再起
津田博明会長は、かつて世界チャンピオン:ガッツ石松が挑戦者:ロドルフォ・ゴンザレスを大阪府立体育館で迎え撃ったとき、大阪のジムでガッツ石松とエディ・タウンゼントがトレーニングしているのをみていた。
エディ・タウンゼントはガッツ石松のパンチをミットで受けながら叫んだ。
「オオ!
そのパンチで試合は終わりよ。」
「そのパンチ以外はいらないよ。」
エディ・タウンゼントは選手のいい所を徹底して褒めた。
津田博明は、これは選手にとって凄い自信になるはずだと感心した。
(この試合は、ガッツ石松がロドルフォ・ゴンザレスを12Rにノックアウトした。)
津田博明会長は、しばしばエディ・タウンゼントに赤井英和のコーチをしてもらった。
エディは赤井に様々なことを教えた。
赤井は無類のファイタータイプだった。
赤井はスタンスをひろくして踏ん張ってパンチを打つ。
「アカイ、それじゃパンチ届かないよ。
もっとスタンス狭めて。
前後左右に動いて打つの。」
「アカイ、スミマセン、スミマセン言いながら頭下げて入るの。」
これは相手の内懐に入るときは頭を波打たせて入ることを表現したもの。
赤井は毎日教えられることをノートにメモして覚えた。
それは赤井にとって宝物のようなものだった 。
世界初挑戦で苦杯をなめた赤井の再起第1戦は、タフで鳴る新井容日だった 。
これを10R判定で破った。
続いてハンマー糸井、大月竜太郎、塚田敬と3連続KO 。
赤井は順調に勝ち続けた。
津田会長は再び世界への夢を見始めた。
しかしある夜、エディが津田会長にムッとした表情でいった。
「アカイにもっと早く会いたかったよ。」
「それどういう意味?」
「ボクね。
アカイに頼むから走ってくれといって土下座できないよ。
わかるでしょ?」
赤井は人気がありすぎた。
常にファンが取り巻き、密かにトレーニングを手抜きし、酒と女の誘惑におぼれていた。
赤井は優れた才能は持っているが、ボクサーとしては女性などの誘惑に弱すぎた。
運命の試合
大和田正春
1984年9月5日、赤井英和 vs ウィリアム・マルディゾンはひどい凡戦だった。
自分に失望したのか、直後、赤井英和は、津田会長に内容証明つきの引退届けを出して行方をくらませた。
人気ボクサーの失踪には様々な憶測が飛び交ったが、数日後、津田会長の間で話し合いが持たれ、赤井は再び世界を目指し走り出した。
またこの頃、赤井は結婚した上、妻のお腹には新しい生命が宿っていた。
赤井は世界前哨戦として、大阪府立体育館で、大和田正春を迎え、チューンアップした自分を見せつけ世界戦へ弾みをつけようとした。
大和田戦より前に、すでに津田会長は、アメリカにわたって大物プロモーター:ドン・キングに渡りをつけた。
WBC世界Jウエルター級チャンピオン:ビル・コステロに日本で挑戦を受けてもらう為、10万ドル(2500万円)のアドバンス(前渡し金)を支払い、タイトルマッチの約束を取りつけた。
「(大和田正春との)試合が済んだ6月にはもう1度世界タイトルへ挑む段取りやった。
今度こそチャンピオンベルトを腰に巻こうと思ってました。
そして対戦を選んだ相手が日本ウエルター級7位にいた大和田正春。
東京立川生まれで父親はアメリカ人。
褐色の肌にひげ面、剃髪で精悍な風貌をつくっていました。
戦績8勝8敗1分が示す通り、俺からみれば、センスはあるけど顎が弱い一発屋という印象でした。
まして俺は世界Jウエルター級8位。
自惚れやないけど戦う前から俺の優位を疑う者はいませんでした。
