伝説の1989年オリックス・ブレーブス『ブルーサンダー打線』
1988年末、阪急ブレーブスはオリエントリース(現・オリックス)に球団を身売りし、1989年からオリックス・ブレーブスとなった。
(後にブルーウェーブへ変更)
監督は上田利治が阪急から引き続き務めることになった。
また、同時に大阪を本拠地とした南海ホークスもダイエーに身売りし福岡へ移転することとなった。
当時南海の4番打者であった門田博光が関西への残留を希望し、阪急に引き続き兵庫県西宮市を本拠地とするオリックスに移籍することが決定した。
前年の二冠王・門田を4番に迎え、ブーマー・門田・石嶺という豪華な超重量級のクリーンナップを構成し、長打も放てる好打者・松永や、前年20本塁打と成長した藤井らを加えた強力打線を組んだ。
このオリックスの打線は、ブレーブスのチームカラー・ブルーと破壊力ある重量打線のイメージであるサンダーを重ね合わせ『ブルーサンダー打線』と名付けられた。

青に変わったユニフォーム
名前の由来はメジャーリーグのシンシナティ・レッズ
オリックスの『ブルーサンダー打線』は、アメリカメジャーリーグのシンシナティ・レッズの打線が1970年代に『ビッグレッドマシン』と呼ばれたことに倣ったものである。

『The Big Red Machine(ビッグレッドマシン)』
シンシナティ・レッズのユニフォームを見て「あれ?」と思った方、そうなんです。
日本のあの球団と似ているんです。

広島カープのユニフォーム(1989年~1995年)
1989年、第一次ブルーサンダー打線の特徴。
この打線の一番の特徴は、3番ブーマー(右)、4番門田(左)、5番石嶺(右)、6番藤井(左)と、本塁打を期待できる強打者を左右交互に並べることができた点である。
また、これに伴い前年までクリーンナップの3番を担うことの多かった松永浩美が1番に座り、打率の高さと盗塁を生かすことができた。

1989年のベストメンバー
1989年のDHは門田と石嶺を併用した。
センターには守備力の高い本西厚博が多く出場したが、熊野輝光、南牟礼豊蔵、山森雅文が起用されることもあった。
熊野は1985~87年にレギュラーとして活躍した選手であり、山森はアメリカ野球殿堂に顕彰されるほど守備力に秀でた選手であった。
1番サード、松永浩美

松永浩美(まつなが ひろみ)
2番セカンド、福良淳一

福良淳一(ふくら じゅんいち)
3番ファースト、ブーマー・ウェルズ

ブーマー・ウェルズ
4番DH、門田博光

門田博光(かどた ひろみつ)
5番レフト、石嶺和彦

石嶺和彦(いしみね かずひこ)
6番ライト、藤井康雄

藤井康雄(ふじい やすお)
7番センター、本西厚博

本西厚博(もとにし あつひろ)
8番キャッチャー、中嶋聡

中嶋聡(なかじま さとし)
9番ショート、小川博文

小川博文(おがわ ひろふみ)
エースは、星野伸之

星野伸之(ほしの のぶゆき)
星野は最速130km/hそこそこの速球に90km/h台のスローカーブ、110km/h前後のフォークボールという、先発投手としては非常に少ない球種で勝負する異色の投手だった。
球速の遅さにまつわる逸話として、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野のすっぽ抜けたカーブを捕手の中嶋聡が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった。
ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった。
球界屈指の強肩捕手である中嶋は1995年のオールスターで行われたスピードガン競争で146km/hを記録したほどであり、当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた…。
圧倒的な打撃力を誇るも、わずか1厘差で逃したリーグ優勝
ブルーサンダー打線と呼ばれた打撃力は、ブーマーが開幕から5試合連続で本塁打を放つなど序盤から威力を発揮、チームは開幕8連勝とスタートダッシュに成功し、6月終了時点で2位近鉄に8.5ゲーム差を付け独走状態となった。
しかし7月に入ると、ベテラン中心の投手陣に疲れが見え始め徐々に失速し、8月12日にはついに首位から陥落。
9月に持ち直し、近鉄・西武との三つ巴の激しい争いとなったが、最終的にはオリックスは72勝55敗3分、勝率.567で、71勝54敗5分、勝率.568の近鉄にゲーム差0.01で2位に終わった。
門田ハイタッチ脱臼事件
1989年9月25日の対ダイエー戦で、門田は3回裏に本塁打を打ち、ホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に右腕を脱臼。
登録抹消という最悪の事態は免れたが、残り17試合のうち8試合の欠場を余儀なくされた。
『ハイタッチで脱臼』という異色の事件は面白おかしく報じられたが、最終的にたった1厘差で優勝を逃したオリックスファンは、「門田の“脱臼事件”がなければ…」と悔やみまくった。
なお、テレビなどでブーマーの怪力によって門田は脱臼させられたと思われているが、もともと門田は入団1年目の1970年に、二塁走者として出ているとき帰塁の際に右肩を脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていた。
1984年4月14日の日本ハム戦でホームランを打った際のハイタッチでも右肩を脱臼している。
だが、まったく悪気がなかったブーマーはひどく落ち込み、以後ハイタッチを自粛した。

