ピンでは仕事が少ないさんまは、アルバイト感覚で先輩の小禄とコンビを組んで「若手漫才選手権」に出場。
敗者復活を生き残り、なんとか年末のグランプリ大会への出場権を獲得。
そして笑福亭仁鶴の番組の前説に抜擢された。
ピンで大爆笑を生む仁鶴は、さんまにとって憧れの先輩。
しかし超売れっ子で超忙しい仁鶴は、客をスタジオに入れての公開収録番組に常に遅刻。
当然、前説も延びたが、1度、仁鶴が大遅刻したときに、ついにネタ切れ。
そこでさんまが思いついたのが形態模写。
プロ野球選手のバッティングや守備の動きをおもしろおかしくマネて、最後は巨人のエース、小林繁がキャッチャーのサインに首を振って、投げた後、ポーズを決めるまでマネて笑いをとって何とか乗り切った。
年末の「若手漫才選手権グランプリ」には黒のタキシードに大きな赤い蝶ネクタイをつけて出場したが、優勝したのはオール阪神・巨人。
しかしさんまと小禄はしっかりとインパクトを残し、朝のワイドショー番組「小川宏ショー」への出演が決定。
1976年12月31日、朝7時半、3度目のテレビ出演となるさんまは迎えの車に乗ってフジテレビへ。
「小川宏ショー」が始まると、2人は「1976年を飾った男たち」というコーナーで、この年に活躍したスポーツ選手を形態模写を交えて紹介していった。
最初のネタは「アントニオ猪木 vs モハメド・アリ」
小禄が猪木、さんまがアリをやって滑り出しは順調。
しかし途中、小禄がネタをトバしてしまい、4分の持ち時間が2分半になってしまい、1976年を不完全燃焼で終えた。
翌年、さんまと小禄は、超人気TV番組「ヤングおー!おー!」に出演が決定。
この番組の起こりは、桂三枝。
大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪府池田市の住んでいる桂三枝は、高校生のときに同級生とABCラジオの「漫才教室」に出場。
毎回、一般公募で選ばれた3組が参加し、初等科(1週目)、中等科(2週目)、高等科(3週目)、卒業試験(4週目)と与えられた課題を勝ち抜き進級していくというルール。
賞金は、初等科合格で2000円、中等科合格で4000円、高等科合格で6000円、卒業試験合格で1万円と、アルバイトで1日働いて500円という時代にかなり高額だったが、桂文枝は勝ち抜き、関西の人気者になった。
関西大学の夜間部に進学したとき、ちょうど落語研究会「落語大学」が創設され、一期生となり、ロマンチックをもじった「浪漫亭ちっく」を名乗り、他大学の学園祭にも出演。
そしてプロになることを決意し、桂小文枝に弟子入り志願。
初高座でまったくウケず、プロの厳しさを思い知り、その後も客席は静まり返り、苦悩の日々。
入門数ヵ月後、MBSラジオのオーディションに参加。
新作落語を披露し、「歌え!!MBSヤングタウン」、通称「ヤンタン」のレギュラー出演を決め、
「ひとりぼっちでいるときのあなたにロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」
「オヨヨ」
「いらっしゃーい」
などという語りやギャグでブレイクした。
「ヤングおー!おー!」は、「歌え!MBSヤングタウン」のTV版で、合言葉は「若者の電波解放区」
司会は桂三枝と笑福亭仁鶴が行い、すぐに横山やすし・西川きよしも合流。
吉本芸人による大喜利、コント、漫才、トークをメインに、多彩なゲストも登場し、アイドルが歌を歌うコーナーもあった。
桂三枝は
「あっち向いてホイ!」
「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」
などのゲームを考案。
「ヤングおー!おー!」は爆発的な人気を得た。
「ヤングおー!おー!」は、松竹芸能が独占していた上方のお笑い勢力図を逆転させ、吉本は入ったばかりの桂三枝のおかげで大儲け。
貢献者である桂三枝、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよしは「吉本御三家」と呼ばれた。
そしてさんまもこの番組でブレイク。
次々と仕事に以来が舞い込むようになった。
子供の頃、
「あたり前田のクラッカー」
とマネをしていた藤田まことのイベントの前座として小禄と共に漫才をした。
日本発のサファリパーク「宮崎サファリパーク」を紹介するロケでは、チーターの前で漫談するよういわれ、車を降ろされた。
外国人飼育員に
「チーターの目とみる」
「近づかない」
といわれたが、30頭ほどがうろついていて、どの目をみたらいいのかわからず、
「死ぬ」
と思いながらも笑顔でしゃべり抜いた。
その後も車の中から体を出してクマにエサをあげたり、
「人間を一撃で殺せる動物はダチョウだけ」
と説明を受けた後、ダチョウの背中に乗って走らされた。
すべての要求に応えてロケを終え、後日、放送をみると過酷なシーンはすべてカットされていた。
「どぶろく風呂」のロケでは、1時間近く浸かり、ロケが終わった瞬間に倒れた。
吉本は、さんまと小禄に「アトム・スリム」というコンビ名で、なんば花月と京都花月で計18日間、ステージに立つよう指示。
しかしピンにこだわる21歳のさんまは、これを断った。
会社はレギュラー番組を用意するなど好条件をつけたが、さんまは折れず、結果、干されてしまった。
以後4ヵ月間、花月での出番はなくなり、テレビの仕事もすべて白紙。
電気やガス代が払えず、暗い部屋で過ごすことになったが、ピン芸人として意志を貫いたことに後悔はなく、小禄との関係も切れなかった。
さんまと小禄がコンビを解消し、それぞれピンになった直後、吉本に
「紳助が芸人を辞める」
という噂が流れた
島田紳助は、昼間は芸人の仕事、夜はサバークラブ「カルダン」でアルバイトという生活を続けていた。
アルバイト先でセカンドマネージャーに昇格したとき
