『タイソンを倒した男』ジェームス"バスター"ダグラス
元ボクシング世界ヘビー級王者、ジェームス・ダグラスと言っても知らない人は多いかもしれない。
だが、1990年2月11日に東京ドームで行われた世界タイトル戦でマイク・タイソンに初の黒星をKOで付けた男と言えば、「ああ~!あの!」と多くの人が覚えているのではないか。
あのマイク・タイソンをKOしたジェームス・ダグラス
史上最大の番狂わせと呼ばれるあの戦いで、なぜダグラスはタイソンに勝つことができたのか?
タイソンに勝ったのにダグラスはなぜ最強と呼ばれることはなかったのか?
そして、『タイソンを倒した男』は現在どのように過ごしているのか?
世界のトップに上り詰めながら、脚光を浴びることの少なかった悲劇のチャンピオンについて紹介していく。
タイソンを倒した『ジェームス・ダグラス』とは何者だったのか?
ジェームス・ダグラス(James Douglas)
1960年4月7日生まれ
アメリカ合衆国オハイオ州コロンバス出身
愛称:バスター(破壊者)
身長 :192cm、リーチ:211cm
アメリカのボクシングは、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソンなどのように貧しい黒人がギャングや貧困から抜け出すために拳ひとつで成り上がる、まさにアメリカンドリームの象徴であるとの印象が強い。
だが、そんな中にあってジェームス・ダグラスは生粋のボクシングエリートであった。
父ビリー・ダグラスはかつてミドル級の世界ランカーであり、その影響を受けて育ったジェームズがボクシングへの道を歩むのは当然のことだった。

幼少期から父にボクシングを習っていたジェームス・ダグラス
ボクシングのグローブのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
父 ビリー・ダグラス(Billy Douglas)
通算成績:41勝16敗1分け(31KO)
アマでナショナルチャンピオンとなり、27歳でプロデビュー。
40歳まで現役を続けた名ボクサーであった。
後にトレーナー兼マネージャーとなり息子・ジェームスを支え続けた。
ジェームス・ダグラスのデビューからタイソン戦まで
父の期待を背にプロボクサーへの道を進んだジェームス・ダグラスは、長いリーチを活かしたジャブと伸びるストレートを武器に勝ち星を重ねていった。
わずかな敗戦を経験しながらも、順調にランキングを上げていったダグラスにチャンスが訪れる。
1987年5月30日、空位となったIBF世界ヘビー級王座をかけてトニー・タッカーと戦うことになった。
試合内容
序盤からとばすダグラスは5Rと6Rにもタッカーを何度もグラつかせ終始試合をリードしていく。「イケる!」と確信したのか大振りになったダグラスはスタミナを失い、逆にカウンターを被弾することが増えていく。
そして、迎えた10R。タッカーのストレートをアゴに受けたダグラスは動きが止まる。
一方的に攻められ滅多打ちにあった姿を見たレフェリーは試合を止めた。
ダグラスにとっての初の世界挑戦
卓越した技術で終始追い詰めながら、ベルトは惜しくもその手からこぼれ落ちた。
ベルトを獲得したタッカーはそのわずか2ヶ月後の1987年8月1日、IBF世界王者としてWBA/WBC世界王者、マイク・タイソンとヘビー級史上初となる3団体世界王座統一戦に臨んだ。
マイク・タイソン圧倒的有利との前評判を覆し、196cmの長身とアマチュア仕込みのテクニックで善戦。
タイソンの剛腕パンチを巧みに躱しながら、時折右腕を回して挑発するなど観客を楽しませる見せ場も作り12Rまで粘ったが、判定0-3で敗れた。
3団体の統一チャンピオンとなったマイク・タイソンの栄光を横目に、ダグラスは再び世界挑戦のチャンスを手に入れる為、勝利を積み重ねていく。
1990年2月11日、東京ドームで実現したマイク・タイソン対ジェームス・ダグラス
鉄人・宇宙一強いと評されるマイク・タイソンとの世界タイトル戦が決定。
当時のタイソンは23歳。
10度の世界戦を含み37戦全勝(33KO)という完璧のレコードを誇っていた。
対するダグラスは既に29歳。戦績は35戦29勝(19KO)4敗1分1無効試合であり、日本では全くと言っていいほど無名なボクサーであった。
