オリンピックの柔道はまさに’64年東京オリンピックから歴史の歯車が回りだした!!

オリンピックの柔道はまさに’64年東京オリンピックから歴史の歯車が回りだした!!

2020年の東京オリンピック開催まで刻々と時が近付いている今日この頃ですね。そこでやはり、日本の選手たちにはホスト国として中途半端な成績は残して欲しくはないと思いますが、とりわけ日本発祥のスポーツとしての柔道に関しては、なおさらのことでしょう。ところで、読者の皆様は、日本発祥のスポーツと言われている柔道が、いつからオリンピックの正式競技になったかご存知でしょうか? 勿論、ご存知の方が多いことと思われますが、実際にそれをご覧になった方は少ないこととお見受けします。そんなオリンピック柔道の黎明期を実際に見た者として、思い出をかき集めて見ることにしましょう。


1964年の東京オリンピックは有色人種国家における史上初のオリンピックだった!!

東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日の期間にかけて日本の東京で開かれた第18回夏季オリンピックのことを言う。
1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補したが、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本メイズの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。

1964年の第18回夏季東京オリンピック聖火点灯風景

なぜ、1964年の東京オリンピックで柔道が正式種目に選ばれたのか??

柔道は明治15年、嘉納治五郎先生によって勝負・体育・修身を目的に創始されました。嘉納先生は当時の柔術各流派のいいところを集め、さらに研究・工夫を重ね、明治という新しい時代にふさわしく術より道に発展させ、当時廃れていた武術を柔道として新しく生まれ変わらせました。

オリンピックにおいては、柔道は1964年の東京オリンピックで初めて正式種目となりました。
なぜか??
答えは、開催国の特権として開催国の得意な競技を取り入れることができたのです。現在でも開催国の特権は存在し、2020年の東京オリンピックでは、野球・ソフトボールや空手などが認められています。
当時の日本は柔道を取り入れました。しかし、次のメキシコシティ大会では中南米で競技人口が少なかったため、柔道は外れてしまいましが、その次のミュンヘン大会ではヨーロッパでの競技人口が多かったため、また正式種目へと返り咲きました。
読者の方々は野球・ソフトボールがオリンピックの正式種目から外れたことを疑問に思っているかもしれませんが、アフリカ諸国などには全然普及していないのです。ですから、2012年のロンドンンピックからは正式種目から外れたのです。日本のスポーツ事情と世界の事情とは全然違うという一例です。
また、1988年に開催されたお隣、韓国のソウルオリンピックでは韓国の得意種目であるテコンドーが開催国の特権でオリンピックの正式種目として認められ、今日に至っています。

柔道の開祖・嘉納嘉納治五郎

当時は男子のみで階級も4階級(軽量級、中量級、重量級、無差別級)!!

東京オリンピックにおける柔道競技は、1964年10月20日から10月23日までの競技日程で、東京都千代田区にある日本武道館で実施されました。
現在は武道場というよりはコンサート会場と言ったほうが良いのではと思えますが、元々は柔道、剣道などの武道を普及奨励し、試合場として使用する目的で1964年開催の東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、同年10月3日に開館しました。
1966年にコンサート会場としては最初に、ビートルズが使用したが、細川隆元を始め「日本の武道文化を冒涜する」などとして異を唱える者も多かったそうです。

日本武道館全景

1964年の東京オリンピックでは4階級で実施されたが、その後階級が増え現在では7階級で実施されている。ただし、同一階級ではあるものの選手の大型化が進み徐々に体重制限の上限が大きくなっている。

ちなみに、1980年のモスクワオリンピックの際、IOCが無差別級を廃止すると決定したことに、同年7月31日国際柔道連盟(IJF)は撤回を要求。1980年10月30日に開かれたIOC理事会に、IJF会長の松前重義が出席し、無差別級の廃止を撤回するよう求めたところ、当時のIOC会長のサマランチは翌年開かれるIOC総会に提案することを約束し、1981年10月1日に西ドイツのバーデンバーデンで開かれたIOC総会で、1984年のロサンゼルスオリンピックで無差別級が実施されることが決定しました。その後、1986年のIOC理事会で1988年のソウルオリンピックより、超軽量級を新設し、無差別級を廃止することが決定されました。

柔道男子のクラス分け変遷図

柔道は各階級で国別に一人づつという制限がある。

昔からオリンピックの柔道を見ていて思ったことは、いくら世界レベルの選手でも、国内で勝ち抜いて、勝ち抜いてやっと頂点に立たなければ、オリンピックには出場できないという非情な現実であろう。フィギュアースケートなどは、規則はあるものの国ごとに複数の実力者が参加可能であるが、柔道は頂点にたった者ただ一人が参加できるのである。これはどうにかならないのでしょうかね??

