アンディ・ウィリアムスって誰??

アンディー・ウィリアムス
アンディの生い立ち
アンディは1927年12月3日にアイオワ州の田舎町・ウォールレイクで生まれ、彼の3人の兄と共に僅か8歳で町の長老派教会の聖歌隊で歌い始めたのをきっかけに、この4人のユニット(ウィリアムス・ブラザーズ)が徐々に話題となり、町のニュースに取り上げられ、やがて小学校3年生でプロの歌手として、デビューを果たした。まもなく彼ら兄弟は近くの大きな都市・デモインのラジオ番組にレギュラー出演するようになり、シカゴやシンシナティ含め、戦時中のラジオ番組で広く人気を得ることになった。
好評を得たのに手応えを得た一家は、本格的な芸能界入りを目指してカリフォルニアへ移住した。
1944年、ビング・クロスビーのレコーディングのバックコーラスに起用されて共演し、このレコードがミリオンセラーとなる大ヒットを記録した。ハリウッドでのショービジネス活動により、1946年、ケイ・トンプソンとのクラブショーを全米並びにヨーロッパに渡って行い、彼らの評判は決定的なものになった。後にアンディは彼女からショービジネスのみならず文化全般にわたって教えられたと感謝の言葉を述べています。1952年、ウィリアムス・ブラザーズは解散し、アンディはソロの道を歩むことに。
活動域をテレビや映画にシフト
1954年からはTV番組『トゥナイト・ショー』に出演、57年発売「バタフライ」がミリオンを記録し、歌手としての人気を決定付けた。61年にはCBSとレーベル契約。映画『ティファニーで朝食を』のために作られたアカデミー主題歌賞を獲得し、TV『アンディ・ウィリアムス・ショー』のテーマ曲としても有名は「ムーン・リバー」、62年映画『酒とバラの日々』の主題歌で再びアカデミー主題歌賞を獲得した「酒とバラの日々」など彼のキャリアを代表するヒットを放った。また、62年から始まった『アンディ・ウィリアムス・ショー』は、一度中断するものの71年まで続き、優れた音楽番組としてアンディはお茶の間の人気ものになったのである。『アンディ・ウィリアムス・ショー』は日本でも放送され日本でも人気が上昇し、『NHK紅白歌合戦』には1991年に出場した。

典型的な昔のステレオ
これさえ聞けば、あなたもアンディのファンになれる!!
アンディの元妻が殺人??
アンディの元妻であるクロディーヌ・ロンジェは1942年にパリで生まれた。幼い頃から子役としてテレビや演劇で活躍していたそうだ。アンディ・ウィリアムズと彼女の出会いはこの頃のことで、おそらくはアンディが渡仏してテレビ出演した際に共演したのがきっかけと思われる。その後、ロンジェが1961年にラスベガスの舞台に招かれた際にアンディとの再会を果たし、直後に二人は結婚したが、1971年にはアンディとの結婚生活は破綻していた。
1974年、すでにアンディと離婚していたロンジェが、その後付き合って同棲していた男が、彼女が持っていた銃の暴発で死亡。これが事故なのかロンジェの手による殺害なのか謎を呼び、結局は過失致死というかたちで有罪判決を受けてしまったのだ。
真相は未だに謎のままだが、このスキャンダルによってロンジェは歌手・女優生命を断たれてしまい、ついには引退に追い込まれた。
一方、順調を極めたいたアンディだったが、元妻が銃暴発事故を起こした事により、彼のキャリアにも影を落とす事になってしまったようだ。
ちなみに、ロンジェ本人はというと、当時の事件を担当した彼女の弁護士と結婚し、隠居生活を送っているとのことです。
こうして一時はスランプに陥ったアンディだったが、後に立ち直った彼は、彼の原点であるステージを中心に活動し始め、92年には自らの劇場、ムーン・リバー・シアターをミズーリ州ブランソンにオープンさせ、活動の拠点とした。

クロディーヌ・ロンジェ
アンディも寿命には勝てず!
アンディ・ウィリアムスは、鋭い時代の感覚を活かしその時々のヒットや新曲を積極的に取り入れ彼ならではの解釈と表現により歌に新たな息吹を吹き込みました。こうした彼のスタイルは時代の世代を越えて愛され、名作の数々を残す事になったのです。2011年、癌であることを公表し闘病生活を続けてきましたが、惜しくも2012年9月逝去。84歳でした。