タイソンがスパーリングでダウンしたことがスポーツ紙などで報じられたものの、ファンの興味はタイソンが、ダグラスを何ラウンド、もしくは何秒でKOするかという一点に絞られていた。
アメリカでの勝敗オッズも成立せず、試合直前にはじき出されたオッズはなんと42対1であったという。
なお、この試合は日本で最も観客動員数が多いボクシング世界戦となった。
(5万1,600人)
序盤からダグラズの鋭い左ジャブに苦戦するマイク・タイソン
試合が始まるとタイソンの動きにキレがない。
ステップして飛び込もうとするが、ダグラスの鋭い左ジャブ、ストレートを浴びてしまう。
ダグラスは左ジャブから右ストレートを軸にタイソンの顔面へ何度もパンチをヒットさせていく。
踏み込みが鈍く、ダグラスの鋭いジャブに前進を阻まれるタイソンは、有効打を全く出せないままラウンドが経過していく。
次期挑戦者イベンダー・ホリフィールドも観戦に
次期対戦相手に決定しているイベンダー・ホリフィールドも来日し、試合をリングサイドで観戦していた。タイソンの思わぬ苦戦に「おいおい、大丈夫か」と言いたげな顔で試合を見ていた。
8R、タイソンがダウンを奪うも『疑惑のロングカウント』で救われたダグラス
序盤から手数においてはタイソンを圧倒していたダグラスに6R以降、疲れが見え始める。
それまで有効だった左ジャブもスピードが衰えていき、タイソンは簡単に躱していく。
だが、タイソンも大振りが多くダグラスを捉えきれない。
ここでダグラスは大きな判断ミスを犯す。
それまで突き放すか、クリンチで逃れていた接近戦を挑んでしまう。
好調時の鋭さは無くても、その距離ではさすがのタイソン。
ラウンド終了の5秒前、ダグラスの左ジャブを躱し、潜り込んでからバネのように体ごと突き上げた右アッパー。この一発でダグラスはダウンする。ようやく見せたタイソンらしいノックダウンに会場も大きく沸いた。
ダグラスのダウンカウント
ダウンし、悔しそうにキャンバスを拳で叩くダグラス。
なんとか立ち上がったところで、ラウンドが終了。
ダグラスは命拾いをした。
という、簡単な話ではなかった。
実はダグラスがダウンしてから、立ち上がるまでをカウントすると13~14秒ほど経過していた。
そして、この時のダウンがのちに「ロングカウント事件」として物議をかもすのだった。

予想外の挽回を見せるダグラス
ボクシングの試合のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
ゴングに救われたとはいえ、タイソンの強烈な一撃をくらったダグラスにもはや勝機は残されていないと試合を見ているほぼすべての人が思っていた。
だが、当のダグラスは非常に冷静だった。
「(ダウンから)立ち上がった時には足にきてもなかった。効いていなかったし、落ち着いていた。」と語っている通り、前ラウンドでダウンしたことが嘘のような動きを見せる。
9R開始直後は「倒してやろう」と突進したタイソンだが、序盤のように距離をうまく使い出したダグラスを捕まえきれない。
逆にラウンド終盤にはロープ際に追い込まれ、パンチの嵐を受けまくってしまう。
10R、史上最強と呼ばれたマイク・タイソンが逆転KOされる…
ダメージの残るタイソンはまるで別人のように無様なクリンチを連発。
対して、完全に復活したダグラスは突き放しては素早くワンツーを打ち放つ。
そして、その瞬間が訪れる。
潜り込もうとするタイソンを左ジャブで止め、先程のお返しとばかりに渾身の右アッパー。
タイソンの太い首がグラつく。
そこへ右左のフック。
のけぞったタイソンを追いかけるように右ストレートと左ストレート。
完璧なコンビネーションを叩き込み、タイソンはダウン。
完全にグロッキー状態のタイソンはふらつきながらマウスを拾って口にくわえて立ち上がる。
だが、無情にもレフェリーの10カウントが数えられ、鉄人マイク・タイソンは初の敗北を喫した。

マイク・タイソン衝撃のKO負け
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【動画】マイク・タイソン vs ジェームス・ダグラス
ジェームス・ダグラスはなぜマイク・タイソンに勝てたのか?

