柔道着を着ていないと使えない柔道の技もある。
相手の両肩をマットにつけたら勝ちだが、いくら投げても勝ちにならない。
確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに、前田光世は独自の戦法を編み出していった。
さらに開発は突き蹴りという打撃技にまで進んでいった。
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別のものだった。
破門
「柔道は、究めるものであり、金をとり観客にみせるものではない」
アメリカで転戦する前田光世を講道館は破門した。
もともと前田は、講道館四天王の1人の富田が負けたため、柔道の真価をみせようと、敢えて異国に留まった。
しかし海外でのあまりに高い名声、次々に編み出される前田独自の柔道技術が講道館を嫉妬させ、恐れさせたのかもしれない。
前田は気にせず、アメリカを周り終えイギリスに渡った。
そしてヨーロッパを周った。
前田困る
1905年(明治38年)、26歳の前田光世はイギリス各地で柔道の指導や試合を行った。
1908年(明治41年)、ベルギーで異種格闘技戦、100戦100勝を達成した。
やがて「前田光世」の名が有名になりすぎ相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばなかった。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」はどうか。
伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
これがリングネームとなった。
「困る伯爵」ならぬ「コマ伯爵」というワケである。
このように前田光世は、陽気、調子にノリやすく、細かいことに気にしない、まるで子供のような性格だった。
ブラジルに魅せられる
1909年(明治42年)、29歳でメキシコへ。
1912年(明治45年)、32才で中南米(グァテマラ、ニカラグア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリー、アルゼンチン、ウルグアイ)を巡った。
1913年(大正2年)、ブラジルへ入った。
1915年(大正4年)、アマゾン川河口の都市:ベレンに到着。
1916年(大正5年)、アマゾナス州マナウスへ到着。
前田光世はブラジルのアマゾンの大自然に魅せられた。
そして決心した。
「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」
ここまでアメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
そのうち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
前田が敗れた試合は2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだものだった。
そのうちの1回が、ジミー・エチソン戦。
195cm、132kg。
世界レスリングチャンピオン大会の決勝戦でのものだった。
1917年(大正6年)、前田光世は、マナウスからべレン市に戻り、ここに永住することを決意し 、道場を開設した。
グレイシー柔術
1921年(大正10年)、前田光世は、ブラジル政府より70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移民で、ガストンはブラジル3代目で5人の息子がいた。
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは、前田に頼んだ。
「息子たちに柔術で鍛えてくれ」
こうして前田はガストンの息子たちに柔道を教えることになった。
前田は彼らに柔道の技術と精神を教えた。
1925年(大正14年)、前田に4年間みっちり柔道を習ったグレイシーの兄弟は、共同で「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田は、自分が講道館から破門されていたので「柔道」という言葉を使わせなかった。
末弟のエリオ・グレイシーは、身体が小さく、前田の柔術をさらに改良し、力を使わず誰にでも使いこなせる技術体系を完成させた。
この「柔術アカデミー」が、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となるわけだが、グレイシー柔術の宗家は、ごついストロングスタイルのカルロス派と、合理的な技巧派のエリオ派に分かれている。
「おい、わしの柔道衣を持ってきてくれ 」
1927年(昭和2年)、49歳の前田光世は外務省事務を委託せられた。
1928年(昭和3年)、南米拓殖株式会社を設立。
1929年(昭和4年)、第1回アマゾン移民189名が到着しトメアスヘ入植。
1930年(昭和5年)、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化。
アマゾニア産業研究所設立。
1935年(昭和10年)、日本人会顧問として在留邦人のために尽力。
1940年(昭和15年)、日本政府よりブラジル移民の功績が認められ、皇紀二千六百年祭に招待されたが辞退。
1941年(昭和16年)11月28日午前4時5分、ベレン市の自宅で死去。
62歳だった。
最後の言葉は
「おい、持ってきてくれ
わしの柔道衣を・・・」
であったという。
真珠湾攻撃の10日前のことだった。
前田光世の死後、講道館は七段を贈呈。
現在でも史上最強の柔道家の1人として評価されている。