ホーガン戦の約2カ月後、新日本プロレスの内紛が表面化してきた。
いわゆる「クーデター」である。
クーデター側の主張は、会社(新日本プロレス)は年間20億円も売り上げがあるのに、利益が2000万円しか上がらないのは、社長(猪木)が個人事業に回しているせい-というもの。
その猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった。
アントンハイセルは、1980年に設立され、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった。
当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。
しかし実際、プロジェクトを進めていくと、サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となったり、ブラジル国内のインフレにより、経営は悪化してしまい、アントンハイセルは数年で破綻し、その負債は数十億円ともいわれ、猪木は新日本プロレスの収入を、その補てんに回してしまった。
(2005年以降、地球環境問題や原油価格高騰などから、サトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は内容が見直され積極的に行われていった。
先見の明がありすぎたのかもしれない。)
クーデターの発端は、1983年5月16日に長州力が新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場したことだった。
その夜、長州は猪木へメッセージを送った。
「新日(新日本プロレス)から脱退したい。」
新間はこの件を猪木に相談した。
「社長、これは職場放棄ですよ。
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか。」
「そう派手にやってくれるなよ、新間。
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ。
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」
「いや、ペナルティを科して、それが受け入れられなければ辞めさせるべきです。」
「俺は長州を信じている。」
猪木は選手の気持ちがわかるというが、それで新間などの背広組は納得できる話ではなかった。
「結局、猪木は長州、浜口を野放しにした。
同じ釜のメシを食い、同じトイレを使い、肌をあわせ汗を流し、朝起きて夜寝るまで行動を同じくする選手達の絆の強さ。
やはり選手は違うんだな。
選手のほうが可愛いのかなと思った。
しかし処分しなかったことで彼らは勢いづいた。」
長州力ら13人のレスラーはが新日本プロレスを離脱した。
(そして、1984年秋に全日本プロレスと業務提携した。)
続いて、1983年8月11日、突如、タイガーマスク(佐山聡)が、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退した。
そして「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、マスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
1983年8月20日、海外にいた猪木が会社(新日本プロレス)の異変を知って帰国。
1983年8月21日、猪木は新日本プロレス事務所に出向き、そこで望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られる。
1983年8月24日、猪木と同じく日本を離れていた新間寿営業本部長が帰国し猪木と対面した。
「忘れもしない1983年8月24日。
まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。
『新間、もうダメだ。
俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ。』
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。
『な、何で、社長・・・・・・』
すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった。」
1983年8月25日、東京の南青山の新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれ、結局、クーデター事件の責任をとる形で、猪木は代表取締役社長を、新間は専務取締役営業本部長を解任された。
1983年8月26日、坂口征二も副社長から退いた。
1983年8月29日、新日本プロレスは、テレビ朝日からの出向役員:望月和治、大塚博美、新日本プロレスの鬼軍曹:山本小鉄の3名による代表取締役体制を発足。
こうして新日本プロレスの内乱はクーデター側の勝利に終わったにみえた。
しかしテレビ朝日の重役の一言でクーデター派の新体制はたちまち力を失った。
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらうち(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ。」
1983年11月1日、新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木は代表取締役社長に、坂口も取締役副社長に復帰した。
UWF すっぽかし事件
1984年、クーデターにより新日本プロレスを追い出された新間は、選手を大量に引き抜いて、新団体「UWF(Universal Wrestling Federation:ユニバーサル・レスリング連盟)」を立ち上げるという大胆な計画を立てた。
『私はプロレス界に万里の長城を築く』
UWFの旗揚げ興行ののポスターにはこう書かれてあった。
また
「私はすでに数十人のレスラーを確保した。」
とも書かれてあり、猪木、タイガーマスク、長州力、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、前田日明などの顔が並んでいた。
前田日明は
「猪木さんが、「俺も後から行くから、先に行ってくれ」といわれたので移籍した。」
という。
1984年4月、猪木は長者番付でプロスポーツ部門1位(納税額8,268万円)になった.