柔道の一国一階級一人の原則はオリンピックの正式種目に決定された当時より変わっておらず、1964年の東京オリンピック時も下記4階級の4人が出場している。

軽量級(68kg以下)  :中谷 雄英(なかや  たけひで)選手
中量級(80kg以下)  :岡野 功 (おかの  いさお )選手
重量級(80kg超)   :猪熊 功 (いのくま いさお )選手
無差別級(重量制限無):神永 昭夫(かみなが あきお )選手

柔道界は勿論のこと一般の大人から子供まで、日本の”お家芸”である柔道であるが故に、全階級の金メダルは当然の雰囲気と受け止めていたのである。

“広島の姿三四郎”の異名をとった中谷 雄英選手

中谷 雄英(なかたに たけひで、男性、1941年7月9日 - )選手は、元柔道選手。柔道指導者。講道館9段。
1964年東京オリンピック柔道男子軽量級金メダリストでオリンピック柔道競技、最初の金メダル獲得者である。身長167cm。

全部勝つという使命を背負って臨んだ日本柔道の先陣を飾ったのは軽量級の23歳、中谷選手。事実上の決勝とみられた準決勝・ステパノフ(ソ連)戦で「タコ足」の異名通り、左足首を使っての出足払い、大外刈りであわせ一本を奪うと、決勝のヘンニ(スイス)戦は開始30秒で左の小外掛けの技あり、さらに小外掛けで尻もちをつかせていた。

外国人主審の不手際で、しばし中断するハプニングはあったが、わずか1分15秒のあわせ1本。1万5000人の観客からは、割れんばかりの拍手が送られ、貫禄の金メダルだった。

兄弟4人がすべて黒帯という柔道一家の生まれ。柔道をやるために、一度入った高校を中退し、1年遅れで名門・広陵高に入り直し、“広島の姿三四郎”の異名をとった。闘志が内にこもるタイプで、外国人相手では不利、との心配もあったが、1カ月前から母校・明大の後輩二十数人を相手にぶつかりげいこを繰り返し、必勝の気迫を磨いた。

本人曰く、『世間は「勝って当然」と、日本の全階級制覇を疑わなかった。今とは比較にならない重圧を代表選手は背負っていた』という。

東京五輪当時の中谷 雄英選手

マスコミから「昭和の三四郎」と称された岡野 功選手

岡野 功(おかの いさお、1944年(昭和19年)1月20日 - )は日本の柔道家、流通経済大学名誉教授。1964年(昭和39年)東京オリンピックの柔道男子中量級金メダリスト。身長171cm。

体重が80キロ未満の体格で体重無差別の柔道の全日本選手権に2度優勝し、「小よく大を制す」という柔道の醍醐味を体現し、世界選手権の中量級でも優勝し、五輪、世界選手権、全日本の「柔道3冠」を果たす。
岡野選手は、自身の階級で五輪、世界選手権を優勝し、世界の頂点に立ち、171センチ、80キロ未満の小柄な体格で、体重無差別の全日本選手権でも優勝した強さから「昭和の三四郎」と呼ばれた。

記憶に新しいところでは全日本選手権において1990年(平成2年)に「平成の三四郎」といわれた体重80キロ未満の古賀稔彦が決勝進出、1994年(平成6年)には後に総合格闘技に転進する体重80キロ台の吉田秀彦がやはり決勝進出していますが、いずれも重量級の小川直也、金野潤に決勝で敗れています。
体重の軽い選手が体重無差別の全日本選手権に優勝する難しさを示しており、おそらく全日本選手権を体重80キロ未満で制した岡野選手は最軽量の全日本選手権者のはずだ。

東京五輪当時の岡野 功選手

壮絶な最後を遂げてしまった猪熊 功選手

猪熊 功(いのくま いさお、1938年2月4日 - 2001年9月28日)は、日本の柔道家。身長173cm。
1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック柔道競技の男子重量級で金メダルを獲得。

