ミド編)ぉおっ、ではそこからプロレスラーの道を!?
学生時代にキックボクシングのプロテストに受かること、プロレス団体の社長にリング上での動きを評価されること。
いずれもKUDO選手の弛まぬ努力や創造性(センス)があってこそ成し得たことのはず。
まして「身体が小さくてなれないと思っていた」プロレスラーへの道。
しかし、そこでそのままプロレスに進まず、大学卒業後に一度サラリーマン経験を積んでからの2001年。
KUDO選手はいよいよDDTプロレスリングからプロレスラーデビューを果たすこととなる。
KUDO選手のシール
「インディーレスラー」として
ミド編)2001年、いよいよプロデビューなさいました!以降16年、DDTプロレスリング一筋でキャリアを築かれていきます。
DDTプロレスリング一筋で16年のKUDO選手
ついにデビューしたプロレスの世界だったものの、KUDO選手は自身がデビューした後もプロレスのメジャー団体は雲の上の存在だったと語る。
大好きなプロレスを続けるために働く
ミド編)えっ、新宿2丁目ですか?
KUDO選手の口から自然と出る言葉は「プロレスラーとして」というよりも「プロレスラーを続けることが出来た」という観点のキャリア。
そこにはあるのは「インディーレスラー」としての覚悟、それはやがて矜持と呼べるものに昇華したのではないだろうか。
ミド編)いまやDDTプロレスリングは両国国技館やさいたまスーパーアリーナでの興行も成功させています。団体が大きくなって、選手にとってはプロレスに打ち込める環境が整ってきたのではないですか?
長い選手キャリアのなか、KUDO選手は何度もDDTのトップに立って団体を牽引してきた一人。
そんな彼から伝わる「みんなの力で成り立っている」という気持ち、それはプロレス愛と呼んで然るべきものだ。
3.20さいたまスーパーアリーナを振り返る
ミド編)3.20さいたまスーパーアリーナ大会では、大山峻護選手のプロレスチャレンジマッチでパートナーを務められました。
KUDO選手のみならず、DDTの選手たちは試合カードが組まれると会場の規模なども考えて「何をどう魅せよう?」とテーマを考える。
根底にあるのは「プロレスが好き」、だからプロレスのアイデアを出そうとするのだ。