誰もが日本と世界の差に格段の開きがあることを知っていたわけです。
大和田は咬ませ犬といわれていました。」
大和田正春は、在日米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれ、中学卒業後、夜間高校に通いながら自動車メーカーの下請け会社で部品やボディ等のメッキ加工に従事してきた。
それ以来ずっとメッキ一筋で、「センター長」という役職で活躍していた。
ボクシングでは、伝説の王者:マービン・ハグラーと風貌が似ていたため、「和製ハグラー」と呼ばれた。
「現役時代、自分以外はみんな敵だと思っていた。
スパーリングでも手抜きをしたことはない。
誰とやる時も、いつも倒そうと思ってやっていた。」
大和田はのパンチ力は素晴らしく、KO率が高い。
その反面に顎が打たれ弱く、常に倒し倒されのボクシングキャリアとなった。
1985年2月5日、赤井英和(世界Jウエルター級8位)vs大和田正春(日本ウエルター級7位)戦当日。
朝、赤井は規定のウエイトを300gオーバーしていた。
ガムを嚊んで唾液を牛乳瓶1.5本分出した。
9時30分、計量が行われた。
赤井、66.11㎏。
大和田、65.66㎏。
16時50分、大阪の街がうっすら暗くなってきた頃、赤井英和は赤いジャージ姿で会場に入った。
そしてABC放送(朝日放送)のインタビューを受けた。
「今日の試合で世界戦に向けて弾みつけなきゃいけませんね?」
「ええそうですね。」
「もう思いは今日より世界ですか?」
「ええ。
もうこの6月にでもいうてるんですけど、まあとにかく今日の試合を一生懸命ファイトして成果をみてもらいたいという気持ちでずっとトレーニングしてきましたから。
今日はまず気持ちのいいスカッとした試合で飾りたいと思ってます。」
「何ラウンドで倒します?」
「やはり前半ですね。」
控え室で、赤井は鏡に向かって軽い動きをはじめた。
エディは赤井の拳にバンテージを巻き、その上に丁寧にテーピングを施した。
テーピングを終えた拳をコミッショナーと敵側の人間が触って確認し、検査済みのJBCというサインがされた。
鼻柱、額、頬骨などにワセリンを塗り、ノーファールカップをつけ、白地の赤のラインの入ったトランクスをはいた。
ガウンも白地に赤ラインで、背中に松の木に鶴が羽を広げて舞い降りる刺繍が入っていた。
いよいよ係員が時間を告げに来て、控え室から狭い通路を歩いて入場口まで来ると、大和田の入場BGMが聞こえてきた。
赤井は1、2度、声を上げて自ら気合を入れた
「最初何イク?
チョット見る?
でもチャンスがあったらネ・・・」
エディが赤井の耳元でささやいた。
「行くよ、最初から。」
「OK、イク。
でもね、こうじゃないよ。
大きくね。」
そういいながらエディは、身体を屈めて左右に強く身体を振ってウィービングを大きくしろとアドバイスした。
会場にロッキーのテーマが流れ出した。
「さあ、行こ」
先頭の竹本トレーナーが場内に歩み出した。
「OK!
Come on Boy!」
花道に入ると、凄まじい声援と紙吹雪とカメラのフラッシュが舞い、太鼓の音が鳴り響いた。
「凄いネー」
エディは笑った。
赤井がリングに上がると一際歓声が沸き立ってリングアナの声をかき消した。
(もし赤井に勝ったら無事にここから帰れるのか)
大和田は思った 。
「本日のセミファイナル10回戦を行います。
赤コーナー、WBCジュニアウエルター級第8位、145パウンド4分の3、グリーンツダ所属 、赤井英和ぅー!」