要因を考えていきたいと思う
ボクシングの試合のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
ボクシング史上最大の番狂わせと言われるこの試合。
宇宙一強いと言われたタイソンに、なぜダグラスは勝つことができたのか?
【要因1】すでにタイソンは凋落していた。
23歳とまだ若く、連勝も続いていたタイソンだが、この時には精神・肉体・技術の全てが既に凋落していた。
指導者カス・ダマトが死去してからタイソンは精神的支柱を失い、「絶対に手を組むな」と言われていたドン・キングに取り込まれてしまう。
それまでのトレーナーとマネージャーを更迭し、周囲にはイエスマンしかいなくなった。
私生活ではロビン・ギブンスとの結婚・破たんをきっかけに、自殺未遂騒動、交通事故、数多の訴訟とトラブルが続発。
練習は減り、体重は増え、スピードは明らかに衰えていた。
ダグラス戦の直前、タイソンの状態に気付いた周囲はトレーニングを課し、ドン・キングはダイエットにボーナス支給を約束する。
しかし、やる気のでないオーバーワークは試合直前のタイソンを疲労させただけだった。
当のタイソンはダグラスを見くびり、試合前夜においてもスパーリングと称しホテルで何人もの女性と楽しんだという。
派手なKOシーンのイメージからパンチ力ばかりが強調されたが、タイソンの強さは相手のパンチをことごとく躱すディフェンスにこそあると言う専門家も多い。
だが、一発当てれば倒せると傲慢になったタイソンはこうしたディフェンスを使うことが減っていく。タイソンは後年ダグラス戦を振り返り、「俺は楽な標的だった。全然頭を振っていなかった。」というコメントを残している。
【要因2】タイソン陣営(セコンド)のおそまつな対応
試合序盤からダグラスのパンチを浴びたタイソンの瞼は4~5Rには腫れてきていた。
だが、ラウンドが終わりコーナーに戻った時にセコンドが使ったのは【エンスウェル(金属の腫れ止め器具)】ではなく氷嚢であった。

エンスウェル
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氷嚢にも腫れを冷やす効果はあるが、腫れを目の外に逃がす効果はない。
エンスウェルを使ってもらえなかったタイソンの左目は6Rには視界をふさぐほど腫れあがり、ダグラスのパンチをより躱しにくくなってしまった。
タイソン自身もこの対応に不満があったと語っている。
【要因3】ダグラスがダウンした8Rのロングカウント
レフェリーのオクタビオ・メイランが、カウントを始めたのはダグラスがダウンしてから約4秒後。
通常、選手がダウンした時からリングサイドのコミッショナーがカウントを開始して、レフェリーはダウンさせた選手をコーナーに下がらせたあと、リングサイドのカウントを引き継いでカウントを始める。
つまり、このケースではカウント「4」から始めるべきカウントをなぜかカウント「1」から始めてしまったのだ。
この試合のジャッジを務めた森田氏は「あれは、故意ではない。ただ、あのレフェリーが試合前からアガッていたのは確かです」と後にコメントしている。
ダグラスが立ち上がったのはレフェリーのカウントでは「9」。
カウントが「4」から始まっていれば「13」。
つまり、正常なカウントがなされていれば、この時点でタイソンのKO勝ちになっていた。
【要因4】最高の仕上がりで臨んだダグラス
名ボクサーを父に持ち小さい頃からボクシング技術を教え込まれたダグラスは元々パワーとテクニックを兼ね備えた強豪ボクサーであった。