そして4月11日、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた.。
しかしリングには、ポスターに掲載されていた猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどはおらず、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬ら、新日本プロレスのリングではセミファイナル以下のレスラーたちがいた。
ときに罵声が飛び、ときに猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった。
こうしてUWFは波瀾の船出となった。
旗揚げ後、しばらくUWFは路線も定まらない状態だったが、藤原喜明が高田延彦を引き連れて参加したあたりから方向性が定まり出した。
それは道場で行われるスパーリングのような、関節技をかけ合う攻防を中心としたサブミッションレスリングだった。
またやがて引退していたタイガーマスク(佐山聡)がザ・タイガーとして参戦。
それによりUWFに蹴りなどの打撃技が加わった。
UWFは、前田、タイガー(佐山)、藤原、高田、木戸修、山崎ら日本人対決を軸に壮絶な試合をした。
ロープワークをせず、相手の技も簡単に受けない。
従来のプロレスのショー的要素を廃し、
「キックが急所にまともに入ったら立っていられない。」
「関節技がガッチリ極まれば絶対に逃げられない。」
という格闘技色の濃いプロレスリングを展開した。
UWFは、従来のプロレスに飽き足らなくなっていた熱狂的なファンを生み出し、社会現象とまでいわれた。
こうして一見、UWFは順調にいくかと思われたが、やがて前田と佐山が対立し、ケンカマッチまで行われ、佐山はUWFを去った。
稼ぎ頭の佐山を失ったUWFは、1985年9月11日に崩壊した。
新旧格闘王
前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らは業務提携という形で新日本に復帰し
前田日明は新日本のリングで復帰の挨拶で
あくまで妥協せず新日本プロレスと対決する姿勢を示した
「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」
1986年2月6日、アントニオ猪木が藤原嘉明をスリーパーホールドで失神させた直後、激昂した前田日明がリングに乱入し猪木にハイキックを入れダウンさせた。
1986年4月29日、津市体育館で、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント 戦が行われた。
この試合でアンドレは、前田に対して真剣勝負を仕掛けた 。
しかしキレた前田が逆にローキックの連打と関節技でアンドレを戦意喪失にまで追い込んだ。
この試合は収録されたにもかかわらず放映されなかった。
(前田を潰すために新日本が画策したものといわれている。)
1986年10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた。
猪木はメインで元プロボクシング世界ヘビー級王者のレオン・スピンクスと戦い勝利した。
前田日明は、マーシャル・アーツのドン・中矢・ニールセンと戦い、その劇的な勝ちっぷりは、猪木を上回り、「新格闘王」と呼ばれた。
アントニオ猪木と前田日明の対談(週刊プレイボーイ)
猪木
「前田がユニバーサル(UWF)に行って戻って来た時、俺を痛烈に批判していただろ?」
前田
「ええ、『猪木は裸の王様』だとか『猪木だったらなにをやっても許されるのか』だとかね。」
猪木
「当時は前田のその言葉を聞いて俺は『裸の王様』なのかもって反省してたんだよ。」
前田
「まさか、そんな。」
猪木
「当時はな、俺の周囲もゴチャゴチャしていて自分の意見すら通すことが難しい時期だった。
会社の規模も大きくなり、テレビ局の意向もある。
そんな状況の中で偉そうなことを言ってもうまく実現できなかったことがいっぱいあった。」
前田
「ええ、俺もそんな猪木さんの苦しい状況はなんとなくわかってました。」
猪木
「レスラーが現役を引退しても安心して生活できるようにと設立したアントンハイセルも失敗して、その責任を取る形で新日本の社長の座からも降りた。」
前田
「はい。」
猪木
「その時、前田が言うように俺は結局、裸の王様だったんだなと思ったな。」
前田
「俺がユニバーサルに身を投じた時、周りのスタッフは『猪木さんも後から参加しますから』と言っていたけども、俺は正直に言って猪木さんは来ないだろうと思ってましたよ。」
猪木
「そう思ってたか。」
前田
「はい。
だってわかりますよ。
外部から見てても当時の猪木さんにはたくさんの重石がついてましたからね。
そんなことよりユニバーサルのマットで見つけ築き上げようとした新しい闘い方のスタイルを広める事の方が頭がいっぱいでしたよ。」
猪木
「もう何年前の話になるのかな。
ある時、地方の体育館で試合があってね。」
前田
「ええ。」
猪木
「雨がな、雨がザーザー降っていたんだよ。
俺は寝転びながら、窓に降り注ぐその雨を見ていたんだ。
そうしたら、その雨粒のひとつひとつが俺の思い出のように見えてきてね。」
前田
「ええ。」
猪木
「こんなこともあった、あんなこともあったってね。
思い出が降り注ぐような感じで恐怖だった。
その時、1番俺の胸を締め付けたのは前田がユニバーサルに行って、また新日本に戻った頃なんだよ。
前田が新しい団体に参加する。
今度は新日本に戻ってきた。
そういう状況なのに、俺は自分の周りの環境を整備できなくて、前田の考えもやろうとしている方向性もちゃんとフォローしてやることができなかった。」