昭和34年大学在学中に全日本柔道選手権に初出場で初優勝、当時21歳2ケ月の最年少記録を作った。38年にも優勝。柔道が初めて五輪競技となった39年の東京五輪では3試合連続1本勝ちし、重量級で金メダルを獲得した。40年ブラジル・リオデジャネイロで行われた世界選手権無差別級優勝。全日本、五輪、世界選手権の3冠を達成した。173センチ、90キロと当時の重量級では小柄ながら背負い投げや体落としなど多彩な技を武器に活躍。ライバルの神永昭夫(無差別級代表)とは3年連続全日本の決勝で対戦するなど“神永、猪熊時代”と言われた。41年現役を引退し、東海大学助教授、教授を歴任。のち同大柔道部主席師範。ロス五輪金メダリストの山下泰裕らを指導した。のち国際武道大学常務理事。平成10年長野五輪では聖火ランナーを務めた。一方、昭和41年東海建設に入社、専務、副社長を経て、平成5年社長に就任。しかしバブル崩壊と関係者の裏切りで負債が200億円を越してしまい、いよいよ倒産となる寸前の2001年9月28日に社長室で自刃した。ところで、柔道をテーマにした漫画「YAWARA!」(浦沢直樹作)では、“猪熊”の姓が主人公の名前に使われたことでも知られた。

東京五輪当時の猪熊 功選手

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年12月22日 - 1993年3月21日)は日本の柔道家(講道館9段)。
全日本選手権を3度制し、猪熊功と共に1960年初頭に“神猪時代”を築いた。柔道競技がはじめて採用された1964年の東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦でオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れて銀メダルに終わった。

この時代の日本では珍しいほどに体の大きな少年で、その大きな体をいかすために柔道を始め,実力は群を抜く強さだった。東北高校柔道部時代,神永選手と稽古するのは命がけだと恐れられ,実際に稽古をした後の相手はしばらく起き上がれないほどだったそうだ(大げさでしょうけど??)。また,柔道の総本山である講道館の紅白試合では高校生では異例の18人抜きという離れ業を成し遂げた。
その非凡な実力をかわれ,全国でも指折りの強豪,明治大学に進学。明治大学時代,学生団体日本一を懸けた試合は代表戦までもつれこんだ。明治の代表はもちろん神永。神永選手は代表戦で引き分け。当時は判定がなかったため,2度目の代表戦が行われました。ここでも明治は神永選手を代表に選出しました。たった今,試合を終えた選手をまたすぐに出すのは極めて稀です。明治の他の選手が頼りなかったのではありません。それほどまでに神永選手を信頼していたのだ。そして,神永選手は2度目の代表戦に勝利し,明治を日本一に導いたのだった。
大学卒業後,神永選手は全日本柔道選手権に優勝し名実ともに日本一になった神永選手は,東京オリンピック柔道競技無差別級の日本代表に選ばれた。
代表選手は神永選手を含め4名。関係者はもちろん,全国民が全階級制覇は固いと信じていた。その期待に応えるように,軽量級・中量級・重量級の代表3選手は見事に金メダルを獲得し、柔道競技最終日,無差別級の神永選手に日本国中が注目したのだった。
予想通り、神永選手は決勝まで勝ちあがり,決勝の相手はオランダのアントン・ヘーシンク選手だった。
ヘーシンク選手は身長2メートル,1メートル80センチの神永選手は柔道の基本である技とスピードで勝負をかけようとした。しかし試合開始から9分過ぎ,ヘーシンク選手の抑え込みが入り一本負け。日本中が涙を呑んだのだ。
その翌日,神永選手は所属していた会社を訪れ,何事もなかったかのように仕事をしていた。また,人々から罵声をあびても,カミソリが入った封筒が送られてきても,すべては自分が悪かったという姿勢を貫き,心無い人の言動を正面から受け止め,責めることなど一切しなかったのだ。それだけ自分に厳しく,紳士的であり,すべてにおいて模範的な存在であった。精神力と人間の大きさは世界一だったのだ。

東京五輪当時の神永昭夫選手

神永選手の身長が1m80cmで当時も今も日本人としては大きい方なのですが、ヘーシンク選手がそれより20cmも大きいので、試合では頭ひとつ以上も違っていました。

ヘーシンク選手と神永選手の試合の様子

試合は8分30秒過ぎ、神永選手が内股気味の大内刈りを仕掛ける。だがしかし、懐に入ってくるのを待ちかまえていたようにヘーシンク選手が寝技に持ち込み、左袈裟固め。神永選手は必死にもがくが、巨体は動くことはなかった。

神永選手は「日本柔道の敗北」戦犯のように責められ、敗戦の責任を一身に負った。東京五輪での神永のプレッシャーは、他の柔道日本代表の比ではないほど大きかったはずだ。

ヘーシンク選手の左袈裟固め

アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink、1934年4月6日 - 2010年8月27日[1])は、オランダ・ユトレヒト出身の柔道家。身長198cm。