赤井が両手を挙げたると観客がドッと沸いた。
「青コーナー、144パウンド4分の3、角海老宝石所属、大和田正春ゥー!」
それまでせわしく動いていた大和田は身体を止めてグローブで赤井を指した。
両者はレフリーの注意を聞きにリング中央へ集まった。
赤井は大和田の眼をにらんだ。
後にわかったことだが、赤井はいつもは相手の眼などみず、わざとそらしていた。
それがこの試合に限って相手の眼を穴の開くほどにらみつけた。
大和田も敵意丸出しで、両者額を突き寄せたまま微動だにしない。
「こいつや、こいつ、このアホ、どついたる!」
エディも煽った。
「なんでもないアカイ、なんでもない。
このヤロウ、ブッ飛ばせよ。
アカイ、ブッ飛ばせよ!」
そして赤井はマウスピースでふさがれた口を開き、ハッキリといった。
「このアホンダラ。」
19時41分35秒にゴングが鳴った。
試合は大和田のジャブで始まり、赤井も果敢に攻めた。
「ジャブ突いて、ジャブ。」
大和田のセコンド、角海老宝石ジムの鈴木会長がしきりに声を出した。
赤井が中に入ってくると、大和田は巧みにクリンチした。
エディは速射砲のように指示を飛ばした。
「Come on、アカイ、手ェ出すの。」
「もっと入るノ、アカイ、入るんだったらもっと入るノ。」
「アカイ、左から!ジャブ!」
両者の左が相打ちになった後にゴングが鳴った。
テレビ中継の解説者の採点は10対10のイーブンだった。
2R、
「走って、走って打つノ」
エディに背中を押され赤井は駆け出た。
大和田は回りこんでその勢いを外した。
「下、アカイ、下」
エディはよく動く顔面よりボディを狙えと指示した。
1分18秒が経過した時、エディがポツリつぶやいた。
「アカイ負けるネ。
この試合・・・」
4R、赤井はゴングと共に走って先制の1発を見舞おうとした。
大和田はそれを難なく左に逃げ、逆に左を2発赤井に食らわせた。
それでも赤井は左右のフックで大和田をロープ際まで追い込んだ。
そしてフィニッシュブローを振り切った 。
大和田はフラつきながらも赤井の強打を耐え、逆に打ち返した。
赤井は絶好のチャンスを逃した。
再び両者はリング中央で向かい合った。
瞬間、大和田の左フックが赤井にクリーンヒットし出鼻をくじいた。
さらにノーガードとなった赤井の顔面に左ストレート。
赤井はノーガードの上に棒立ちになった。
大和田は左フックで赤井はグラリとさせ、すかさず左ストレート。
これがカウンター気味に入って赤井はバランスを崩し後方へつんのめった。
「ガード上げて、ガード上げて」
大和田は容赦ない右ストレートを赤井の顔面へ刺し、赤井はダウンした。
この時、ロープ際にダウンした際、後頭部が最下段のロープにぶつかった。
レフリーがカウントする最中、赤井は(何が起こったんや)という顔で、しりもちをついた。
そしてノロノロと立ち上がった。
カウントは8だった。
場内は信じられないシーンに静まり返った。
「顎引いて、動いて、動いて。」
エディはそう指示したが、赤井は逃げずベタベタの足で前へ進んでいった。
ベタベタの足ででフラフラしながらも赤井はパンチで大和田をロープまで押し込んだ。
ここでラウンド終了のゴングが鳴った。
「座って!」
エディは静かに、しかし厳しい声でいった。
「Come on、Come on、アカイ。」
赤井は反応しなかった。
「気持ちやで、気持ち」
竹本トレーナーがいった。
「アカイ、聞こえる?
