台湾からやってきた救世主・呂明賜(ろ めいし)
呂 明賜(ろ めいし。現地読みはルー・ミンスー)。
1964年10月30日生まれ。台湾高雄市出身。
【個人データ】
・身長:178 cm
・体重:86 kg(入団時の体重は97kg。背番号「97」の由来とされている)
・投球・打席:右投右打
・ポジション:外野手、捕手

背番号「97」 呂明賜(ろ めいし)
【日本のプロ野球時代】
初出場:1988年6月14日
最終出場:1991年
【所属チーム】
・読売ジャイアンツ(1988年~1991年)
・味全ドラゴンズ (1992年~1996年)
・高屏雷公 (1997年~2000年)
1988年、台湾からドラフト外で巨人に入団
1988年、呂は台湾の中国文化大学から第3外国人選手として巨人に入団。
当時日本のプロ野球は 、1軍登録可能な外国人選手は2人までだった。
呂の入団時、巨人には投打で活躍していた2人の選手がいた。
投手はメジャーリーグでも名を馳せたガリクソン。打者ではバンザイと敬遠の球を打ったことでも有名なクロマティだった。
呂の出番はあまり無いものと思われていたが、意外にも早く出番が回ってきた。
主砲のクロマティが阪神タイガース戦でデッドボールを受け、右手の小指を骨折したのである。

呂明賜(ろ めいし)
そのクロマティの穴を埋めるべく呂は一軍に昇格。
するとすぐさま強烈なインパクトと共に結果を出した。
6月14日の明治神宮野球場の対ヤクルトスワローズ戦で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録したのである。
このインパクトは特大で、翌日のスポーツ紙の一面を飾ることとなった。

一軍で初打席初ホームランを伝える日刊スポーツ
デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(またデビュー17試合で10本塁打)と大暴れし、その年のジュニアオールスターゲームとオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場する。当時はオールスターゲームの外国人枠は2人だったが、急遽3人に増設されたほどであった。
前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の日刊スポーツコラムより)と評された。
後半戦は研究され、苦手の内角速球を攻められ、疲労もあり最終的には本塁打16本となった。
元々は捕手のため強肩で、同年にはライトゴロで打者を一塁アウトにした事がある。

1988年6月のヤクルト戦9回1死二塁、左越えサヨナラ2ランを放った呂明賜(ろ めいし)
≪野球ファンによる当時の回想≫
巨人に呂明賜という選手がいたそうですが、wikipediaで成績を見... - Yahoo!知恵袋

ベースボール・マガジン社の特集!
巨人に呂明賜という選手がいたそうですが、wikipediaで成績を見... - Yahoo!知恵袋

1989年4月発売、漫画家さいとう・たかをによる『呂明賜がゆく』
呂明賜(ろ めいし)のホームラン動画
1989年以降の呂 明賜(ろ めいし)
1989年以降は、故障していたクロマティが復帰したこともあり、一軍であまり活躍できなかった。
また、ガリクソン('89年)やマイク・ブラウン(1990年)といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続いた。
出場機会に恵まれないながらも、ファーム日本選手権MVPを獲得した。
そして、直後の1991年シーズンオフに巨人を退団した。

1989年からは背番号「12」
1992年からは母国リーグ中華職棒の味全ドラゴンズに入団。
持ち前の長打力を遺憾なく発揮。主力打者として活躍した。
1997年に台湾プロ野球が内部分裂し、台湾大聯盟に引き抜かれ、この際に中華職棒聯盟から永久追放処分を受けてしまう。
2000年まで高屏雷公でプレーした後に引退、以後指導者の道を歩み始める。
WBCや北京オリンピックの台湾代表チーム(チャイニーズタイペイ)の打撃コーチを務め、2013年には台湾代表チーム監督に就任した。
2014年仁川アジア大会では、韓国との決勝戦で惜しくも敗れ準優勝となったが、結果を残している。

呂明賜(ろ めいし)
鮮烈な印象を残し、日本球界をあっという間に去っていった呂明賜(ろ めいし)。
ストイックで無骨な印象があったが、笑うと意外に柔らかな表情をしていたのを覚えている。
当時の救世主ぶりは本当にすごかった。
オススメの特集記事
巨人で活躍した投手ガリクソン!息子の名前に「クワタ」と名付けた! - Middle Edge(ミドルエッジ)
米国から来たサムライ!ウォーレン・クロマティの心は日本人だった。 - Middle Edge(ミドルエッジ)