日本のお家芸の柔道が初めて採用された東京五輪に出場し、日本武道館で圧倒的な強さを見せつけた。決勝で神永選手を袈裟固めで破って日本に衝撃を与えた。この際、歓喜のあまりに畳に駆け上がろうとしたオランダ人を制したことで「伝統的日本の心を持つ外国人柔道家」と言われた。身長198センチ、体重120キロの巨漢で、61年世界選手権のほか、欧州選手権でも優勝を重ねた。
 引退後は柔道の普及に尽力し、87年にIOC委員に就任した。自ら発案したカラー柔道着の導入で主導的役割を果たした。しかしIOCでは、2002年ソルトレークシティー冬季五輪招致に絡む買収スキャンダルにかかわったとして、99年に警告処分を受けた。

一時はプロレスラーとして日本のプロレスのリングに上がった。日本のファンにも親しまれ、97年に勲三等瑞宝章を与えられた。

彼の圧倒的な強さは、柔道界だけなく、一般の日本人にまで強い衝撃を与えるものだった。まさに柔道界において、黒船の襲来であった。

東京五輪当時のアントン・ヘーシンク選手

黒船としてのヘーシンク選手

実は、欧州諸国は日本に先駆けて、1950年代から、柔道の五輪競技化を推し進めようとしていた。しかし袋小路にはまりこんでいたのだ。五輪委員会は、無差別級の一対一競技など、認可したくなかったのである。日本の柔道関係者は、柔道はあくまで技術とてこ原理のスポーツであって、身体の大きさは関係ないという考えに固執していたからだ。。レベルの高いトレーニングを積んでいた小柄な日本人選手は、国際戦でたしかに勝利をあげ続けていた。
1958年に、東京五輪(64年)が決定し、日本は直ちに五輪での柔道の公式競技化を申し入れた。そして60年にローマで行われた五輪国際委員会で、柔道は「オプショナル競技」として認められた。五輪で柔道を実施するかどうかは開催国が都度決定するという意味である。実際に68年のメキシコシティ大会では柔道は行われなかった。しかし72年のミュンヘン五輪以降は、途切れることなく継続されている。階級制については、すでにアメリカやヨーロッパでは標準的なものとなっていたが、当時の日本の保守派は依然として反対していた。

そんな日本の保守派が折れて、階級制の大会が開かれるようになったのは、1961年の世界選手権におけるヘーシンクの圧倒的な強さのせいだった。日本の関係者が密かに考えたのは、ヘーシンクのような体格と能力を持つ選手が五輪に登場するとなれば、日本はお家芸柔道で無冠に終わるのではないかとの懸念であった。自国開催五輪でそのようなことになれば、大きな恥となる。日本は当初、3つの階級を提案した。逆に欧州諸国の中には、無差別級を主張する国もあった。ヘーシンクが優勝したのは無差別級だったからである。

日本の関係者は、階級制で妥協する一方で、ヘーシンクの五輪出場を食い止めようとした。ヘーシンクが、柔道の指導で金銭を受け取っていたことが発覚したのである。これは、当時の五輪のアマチュア・コードに違反することであると思われた。日本の関係者は、そこを問題にすれば、実は日本の多くのトップ選手も出場停止になる可能性があることはわかっていた。それでも、日本の選手層は厚いので、仮に二線級が出場しても、各階級で金メダルを独占できると考えていたのである。しかし、このときの五輪委員会での検討の結果、プロとして試合をしていない限り、指導料を受け取るだけでは、アマチュアの定義には反しないとの裁定が下されることとなった。

ヘーシンクは結局、世界選手権に続き、東京五輪でも金メダルを獲得した。ブラジルで開催された翌65年の世界選手権では、ヘーシンクは日本の新生、坂口征二を重量級の試合で下した。しかし、68年メキシコ五輪で柔道が採用されないことを聞いたヘーシンクは、67年には柔道を引退し、石油会社を設立した。

最後に!!

日本のお家芸と言われる柔道。1964年の東京オリンピックから上記のような歴史の歯車が動きだし、紆余曲折を繰り返して、リオオリンピックでは、その呼び名に違わぬ活躍がありました。成績はもちろんですが、一本勝ちを目指す美しい日本柔道が光りました。2020年の東京オリンピックでは選手たちがどんな試合を見せてくれるのか、今からわくわく、どきどき、楽しみですね!!。
2020年の東京オリンピックで柔道の試合をより楽しむためにも、1964年の東京オリンピックの知識が一助になれば幸いです。

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