以下、アントニオ猪木の名言集です!!
「その気で来るなら俺は受けてやるぜー!
手前ぇらの力で勝ち取ってみろ、コノヤロー!」
長州力が、藤波辰巳(現:辰爾)、前田日明に世代闘争を呼びかけ、猪木に挑戦状をたたきつけたときのマイクアピール。
「いつ何時、誰の挑戦でも受ける。」
「実力至上主義」のプロレスの実現を目指していた猪木がいった言葉。
挑戦し続けた猪木がいうと重みが違う。
「元気ですか~
元気が1番。
元気があれば何でもできる。」
1989年に自ら立ち上げた政党「スポーツ平和党」から出馬したとき、街頭演説で、まず聴衆に語りかけたのが
「元気ですか~っ!?」
だった。
以後も元気がなくなってしまった世の中に喝を入れるため、使い続け、代名詞化し、
「元気があればホームレスもできる。」
など、さまざまなバリエーションもできている。
「この道を行けば
どうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば
その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ」
1998年4月4日 引退の挨拶にて。
元は、清沢哲夫(1921年1月26日 - 2000年1月20日、宗教家、哲学者、大学助教授、住職)の詩。
宗教にも詳しい猪木が、どこかで出会ったものと思われる。
「行くぞー
1、2、3、ダァー!」
上述の「道」から派生したのか、ブラジルで力道山にいきなり
「おい!裸になれ」
「よし、日本へ行くぞ!」
といわれ自分の人生が決まったからかわからないけれど、挑戦し続ける猪木にとって「行く」というのは、重要なキーワード。
危険な国での興行を発表したとき、『何で行くのか?』と問われ「危ないから行くんだ」と答えた。
「人生に花が咲こうと咲くまいと
生きてることが花なんだ。
生まれてきたことが花なんだ。」
金がなかったり、大病を患ったり、他人に認められなかったり、イジメられたり・・・
人は、ちょっと苦しくなると死にたくなる。
すべて順風満帆な人生なんてありはしないのに・・・
壁を越えるために、そして生きる意味を表現した言葉。
「馬鹿になれ!
とことん馬鹿になれ!
恥をかけ!
とことん恥をかけ!
かいてかいて恥かいて裸になったら見えてくる
本当の自分が見えてくる。
本当の自分も笑ってた。
それくらい馬鹿になれ!!!」
猪木の詩集にも収録された一編。
引退を賭けて戦い、小川直也に敗れた橋本真也に贈った詩としても話題になった。
「やる前に負ける事考えるバカいるかよ。」
坂口征二をパートナーに蝶野正洋・橋本真也とのタッグ戦前のインタビューで、アナウンサーに負けた場合について質問されたときのコメント。
コメントと同時に、いや少し早めに、猪木はアナウンサーをビンタした。
「何でもいい
どんなことでもいい
色んな体験をせよ
多少無茶でもいい
それで悪に染まっていく奴は、放っておいても悪くなるし
何をやっても、ぐれる奴はぐれる
ぐれない奴はぐれない
とにかくぶつかるのだ
そして1mmでもいい
前へ進め
夢に近づけ」
横浜で石炭問屋を営んでいた猪木の祖父はいっていた。
「何でもいいから、やるなら世界一になれ。」
エネルギーは、石炭から石油の時代になり、猪木一家はブラジルへ移住することになった。
祖父は、その渡航中に亡くなった。
猪木は、血糖値596、正常の5倍以上の糖尿病を患ったときもこういった。
「世界一元気な糖尿病になりました。」
「俺たちは皆、弱い意志を何とかつなぎ合わせて生きている。
鋼のような意志なんて誰も持ち合わせていない。
だから苦しい時、どん底の時こそ、過激に生きねばならない。
途中で逃げ出してはいけない。」
猪木や、一部の人間だけが、鋼のように強靭なような意志を持っているわけではない。
そんなものは誰も持っていない。
強い人間と弱い人間のわかれ目は、弱くなりかけた意志を必死に鼓舞し、努力、挑戦し続けることだと、猪木はいう。
「限界などない。
あるのは限界を口にしている自分だけだ。
ありもしない限界にこだわるな。
私に言わせれば「限界」なんて言葉はこの世にはない。
「限界」というから限界が出来るのだ。」
猪木は猪木を超えていく。
自分で自分の天井をつくってはいけない。
負けるかもしれないということは勝てるかもしれないということ。
やればできる・・・かもしれない.
