当時の寄せ書き
1973年秋~1976年 ヤマハ ポピュラーソングコンテスト
インベーダーは、メンバー2人を加えて5人組となると同時に、バンド名を「安全地帯」と改めました。そしてその年のヤマハ ポピュラーソングコンテストの北海道地区大会に出場し、優秀賞を獲得します。安全地帯の評判は、地元・旭川を中心に拡がっていきます。そしてついに、1976年10月、安全地帯はヤマハ ポピュラーソングコンテスト つま恋本選会に出場を果たし、その存在感を地元のみならず、北海道内へと拡げていきます。
同じくこの第12回に、なんと長淵剛も九州代表としてエントリーされています。
このコンテストに出場したことをきっかけにデビューしたアーティストは、
■1975年 八神純子
■1976年 渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃
■1977年 世良公則&ツイスト、安部恭弘
■1978年 佐野元春、長渕剛、円広志
■1979年 チャゲ&飛鳥、クリスタルキング
■1980年 きゅうてぃぱんちょす(杉山清貴&オメガトライブ)
■1981年 伊藤敏博、アラジン(高原兄)
■1982年 あみん(岡村孝子)
■1983年 TOM★CAT、辛島美登里
などそうそうたるメンバーです。スターの登竜門ですね。
第12回 ポピュラーソングコンテスト - ヤマハ音楽振興会
1978年 ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション
昭和53年 2月
新生・安全地帯は、旭川の郊外、永山にある廃屋を借り、安全地帯専用スタジオにリフォームし、MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション、「音楽を耕す農夫の集団」)と命名しました。当初は屋根と壁があるだけで、そこに水道を引き、床を張り、壁に防音材を詰めていました(周囲300m四方には家もなかったのに)。改装費用は500万円でほとんどが借金。このスタジオで安全地帯は連日連夜、曲作り、練習、デモテープ作りに励む(かたわらバイトに精を出す)。一日に7~8時間こもることも。
そして、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。
「音楽を耕す農夫の集団」
そして1978年11月、次のステップとして、東京への進出、プロデビュー考えていた彼らのもとへ、安全地帯のデモテープを聴いた、キティレコードのディレクター・金子章平が訪ねてきます。安全地帯の素直で洗練された音楽に可能性を感じた金子は、頻繁に旭川の彼らのもとを訪ねるようになります。
1981年 井上陽水のライブツアーのバックバンドに
金子章平が、自らがディレクターを務めていた井上陽水を連れて玉置の元を訪れ、彼らは井上陽水と数曲ほどセッションします。そして、その場で金子は、安全地帯を井上陽水のライブツアーのバックバンドとして起用することを決めるのでした。
『井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、こう振り返っています。
この時は自分達のデビューに向けたリハーサルも同時並行だったので、ほぼ丸二十四時間音楽漬けの生活を送っていました。こうして、安全地帯は、1982年2月に1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースするのです。
1982年 安全地帯 デビュー
1982年2月に、1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースした安全地帯は、自分達の作品作りをしながら、井上陽水のバッックバンドとしても活躍を続けます。井上陽水のツアーの合間をぬって、10月に2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を、翌1983年1月には1stアルバム『安全地帯ⅠRemember to Remember』をリリースします。しかし、残念ながら、セールスは芳しくありませんでした。