
10万人のファンと1人の女性、どちらが大事なんだ」
と叱られ
「1人のエッチです」
と答え、
「なんちゅうこというねん!」
渡邊一雄はさらに激怒。
吉本社員も呼び出し、説教を続けた。
「ヤングおー!おー!」に、紳助・竜介が新加入。
毎週、桂三枝に怒られているさんまをみて紳助は
「ガマンせえ。
三枝の時代もすぐに終わる」
と慰め励ましたが、その後もまったく終わらなかった。
さんまがコーナーで司会を任されるようになると先輩の桂文珍は、
「さんま君、今日もアンタが司会?」
「はい、よろしくお願いします」
「フンッ!偉ぁなったんやね」
といい爆笑させた。
さんまは江川騒動のあおりを受け、巨人から阪神に移籍した小林繁の形態模写で人気爆発。
女性ファンに騒がれる後輩をみて西川のりおは
「俺もやったるわい」
と勇んだが、無理だった。
大きなレギュラー番組を抱えるようになったたさんまは、ついに3年間暮らした第一久寿荘を出て、大阪市福島区のマンション、「メガロコープ福島」へ引っ越し。
家賃は7万円。
4畳半と6畳の部屋に新しい絨毯を敷いて、ビールケースと板は捨てて、本物のベッドを買った。
さんまは女性とは必ず2人きりで会い、芸人仲間と遊ぶときに連れて行ったり、紹介したりすることは1度もなかった。
そんなプライベートを明かそうとしないさんまを島田紳助は
「もしかしたらどっかの国の工作員ちゃうか」
と疑っていた。
ある冬の日、2人で大阪のテレビ局での収録に参加。
次の撮影まで時間が空いたため、さんまに
「俺の家来るか?」
と誘われた紳助は内心、
(珍しいな)
と驚きながらメガロコープ福島へ向かった。
そしてマンションに着くと部屋のドアの前にミニスカートにブーツを履いた女性が紙袋を持って立っていた。
紳助が気を遣って、
「俺、帰るわ」
といったが、さんまは
「帰らんでエエよ。
入れ、入れ」
といいドアを開けて入っていった。
紳助も続いたが、女性が入ってくるだろうとドアを開けて待った。
しかしさんまは
「アッ、ええねん、ええねん」
といってドアを
「バタンッ」
と閉めた。
そして汚れた衣類を集めて紙袋に詰め、ドアを開けて、黙って女性と紙袋を交換。
紳助は
(指令書の交換か?)
と思った。
そして無言のままドアを閉めたさんまに
「誰やねん?」
と聞くとさんまは
「洗濯屋や」
と答えた。
後日、その女性はさんまの部屋を訪れ、
「私の気持ち聞いて」
といって1枚のレコードを差し出した。
♪愛することに疲れたみたい
嫌いになったわけじゃない
部屋の灯はつけてゆくわ
・・・・・・・・
今度生まれてくるとしたなら
やっぱり女で生まれてみたい
だけど二度とヘマはしない
貴方になんかつまずかないわ
・・・・・・・・♪
部屋に松山千春の「恋」が流れ、女性はボロボロと涙を流しながら部屋のカギを置いた。
(今度こそ本気やな)
と悟ったさんまは、
「俺も胸がいっぱいや。
これが俺の気持ちや」
といい、レコードをかけ、女性を後ろから抱きしめた。
♪もう 終わりだね 君が小さく見える
僕は思わず君を 抱きしめたくなる・・・・・♪
部屋にさんまのアンサーソング、オフコースの「さよなら」が流れ、小田和正が
「♪さよなら さよなら さよなら♪」
とさよならを連呼した。
1979年4月、毎週日曜6時5~55分、ラジオ番組「ミスターさんまタイム」がスタート。
この初冠番組は1年間継続。
5月にはなんば花月で単独ライブ「さんまDEサンバ」が開催。
普段、年配客が多い花月が10代の女性で埋まった。
6月、さんまは日本テレビの歌番組「NTV紅白歌のベストテン」に紅組の応援団長として出演。
当日、プロデュサーに
「さんまちゃん、前説みてあげてよ」
といわれ
(絶対売れへんな)
と思いながらみていると、その若手芸人は、前説を終え舞台を下りた後、挨拶しにきた。
「どうでしたでしょうか?」
「おもしろかったですよ」
さんまが答えたのが小堺一機だった。
本番が始まり、堺正章に
「大阪の若手人気ナンバー1、明石家さんまさんです」
と紹介されたさんまは、投げキッスをしながら登場。
「どうもどうも、今日は紅組のためにがんばっていきたいと思います」
「ほんとに大丈夫?