ならやって損はない。
やってみよう。
「俺は夢の途中でギブアップなどしない。
どこまでも行動、行動だ。
力の限り突っ走れ。
己の目標に向かって、ゼイゼイと息切れするまで突っ走ってみろ。
やりたいこと、やらねばならないことに全力でぶつかれ。
途中で嫌になる。
しかし君だけが嫌になっているのではない。
そんなときはみんなもここらでやめたいと思っている。
その時どこまで頑張れるかに明日の勝利がかかっている。」
猪木は、基本的に口ではなく、行動の人。
常に何かに向かって行動し、その背中をみて多くの人が引っ張られている。
「人は誰でもハンディを背負って生きている。
走るのが人より遅い。
それだけでも長い人生においては大きなハンディとなる。
家が金持ちではない。
これも大きなハンディだ。
金があればたやすく実現することはたくさんある。
ハンディを糧として生きることが出来るか否か。
ここに人が人たり得るかどうかがかかっているような気がする。
俺だけではない。
みんなハンディを背負って人生をやってるんだ。
ならば、ハンディ大歓迎だ。
かかって来い。
俺の力で覆してやろうではないか。」
たくさんの苦労と我慢に耐えるだけでも大変で、それができる人間は尊敬に値する。
できない人もいるのだから・・・・
しかし猪木はそれだけではなく、その負のエネルギーを、自らの勝利のエネルギーにせよという。
逆境がなればなるほど燃えることができなければ、輝くことはできない。
「一生懸命にやっている人を小馬鹿にするのは、自分がかなわないから笑うことで逃げているのだ。
そうすることによって己のちっぽけな自尊心を満足させているに過ぎない。
男ならもっと堂々と張り合え。
俺の場合のみならず、この世の誰も、一生懸命に物事に打ち込んでいる人間を馬鹿にすることは許されざる行為だ。
格好をつけて、泥臭く頑張る人間を馬鹿にする奴もいるが、そんなことをする権利は誰にもない。
特にその経験をしていない奴、行動を起こす気もない奴が、無責任に勝手なことをいうのは言語道断だ。
結局、笑いたい奴には笑わせておけばいいのである。
いつか誰かが認めてくれるかもしれないし、もしそうならなくても、「俺はやり通した」という充実感がそこにあれば、それはそれでいいのだ。」
クールさが美徳とされる現在の社会で、格闘技の存在意義は「熱」だと思う。
強くなるために、一生懸命、汗をかく。
クールで経済、物質優先の社会で、すごく大事なことではないだろうか?
「派手に見えれば見えるほど裏で地道な努力をしているのがあらゆる世界のプロだ。
プロの世界で生きようとするなら楽に生きようとするな。
そう考えたら最後、プロにはなれない。
プロとしてやっていく方法。
それはどこまで地味な努力が出来るかということと、どこまでその職業に誇りが持てるかということだ。」
いかにも人前が好きで、派手なパフォーマンスが目立つ猪木だが、たくさんの人間が、猪木が黙々と練習し、忙しいときは道場から自宅にトレーニング器具を持ち帰る姿を目撃している。
大変な努力の人であり、ガマンの人なのだ。
「『おやめなさい』と言われて『ハイ、そうですか』と引き下がるような奴は男ではない。
何でもいい。
やりたいと思ったものはとことんやれ。
誰のための人生だ。
自分の、たった1人の自分のための人生ではないか。
自分が決めたことはやり通せ。」
インターネットの普及で、いろいろな情報が手に入り、その利便性が高まった。
しかし同時に決断力やそのスピードは落ちた。
「理性」が高まれば「野生」が衰えるように、人が優しくなりすぎる時代である。
こんな時代、なんの分野でも、カゲキなガンコモノは、孤独であるが、シアワセモノである。
「もう目一杯登りつめた。
俺がボスだと思っていても上には上がいる。
井の中のカワズだなと気づく。
今の古い井戸から更に広い井戸へと突き進む。
進んだ先が、例え井戸には変わりないとしても突進する。
それが男の生き様だ。
そして気づいたらいつの間にかビッグになっていた。
これでいいではないか。」
確かに猪木は、最強のチャレンジャーにしてビッグボスだ!
