選手時代のミシェル・プラティニは、まさに飛ぶ鳥落とす勢い
1976年のフランス代表デビュー戦(当時20歳)で有言実行のFKを決める
若きプラティニのフランス代表としてのデビュー戦は親善試合ではあるが、強豪のチェコスロバキア戦。
フランスが1-0で迎えた後半にフリー-キックのチャンスが巡ってくる。フリーキックの名手で、当時のフランスサッカーの大スターであるアンリ・ミシェルが、当然のごとくボールをキックポジションに置く。
代表としては新人のプラティニはアンリ・ミシェルの耳元で「絶対に入れるから蹴らせてくれ」と囁く。そしてプラティニのフリーキックは見事にゴールに吸い込まれていく。
「プラトニッシュ」誕生の歴史的瞬間である。

若き日のプラティニ
「プラトッシュ」は、将軍ナポレオン1世の剣にちなんで命名される
1976年のチェコ戦で決めたフリーキックは、以来ミシェル・プラティニの得意技として「プラトッシュ」と言われる。フランス革命後の動乱期に活躍したナポレオン・ボナパルトが所持していた伝家の宝刀「プラトッシュ;怒りの一太刀」が由来という。抜群のゲームメイク・センスとゴールの決定力だけでなく、ミッシェル・プラティニの繰り出すプラトッシュは、彼のフリーキックの代名詞となり、試合の重要局面で次々と得点を重ねた。

ナポレオン・ボナパルト
2度にわたるW杯:独vs仏、彼我の差
プラティニとフランスに立ちはだかるワールドカップ、悲運 西ドイツの壁 そして引退
1982年ワ-ルドカップ(スペイン)と1986年ワ-ルドカップ(メキシコ)はともに西ドイツにやられた。
スペイン大会準決勝では、ワールドカップ史上初PK戦となったが、4-5で西ドイツに敗北。4年後のメキシコ大会で準決勝で再び西ドイツと激突。1点のビハインドで迎えた後半、独GKのシューマッハの好守に阻まれ、さらにプラティニのゴールもオフサイド判定でまた敗退を余儀なくされる。どうしても西ドイツを崩すことが出来ない。フランスの前評判といえば、最大の優勝候補であり、「プラティニの大会」と言われていたが、結局は優勝したアルゼンチンとマラドーナの大会となってしまった。そのマラドーナはフランスとの直接対決を嫌っていたという。

西ドイツ、フランス代表には鉄壁
1983-84年シーズンから2シーズン連続のイタリア・セリエAで、ユベントスが優勝
1982年にユベントス入りしたプラティニ。序盤では持病のヘルニアで出遅れたが、翌1983-1984年シーズンで、イタリアリーグの最高峰;セリアAでスクデットを獲る。自らも20得点をあげ、2年連続の得点王となる。翌1984-85シーズンも18得点、さらに1985-86シーズンにおいても4年連続の得点王となる。こうしたセリエAで2年連続スクデットにフランス代表での活躍を評価され、1983年から3年連続のバロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手)に選ばれた。

バロンドールは、サッカー選手の夢
1984年 UEFA(欧州選手権)で優勝 まさにプラティニの大会

1984年のフランスチーム
プラティニは決勝のスペイン戦でも、伝家の宝刀=プラトッシュを決め、1984年のUEFA欧州選手権でフランス代表を優勝に導く。ベルギー戦とユーゴスラビア戦の両試合でハットトリックを決め、5試合で9ゴールをマークするなどMVPに相応しい。プラティニを中心に、名プレーヤーのジレス、ティガナ、フェルナンデスの4人で構成する攻撃的クァルテットは、「魔法の陣」と呼ばれ、相手チームから恐れられた。彼はこのクァルテットを武器に、ゲームメイカーとしても、点取り屋としても超一流プレイヤーとして活躍した。
将軍プラティニの史上最大の悲運=ヘイゼルの惨劇
プラティニの悲運といえば、「ヘイゼルの惨劇」に触れない訳にはいかないだろう
トヨタカップに先んじた1985年5月、ベルギー・ブリュッセルのヘイゼル競技場での試合開始前に事件は起きた。UEFAチャンピオンズカップの決勝戦。イタリア・ユベントスvsイングランド・リバプール。サポーター同士の小競り合いから暴動に発展し、死者39名重軽傷者600名を記録する史上最悪な大参事に。プラティニ自身も「人生最悪の試合」と嘆くほど。これはプラティニにもトラウマとなって、「人生が変わってしまった」と言うほどだったという。犠牲者の多数がイタリア人というから、イングランド・フーリガンの恐ろしさを改めて知った事件だった。
1985年暮れトヨタカップで史上初めての超美技ゴールは無効に オフサイド判定
1985年12月8日に開催されたトヨタカップ(現在のFIFAクラブW杯))の対決は、南米代表noアルヘンティノス・ジュニアーズvs欧州代表のユベントスの決戦となった。
試合そのものはPK戦までもつれ込み、結果的に4-2でユベントスの優勝となった。ここで指摘したいのは、千両役者プラティニの超美技といわれる幻のゴール。後方からのループパスを胸でトラップし、利き足の右足アウトサイドでボールを空中に浮かせながら、キックフェイントで相手ディフェンス陣の注意を惹きつけた。それを利き足でない左足でダイレクト・ボレーを強引に仕掛け、ボールは敵陣ゴール右隅に突き刺さる。百聞は一見にしかずで、動画を観て頂きたい。当年世界屈指の両チームで、超美技を繰り出すプラティニの底力にはまさしく鳥肌モノである。こんな大技は、文句なしにゴール判定すべきだ。
ともあれプラティニが伝説の男と言われる理由がここにはある。