前田
「・・・・・・・・・・」
猪木
「前田には迷惑をかけたと思っているよ。
いや、前田だけじゃない。
いろんな人間に迷惑をかけたなと思っているんだ。」
前田
「猪木さんにそんな風に言われたら、俺はなんと言えばいいのか・・・」
猪木
「ただ反省はしてるけど後悔はしていない。
後悔すると人間は前に進めない生き物だからね。」
前田
「はい。」
猪木
「俺もな、 力道山の付け人をしていた頃は力道山から痛めつけられたことがあって力道山だけは許せねぇと思っていたさ。
何かあると『ブラジルに帰すぞ』と言われてね。
でも彼が死んで10年、いや20年経ったら逆に感謝の気持ちが芽生えたんだな。
力道山がいたから今の俺がいるんだなって。」
前田
「その気持ち、わかりますよ。」
猪木
「だから前田も、あと何年かしたら俺のことを理解してくれる、わかってくれるんじゃねえかと思っているのだけどね。」
前田
「自分もそれなりに歳を重ねてきましたから猪木さんのことを少しずつわかってきたような気がしますよ。
自分が新日本を解雇された時も、たぶん猪木さんは何もわかってないんだろうなと思ってましたよ。」
猪木
「そうなんだよ。
経緯すらよくわかってなかったんだよな。」
前田
「アッハハハ。」
猪木
「あれだろ。
前田が長州の顔面を蹴ったから新日本をクビになったんだっけ?」
前田
「アッハハハハハ。
あのですね、1つ聞いてもいいですか?」
猪木
「なんだ?」
前田
「自分たちがユニバーサルから再び戻った時、猪木さんは俺と1回もシングルで闘わなかったですよね。
どうしてだったんですか。」
猪木
「逃げてたから。」
前田
「アッハハハ。」
猪木
「嫌だったからさ、前田と闘うのが。
だから、ウフフ・・・逃げた。
ウフフ。」
飛龍革命事件
1988年の4月22日、
沖縄の奥武山体育館で猪木・藤波組vsベイダー・マサ斎藤組のタッグマッチが行われ、9分24秒、ベイダー・マサ斎藤組の反則勝ちとなった。
この試合は同じカードでもう1試合が決まっていた。
(2連戦が決まっていた。)
試合後の控室で藤波辰巳がこの日程に異議を唱えた。
「…今日は俺の方がすまん。」
(猪木)
「ベイダーと#$@&$%*&%…」
(藤波)
「…え?」
(猪木)
「ベイダーとシングルでやらして下さい。
今日は僕、何もやってないです。
…もういい加減許して下さい。
もう時間もないです。
#&%@*+$。&%*+@#$
お願いします。」
(藤波)
「・・・・・・」
(猪木)
「はっきりいって下さい、猪木さん。
東京と大阪と2連戦無理ですよ、はっきりいって。
俺、自分が今日こんな形でね、いえる立場じゃないけど。」
(藤波)
「・・・・・」
(猪木)
「俺らは何なんですか!? 俺らは!!」
(藤波)
「命賭けれるかい? 命を。
勝負だぜ、お前。」
(猪木)
「もう何年続くんだ。
何年これが・・・」
(藤波)
「だったら破れよ。
なんで俺にやらすんだ、お前。」
(猪木)
「だったらやりますよ、俺が。」
(藤波)
「俺は前にいった、遠慮することはないって。
リング上は闘いなんだからよ。
先輩も後輩もない。
遠慮されたら困る。
なんで遠慮するんだ。」
(猪木)
「遠慮してんじゃないです!!
これが流れじゃないですか、新日本プロレスの、ね
そうじゃないすか!?」
(藤波)
「じゃ力でやれや、力で、あ?」
(猪木)
「やります!」
(藤波)
「やれんのか!? お前本当に!!」
(猪木)
直後、猪木が藤波に張り手。
藤波も張り手を返す。
「あぁ?」
(猪木)
「えぇ!」
(藤波)
「行けんかい?」
(猪木)
「やりますよ…やりますよ…」
(藤波)
そして藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。
「待て…待て…」
(猪木)
「こんなんなったら私やめますよ、この野郎。
お客さんちっとも喜ばないですよ。
俺、負けても平気ですよ!!
負けても本望ですよ、これでやるんだったら!!」
(藤波)
「やれや、そんなら!!」
(猪木)
「やります。」
(藤波)
「ああOK
俺は何もいわんぞ、もう
やれ、その代わり。」
(猪木)
「大阪で俺の進退賭けます。
賭けていいすか?」
(藤波)
「何だっていいや。
何だっていって来いや!!
遠慮する事ぁねえよ。」
(猪木)
「もういいです…」
(藤波)
「・・・・」
(猪木)
こうして藤波の革命を決起された。
その目標は「世代交代」、すなわち「猪木越え」だった。
数週間後、藤波は、ビッグバン・ベイダーに勝って、IWGPヘビー級王座を獲得。
その数か月、猪木は挑戦者として藤波に挑み、60分フルタイムの名勝負の末引き分けた。
藤波は新日本プロレスのエースとなり、1999年には新日本プロレスの社長に就任した。
政治へ
1969年から20年近くゴールデンタイムを死守してきた「ワールドプロレスリング」が、1988年3月でゴールデンタイムから撤退し、4月から土曜の午後4時の放送に移行した。
放送権料の減少からレスラーのファイトマネーダウンは明白だった。
しかもエースの猪木の衰えは顕著だった。
1989年2月22日、アントニオ猪木は、長州力のリキラリアートの連発に、完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
猪木は「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に、「スポーツ平和党」を結党した。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。
そして第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」