「俺はここまでやれた。
それは常に夢を持っていたからだ。
夢・・強い欲さえしっかりと持てば、君だって俺以上のことがやれる。
俺がやれたんだ。
君だって出来る。
やりたいことをさあ、やるんだ。
やり抜くのだ。」
プロレスラー、政治家、実業家、人生のホームレス、いろいろな肩書はあるけれど、猪木のなにか1つのことを追い求めている・・・ような気がする。
「よく他人のアラ探しをして悪口を言う奴がいる。
いいところを積極的に誉めないで悪いとこばかりを責める。
親にもこの手の馬鹿が多い。
子供の成績が悪いからといって結果だけ見てガミガミ言う。
胸に手を当てて自分の学生時代を考えてみろと言いたい。
1つ覚えで、勉強しろと言えば親の役目は済んだと思っている。
すぐ結果を見ようとするからアラ探しをするようになるのだ。
なにごとでも大切なのは結果までのプロセスである。
どのようにしてこのような結果が生じたか?
それを重視しなければならない。」
猪木は、悪いことはするけど、卑怯なことはしない。
そして基本的に弱い者の味方だ。
「女性が理想の男性像に求めるもののNo.1に挙げるものとして優しさがある。
だが彼女たちが求めているものは自分をコロコロと甘えさせてくれるような優しさなのだ。
いいコいいコとなでてくれさえすればいいのだ。
猫と一緒だ。
優しさとは強さに裏付けされなければ本物ではない。
アベック公園のたまり場で見られるようなじゃれあいなど本当の優しさではない。
強いから優しくなれるのだ。
弱いものに優しさはない。
それは優しさではなくじゃれあい、慣れあいだ。
強くなくては優しくなれない。
他人に、そして自分にやさしくなれるのは強者だけだ。
君よ、強くなれ。
肉体をそのためにまず作れ。
体が出来れば精神面も自然についてくる。」
強くなければ優しくなれない。
優しさは強さの中にあり。
(プロレスラー藤田和之選手の総合格闘技イベント『PRIDE』への参戦が決まった時)
「プロレスを守るな。
PRIDEを攻めろ!」
常に攻め。
猪木の基本。
「隠れてタバコを吸うのがいけないとはいわない。
どうしても吸いたいのなら吸えばよい。
しかし見つかったら退学する覚悟で吸え。
隠れてタバコを吸うと、スリル、イキがり、美味さなどが味わえる。
それに全てを賭け、学校側と闘い、発覚し、敗れたなら、いさぎよく退学することだ。
それが男のけじめである。
そんなこと犬死だというのなら最初から吸わねばよい。」
キレイごとは嫌いだけど、男は正々堂々としていろ!
猪木の男らしさ像は超硬派。
「人から石をぶん投げられてもいいじゃないか。
馬鹿だと嘲笑されてもいいじゃないか。
無一文になり明日から乞食をやってもいいじゃないか。
ズタズタになり、負け犬と言われてもいいじゃないか。
俺は、今、これをやりたいのだ。
やらねばダメな男になってしまう。
そう思ったらどんな障害をも乗り越えてやれ。」
猪木は夢を達成しようとする人の味方。
「私の甘さは、優しさなのだと、ある日気がついた。
もって生まれたこの優しさを俺は俺の中で育てよう。
そうするともっと大きな人間になれるかも知れない。
俺は闘うマシーンではないのだ。
燃える闘魂。
かっこつけさせてもらうなら優しいからこそ燃えるのである。
ところが今の若者のやさしさといったら何だ。
なよなよとした優しさだけがもてはやされる。
そんな優しさなんてくそくらえ。」
猪木の周りは笑顔があふれる!