「真剣に水商売やったろうかな」
と迷いが生じた。
そんな紳助にさんまは聞いた。
「やめるんか?」
「やめたない。
でも相方見つからなどないもならん」
「ほな紹介したる。
ちょうどエエのがおる」
さんまは自分より1つ年下で新喜劇の研究生、なんば花月の進行係をしていた松本竜介を
「根性あるで」
と紹介。
「なんで根性あるねん?」
と紳助に聞かれ
「卓球やってた」
と答えた。
後日、「紳助・竜介」、通称「紳竜」が結成された。
そして紳助の実家で紳助のつくった「漫才教科書」を使って勉強会が始まった。
「・・・という理論でやっていきたい」
「理屈でわかってくれ」
「でけへんかってもエエから俺が何をしようとしてるかだけはわかれ」
紳助はほぼ素人の竜介に教えながら、勉強会は3ヵ月間続き、7月15日に京都花月でのデビューが決まると、2週間前から漫才の稽古を開始。
紳竜は
「若い世代にだけ受ける漫才」
を目指し、リーゼントヘアにつなぎの作業着という不良少年ファッションで落ちこぼれの本音の代弁するツッパリ漫才を行って、若者の圧倒的な支持を得た。
努力と研究を積み重ねてきた紳助と真っ白で純粋な竜介は、1980年代になると漫才ブームを牽引するコンビの1つとなった。
紳竜がデビューして2ヵ月後、「ヤングおー!おー!」に欠員が出たため、桂三枝の推薦でさんまがピンで復帰。
それは収録3日前のことだった。
当日、公開収録が始まると、桂三枝のかけ声で、白のタキシードにシルクハットをかぶった、桂きん枝、桂文珍、桂小染、月亭八方、明石家さんまの5人が登場。
ドラムロールが鳴り、シンバルの合図でシルクハットを投げると全員、坊主。
会場は爆笑。
その後、さんまは漫談でも笑いを浴びた。
そんなさんまをみて桂三枝は、その強烈なバイタリティーを認めつつ
「芸人として大切な繊細さが足りない」
と分析。
以後、教育と育成を開始した。
一方、「ヤングおー!おー!」が放送されると、さんまの周囲は一変。
どこに行ってもファンが群がり、声をかけられ、サインを求められるようになった。
その後、「ヤングおー!おー!」で西川のりお・上方よしお、B&B、ザ・ぼんち、そしてさんまの7人がユニットを結成。
西川のりお、島田洋七、ぼんちおさむ、3人の荒くれ者が好き勝手に暴れるのをみて、吉本の林正之助会長は
「あのバイ菌どもを、はよ降ろせ。
2度と出すな」
と激怒。
それを聞いた7人は自らユニット名を「ビールス(ウィルス)7」と命名。
さんまは6人の先輩の中に入って、コントロールする役目を担った。
桂三枝は、「ヤングおー!おー!」で、さんまを厳しく指導した。
リハーサルでは、表情、語感、緊張と緩和、声の出し方、リアクションのとり方など、息をつく暇を与えないほど細かく指示。
桂三枝は、台本通りに進み、自分の計算通りに客が笑うことを望んだが、誰よりも目立ちたがり屋で本能的に爆笑を獲りにいってしまう生まれながらのお笑いハンター、さんまは、アドリブでギャグを放ちウケることが多々あった。
収録が終わると、
「さんま、ちょっと来い」
という桂三枝の声が響き、楽屋に連れていかれ、
「お前はあれはどういう気持ちでやったんや」
「みんなのおかげでこういうことがやれてることをわかってんのか」
と怒られ、
「はい」
「すいません」
と答えながらも心の中では
(俺がウケたから嫉妬してはる)
と思っていた。
そして
「俺らは屁ぇか!」
と桂三枝が机を叩き、勢いあまってひっくり返るのをみて、さんまは思わず笑ってしまった。
すると
「お前、なに笑ろてんねん!」
と桂三枝は寝たまま、髪の毛をかき上げ、説教を再開させた。
しかしさんまは何度、説教されてもアドリブを続けた。
一方、桂三枝も1人だけ笑いをとれればいいという姿勢を断じて許さず、他のメンバーのミスでも矛先をさんまに向け、2人の愛の説教部屋は毎週続いた。
車で移動中も桂三枝はさんまに、大喜利問題を出したり、
「なんぞオモろいことないか?」
とフリ続け、収録がない日に気が休まらないように
「考えとけよ」
といくつも課題を与えた。
「オモろいことないか?」
さんまは聞かれ続けたが、そんなに面白いことがあるはずがなく、ウソをつくか、話を大きくするしかなく、ある日、
「いや、こないだビックリしたんが、地底人と会うたんです」
と答えると
「それはウソや」
といわれてしまった。
こうしてさんまはどんなこともバラエティーにしてしまう能力を身につけていった。
そして番組では常にアクセル全開でどんなスキも見逃さない。
「たとえつまらなくても出来る限り笑わす方向に行かなきゃダメ」
「最低な、最低、1ブロックに1つ2つ笑いを入れる努力が必要」
「笑いこそ正義」
と病的に全部の話を面白くしようとし、お笑い怪獣が覚醒しつつあった。
誰からも好かれ、あまり叱られたことはなかったさんまは、「ヤングおー!おー!」の収録が行われる火曜日になると憂鬱になった。
「ヤングおー!おー!」で極度の緊張感を味わうさんまにとって、さまざまな芸人が集っておしゃべりをする花月の楽屋は最高のヒーリングスポットだった。
ある日、花月の楽屋で中田ボタンに
「さんまちゃん、テレビに出だして天狗になっとるんちゃうか?」
と冗談まじりに聞かれ
「はい、ならしてもろうてます」
と答えると楽屋はドカンとなった。
その後、
「天狗になっとるんちゃうか?」
「はい、ならしてもろうてます」
は楽屋の鉄板ネタとなった。
そして桂三枝が楽屋にいるときに中田ボタンは
「天狗になっとるんちゃうかって聞いてみはなれ」
とフった。
そして桂三枝に
「さんま、天狗になっとるんちゃうか?」
と聞かれたさんまは
「はい、ならしてもろうてます」
と答えた。
すると桂三枝は
「なってどうすんねん!」
みんなのおかげやろ」
と激怒。
「まあまあまあまあ」
ナダめる周囲に
「まあまあちゃいます!