だが、比較的裕福な家庭に育ち大学まで進んだダグラスはハングリー精神に欠け、「どうしても勝ってやる」という強い気持ちが足りないと指摘されることもあった。
そんなダグラスであったが、このタイソン戦だけは違っていた。
偉大な父でさえ獲得できなかった世界タイトルを手にするチャンス、しかも相手は史上最強ボクサーと言われる男。
全てを賭けて臨もうとこれ以上ないモチベーションでトレーニングに励んだ。
そして、「タイソンに勝てるわけがない」と誰もが言う中、「いや、絶対に息子が勝つ」と周囲に言い放っていた最愛の母が試合の2週間前に病気で亡くなってしまう。
ダグラスには絶対に勝たなければいけない理由ができていた。
過去最高のトレーニングを積み、絶好調のコンディションで臨んだダグラスは自信に満ち溢れ、怖かったのはタイソンではなく、試合がキャンセルされることだったという。
試合が始まってもダグラスは引かない。
それまでタイソンと戦ってきた相手と違い、タイソンの強打を恐れず果敢に前へ出て行った。
対戦したタイソンも「あの日のあいつは勇気も根性もすばらしかった。こっちの強いパンチも入っていた。ほかのやつらだったらスペースシャトルまで吹き飛んだだろう。」とダグラスの強さを称えている。
タイソンに勝利するも、祝われることなかったダグラスの悲劇
最強のヘビー級ボクサーと言われたタイソンを倒して、一夜にして『最強』の称号を手にするかと思われたダグラス。
しかし、勝利したその日から彼の悲劇は始まっていた。
疑惑のロングカウントを巡って、タイソン陣営のドン・キングはWBCとWBAの関係者を呼びつけ、さらに記者会見を開き「8Rのダグラスのダウンで勝負は決まっていたから、10Rのタイソンのダウンは無効だ」と訴えた。
WBCはレフェリーがタイムキーパーからカウントを引き継がなかったとして、ダグラスの王者認定を一時保留にし、レフェリーのオクタビオ・メイランもミスを認めた。
また、マイク・タイソンも「結果に不平を言ったり、文句を垂れたりはしない。だが俺はKOされる前に相手をKOしていた。世界チャンピオンでいたい。みんなそれを求めている」とコメントした。
こうした流れによって、ダグラスの勝利は祝われることなく『疑惑の王者』とされてしまう。
あのタイソンに真っ向から挑み、そしてKOしたのは事実であるにも関わらず、その実力さえ疑われてしまった。
このロングカウント判定は法廷に持ち込まれ、最終的に「試合におけるレフェリーの裁定は最も重要だ」と判断され、ダグラスの王座獲得が認められた。
しかし、数ヶ月法廷闘争に明け暮れたダグラスは防衛戦の準備ができず、モチベーションも損なわれてしまっていた。
初防衛戦でイベンダー・ホリフィールドに敗れ王座陥落。そして引退。
1990年10月25日。
当初タイソンの防衛相手として予定されていたランキング1位、イベンダー・ホリフィールドとの指名試合を行う。
試合会場に立っていたのはタイソン戦とは別人のようなジェームス・ダグラスであった。
タイソン戦から約8か月で体重は大きく増加し、引き締まっていた肉体はたるみを帯びていた。
ホリフィールドはアマ時代にロス五輪で銅メダルを獲得。
プロ入りし手始めにクルーザー級を統一し、満を持してのヘビー級タイトルへ挑戦であった。
体重増で動きにキレのないダグラスは、1Rからホリフィールドにスピードで圧倒される。
タイソン戦で見せた積極的な姿勢もなく、攻め込まれるシーンが目立つ。
そして、迎えた3R。
劣勢を感じたダグラスが大振りのアッパーを振り上げた隙を、試合巧者ホリフィールドは見逃さなかった。
後ろに下がりながら躱すと矢のような右ストレート。