あんた勝つよ。
Come on、アカイ。
あんた、男よ」
7R、判定で勝利がないことは明らかだったが、赤井には1発がある。
ロープを背にした大和田に赤井の右ストレートが入った。
しかし大和田は即座に左2発を返し左へ回り込んで身体を入れ替えた。
「大和田、チャンス。」
青コーナーが色めき立った。
大和田の右、左が赤井の顔面にヒット。
ノーガードになった赤井に左フック、左ストレートが炸裂した。
赤井は身体を弓なりにのけぞり、そして前へゆっくり倒れようとしたとき、大和田のラストパンチが赤井の顔面をとらえた。
赤井が崩れるようにダウンした。
4つんばいになって身を起こそうとするがすぐに動けなくなった。
「ダメ、ダメ、ダメ・・」
エディはタオルを入れた。
大和田はリングに仰向けになって喜んだ。
リングに寝たままの赤井の瞳孔をチェックしたドクターが担架を要請した。
奇跡の生還
試合が終わったのが20時8分。
赤井英和が救急車で富永脳外科病院に担ぎ込まれたのが20時30分。
21時のニュースで衝撃的なテロップが流れた。
「赤井KOされ重体」
「開頭手術」
「生還の確立は1%」
赤井は、顔の色を失い、鼻や口は開き、眼はまったく生気がなく、髪は逆立ち、唇は土気色で、もちろん意識はなかった。
救急連絡で富永院長が駆けつけた。
「CTスキャンの判定で脳の内出血がみられました。
さらに本人を診断すると、右の瞳孔が9mm、左が2mmになっていて、右の瞳孔が散大していました。
それに加えて右腕がねじ曲がっていた。
これも危険な状態です。
緊急に手術の必要があると判断しました。
診断は右の急性硬膜下血腫、脳挫傷、深昏睡。
硬膜下血腫とは、脳を包む硬膜と蜘網膜の間に出血した血の塊のこと。
赤井の場合、ダウンしてから数十分後、迅速に運ばれてきたのに手術の必要があるということは、かなり太い血管が切れていたということになる。
脳挫傷とは、脳味噌を塩だとすればごま塩のゴマのような細かい出血が広がった部分のこと。
正常な脳は豆腐が水に浮いたような状態で頭部に納まっているが、パンチなどの急激な衝撃を頭部が受けると脳が頭蓋骨にぶつかって出血するのだ。
深昏睡とは、叩いてもつねっても反応を示さない、いうなれば死の1歩手前。
「脳挫傷部分は脳味噌が破壊されおかゆ状態になっている状態、そうなるには1撃ではなく何度も激しいパンチを食わなければそうはならない。」
富永医院長は説明した。
そして赤井の生と死の確立は2対8といった。
たとえ生命をとりとめたとしても植物状態は免れないという。
21時52分、緊急手術が始まった。
医師は手術室に、津田会長と赤井の兄が呼び入れ、赤井の頭部をみせた。
患者が死ぬ危険性が高い場合に後のトラブルを防ぐためだった。
手術は頭蓋骨をドリルで手のひら大に開き、右脳の内出血を吸入、除去するというものだった。
手術室のドアの外では関係者が涙を流し奇跡を祈った。
赤井の母は家で灯明を上げて手を合わせた。
「神様、助けて。
One More Chance.」
エディも祈った。
「会長、アカイはいま罰金を払っているの。」
エディは津田会長にいった。
ロードワークをサボり、節制を忘れた赤井が今彼なりの報いを果たしている。
エディはそう思ったのかも知れない。
2月6日2時57分、5時間あまりの大手術が終わった。
急激な出血の限度は50ccにも関わらず、赤井の血腫は70ccもあった。
医師はなんとか50ccを取り除くことに成功した。
生死の確立は5分5分にまで挽回した。
手術後は脳が水分を吸収し膨張し脳圧が上がるため、それを緩和するため、しばらく骨を外したままにされた。
8時、いきなり赤井は意識を取り戻した。
「小便がしたい。」
そういって点滴の管や脳波の計器のコードをつけたまま起き上がろうとした。
周囲はあわてて赤井に覆いかぶさって押さえつけた。
「何や。
どないしたんや。」
赤井はそういって暴れた。
ベッドに拘束具がつけられた。
入院後2週間は少しおかしかった。
突然4年前のことをいい出したり、「オーイ変えるぞ」と帰り支度をはじめたり、友達が来ると「よく来てくれた」と泣き出したり・・・
「脳をいじくった人間は感情の起伏が激しくなるんですわ。
両手両足をベッドにくくられているから口で抵抗しよるんです。
「赤井五郎死ね」とか「帰れ」とか、もうボロカスに言われました。」
(父:赤井五郎)
「お父ちゃん、堪忍や。
俺にはもうすぐ大和田と試合があるという記憶だけしかなかった。
何で練習もせずこんなところで身体に管つけて何やってんのやと思った。
家族に聞いてもみんなちょっとずつ言うことが違う。
周りに聞いても誰もホントとのこと教えてくれない。
ベッドの上で「お母ちゃんサッサとケガ治して次がんばるからな」といったらお母ちゃんがうつむいて泣いてる。
なんでやろ・・・おかしいなあ。
それでもとにかく養生に専念したんです。
その間しょうもないことやけど、俺を天下無敵の超人ハルクみたいに改造してくれないかなぁと思ってました。
昔エイトマンの透視図を見たことがあるんです。
それと同じような感じで俺も横たわっていましたからね。
頭蓋骨外してたから、便所でずっこけて脳味噌出てもたらどないなるんやろ。
脳味噌外してヌカ味噌入れたらどうなるんやろ。
蟹味噌入れたら泡吹くんやろか。
いっそ味噌の代わりに糞入れたら体臭が気になるんやろか。
なんてしょうもないことばかり浮かんできました。
コラっ!