そこに座れぇ!」
「はい」
さんまは正座させられ、天狗の鼻をヘシ折られながら、何事もなかったかように楽屋を出ていく中田ボタンを目撃した。
「西の郷ひろみ」
といわれ、アイドル的人気でたくさんの女性ファもを獲得したさんまは、複数のドラマに出演。
もちろんコントチックなドラマもあったが、シリアスなドラマにも出演し、少しでも目立ち、少しでも印象を残し、少しでも長く映るためアドリブを入れ、休憩中はスタッフや出演者を笑わせ現場を盛上げた。
それまでみていた芸能ニュースの影響で
「ドラマに出たら共演者と恋愛関係になる」
と思い込んでいたさんまは、共演者に恋をしてドキドキしていた。
1978年10月、桂三枝は自身がパーソナリティを務めるラジオ番組「MBSヤングタウン土曜日」、にさんまをレギュラー出演させることを決定。
ヤングタウン、通称ヤンタンは、月~土の深夜に放送されていた。
月~金はスタジオから生放送されていたが、土曜日は素人参加型の公開録音。
「恋のとりもちコーナー」では、
「本日は恵子ちゃんの登場です。
では早速、恵子ちゃんの意中の男性を呼び出してみましょう」
(三枝)
「アッ、もしもし、こちらヤンタンですが、今日はあなたのことを思い続けている女性がスタジオに来てくれてます。
話だけでも聞いてあげて欲しいいんですけど・・」
(さんま)
と依頼者が恋する相手に電話をかけ、その後、なんとか恋を実らせようと奮闘。
さんまが
「ウチのおじいちゃん、シュークリームを食べて『この稲荷寿司うまいわ、でもご飯が少し柔らかいな』っていうんです」
「最近、ウチのおじいちゃん、音声機能のついたポットとしゃべり出したんです。
『お湯が出ます』『ああ、そうかい』ってポットと会話しとったんです」
などと少しボケ始めた祖父、杉本音一のエピソードを話したことがきっかけで「音一ファンクラブ」というコーナーが誕生し、杉本音一は電話出演することになった。
当日、さんまは奈良の実家に
「今日の夕方4時頃電話するから」
と電話。
すると音一は昼から4時間、電話の前で正座。
時間になり三枝が電話。
「もしもーし、音一さんですか?」
「ハロー!」
「歌手では誰が好きですか?」
「ピンクレディですわ」
「ピンクレディのどっちの方が好きです?」
「ワシはピンクの方が好きです」
スタジオは大爆笑。
出番を終えた音一は血圧が上昇し、その後1日寝込んだ。
さんまはスタジオに集まった150名に積極的に話しかけ、あちこちで漫談、小噺、ギャクを放ち、盛り上げた。
そして毎週、収録が終わると三枝に
「余計なことばっかり言うな」
と説教された。
さんまは、収録が行われる毎日放送千里丘放送センターに出入りしていた広告代理店勤める女性に一目ボレ。
会うたびに話しかけ、デートに誘い、断られ続けた末、やっとのことで初デートにこぎつけた。
ヤンタンの収録後、大勢のファンに取り囲まれながら2人でタクシーに乗って甲子園へ向かい、阪神・巨人戦を観戦。
これをしったヤンタンのプロデューサー、渡邊一雄は激怒。
さんまは呼び出され
「ファンがいてこその君、ファンがいてこそのヤンタンやろ。
それをファンがみてる前で女とタクシーに乗るなんて何を考えてるんだ。
10万人のファンと1人の女性、どちらが大事なんだ」
と叱られ
「1人のエッチです」
と答え、
「なんちゅうこというねん!」
渡邊一雄はさらに激怒。
吉本社員も呼び出し、説教を続けた。
「ヤングおー!おー!」に、紳助・竜介が新加入。
毎週、桂三枝に怒られているさんまをみて紳助は
「ガマンせえ。
三枝の時代もすぐに終わる」
と慰め励ましたが、その後もまったく終わらなかった。
さんまがコーナーで司会を任されるようになると先輩の桂文珍は、
「さんま君、今日もアンタが司会?」
「はい、よろしくお願いします」
「フンッ!偉ぁなったんやね」
といい爆笑させた。
さんまは江川騒動のあおりを受け、巨人から阪神に移籍した小林繁の形態模写で人気爆発。
女性ファンに騒がれる後輩をみて西川のりおは
「俺もやったるわい」
と勇んだが、無理だった。
大きなレギュラー番組を抱えるようになったたさんまは、ついに3年間暮らした第一久寿荘を出て、大阪市福島区のマンション、「メガロコープ福島」へ引っ越し。
家賃は7万円。
4畳半と6畳の部屋に新しい絨毯を敷いて、ビールケースと板は捨てて、本物のベッドを買った。
さんまは女性とは必ず2人きりで会い、芸人仲間と遊ぶときに連れて行ったり、紹介したりすることは1度もなかった。
そんなプライベートを明かそうとしないさんまを島田紳助は
「もしかしたらどっかの国の工作員ちゃうか」
と疑っていた。
ある冬の日、2人で大阪のテレビ局での収録に参加。
次の撮影まで時間が空いたため、さんまに
「俺の家来るか?」
と誘われた紳助は内心、
(珍しいな)
と驚きながらメガロコープ福島へ向かった。
そしてマンションに着くと部屋のドアの前にミニスカートにブーツを履いた女性が紙袋を持って立っていた。
紳助が気を遣って、
「俺、帰るわ」
といったが、さんまは
「帰らんでエエよ。
入れ、入れ」
といいドアを開けて入っていった。
紳助も続いたが、女性が入ってくるだろうとドアを開けて待った。
しかしさんまは
「アッ、ええねん、ええねん」
といってドアを
「バタンッ」
と閉めた。
そして汚れた衣類を集めて紙袋に詰め、ドアを開けて、黙って女性と紙袋を交換。
紳助は
(指令書の交換か?)
