誕生~デビューまで
ミホノブルボンは1989年4月25日、父マグニチュード 母カツミエコーの間に生まれました。
競走馬として取引された時の価格は、700万円と競走馬売買としては非常に低価格での取引となりました。
3歳となったミホノブルボンは『スパルタ調教』で名を馳せる関西の戸山厩舎に預けられることになりました。
戸山調教師の信念である『鍛えて馬を強くする』を実践し、徹底的なスパルタ調教はサークル内でも賛否両論でしたが、ミホノブルボンは1日に4本もの坂路調教をこなしメキメキと力をつけました。
衝撃のデビュー戦 ミホノブルボン伝説の幕開け
こうして迎えたデビュー戦は9月7日中京競馬場 芝1000mが選ばれ、鞍上は戸山調教師の弟子 小島貞博騎手が指名されました。
レースはスタートで出遅れながらも、他馬と比較にならない圧倒的なスピードで終わってみれば3歳コースレコードで圧勝という衝撃的なデビューを飾りました。
3歳新馬|1991年09月07日 | 競馬データベース - netkeiba.com
続く2戦目(東京競馬場 芝1600m500万下)は出遅れることもなくスタートから快調に飛ばし2着に6馬身差の快勝。
『西の怪物』として関東の競馬ファンの瞼にもミホノブルボンの強さが鮮烈に印象づけられました。
3歳500万下|1991年11月23日 | 競馬データベース - netkeiba.com
3戦目となる3歳チャンピオン決定戦、朝日杯3歳ステークス(中山競馬場 芝1600mGⅠ)では、抑える競馬を覚えさせようと鞍上小島貞弘騎手が手綱を抑えましたが、作戦が上手くいかずヤマニンミラクルの猛追にあいますがハナ差で抑え込み、見事に3連勝でGⅠレースを制しました。
朝日杯3歳ステークス|1991年12月08日 | 競馬データベース - netkeiba.com
名実ともに世代のトップに立ったミホノブルボンに課せられた次なる目標は、もちろんクラッシックレース制覇です。
元来短距離適性として評されるミホノブルボンにとって、皐月賞(2000m)、日本ダービー(2400m)、菊花賞(3000m)への挑戦は、自らの限界への挑戦でもありました。
年が明け、ミホノブルボンの初戦は1月のシンザン記念を予定していましたが、調教中に捻挫をしたため目標を3月末のスプリングステークス(中山競馬場 芝1800mGⅡ)へと切り替えました。
その血統構成から、影では距離に対する限界説が囁かれていたミホノブルボンですが、そんな噂を吹き飛ばすかのように見事な逃げで2着に7馬身差をつけ圧勝してみせました。
フジTVスプリングS|1992年03月29日 | 競馬データベース - netkeiba.com
皐月賞
クラシック最初の関門、皐月賞(中山競馬場 芝2000mGⅠ)では1.4倍の堂々の一番人気となり、レースでは終始安定したペースで先頭をキープし、最後の直線でも後続の追撃を許さず見事に逃げ切って優勝。
5連勝でクラシックを制覇しました。
皐月賞|1992年04月19日 | 競馬データベース - netkeiba.com
日本ダービー
皐月賞で見事2000mの壁を克服したミホノブルボンですが、日本ダービーはさらに400m距離が延び2400mとなる上、コース幅が広く直線の長い東京競馬場は逃げ馬にとっても不利といわれ、にわかに距離限界説が再浮上、皐月賞馬でありながら2番人気となりました。
外枠(15番)からのスタートとなったミホノブルボンは、囁かれていた距離の壁やコースなど関係ないとでも言わんばかりに軽快に逃げをうち、圧倒的な力の差をみせつけて日本ダービーを制覇!3冠に王手をかけました。
東京優駿|1992年05月31日 | 競馬データベース - netkeiba.com
決戦の秋に備え、夏場を北海道で過ごし英気を養ったミホノブルボン。
秋競馬の初戦は京都新聞杯(京都競馬場 芝2200mGⅡ)でしたが、このレースをあっさりと日本レコードで勝利し、次はいよいよ無敗の三冠馬の期待がかかった菊花賞への挑戦となります。
京都新聞杯|1992年10月18日 | 競馬データベース - netkeiba.com
菊花賞
その驚異的なスピードと自身の血統背景から、常につきまとってきた『距離の壁』というワード。
今回はミホノブルボンにとって限界ともいえる3000mのレースへの挑戦でもあります。
レースは、逃げる事を宣言していた松永幹夫騎手のキョウエイボーガンがハナを切り、追う展開となったミホノブルボンでしたが、最後の直線でライスシャワーとマチカネタンホイザとの壮絶な叩き合いとなり、結果はライスシャワーの2着となり、三冠馬への夢は儚く散りました。
菊花賞|1992年11月08日 | 競馬データベース - netkeiba.com
1992年年度代表馬に選出~引退へ
菊花賞での敗戦後、気持ちを切り替えジャパンカップを目指して調整されていたミホノブルボンでしたが、脚部の不安から出走を断念。
この年は菊花賞が最後のレースとなりましたが、無敗での2冠達成が評価され、年度代表馬に選ばれました。
翌年の復帰に向け療養していたブルボンですがその後、骨折の判明や骨膜炎を発症するなどして長期療養を余儀なくされました。
懸命のリハビリが施されている最中、所属の戸山調教師が病気のため死去され、ミホノブルボンは鶴留厩舎へ転厩となりました。
ミホノブルボンは転厩後も引き続き復帰のためリハビリをおこないましたがその甲斐もなく、1994年に入り引退が表明されました。
ミホノブルボンの生涯戦績は8戦7勝2着1回、うちGⅠ3勝(朝日杯3歳S、皐月賞、日本ダービー)という輝かしいものでした。
戸山調教師の信念である『鍛えて馬を強くする』という言葉。まさにミホノブルボンがその集大成でした。
種牡馬生活~現在
1994年に引退後、日高軽種馬農業組合で種牡馬となったミホノブルボンですが、2012年の種牡馬引退までの産駒成績は、産駒数265頭 産駒勝利数40勝 重賞勝利数0勝 というものでした。
現在は、北海道のスマイルファームでのんびりと余生を送っています。
日刊競馬で振り返る名馬 - ミホノブルボン(1992年・第59回日本ダービー)