1994 FIFAワールドカップ後の出場停止期間中にリーガエスパニョールの下位2チームの監督に就任。最初のデポルティーボでは1勝5敗6分けで、2ヵ月で解任。古豪ラシンでは2勝3敗6分けで、ここは辞任。
栄えある代表監督に
感情むき出しの指導者
2004年の入院手術騒動後に落ち着き、2008年10月16日にアルゼンチン代表に、マラドーナは後任の座に自薦し、10月28日に代表監督就任となった。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となったスコットランドとの親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した。
W杯南ア大会予選
メッシを励ますマラドーナ
就任後初となる2010 FIFAワールドカップ・南米予選のベネズエラ戦には4-0で快勝したが、4日後のボリビア戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの叩かれた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった。2009年9月の南米予選ではブラジルに敗れ、アルゼンチンの34銭連続無敗記録が途切れたため、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。パラグアイに敗れてついに予選の自力突破圏内(4位以内)から落ちたが、10月のペルー戦ではパレルモのロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節のウルグアイ戦では得点1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた。
2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会
マラドーナ監督は、ピッチ内外での一挙手一投足がメディアの注目を集めた。グループリーグ初戦のナイジェリア戦は90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた。2戦目の韓国戦では1986 FIFAワールドカップでマンマークを受けた許丁茂監督と対戦することになり、試合前には相手を「テコンサッカー」と挑発した。韓国戦に続きギリシャ戦でも快勝し、グループリーグを3戦全勝の首位で通過。決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦はテベスの疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した。準々決勝のドイツ戦は試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのように、カウンターから立て続けに失点した。ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず、0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した。2010年7月27日に解任された。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった。
奇天烈エピソードの数々
ナポリSSCでのマラドーナの評価
1990年から1991年にかけて、麻薬使用や愛人問題、マフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、イタリアサッカー連盟から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を永久欠番とした。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている。
Jリーグへの移籍話
1991年にはJリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ、年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で入団がほぼ内定していた。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。
夢に終わったJリーガーのマラドーナ
リーガ・エスパニューラ
その後、FIFAが移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定。チケット売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒れた生活や怠慢な練習態度などからビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった。1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。
アルヘンチーノ・プリメーラ・ディビシオン
1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した。アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15ヵ月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。
空気銃を記者団に撃ち込む
逮捕されるマラドーナ
1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やカルロス・メネム大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった。
プレースタイルと戦術
選手時代のプレースタイル
身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で[92]ボディバランスと洞察力に優れ[93]、卓越したテクニックとパスセンスを持っている。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。
フロンターレ監督の風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った。
マラドーナのドリブルには着いていけない
指導者としての戦術
アルゼンチン代表監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、ボランチのマスチェラーノと共に守備を任せた。攻撃はメッシ、テベス、イグアインらの個人技による局面打開を目指した。攻守分担型で典型的な4-2-4のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い。ワールドカップ直前にUEFAチャンピオンズリーグを制したインテルの中心選手だったミリート、サムエルをほとんど起用せず、同じくカンビアッソやサネッティは招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった。
個人成績
1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し、歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録である。21試合で8得点8アシストを記録している。