と思った。
そして無言のままドアを閉めたさんまに
「誰やねん?」
と聞くとさんまは
「洗濯屋や」
と答えた。
後日、その女性はさんまの部屋を訪れ、
「私の気持ち聞いて」
といって1枚のレコードを差し出した。
♪愛することに疲れたみたい
嫌いになったわけじゃない
部屋の灯はつけてゆくわ
・・・・・・・・
今度生まれてくるとしたなら
やっぱり女で生まれてみたい
だけど二度とヘマはしない
貴方になんかつまずかないわ
・・・・・・・・♪
部屋に松山千春の「恋」が流れ、女性はボロボロと涙を流しながら部屋のカギを置いた。
(今度こそ本気やな)
と悟ったさんまは、
「俺も胸がいっぱいや。
これが俺の気持ちや」
といい、レコードをかけ、女性を後ろから抱きしめた。
♪もう 終わりだね 君が小さく見える
僕は思わず君を 抱きしめたくなる・・・・・♪
部屋にさんまのアンサーソング、オフコースの「さよなら」が流れ、小田和正が
「♪さよなら さよなら さよなら♪」
とさよならを連呼した。
1979年4月、毎週日曜6時5~55分、ラジオ番組「ミスターさんまタイム」がスタート。
この初冠番組は1年間継続。
5月にはなんば花月で単独ライブ「さんまDEサンバ」が開催。
普段、年配客が多い花月が10代の女性で埋まった。
6月、さんまは日本テレビの歌番組「NTV紅白歌のベストテン」に紅組の応援団長として出演。
当日、プロデュサーに
「さんまちゃん、前説みてあげてよ」
といわれ
(絶対売れへんな)
と思いながらみていると、その若手芸人は、前説を終え舞台を下りた後、挨拶しにきた。
「どうでしたでしょうか?」
「おもしろかったですよ」
さんまが答えたのが小堺一機だった。
本番が始まり、堺正章に
「大阪の若手人気ナンバー1、明石家さんまさんです」
と紹介されたさんまは、投げキッスをしながら登場。
「どうもどうも、今日は紅組のためにがんばっていきたいと思います」
「ほんとに大丈夫?
マグロさん?」
さんまはズッコケながら
「マグロやない、さんまや!」
「あーすいません」
「何をおっしゃいます。井上順さん」
堺正章はズッコケた。
さんまが出番の日は、一目見ようとプレゼントを抱えて詰め掛けた女性ファンでごった返すため、花月の楽屋で芸人の世話をしていたお茶娘の狭間トクは、さんまが楽屋入りする時間になると
「はいはい、どいてんか。
かかるで~」
といって水をまき
「水かけババア」
と恐れられた。
そして車が停まり、さんまが登場すると高い歓声が起こった。
さんまは、四方八方からプレゼントをもらいながら
「ありがとう」
「ありがとう」
と1人1人に対応。
好みや面白そうな女性がいると話もした。
「君どこや?」
「長崎です」
「おう、長崎のどこや」
「佐世保」
「オレにも佐世保」
至近距離で下ネタを放たれた女性はうれしがった。
人ごみにもみくちゃにされながらを楽屋口へ移動したさんまに
「お疲れさんです」
迎えに来た村上ショージが挨拶。
「お帰り」
「さんまちゃん、お帰り」
楽屋へ続く廊下をプレゼントを抱えて歩くさんまに、みんなが声をかけた。
「どや、東京は?
東京なんて気取った顔してもほとんど田舎モンの集まりやで。
負けたらアカン」
狭間トクにいわれたさんまは
「意地でも関西弁で通したるねん」
と応じた。
こうして劇場入りしたさんまは、出番まで楽屋で過ごし、ステージを終わると再び楽屋でくつろいだ。
「あーあー果てしない♪
あーあー♪」
誰かが大都会を歌い出すと
「お前はターザンか」
と村上ショージがツッコんだ。
「さすがショージ兄さん」
「なっ、このよさがプロデューサーにはわからへんねん」
「兄さんのギャグが高級すぎるんちゃいますか?」
「高級、サンキュー、オレの手取り8300円」
「兄さん、キレがある。
勉強になります」
「キレがあるのに笑いがない。
誰がや!
ドゥーン!」
村上ショージ得意の3段オチと後輩にヨイショが飛び交い続ける楽屋で、やがてさんまは立ち上がった。
本来、花月から出るにはロビーを通って正面から出るか、裏の楽屋口から出るか2つに1つ。
しかしさんまは第3の道を行く。
出待ちのファンをかわすため、風呂場の窓から脱出し、建物の横の細い道に出た。
狭間トクは一緒に風呂場から出ようとする村上ショージに怒鳴った。
「お前は堂々と表から出え。
誰も追いかけてくるか」
「エエやんか。
今から兄さんとメシを食いに行くねん」
「お前は10年早い。
表からや」
1979年9月21日、さんまは、シングルレコード「Mr.アンダースロー」で歌手デビュー。
この曲は関西では有線ランキングで1位にもなり、東京でもプロモーションを開始。
「西からエースがやってきた!」
と銘打ち、さんまは東京の各所を宣伝に回った。
しかしまったく売れず、西のエースはメッタ打ちにされた。
結局、このレコードの売り上げの80%は関西。
まだ関西芸人が誰も東京に進出していなかった時代だった。
しかしこの後、さんまは東京で初のレギュラー番組を獲得する。
関西の人気深夜ラジオ番組「ヤングタウン土曜日」のレギュラーになって1年、さんまは関東の人気深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」のメインパーソナリティーになるためのオーディションを受けることになった。
東京、有楽町からニッポン放送のスタッフが大阪までやって来て
「今からテープを回しますので生い立ちから今までをしゃべってください」
といわれ、さんまは内心
(ナメてんのか)
と思いながらしゃべり、1週間後、合格。
オールナイトニッポンは、月~土、1部が25~27時、2部が27~29時に生放送。
さんまは木曜日の2部を担当し、1979年10月4日が初放送。
1部は、「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、本来、1部と2部はCMの間に入れ替わるが、さんまは、度々、1部の放送途中に乱入。
桑田佳祐が2部まで残ることもあった。
オールナイトニッポンが始まるとさんまは、毎週、大阪と東京を往復するようになったが、その新幹線でよく鶴瓶と一緒になった。
鶴瓶は、ファンに会うと、必ず会釈したり手を振ったりして愛想を振りまき、決してサインや握手を断らない。
新幹線に乗り込むとき、ファンからおにぎりをもらうと、すぐに車内でパクリと頬張ってみせた。
ファンから食べ物をもらっても
「何が入っているかわからない」
と食べることができないさんまは、
(さすが!
