瀬古利彦(せこ としひこ)
マラソン 成績15戦10勝
78-80、83年 福岡国際マラソン 4勝
81、87年 ボストンマラソン 優勝
83年 東京国際マラソン 優勝
84年 ロサンゼルスオリンピック14位
86年 ロンドンマラソン 優勝
86年 シカゴマラソン 優勝
88年 びわ湖毎日マラソン 優勝
88年 ソウルオリンピック9位
瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。
これは、コーチ中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。
宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。
また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、オリンピックでの金メダルの期待を高めていた。
【動画】瀬古利彦のラストスパート集
瀬古利彦の歴史① 中学まで球児だったが請われて陸上へ
瀬古利彦 - Wikipedia
瀬古利彦の歴史② 名コーチ中村清との出会い
1976年、早稲田大学入学と共に運命の出会いを果たす。
その相手こそが、早稲田大学競走部で監督をしていた中村清。
瀬古は中村の期待通りの走りを見せた。
箱根駅伝では、3年・4年と<地獄の二区>を走り、区間新記録を打ち出した。
そして、中村は瀬古にこう言った。
「お前はマラソンをやれば世界一になれる」
実は、中村は、ベルリンオリンピック1500mの代表選手。
戦争によって競技生活を奪われた中村は、自分の果たせなかった夢を、瀬古に託したのである。
瀬古利彦の歴史③ オリンピックとの縁。
【モスクワオリンピック】
モスクワオリンピック出場をかけた1979年福岡国際マラソン。
宗兄弟を抜き去り、2連覇となる優勝を果たす。
だが、日本はモスクワオリンピック不参加を決定。
瀬古のオリンピックデビューは、4年後まで先延ばしとなった。
この時期が瀬古の全盛期と見る人も多く、このモスクワオリンピック不参加は今も惜しまれ続けている。
【ロサンゼルスオリンピック】
1984年8月のオリンピック本番では、調整の失敗により14位と惨敗。
これは中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられている。
本人の著書ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。
12月の福岡国際で優勝してから抜く時期を作らないで、本練習に入っており、その調子を8月まで続けようとしたこと自体に無理があったようだ。
【ソウルオリンピック】
ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場し、翌年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となる。
この代表選出については、瀬古に対する救済策ではないかという意見が当時多く出された。この代表選考の不透明さは瀬古の責任ではないが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになった。
本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わる。