新宿・歌舞伎町のど真ん中に「エビスコ酒場」あり
2017年4月、DDTプロレスリングのトップレスラーKUDO選手にインタビューの機会を頂戴したミドルエッジ編集部(ミド編)。
KUDO選手といえば、多士済々たるDDTプロレスリングにあって2001年のデビュー以来、団体のトップを務めてきたベテラン選手。
そしてもう一つの顔が、飲食業ひしめく東京・新宿歌舞伎町のど真ん中で、昭和レトロな感が漂う「エビスコ酒場」を8年間切り盛りしてきた経営者の顔も持つ。
今回、昭和レトロなエビスコ酒場店内も撮影したいと要望をお伝えして、インタビューは新宿歌舞伎町で行われることとなった。

KUDO選手が経営する「エビスコ酒場」

エビスコ酒場は昭和レトロな空間

懐かしい看板が所狭しと飾られている
「宝石箱アイスを出していたこともあったんですよ」(KUDO選手)
なんと昭和レトロ感漂うエビスコ酒場で、あの「宝石箱アイス」を出していたこともあると話してくれたKUDO選手。
飲み歩く中でヒントを得たメニューで、駄菓子のすももを使った「すももサワー」を提供したり、店内にガチャガチャ設置を検討したり、競合ひしめく歌舞伎町で飲食店を8年間続けた顔が、そこにはある。
そんなKUDO選手のインタビューを通して、読者の皆様にお伝えしたいのはインディーレスラーの覚悟とプロレス愛。
「二足の草鞋」と言うは易し、行うは難し。
淡々と語って下さったKUDO選手。しかしその口調の裏には、積み重ねてきた年月の重みがあった。
身体が小さく、なれないと思っていたプロレスラー
ミド編)2001年にDDTプロレスリングでデビューされたKUDO選手ですが、プロレスラーを志したのはいつ頃からだったのでしょうか?
高校時代、千葉県下有数の進学校に通っていたKUDO選手。
そのころの彼は、私たち世代の多くがそうであったように毎週の少年ジャンプや少年マガジンを楽しみにする学生生活。
そして、当時の全日本プロレス好きなら共感出来るであろう「四天王プロレス」に励まされて勉強を頑張ったというエピソードも。
しかし一方では、高校にあまりちゃんと通っていなかった、若干引きこもっていたという一面を述懐。
現役時代には大学受験をせず、浪人生活を送る中で先の人生を思い悩んだのだそうだ。

KUDO選手はアラフォー世代
学生プロレス、そしてキックボクシングへ
「キックの荒鷲」と呼ばれるほど激しい攻撃力で一時代を築いたキックボクサー、藤原敏男。
その藤原ジムでキックを教わったKUDO選手。練習は非常に厳しく「No」とは言えないものだったそうだ。
学生時代、プロのキックボクサーに
プロキッカーとなったKUDO選手の学生時代、それはキックボクシングと学生プロレスの二足の草鞋だった。
DDTプロレスリングとの出会い
ミド編)ぉおっ、ではそこからプロレスラーの道を!?
学生時代にキックボクシングのプロテストに受かること、プロレス団体の社長にリング上での動きを評価されること。
いずれもKUDO選手の弛まぬ努力や創造性(センス)があってこそ成し得たことのはず。
まして「身体が小さくてなれないと思っていた」プロレスラーへの道。
しかし、そこでそのままプロレスに進まず、大学卒業後に一度サラリーマン経験を積んでからの2001年。
KUDO選手はいよいよDDTプロレスリングからプロレスラーデビューを果たすこととなる。

KUDO選手のシール
「インディーレスラー」として
ミド編)2001年、いよいよプロデビューなさいました!以降16年、DDTプロレスリング一筋でキャリアを築かれていきます。

DDTプロレスリング一筋で16年のKUDO選手
ついにデビューしたプロレスの世界だったものの、KUDO選手は自身がデビューした後もプロレスのメジャー団体は雲の上の存在だったと語る。
大好きなプロレスを続けるために働く
ミド編)えっ、新宿2丁目ですか?
KUDO選手の口から自然と出る言葉は「プロレスラーとして」というよりも「プロレスラーを続けることが出来た」という観点のキャリア。
そこにはあるのは「インディーレスラー」としての覚悟、それはやがて矜持と呼べるものに昇華したのではないだろうか。
ミド編)いまやDDTプロレスリングは両国国技館やさいたまスーパーアリーナでの興行も成功させています。団体が大きくなって、選手にとってはプロレスに打ち込める環境が整ってきたのではないですか?
長い選手キャリアのなか、KUDO選手は何度もDDTのトップに立って団体を牽引してきた一人。
そんな彼から伝わる「みんなの力で成り立っている」という気持ち、それはプロレス愛と呼んで然るべきものだ。
3.20さいたまスーパーアリーナを振り返る
ミド編)3.20さいたまスーパーアリーナ大会では、大山峻護選手のプロレスチャレンジマッチでパートナーを務められました。
KUDO選手のみならず、DDTの選手たちは試合カードが組まれると会場の規模なども考えて「何をどう魅せよう?」とテーマを考える。
根底にあるのは「プロレスが好き」、だからプロレスのアイデアを出そうとするのだ。
「エビスコ酒場」で8年
ミド編)一方、歌舞伎町のど真ん中でお店を8年間も続けていらっしゃいます。

実は居抜きだったという昭和レトロ風な店内
後進が安心出来るセカンドキャリアを

インディーレスラーの後進が安心出来るセカンドキャリアを
KUDO選手は現在、エビスコ酒場を含むDDTプロレスリングの飲食業部門を、株式会社DDTフーズ代表取締役社長として運営する立場でもある。
「家族から愛をもらって、お客様に愛をお届けする」
2015年には「右ヒザ前十字靭帯断裂」という大怪我をして1年近く戦列を離れていたKUDO選手。
レスラーとして40歳を前にしての大怪我、手術からリハビリを経ての実践復帰。
一方で、その間も「エビスコ酒場」は平常運転を続けている。
「プロレスは誰しも儲かるものではない」
若い人の中には、プロレスに見切りをつけて辞めていく人もいると話すKUDO選手。
株式会社DDTフーズの社長に打診されたことを奥様に話したら「社長は向かないから止めたほうがいい」と率直に伝えられたというKUDO選手。
プロレスの試合で遠征が入れば店舗の人員調整を行い、身体が疲れやすいバス移動にも「地方でもプロレスが出来て楽しい、お店が休めてラッキー」と笑うKUDO選手。
謙虚という言葉よりはリアリスト。それでいて周囲とプロレスへの想いが溢れるKUDO選手。
「インディーレスラーとしての覚悟」そんなKUDO選手の姿をみて、後に続こうとするレスラーは多いに違いない。

「二足の草鞋」と言うは易し、行うは難し