ファンを信じて大切にしてはるんや)
と感心。
しかし鶴瓶は電車が発車しファンがみえなくなると食べかけのおにぎりを袋に戻した。
「もう食べまへんの?」
「みてないところで食べてもしゃーないがな」
また鶴瓶の提案で新幹線の中でいろいろなゲームが行われた。
「借り物ゲーム」では
「1号車のAの席の人の靴を片方借りてくる」
「13号車でヘアピンを借りる」
「3号車に乗っている女の人に口紅を塗ってくる」
などと鶴瓶が指令を出す。
さんまは1号車にいき、寝ているサラリーマンを見つけ、
「すみません、すみません」
「あー、はい、何ですか」
「すみません、右の靴、貸していただけませんか。
ちょっと今ゲームやってまして」
と頼んで靴を借りてきた。
鶴瓶は、さんまがズルをしていないか確認するために1号車まで行き、スーツ姿で片方だけ靴を履いた男性がいたため
「律儀なやっちゃな」
とさんまの人間性を認めた。
さんまは、
「借りてこれたら1000円やるわ」
といわれていたが、もらえなかった。
そして午前1~3時までオールナイトニッポンを生放送でやった後、6時の新幹線で大阪へ帰り、うめだ花月へ向かった。
結局、1979年、さんまはテレビやラジオでレギュラー番組14本、合間にスペシャル番組やゲスト出演、そして花月の舞台も月20日、1日2回立って、取材や営業、イレギュラーの仕事もこなした。
休みは1日もなかったが、仕事が終わると芸人仲間と遊んだ。
とにかくどんなに疲れていても人と会い、話すことをやめず、寝るのは移動のときだけ。
体はやせ、ある日、起きると声が出ず、病院にいくと
「しゃべりすぎですね」
という診断。
さらに
「しゃべることをやめることはできないですよね」
といわれガラガラ声で
「はい」
と答えた。
以来、さんまはカスレ声である。
桂三枝が12年間続けた「ヤングタウン」を勇退すると、さんまがメインパーソナリティーとなり、後を引き継いだ。
まだ松竹と吉本が共演NGの時代に、鶴瓶は、ハガキを書いて送ったり、電話でさんまのヤンタンに出演。
あるとき河内家菊水丸が大阪千里丘の毎日放送から車で出て、兵庫県西宮市の鶴瓶が建てたばかりの家を訪れるという企画があった。
深夜、
「間もなく到着します」
という連絡を受け、鶴瓶が家の前で待っていると、それらしき車のライトが近づいてきたので、
「よっしゃ」
とパンツを脱いで丸出しの尻を開いて待った。
しかしその車は近所の人で
「プップー」
とクラクションを鳴らして通り過ぎていった。
やがてラジオカーがやってくると
「お前ら遅いから町内の人の車に向かってズボンずらしてみせてしもうたやないか!
引っ越してきてまだ半月や!」
と怒ったが菊水丸にはなんの落ち度もなかった。
あるとき鶴瓶は、
「弟子にしてください」
という電話をもらったため、とにかく自分の師匠、6代目笑福亭松鶴に会わそうと
「・・・・(日時)に・・・・(場所)に来てください」
と答えた。
しかしこの電話の主は実はさんま。
「鶴瓶兄さんがもう弟子をとろうとしている」
という噂を流した。
またさんまは、鶴瓶の嫁、玲子にも
「水道局ですけど、風呂の水が流れっぱなしになっていますからみてください」
「電話局ですが、1m離れて鍋のフタ叩いてみてください」
などとイタズラ電話を入れて楽しんだ。
しかし後に大竹しのぶと離婚したさんまから電話がかかってきたとき、鶴瓶は玲子に
「お前幸せか」
と聞き
「幸せです」
という声を聞かせた。
こうしてヤングタウンのメインパーソナリティーとなったさんまは、テレビやラジオで10本以上のレギュラー番組をやりながら、花月にも出続け、営業の仕事もこなし、相変わらず不眠不休状態。
仕事が終わるとファンに囲まれながらタクシーに乗って、栄養ドリンクを飲んで、カイロを喉に貼って睡眠。
移動時間だけが唯一、安らぎの時間となった。
1979年10月、日曜日の21時に放送されていた関西テレビの「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」で、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
これをみて各局も新しいバラエティー番組を製作。
どのチャンネルを回しても漫才がみるようになる。
中でもフジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
この3ヵ月に1度放送される番組は、毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に若い客を入れた。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」が流れた。
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
1980年4月、「THE MANZAI」の放送が始まると空前の漫才ブームが勃発。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などの漫才師。
漫才がブームに乗ると落語家は仕事が激減。
それまで関西でトップを走っていたさんまですら漫才師たちに追い越された感があった。
特にザ・ぼんちの人気はすさまじかった。
夏休みになると花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場するとみんな立ち上がってクラッカーを鳴らし、紙テープを投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
そのため劇場は一気に冷め、ザ・ぼんちの後に出演した芸人は苦笑い。
全芸人が、ザ・ぼんちの後に出るのをイヤがった。
自分のファンが漫才師のファンに寝返るのを目の当たりにし、密かに
「こりゃヤバイな」
と思っていたさんまは、ある日、花月でザ・ぼんちの後に出演することになった。
しかしステージに上がると客はほとんど動いておらず、1人、心の中でガッツポーズ。
漫才ブームが続く中、ピンのさんまは漫才師とうまく絡み、イジり、仕切り、お笑い界の好位置をキープ。
西川のりおは
「ずーっとさんまがおるなあ、なんでや?」
と周囲に漏らし
「いやあこんだけのメンバー仕切ろうと思ったらさんまさんくらいしかアカンのとちゃいます」
となだめられると
「なんで俺やったらアカンねん」
と嫉妬心ムキ出しでヒガんだ。
島田紳助も
「漫才ブームが来て、やった、これでアイツを引き離せると思うて。
ブームが終われば絶対にさんまの方が有利になるから、2馬身はリードせなアカンかったのにアイツはくっついて来よって。
関係ないくせに・・・」
とその適応力に驚いた。
25歳の明石家さんまは、1980年8月、自叙伝「ビッグな気持ち」、9月には1stアルバムCDシングル「Bigな気分」をリリース。
デビューしたばかりの松田聖子と2人で「週刊明星」の表紙に載ることになり、撮影のときに
「初めまして、松田聖子と申します」
と挨拶され
「聞いたで。
デビューしたばっかりなんやて?