門田ハイタッチ脱臼事件
この1989年にパンチ佐藤が入団
当時の登録名は、佐藤和弘(さとう かずひろ)。
社会人野球の熊谷組を経て、1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。

ドラフト指名時のパンチ佐藤
1989年オリックス『ブルーサンダー打線』の打撃成績
打順 | 選手 | 打席 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
1 | 松永浩美 | 両 | .309 | 17 | 60 | 14 |
2 | 福良淳一 | 右 | .259 | 8 | 47 | 8 |
3 | ブーマー・ウェルズ | 右 | .322 | 40 | 124 | 2 |
4 | 門田博光 | 左 | .305 | 33 | 93 | 0 |
5 | 石嶺和彦 | 右 | .277 | 20 | 77 | 1 |
6 | 藤井康雄 | 左 | .292 | 30 | 90 | 3 |
7 | 本西厚博 | 右 | .302 | 5 | 33 | 8 |
8 | 中嶋聡 | 右 | .234 | 5 | 26 | 2 |
9 | 小川博文 | 右 | .247 | 5 | 32 | 7 |
上記9人だけで本塁打数は163本、打点582点。
打率も含め、満遍なく打ち、1番から9番のどっからでも点が獲れる途切れ目のない打線であった。
【1989年オリックス打線】
チーム打率:.278
チーム本塁打:170
チーム打点:647
【表彰選手】
新人王:酒井勉
首位打者:ブーマー・ウェルズ(.322、5年ぶり2度目)
打点王:ブーマー・ウェルズ(124打点、2年ぶり3度目)
最高出塁率:松永浩美(.431、初受賞)
最高勝率:星野伸之(.714、初受賞)
ベストナイン:
ブーマー・ウェルズ(一塁手、2年ぶり4度目)
松永浩美(三塁手、2年連続2度目)
藤井康雄(外野手、初受賞)
門田博光(指名打者、2年連続7度目)
ゴールデングラブ賞:
中嶋聡(捕手、初受賞)
松永浩美(三塁手、5年ぶり2度目)
本西厚博(外野手、初受賞)
1989年『ブルーサンダー打線』は歴代最強の打線なのか?
日本のプロ野球で歴代最強の打線はどこか?という話がでると、この1989年の『ブルーサンダー打線』は必ず候補に挙がってくる。
だが、実際の打撃成績だけで見ると各部門ともに飛び抜けた成績とまでは言えない。
100打点カルテット(井口、松中、城島、バルデス)が揃いチーム打率..297、チーム得点794を記録した2003年ダイエーの『通称:ダイハード打線』や、阿部・高橋・仁志・清水に各チームの元4番ローズ・小久保・ペタジーニ・清原を加えチーム本塁打:259を記録した2004年巨人の『通称:史上最強打線』には遠く及ばない。
※2003・2004年ともに試合数は130から140に増加している。
では、なぜ『ブルーサンダー打線』は最強打線のイメージが強いのか。
①二冠王+三冠王のインパクト
前年1988年に40歳にして二冠王に輝いた門田。
そして、1984年に三冠王を獲得しこの1989年にも二冠王となるブーマー。
二冠王+三冠王が並ぶ3・4番は絶大なインパクトを残した。
②圧巻だった開幕ダッシュの報道
開幕ダッシュに成功、6月終了時点で2位近鉄に8.5ゲーム差を付け独走したオリックス打線の凄さは連日大きく報道され、紙面には『ブルーサンダー打線』の文字がタイトルを多く飾った。
③プロ野球が輝いていた時代
テレビ中継の視聴率低迷によって、2000年以降は地上波での放送自体が減少している。
そのため、最強打線というと、清原・秋山・デストラーデらがいた1986年~1994年の西武黄金期や、バース・掛布・岡田を擁した1985年阪神など、プロ野球が輝いていた時代に活躍した打線の印象が強い。
いずれにしても、強烈なインパクトでプロ野球を盛り上げてくれたこの1989年の『ブルーサンダー打線』は私の中で忘れられない魅力的な打線である。
そして、この第一次『ブルーサンダー打線』がなければ、イチローや田口が活躍し1995・96年とリーグ連覇した時の打線が第二次『ブルーサンダー打線』と呼ばれることは無かったのである。