ダレが後遺症ぢゃ!」
実際、赤井は自分の脳を触った。
触ると強烈な吐き気を催した。
その理由が解らず何度も触っては吐き気を催した。
入院30日後、リハビリが開始された。
赤井英和はリハビリ優等生だった。
その回復力は凄まじく、周囲が奇跡だ、何という生命力だと舌を巻くほどだった。
「リングが待ってる。
うかうかしてられへん。
大和田をこてんぱんにいてもうたるねん。」
この焦りにも似た気持ちと鍛えられた肉体が回復を早めたのだろう。
しかし赤井は自分が2度とリングに立てない身体になっていることを知らされていなかった。
「1度も切れも割れもしてない私らの頭が、仮に10の衝撃で頭蓋骨が割れるとしたら、それが今の英和では5か6で割れる。
骨を継いだところが1番もろいんですわ」
(父:赤井五郎)
退院10日前になって、初めて赤井は矢野文雄後援会長から、
・大和田との試合はすでに行われ赤井が負けたこと
・その試合でケガを負って入院したこと
を知らされた。
数日後、赤井は外泊許可をとり、家に帰り、即座に大和田戦のビデオをみた。
(まあええか。
たかが1敗や。
退院したらもう1回大和田とやってあいつの頭かち割って俺と同じ目にあわせてやる。)
退院身近となったある日、担当医が赤井に対して、再びボクサーとしてリングに立てないことを医学的な説明を加えながら言い渡した。
赤井は愕然となった。
「嘘やろ?という気持ちがあり、俺の人生そのものを奪われた気がして、説明してくれてる先生を無性に殴り倒したい気持ちにかられました。
もちろんじっと抑えましたけど・・・」
2月16日、赤井英和の事故を重く見た日本プロボクシング協会の木村七郎会長は、全選手にCTスキャン検査を義務付ける事をJBCに進言した。
そして延べ800人以上のプロボクサーのCT検査が実施された。
現在ではプロテスト受験時にCTスキャンが義務付けられている。
3月31日、赤井英和と富永院長が並んで記者会見が行われた。
「ほぼ100%治りました。
ただ悲しむべきことは、我々がリング上の赤井さんの勇姿を見ることは2度とないことです。
・・・・
レフリーがどの時点で試合を止めるかが問題となりますね。
人道的な立場からいえばノックダウンしたらその場でストップすべきでしょう。
赤井さんの場合は4Rに喫したダウン、あそこで止めるべきではなかったかと思いますね。
そうすればもう1度リングに立てたかもしれないのですから。
あくまで結果論ですが・・・」
「俺は生死をさまよっていた時のこと何も思い出されへんのやけど、1点だけ鮮明に憶えていることがある。
霞がかかったヒンヤリした薄明かりの中を俺は歩いておった。
どこからともなく笛の音が流れてくるので、その笛のほうに歩いていった。
すると1本の川に出ます。
川岸には赤い花がいっぱい咲いていました。
気がつくと笛の音だと思っていたのは人の声でした。
目を凝らすと向こう岸に白い着物を着た人が大勢いて手招きしてるんです。
あ、俺のこと呼んでいると思って・・・」
「ホント!?」
「ウソでんがな。
(ケケケッ、インタービューのおっさんひっくりがえりよったワイ)」
どついたるねん
ボクシングができなくなった赤井英和には厳しく冷たい日々が待っていた。
「通院する以外は酒ばっかり飲んでました。
親身になって話し聞いてくれた人も気がつくとそばからおれへんようになった。
赤井英和を金づるやと思ってた人なんかあっさり手のひら返してくれました。
そら見事なもんやった。
あの時はちょっと人間不信に陥りかけた。
でもね。
残ってくれた理解者、友達、彼らこそ何よりも大切な俺の財産です。
彼らを再発見できたことは不幸中のい幸い、とても有難かった。