歌手の世界は大変やで。
アカンかったらすぐやめや。
ズルズルしがみついていたらアカンで」
とアドバイス。
ドラマ「天皇の料理番」では、初キスシーン。
相手は注目の新人女優、田中裕子。
「キスシーンをしたら、その夜、結ばれる」
と思い込んでいたさんまは、撮影1週間前から焼肉、餃子を断った。
しかしキスをしてOKが出ると田中裕子がスーッと帰っていってしまい、いつもはMサイズなのにSサイズのパンツを履いていたさんまは、ショックを受けた。
この直後、さんまは朝のワイドショーで大竹しのぶと共演。
局の廊下ですれ違ったのが2人のファーストコンタクト。
1stアルバムの宣伝のため、ガラガラ声で歌うさんまをみて、大竹しのぶは、
「この人はきっとすごい大病を患っている人だ。
若くてしてもうすぐ死ぬ人のためにテレビ局の人が最後に出させてあげたんだ」
と思い泣きそうになった。
大竹しのぶの母親も家のテレビで番組をみていて
「あんな声で・・・
かわいそうに・・・」
と思っていた。
1980年10月、吉本興業は赤坂のストークビル4階の一室に「東京連絡所」を設立。
当時、吉本芸人は全員、関西に住んでいた。
三枝、仁鶴、やすきよなど一部の大御所にはマネージャーがついていたが、若手やそれ以外の芸人が東京や地方で仕事をするときは、スケジュールを書かれた紙を渡され、自分で新幹線やタクシーで移動して1人で挨拶し現場に入っていた。
東京連絡所は、そういった芸人を東京でサポートし、急増するバラエティ番組に送り込む役割を担った。
当初、オフィスは机とイス、電話1台だけ。
スタッフも木村政雄と大崎洋の2人だけで、1人はテレビ局や芸人との連絡を担当し、1人は現場回り。
しかしすぐに電話も人間も足らなくなり「吉本興業東京事務所」へ昇格した。
さんまはすぐに東京連絡所に所属。
東京進出の先鋒となった。
結局、マネージャーがつくのに数年かかったが、それも面白さにつながったという。
「売れてきて東京に来るでしょ。
共演者の楽屋に行くと、『エッ、1人なの』と驚かれるわけ。
他のタレントさんはマネージャーやら付き人とか3人くらいついてたりしてますから。
でもそれだけ俺は動いてんのよ。
みんなマネージャーとかと一緒に行動してるやろ。
だから起こることって限られてんのよ。
1人で行動するといろんな面白いことがあるわけよ。
道間違っても面白いし、1人でポツンとどっか行っても面白いしね。
そういう楽しみを見つけなダメよ。
笑いの作り方って人それぞれやけど、俺はリアルに体で感じなきゃダメなタイプやからね」
月~金、12~13時、フジテレビで「笑ってる場合ですよ!」がスタート。
新宿にできたばかりのスタジオアルタから生放送され、製作は、横澤彪プロデューサー、佐藤義和ディレクターら「THE MANZAI」のスタッフ陣。
司会は、B&B。
各曜日のレギュラーは
月 ザ・ぼんち
火 ツービート
水 島田紳助・松本竜介
木 春風亭小朝
金 西川のりお・上方よしお
と人気若手漫才師たち。
1ヵ月後、お昼の番組としては異例の10.3%という高視聴率をマーク。
さんまも月1のペースで6分ほど漫談ネタで出演。
春風亭小朝とさんまは同年齢で、東西の落語家としてよく比較された。
15歳で弟子入りし、36人の先輩をごぼう抜きして真打に昇進した「落語界のプリンス」と呼ばれていた小朝。
数々の不祥事を起こす上、落語をほとんどやらないさんまと好対照だった。
「THE MANZAI」は3ヵ月に1度のペースで放送されていたが、1980年12月30日の放送で、最高視聴率32.6%を記録。
翌日の大晦日、日本テレビ「特別生放送 笑いは日本を救う?」、TBS「笑ってサヨナラ 東西BEST漫才」が放送され、1年前、77%だった「NHK紅白歌合戦」の視聴率は71%まで下がった。
さらに翌日、1981年1月1日、ザ・ぼんちがシングルレコード「恋のぼんちシート」をリリース。
(最終的に80万枚を売り上げた)
その後、1ヵ月間で漫才を125本、1日最高22本をこなした。
分刻みのハードスケジュールで、バイクやヘリで移動。
合間に点滴を打ち、移動時間だけが睡眠時間となったが、それも1日合計で3時間程度。
すでにネタは尽き、新しくつくらなければならなかったが、その時間もなかった。
さんまは、時代劇ドラマで憧れの大原麗子と共演。
本読みをしているとき、後ろから
「どうぞ」
と大原麗子にみかんをもらい、うれしくて食べることができず、腐るまで大切に家に置いておいた。
さらに
「何か身ににつけているものを下さい」
と頼み、帯板(帯の下、または間に入れる)をもらった。
その後、さんま、島田紳助、松本竜介が3人で六本木を歩いているとき、台湾料理店から出てくる女性陣を発見。
先輩2人の指示を受けた松本竜介が背後から
「お姉さん、お茶飲まへん?」
と声をかけると、振り向いたのは浅丘ルリ子と大原麗子。
松本竜介は
「あ~、おはようございます。
すんまへん」
といって退却。
逃げた後、2人の先輩からドつかれた。
桂三枝が12年司会を務めた「ヤングオー!オー!」から勇退。
さんまはメイン司会者となり、また「花の駐在さん」でも、桂三枝に代わって主役と座長を務めることになった。
桂三枝は、落語家として、また吉本のトップ争いということでも、やすきよをライバル視していた。
ヤングオー!オー!の勇退も
「漫才には負けてられへん」
と本業の落語に身を入れるためで、以後、トーク番組などをこなしつつ創作落語に本腰を入れていく。
ある日、やすきよの番組にも出演していたさんまは、楽屋で西川きよしに
「さんま君、昼飯に僕が何をごちそうしたか三枝君にいうたげて」
といわれ
「重亭のハンバーグをいただきました」
と答えた。
「あそこのハンバーグ、なかなかいい値段するよな」
西川きよしが目をむいていうと桂三枝は
「重亭のハンバーグなんかでエエのんか?