「5の力を持つ対戦相手をひねりつぶすのは簡単だが、その相手を7の力にまで引き上げながら、こちらは8か9の力で勝ってみせるのだ。
引き上げる前にこちらが6の力で勝っても、お客は私が強いということをわかってくれない。
私に7、8、9、10の力があるというのを見せなければ意味がないのだ。」
いわゆる風車の理論。
「フラれた時は、その女の幸せを願って、一日も早くあきらめることだ。
俺が未熟だった、まだまだ魅力のない男だったと、そしてより光る男になるために体を動かせ。
運動していないのなら走れ。
全力でどこまでも走るのだ。
息の続く限り走って地べたに這いずってでも前に進め。
そうして限界がきた時、自分の汗を舐めてみろ。
ピリッとくるだろう。
このピリッが爽快感となってノドにおりていく。
実にいい味だ。
失恋の味だ。」
猪木は何度か結婚し、すべて浮気が原因で離婚している。
恋も行くしかない!
「ところで男と女、好きになるとセックスをする。
セックスは悪いことではない。
しかしセックスするからにはそれなりの知識を頭に詰めこんでいなければならない。
試験前に勉強するのと同じだ。
知識なしにただ好奇心でセックスすると女は妊娠してしまう。
女を妊娠させる男など最低だ。
お互いが合意の上ならいい。
計画したのならいい。
学業の途中、妊娠させるような男は男のクズだ。」
猪木には、寛子さんという娘がおられ、ミュージカル「アニー」でアニー役を演じた。
「男のケジメで坊主にしました。」
1986年5月21日 、写真誌に女性スキャンダルを掲載された猪木は、突然、坊主頭で登場し、周囲を驚かせた。
「ところで藤波の話に戻るが彼はイタズラ好きである。
うちでは1番ではないかな。
たとえば犬を埋めて首だけ出して動けないようにしてセッセとエサを運んでいる。」
藤波は16歳からずっと猪木の付き人をやっていた。
18歳のとき、猪木が仕事でアフリカに行くことになって、藤波も一緒に行った。
ジャングルのなかで20日間の予定でキャンプを張ったが、猪木は途中で
「急用ができたから先に帰る!」
といって日本に帰った。
海外旅行は初めての藤波は、マサイ族の中で1人になり、言葉もわからず身振り手振りだけで過ごし、なんとか独力で日本へ帰った。
しかし今でもどうやって帰ってきたのか覚えてないという。
どうにか帰ってきたとき、猪木はいった。
「やろうと思ったらできるだろ!」
「人は歩みを止め闘いを忘れたときに老いていく。
今こそ格闘ロマンの道を突き進め。」
1999年10月11日 橋本対小川戦のリングアナとして発言。
猪木がいなければ日本の格闘技は変わっていた。
猪木が行った異種格闘技戦に憧れた佐山聡や、猪木とは新旧の格闘王の間柄である前田日明が、日本の総合格闘技の始まりだった。
生まれてくる時代が違っていれば、猪木なら総合格闘技で世界チャンピオンになっていたかもしれない。
「道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ。」
Keep Smiling.
2000年1月4日 橋本組対vs小川組戦の立会人として。
「今、俺は人生のホームレスをやっております。」
2001年2月18日 新日両国大会にて 。
「俺の心はオープン24時間」
2002年1月4日 新日東京ドーム大会にて。
娘の寛子さんからの手紙の中に
「私の心は24時間開いているよ」
とあり、そこから取ったものと思われる。
(蝶野へ)「力があるから、チョーノー力。」
2002年2月1日 新日道立総合体育センター大会。
主力選手の退団騒動に揺れた新日本プロレス。
蝶野がリング上で猪木との公開討論を宣言し、「新日本の神」を呼び入れた。
猪木は、蝶野を新日の現場責任者に任命し、期待を込めていったダジャレである。
「できるかどうかは関係ない。
まず発表してしまうこと。
それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。
それがオレのやり方。」
1991年の猪木の東京都知事選出馬のきっかけは、ハッタリから出たものだった。
かつて猪木はソ連首脳陣に接触を図っていた。
そこで知り合ったバグダーノフ将軍らに、猪木は都知事の許可も得ずに鈴木東京都知事(当時)を連れてくると約束。
さらに勝手に佐川急便の中古のトラック100台をプレゼントするとも約束。
結局どれも果たせず、ソ連首脳陣から「嘘つき」呼ばわりされ、以後、「クレムリン出入り禁止」となった。
以後、猪木は鈴木知事を逆恨みし、おまけに猪木vsアリを茶番とけなしたNHKの磯村尚徳が東京都知事選立候補を表明。
猪木は都知事選出馬を決意した。