この一発でダグラスはダウン、タイソンの剛打を何度も何度も耐えた男は起き上がることができなかった。
この敗戦によって、「結局、ダグラスはまぐれでタイソンに勝っただけ」とダグラスの実力を評価する声は聞かれなくなった。
失意のダグラスは引退を表明。
『タイソンを倒した男』として臨んだこの防衛戦でのファイトマネーは2,400万ドル(約30億円)にも跳ね上がっており、巨万の富を既に手にしていたダグラスは「もう戦い続ける必要はない」と語ったという。
引退後、自堕落な生活で死にかけて復帰を決意
元々、メンタルの弱さを抱えていたダグラス。
働かなくても十分な富を築いた引退後は過食症とうつ病、さらにアルコール依存に。
体重は180kgを超え、血糖値に至っては800を超えた。
重度の糖尿病で1994年には昏睡状態に陥ったこともあった。
迫りくる死を体感したダグラスは、減量するため、そして人生をやり直すためにボクシングへの復帰を決意。
体重を110kg程度まで落として1996年6月22日、6年ぶりに現役復帰を果たした。
その後も、『タイソンを倒した男』の実力を見せ、復帰から6連勝を記録。
タイソンも服役を終えて1996年に復帰しており、再びタイソンvsダグラスの試合が組まれる可能性もあった。
この再戦について後年ダグラスは「体重を落として健康的な人生を歩もうと思っていただけで、タイソン戦は考えていなかった。」と語っている。
1998年6月25日、マイナー団体ながらIBAの世界タイトル戦に挑んだ。
IBAのタイトル戦に敗れたダグラスは、その後2試合を行いどちらも1RKOで勝利。
まだまだ、やれるところを感じさせたが1999年引退した。
前年に弟が事件で射殺され、彼を育てトレーナーとしても支え続けた父ビリーがこの年の10月に癌で亡くなったことが影響しているのではないかと推測されている。
(ダグラスのもう一人の弟も1981年に別の事件で射殺されている。)
ジョージ・フォアマンのように世界王座復帰とはならなかったが、ダグラスは「この復帰があったからその後の人生をポジティブに歩める様になった。復帰して良かったと思っている。」と振り返っている。
【ジェームス"バスター"ダグラス通算成績】
46試合 38勝(25KO)6敗1引き分け1無効試合
現在のジェームス"バスター"ダグラス
タイソンを倒し『バスター(破壊者)』の愛称で呼ばれたダグラスは現在、故郷のオハイオ州コロンバスで若いボクサーを訓練している。
息子のケビンとアーティもそこでダグラスからボクシングの手ほどきを受けている。
かつて父ビリーがジェームスにそうしてくれたように愛のある指導を行い、苦悩する時があっても「必ず良い日が来るよ」と自らが経験した栄光や挫折と共に伝えているという。
「私は素晴らしい時間を過ごしている。ここで彼らは私を愛し、私は彼らを愛し、人生を楽しんでいる。」とダグラスはインタビューに幸せそうな笑顔で語っている。
史上最強ボクサーと謳われたマイク・タイソンを倒しながらも、実力を評価されることなくリングを去った悲運のチャンピオン、ジェームス"バスター"ダグラス。
彼自身が獲得し得なかった『最強』の称号を、いつしか彼の息子や教え子が獲得するのかもしれない。
ちなみに…
マイク・タイソンとは数年前にボクシングのイベントで再会したが、法廷まで持ち込まれたロングカウント事件のわだかまりは完全には解けておらず、ほとんど会話が無かったという。

マイク・タイソン、ジェームス・ダグラス サイン入りグローブ
絶対必見!マイク タイソン ジェームス ダグラス... - ヤフオク!