もっといいもんを食べに行くか」
さんまは吉本の権力闘争に巻き込まれた。
1981年3月、女性週刊誌「微笑」に、
「スクープ!愛の巣を発見!明石家さんまに東京妻がいた」
という見出しが踊った。
内容は、さんまが銀座の高級クラブに勤める女性の家に週に2、3回泊まっているというもの。
さんまの
「彼女とはもう別れたんです
遊びじゃなくマジメにホレてました」
というコメントも載った。
取材を受けた後、さんまはなぜ週刊誌にバレたのか気になって女性に電話したがつながらなかった。
一方、大阪ではさんまが使っていた喫茶店に村上ショージ、Mr.オクレ、ジミー大西がいると般若のような顔をした女性がやってきた。
それはさんまの彼女、大阪で長年付き合っている本命の恋人。
女性は店内を見渡してさんまを探し、テーブルに置いてあった週刊誌をものすごい目つきでにらむと猛然とした足取りで出ていった。
東京のさんまのマンションにはたくさんの記者が張り付いていた。
「抗議しましょか」
という吉本社員。
「こっちが面白がったらええねん。
人気商売、騒いでくれるだけ丸儲けや」
「さんまさん、ほんま笑い好きですね」
「夢中になれるもん探してたらこうなったんや」
「夢中ですか・・・」
「夢中や。
必死やで。
アホみたいに」
そういった後、心の中で続けた。
(こんなアホみたいに必死になれるものに出会えた自分は幸せやと思う)
1981年5月、フジテレビ「オレたちひょうきん族」がスタート。
裏は「8時だョ!全員集合」
それは会場に客を入れての公開生放送で、19時59分、放送開始1分前、いかりや長介がステージ上、残りのメンバー4人は通路にスタンバイ。
時間になると、いかりや長介がカメラを指差し
「8時だョ!」
他メンバーと客が
「全員集合!」
他のメンバーはステージへ向かい、ゲストも登場。
オープニングテーマ曲の最後にいかりや長介が
「よろしくぅー!!」
全員がお辞儀し、CMに入る。
CMが明けると、いかりや長介の
「オイッスー」
でコントが始まる。
それは何日もかけて稽古してつくりこまれたコント劇。
回り舞台、屋体崩し、タライ落としなど舞台装置も活躍。
強烈なリーダーシップをとるいかりや長介。
体操が得意な仲本工事。
何もしない、できない、喋らないのに面白い高木ブー。
ウンコチンコありでボケる加藤茶と志村けん。
全員が体を張って笑いをとった。
番組後半はショートコント。
「ダメだこりゃ」(いかりや長介)
「ヘーックション!!」(加藤茶)
「加トちゃん、ペッ」(加藤茶)
「♪カラスなぜ鳴くの♪カラスの勝手でしょ♪」(志村けん)
「アイーン!」(志村けん)
「あんだ!バカヤロー!!」(志村けん)
加藤茶のはげヅラおやじ
志村けんの白鳥
バカ殿
東村山音頭
ディスコ婆ちゃん
早口言葉
少年少女合唱隊
ヒゲダンス
雷様
などなど数々のコーナー、ギャグ、キャラが誕生。
最後は
「風邪ひくなよ」
「お風呂入れよ」
「頭洗えよ」
「宿題やれよ」
「歯磨けよ」
と合いの手が入りながらエンディングテーマ曲を合唱。
いかりや長介の
「また来週ぅ!!」
といって番組は終了。
小学生を中心に熱狂的に受け入れられ、最高視聴率50.5%を誇るモンスター番組だった。
「勝ち残りゲームなんやなあと。
お笑いというジャンルの中で新しい時代に生き残るのは誰か」
フジテレビの横澤彪プロデューサーは新しいお笑いを模索。
チームワークよりも個の力を重視。
漫才ブームで人気を得たコンビも出演したが、持ちネタはやらしてもらえず、即興性が求められた。
スタッフ陣は
「演者は勝手に遊び、我々は勝手に撮る」
といい、スタジオに客は入れず、台本はあるもの芸人に好きなようにフリートークやアドリブを入れて暴れることを許し、そして面白い場面だけを採用。
そのため現場にムダな緊張感はなかった。
初回オープニングは、正装したビートたけし、ビートきよし、島田洋七、島田洋八、ぼんちおさむ、ぼんちまさと、西川のりお、上方よしお、島田紳助、松本竜介、さんまで晩餐会。
料理にコショウをかけてくしゃみが出そうになるさんま。
それを阻止するために口にパンを詰め込む紳助。
洋八が指を鳴らし、呼ばれたメイド服姿のいまくるよが、パンを吐き出させようと背中をどつく。
さんまは、その力が強すぎて料理に中に顔を突っ込む。
宴が終わり、たけしが指を鳴らし呼んだくるよに
「ブスだねえ」
怪訝な表情で立ち去るくるよ。
たけしはカメラに向かって
「俺たち!」
全員で
「ひょうきん族!」
こうして土8戦争が勃発した。
1981年7月21日、ザ・ぼんちが日本武道館でライブ。
2枚目のシングルを発売後、花月-神戸-札幌-仙台-福岡-沖縄とツアーを行い、すべて満員。
しかしラストとなるこの武道館はチケットが余っていた。
大々的な宣伝を行い、大阪の旅行社がツアーを組んでなんとか満員になった。
2ヵ月後の「THE MANZI8」も、横山やすし・西川きよし、ツービート、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人、太平サブロー・シロー、ヒップアップが出演しながら視聴率は伸びず、すでに漫才ブームは去っていた。
同時期、さんまはドラマ「おやじの台所」で2度目のキスシーン。
「10秒前!」
とコールされたとき、相手の檀ふみに
「私、キスするの2年ぶりなの」
と囁かれ、ためらってしまい、顔を近づけただけで唇は合わせなかった。
1981年10月、フジテレビ「オールスター紅白大運動会」が行われた。
最終種目、紅白対抗混合リレーのメンバーは
紅組
第1走者:黒部幸英
第2走者:浜田朱里
第3走者:山田隆夫
第4走者:水野ますみ
アンカー:田原俊彦
白組
第1走者:島田紳助
第2走者:松田聖子
第3走者:広岡瞬
第4走者:柏原よしえ
アンカー:さんま
お笑い芸人がアイドルに勝つのはご法度。
しかしさんまは田原俊彦より約1秒早くバトンを受け取ると全力疾走。
田原俊彦は雄たけびを上げながら追いかけたが差は縮まらず、さんまがゴールテープを切った。
「よっしゃ!