スーパーゴールが幻に
偉大かつ悲運の将軍ミシェル・プラティニ
プラティニは翌年、世界のファンから惜しまれながらユベントスで引退

ユベントスのプラティニ
プラティニ、闘い終わっての弁
引退のきっかけは、イタリア・セリエAで、マラドーナのナポリ独走優勝を、プラティニのユベントスが阻止できなかったからだという。
サッカーの神:ジーコ、悪童:マラドーナでさえ一目置く存在であった。
1986年ワールドカップメキシコ大会で優勝したアルゼンチンの闘将キャプテンにして悪童エース:マラドーナは、予選段階から、トーナメントでフランスとの直接対決を避けた、といわれるほど、プラティニの布陣である四銃士(フランス代表の魔法の陣形)を警戒していた。

プラティニvsブラジル;黄金のカルテット@W杯メキシコ大会
プラティニ、あまりにも短い3年のフランス代表監督
1989年UEFA大会予選で、16勝3分け無敗記録で、世界最優秀監督に
1989年は世界史的にも、ベルリンの壁の崩壊に象徴される歴史的な年だが、ミシェルプラティニがフランス代表の16勝3分けの無敗記録を打ち立てるなどの功績で「世界最優秀監督」(ワールドサッカー誌)に選ばれる。しかし、1992年のUEFA(ヨーロッパ選手権大会)では、1勝も出来ず、責任をとって監督の辞任に至る。以降、プラティニが、クラブチームでも代表チームでも二度と再び監督のスーツを着ることもなかった。

ミシェル・プラティニのガッツポーズ
FIFA幹部としてのつまづきの始まり
嵌められたか、プラティニUEFA会長 兼 FIFA副会長

FIFA会議後の記者会見での一コマ
2015年5月、FIFAの汚職事件がイギリス紙サンデー・タイムスの報道で顕在化した。米国金融システム経由で送金がなされたとして、米FBIやICPO(国際警察機構)も関係各国の司法当局も動かざるを得ない状況となった。何しろ、ワールドカップの招致を巡っての巨額の資金で裏工作やワールドカップのスポンサー企業などへのあからさまな賄賂要求など全世界のサッカー協会を巻き込む一大スキャンダルが露呈。果ては副会長を含むFIFA幹部の逮捕につながり、ブラッターFIFA会長も辞任する事態に発展。FIFAやUEFAで数々の構造改革に挑んでいたミシェル・プラティニFIFA副会長兼UEFA会長も巻き込まれたか。当初は「間違ったことはしていない」と強気の態度であったが、聞き取りや捜査の進展に伴って、FIFA倫理委員会は、これらの汚職に関係したかどでブラッターFIFA会長とプラティニFIFA副会長に8年の活動停止処分を科した。プラティニは処分に不服で取り消し要求をしたが、活動停止期間の短縮は勝ち取るものの、処分自体の撤回はできなかった。「罠にはまった」との噂が取りざたされており、2015年会長選挙に出馬できないでいた。

逮捕されたFIFA幹部
FIFA汚職事件は非常に複雑で、収束の目途が今もたっていなくい程分かりにくい。だが、下図の通り米国司法当局が解き解してくれ、不正構造の全体像が明らかとなった。

FIFA汚職の構造
ミシェル・プラティニ万事休すか、それとも………復活するか、甦れプラティニ!!

ミシェル・プラティニの記者会見
2016年春に発覚したパナマ文書。租税回避:税金逃れをしたリストに、スペインバロセロナの現役スーパースターのリオネル・メッシなどとともにミシェル・プラティニの名前があがった。
折しも2015年にブラッター会長が一連の金銭スキャンダルの責任を取ってFIFA会長を辞任した。そこでプラティニFIFA副会長は突然有力な会長候補として名前が出る。
しかしFIFA副会長就任前にブラッター氏から個人的顧問料として約200万ユーロ(2億2600万円)を受け取っていたことが発覚。それが直接結びつくかは別にして、このパナマ文書によって、プラティニの隠し口座の存在が明るみに出る。プラティニは白か黒か?「嵌められた」という言い訳は通用しない。