そういう人らは大切にせなアカンとつくづく思いました。
50日ぶりに退院して帰った。
娑婆の空気はうまいのうと感じました。
心配された頭をいじった後遺症はありませんでした。
頭が痛いということもなかった。
だいたい俺、頭痛というの経験したことありませんねん。
退院直後はろれつが回らんかったり、歩こうとすると右へ右へ寄って行くこともありましたけど、その頃には事故が嘘のように思えました。
しかし終日うちにおるとロクなことを考えなかった。
こんな目にあわせやがった大和田が急に憎くなってアイツのうちまで押しかけて勝負つけたろかと思ったりしましたわ。
命がけでやってきたボクシングや。
リングで死ねるんやったら本望や。
それを助けるなんて余計なことを・・・と考えたこともあった。
ケガさえなかったらなあ。
4回戦ボーイからだが、どうや、やってみるか?といわれたら、俺、即座に「やるよ」というてたと思います。
怪我があるからコミッショナーは絶対に試合認めないでしょうけど、次、リング上がったら確実に死ぬと医者が言われてましたから・・・
ボクシングやめた。
することあらへん。
何をしたらええのんや。
ボクサー10年、練習やって、試合して、また次という繰り返しでずっと来てますから、他にことは何もできんかった、考えられんかったんです。
頭に爆弾抱えとったけど頭以外は健康体でしょ。
それに昨日まで戦ってきた男やないですか。
まだファイターやったんですよ。
戦う精神みたいなやつはそう簡単におさまるもんやないです。
沸々となにやら燃えカスみたいなもんが心の底のほうで煙を出してました。
ああ何かやりたい。
なんでもええねん。
必死でやれるもんが欲しい。
そんな俺に気持ちわかりすぎるから周りのやつは俺をそっと放っておいてくれました。
そして会えば馬鹿騒ぎでした。
グローブ置いたんやから良き家庭人に戻らなあかんという人もいました。
ようわかってますと答えながらあらゆることに未練を持ってたからよう戻らんかったんです。
しかし現実は厳しいもんです。
家庭の生活はどないするんや。
仕事はどうする。
とたんにお金の問題も生まれてきました。
本当に現実はシビアで待ってくれませんでした。
こうしてボクシング生活と引き換えに帰ってくるはずだった結婚生活は、どんどん隙間が目立つようになっていったんです。
俺の1番しんどい時に踏ん張ってくれた女性やったんですが、できた亀裂はもう元には戻りませんでした。
俺の再生にはこうした目から血が出るような思いの日々もあったんです。
しかし人間そう悪いことばっかりやないで。
運・不運一方だけの人生なんてあり得へんと思う。
失敗は失敗。
過去は過去。
そこにいつまでもとらわれてたらなにもできん。
なにも生まれん。
それをプラスにせなあかんのや。
俺はプラス思考。
マイナスはない。
いやもっと言うと俺、かけ算の人間やねん。
ウン、そういうことなんや。」
赤井英和にボクシングを断念させた大和田はその後、日本ミドル級チャンピオンとなった。
そして何度かの防衛戦で大和武士と対戦し、勝ちを収めたものの、網膜剥離を患って引退に追い込まれた。
大和武士は、岡山県で生まれ、中学で家出、大阪で警察に補導され鑑別所に。
16歳で再び補導。
18才で特別少年院に。
「沢木耕太郎さんの『一瞬の夏』の中に
『用心棒ならいつでもなれるけどボクシングは今しか出来ない』
というフレーズがあるんです。
そこを読んで、これだ!って思った。
小さい頃から何も賭けたものが無かったから何か夢中になるものが欲しかった」
出所日にはヤクザが出迎えていて
「組の連中が来てるが一緒に帰るか?」
と教官にいわれたがボクシングの道を選んだ。