マグロさん?」
さんまはズッコケながら
「マグロやない、さんまや!」
「あーすいません」
「何をおっしゃいます。井上順さん」
堺正章はズッコケた。
さんまが出番の日は、一目見ようとプレゼントを抱えて詰め掛けた女性ファンでごった返すため、花月の楽屋で芸人の世話をしていたお茶娘の狭間トクは、さんまが楽屋入りする時間になると
「はいはい、どいてんか。
かかるで~」
といって水をまき
「水かけババア」
と恐れられた。
そして車が停まり、さんまが登場すると高い歓声が起こった。
さんまは、四方八方からプレゼントをもらいながら
「ありがとう」
「ありがとう」
と1人1人に対応。
好みや面白そうな女性がいると話もした。
「君どこや?」
「長崎です」
「おう、長崎のどこや」
「佐世保」
「オレにも佐世保」
至近距離で下ネタを放たれた女性はうれしがった。
人ごみにもみくちゃにされながらを楽屋口へ移動したさんまに
「お疲れさんです」
迎えに来た村上ショージが挨拶。
「お帰り」
「さんまちゃん、お帰り」
楽屋へ続く廊下をプレゼントを抱えて歩くさんまに、みんなが声をかけた。
「どや、東京は?
東京なんて気取った顔してもほとんど田舎モンの集まりやで。
負けたらアカン」
狭間トクにいわれたさんまは
「意地でも関西弁で通したるねん」
と応じた。
こうして劇場入りしたさんまは、出番まで楽屋で過ごし、ステージを終わると再び楽屋でくつろいだ。
「あーあー果てしない♪
あーあー♪」
誰かが大都会を歌い出すと
「お前はターザンか」
と村上ショージがツッコんだ。
「さすがショージ兄さん」
「なっ、このよさがプロデューサーにはわからへんねん」
「兄さんのギャグが高級すぎるんちゃいますか?」
「高級、サンキュー、オレの手取り8300円」
「兄さん、キレがある。
勉強になります」
「キレがあるのに笑いがない。
誰がや!
ドゥーン!」
村上ショージ得意の3段オチと後輩にヨイショが飛び交い続ける楽屋で、やがてさんまは立ち上がった。
本来、花月から出るにはロビーを通って正面から出るか、裏の楽屋口から出るか2つに1つ。
しかしさんまは第3の道を行く。
出待ちのファンをかわすため、風呂場の窓から脱出し、建物の横の細い道に出た。
狭間トクは一緒に風呂場から出ようとする村上ショージに怒鳴った。
「お前は堂々と表から出え。
誰も追いかけてくるか」
「エエやんか。
今から兄さんとメシを食いに行くねん」
「お前は10年早い。
表からや」
1979年9月21日、さんまは、シングルレコード「Mr.アンダースロー」で歌手デビュー。
この曲は関西では有線ランキングで1位にもなり、東京でもプロモーションを開始。
「西からエースがやってきた!」
と銘打ち、さんまは東京の各所を宣伝に回った。
しかしまったく売れず、西のエースはメッタ打ちにされた。
結局、このレコードの売り上げの80%は関西。
まだ関西芸人が誰も東京に進出していなかった時代だった。
しかしこの後、さんまは東京で初のレギュラー番組を獲得する。
関西の人気深夜ラジオ番組「ヤングタウン土曜日」のレギュラーになって1年、さんまは関東の人気深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」のメインパーソナリティーになるためのオーディションを受けることになった。
東京、有楽町からニッポン放送のスタッフが大阪までやって来て
「今からテープを回しますので生い立ちから今までをしゃべってください」
といわれ、さんまは内心
(ナメてんのか)
と思いながらしゃべり、1週間後、合格。
オールナイトニッポンは、月~土、1部が25~27時、2部が27~29時に生放送。
さんまは木曜日の2部を担当し、1979年10月4日が初放送。
1部は、「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、本来、1部と2部はCMの間に入れ替わるが、さんまは、度々、1部の放送途中に乱入。
桑田佳祐が2部まで残ることもあった。
オールナイトニッポンが始まるとさんまは、毎週、大阪と東京を往復するようになったが、その新幹線でよく鶴瓶と一緒になった。
鶴瓶は、ファンに会うと、必ず会釈したり手を振ったりして愛想を振りまき、決してサインや握手を断らない。
新幹線に乗り込むとき、ファンからおにぎりをもらうと、すぐに車内でパクリと頬張ってみせた。
ファンから食べ物をもらっても
「何が入っているかわからない」
と食べることができないさんまは、
(さすが!
ファンを信じて大切にしてはるんや)
と感心。
しかし鶴瓶は電車が発車しファンがみえなくなると食べかけのおにぎりを袋に戻した。
「もう食べまへんの?」
「みてないところで食べてもしゃーないがな」