お笑いが初めてアイドルに勝った」
さんまは本気で喜んだ。
しかし盛り上がっているのはお笑いグループだけ。
観客の多くはアイドルを観に来ていたため会場はシーンと静まり返り、表彰式もまったく盛り上がらなかった。
「なんでこのお笑いのお兄ちゃん、すっげえがんばるんだろうなあっって。
ええかげんにせえ、ここ俺の場面だろうみたいな。
ジャニーも怒ってた」
(田原俊彦)
1981年11月、8ヵ月前のさんまの女性スキャンダルが再燃。
「週刊平凡」が
「独占スクープ 明石家さんまと東京妻の離別騒動」
という見出しで、女性はさんまと交際していた間に2度妊娠し、いずれも流産し
「さんまに誠意がなければ慰謝料1000万円を要求する」
と掲載。
さんまによると
「俺が答えたことはホンマやけど、記事の内容はウソ」
ということだが、この騒動で大阪にいた本命の彼女は去っていった。
かつてさんまが
「ファンがいてこその君、ファンがいてこそのヤンタンやろ。
それをファンがみてる前で女とタクシーに乗るなんて何を考えてるんだ。
10万人のファンと1人の女性、どちらが大事なんだ」
と叱られ
「1人のエッチです」
と答えたヤンタンのプロデューサー、渡邊一雄は
「ヤンタンのクリーンなイメージにそぐわない」
と降板をいい渡した。
さんまにしてみれば桂三枝からバトンを受けて
「これは絶対に落としたらアカン」
と3年続けてきた大切な番組。
「ウソの記事やのに・・・」
と大きな違和感を感じた。
結局、渡邊一雄プロデュサーをディレクター陣がなんとか説得し収束。
一方、木曜レギュラーとして出演していた「笑っている場合ですよ」では、共演者におもしろおかしくイジられた上、
「とんでもないスキャンダルを起こし番組の視聴率に貢献されました」
と表彰状までもらった。
そしてアルタで取材を受けるさんまの後ろからビートたけしや島田紳助が放送禁止用語を連発。
放送された映像は
「ピー」
「ピー」
「ピー」
と自主規制音が鳴りまくった。
「さんまの場合はしゃあない。
打席に入る回数が多すぎる。
そらデッドボールももらうわ。
それにお前、踏み込んで打ちすぎや。
女に向かって行きすぎ。
竜介みたいに8番バッターでコツコツ当てにいったらええねん」
(島田紳助)
「そういう意味では紳助は2番バッターよな。
広島の衣笠みたいなタイプ。
お母さんが死んだ日でもセックスやってるようなやっちゃ」
(さんま)
「なんやそれ。
しかし女ってエエよなあ」
(島田紳助)
「ああ、どないな目にあわされても女はエエ」
(さんま)
「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマン」第6話で、さんまは、全身黒タイツ、頭に2本の触角、大きな耳を持つ悪魔、ブラックデビルとして登場。
ブラックデビルは、それまで高田順次が演じ、1回放映されていたが、オタフク風邪で病欠したため体型が似ているさんまが代役に。
そして
「ファッファッファッファッファ」
という笑い声がウケて、その後もやり続けた。
ビートたけし演じる赤いホッペ、太マユゲ、赤い軍服、ちょうちんブルマ、そしてマントをなびかせ
「ナハハハ!」
と笑うタケちゃんマンに、何度もやっつけられても笑顔で立ち上がり立ち向かっていくブラックデビル。
番組には全国のイジめられっ子からたくさんのファンレターが送られてきた。
「タケちゃんマン」は作家の台本をもとに、たけしとさんま、タケちゃんマン担当ディレクター・三宅恵介の3人がアイデアを出し合い、アドリブを織り交ぜながらつくられていった。
さんまは、面白ければなんでもありという番組で、たけしという最高のパートナーを得て、本領発揮。
ブラックデビルに続き、アミダばばあ、ナンデスカマン、サラリーマン、知っとるケ、パーデンネンと次々と新キャラを生み出した。
「アミダババアの唄」はサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞、作曲を行い、CD化。
「普通の人が1番怖い」
というコンセプトでつくられた、高卒、給料手取り18万円、残業2時間の「サラリーマン」は、身内(スタッフや共演者)ウケはよかったが子供は笑わず。
パーデンネンは、パーの手の形をしたかぶりものと
「アホちゃいまんねん、パーでんねん、パァ~~~」
の決めゼリフでブレイク。
その元ネタは吉本の先輩、月亭八方の息子、月亭八光。
「八方兄さんの子供が6歳のとき、『アホか』っていうたら『アホちゃいまんねん、パーでんねん』って。
『今どきの子供はこんなこといいますねん』って」
さんまは八光に5000円を払って、このフレーズを頂戴した。
アドリブ主体で内輪ネタ、アダルトネタや下ネタも横行するひょうきん族の笑いは、小学生にはわからなかった。
だから土8戦争で、ひょうきん族は全員集合に全く歯が立たなかったが、やがて高校生、大学生、若者を中心に強烈に支持されはじめた。
職場、学校で「全員集合派」と「ひょうきん族派」で真っ二つ。
家ではチャンネルの取り合いが発生。
0時になると前半は「全員集合」のメインコント、後半は「ひょうきん族」の「タケちゃんマン」をみるという家もあった。
島田紳助、山田邦子はアナウンサー役やドラマでハマり、アダモステ(島崎俊郎)、西川のりお、ぼんちおさむの暴走キャラも欠かせなかった。
のりおは
「ツッタカ坊や」
「つくつくほーし」
「オバQ」
などでブレイク。
キレ芸がエスカレートし過ぎて、しばしば股間を露出。
山村美智、寺田理恵子など歴代のひょうきん女子アナたちは、下ネタをフラれたり、裸をみせられたり、
「好きなんやー」
と抱きつかれたりした。
あるときのりおは
「わおー」
と叫びながらマイクを投げた。
するとそれが当たってカメラが壊れてしまった。
「弁償してくれる?」
「いくら?」
「3千万円なんだけど・・・」
「持って帰って修理します」
のりおはいったが、さんまは
「できるはずがない」
と思った。