そして映画「どついたるねん」で赤井英和、大和田正春、大和武士は共演することとなる。
半年前までバリバリ世界を目指していた男が、試合で頭部を47針も縫うケガをして再起不能。
ボクシングは赤井英和にとってすべてだった。
やることといえば通院だけ。
後は車を飛ばし、禁止されていた酒を飲んだが、やがて母校である近畿大学ボクシングの嘱託コーチとなり、後輩に教え始めた。
プロのボクシングジムの経営という話もあったが、赤井英和に選手を使ってお金儲けをすることは不可能だった。
そして3年の間に全国大会で2回優勝した。
しかしリングの上で輝いている選手をみているうらやましくて仕方なかった。
コーチ業の他にテレビ出演などもしていたが、『どついたるねん』という本も書いた。
この本を読んだ坂本順治が赤井英和に映画出演をオファーした。
「もう1回、赤井君にスポットライトを浴びせたいんや」
坂本順治はこれまで井筒和生監督や川島透監督のもとで助監督をやり、自らの監督デビュー作品は赤井英和しか考えられないという。
赤井英和は撮影に入るまでに86㎏から65㎏まで落とした。
汗をかくシーンでも、ホンモノの汗を出すために、霧吹きやスポイトを使用せず縄跳びを跳んだ。
減量のため利尿剤を飲んでオシッコを出すシーンや、ローストチキンを食べて減量中の対戦相手を挑発した後、それを吐き出すシーンも何度も喉に指を突っ込んでほんとうに吐き、試合のシーンでは台本を忘れ、本気で当時日本ミドル級の現役チャンピオンだった大和武士に挑んでいった。
本作が監督デビューの阪本順治と俳優としてはほとんど実績のない赤井英和が主演。
予算も少なく、初公開は映画館ではなく特設テントを設置して上映した。
宣伝などもなかったが、その評判は口コミで広がっていった。
迫力あるシーンと演技が賞賛され、第32回ブルーリボン賞作品賞受賞、第63回キネマ旬報ベストテン日本映画部門第2位、後にビデオ・DVD化もされ大成功を収め、赤井英和も数々の映画祭で新人賞を総ナメした。
近畿大学ボクシング部復活
2009年6月、部員が強盗致傷事件を起こし、近畿大学ボクシング部は廃部になった。
元部員たちは部の復活を信じ近隣の清掃活動などのボランティアを続けた。
50歳の赤井英和も禁酒、禁煙、そしてトレーニングを始め、1ヵ月で5.2㎏減量。
TV番組の企画で、世界チャンピオン(当時)の長谷川穂積と3Rの公開スパーリングを行ない、近畿大学ボクシング部の後輩たちにエールを送った。
2012年、赤井英和をはじめとするOBが4万を超える署名を世耕弘成総長に提出しボクシング部復活を願い出た。
「あなたが総監督として指導してくれるならば、ボクシング部の再開を認めましょう。」
不祥事があった部に深くかかわることはタレントとしてリスクが高い。
しかし赤井英和は即答した。
「わかりました。」
元名門ボクシング部は赤井を総監督とし、ほぼ初心者の部員4人で再出発。
2013年、赤井自らキャンパスで勧誘活動を行ない部員は9人になり3部リーグに復帰。
赤井英和は東京に住んでいるため週1回しか指導できない。
それでも指導した翌週、部員はちょっと強くなっていた。
その翌週も、もうちょっと強くなっている。
パンチを受けるとわかった。
「自分がいない間もみんなマジメで一生懸命やってるんやな。
なんのスポーツもそうでしょうけど、ボクシングは真剣勝負であり、練習はウソをつかない。
やった分だけ身につくんです。」
2014年、近大ボクシング部は、2部リーグに昇格。
2015年8月1日、
過去に関西学生リーグ36連覇、全日本学生王座を10度獲得した名門、近畿大学ボクシング部が7年ぶりとなる関西学生リーグ1部復帰を決めた。
赤井英和、55歳、浪速のロッキーは、まだ夢の途中である。