日本マラソン界に彗星の如く現れた天才ランナー、森下広一。
瀬古利彦、中山竹通と世界に通じるランナーを輩出した日本マラソン界に彗星の如く現れて、彼らでも成しえなかったオリンピックのメダル獲得を達成した森下広一。

森下広一(もりした こういち)
水泳部だった中学時代、才能が開花し始めた高校時代
船岡町立船岡中学校時代は水泳部に所属しながら駅伝に参加、3年次には中学駅伝・鳥取県大会の区間賞(6区)を獲得した。
鳥取県立八頭高等学校に進学後、陸上競技部に入部して頭角を現す。
家は山の中腹にあり、学校へは山道を上り下りして通学していたという。
3年次にはインターハイ予選中国地区大会の3000m障害において由良育英高等学校の岡田敦行とともに高校生として初めて9分を突破。
地元開催であったわかとり国体では、少年A1500mで8位、少年A10000mで6位と気を吐く。
しかしながら、深山晃、岡田敦行ら、兵庫県からの越境入学による国体強化選手を集めた由良育英の壁に阻まれ、都大路への出場は一度も叶わないままの卒業となった。
※都大路(みやこおおじ)とは全国高等学校駅伝競走大会の舞台となっている京都のコース。
高校卒業後、一旦は地元である船岡町での就職を予定していたが、旭化成陸上部から誘いを受けて入部することにした。

高校時代の森下広一
宗茂・宗猛の指導の下、急成長
1986年に旭化成へ入社した森下だったが、故障によって低迷が続いた。
しかし、故障を克服すると宗茂・宗猛の指導の下、たちまち駅伝でチームの核となる活躍を見せ始めるようになった。
1990年の熊日30kmロードレースで優勝。
トラックでは同年の北京アジア競技大会10000mで優勝して金メダル、5000mは銀メダルを獲得。
翌1991年、世界陸上東京大会では10000m決勝進出を果たすなど、若手トップランナーとして急激に注目を集め始めた。

宗兄弟(宗茂・宗猛)
双子のマラソンランナー宗兄弟
初マラソンで中山竹通との一騎打ちを制し優勝。
1991年、別府大分毎日マラソンで森下は初マラソンに挑んだ。
ソウルオリンピックで4位に入賞し、当時国内では無敵だった中山竹通(ダイエー)と激しい競り合いを繰り広げた。
森下と中山、二人がレースを引っ張り、終盤は二人だけの駆け引きに。
そして、ゴールまで2km程度になった39km過ぎで中山は「行ってもいいよ」と森下の肩をたたき、声を掛けた。
森下はそのままスパートし、中山を振り切り、2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録(当時)で優勝した。

森下の肩を叩く中山竹通
初マラソン日本最高記録を叩きだし、日本最強ランナーである中山竹通を破った森下は『有望な若手』から一気に瀬古・中山へ繋がれた『日本最速ランナー』を受け継ぐ後継者として報じられるようになる。
また、歯を食いしばり必死の形相で相手を追い込む森下の走りは、「ケンカ走法」と呼ばれた。
2度目のマラソンで、またしても中山竹通と激闘。
翌1992年、2度目のマラソンとして選んだのは東京国際マラソン。
ここで、またしても中山竹通と激しい競り合いを行うことになった。
中山は前回森下の肩を叩いた39km過ぎで猛烈なスパート!
森下との距離が一旦離れかける。
だが、森下も歯を食いしばって追いつく。
残り1kmで再び仕掛ける中山、必死の形相で食らいつく森下。
そして二人は並んで競技場へ…。
トラック勝負となってから森下は猛スパート、中山をグングン引き離し、優勝を飾った。
この勝負によって、中山との世代交代は鮮明となり、圧巻のラストスパートは『瀬古利彦の再来』と言われた。
この優勝で森下はバルセロナオリンピックのマラソン代表が決定。
オリンピックまでのマラソン経験数2回は、戦後の日本の男子マラソン代表では最も少ない数字である。
森下は「出る大会は必ず勝つ。戦って(オリンピック代表を)勝ち取るという気持ちだった」とコメントした。
バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得。
1992年7月25日、バルセロナオリンピックが開幕。
たった2回しかマラソンを経験していない森下であったが、中山を二度破った実力を疑うものは少なかった。
師匠の宗茂は「森下ほど試合で力を出しきる選手はいない。こういう選手に今後巡りあうことはないという気持ちだった。」と送り出した時の心境を話している。
前年の世界陸上マラソンで金メダルを獲得した谷口浩美、前回ソウルオリンピックで4位に入賞した中山竹通と3名の日本代表で臨んだ男子マラソンは過去最強の布陣とも言われ、メダル独占すら期待されていた。
優勝候補の一人、谷口が転倒により脱落。
迎えた8月9日、バルセロナオリンピック男子マラソン。
森下と同じ旭化成に所属する谷口は、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントに見舞われ優勝争いから脱落。
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中山も先頭集団から脱落、先頭集団は3人となり、さらに1人脱落。
35km地点で、トップは森下と韓国の黄永祚(ファンヨンジョ)。
二人の一騎打ちになった。
勝負の明暗を分けた『モンジュイックの丘』
38キロ地点から世界中を釘付けにした戦いが始まった。
そこは『モンジュイックの丘』と呼ばれ、3km続く急な登りとその後の急な下りはコース隋一の難所だった。
森下は、『モンジュイックの丘』では並走し、最後の競技場でトラック勝負をしようと考えていた。
だが、黄は森下の息が荒いことに気付き、下りに差し掛かると突如スパートをかけた。
意表を突かれた森下は付いていくことができなかった。
引き離された森下はそのまま黄に続いて2位でゴール。
五輪マラソンで男子がメダルを獲得したのは、1968年メキシコオリンピックでの君原健二の銀以来24年ぶりの快挙であった。
だが、宗茂は「なんで銀メダルなんだという悔しい気持ちの『ご苦労様』とだけ言葉をかけた」と後に語っている。
また、森下も「勝てるはずのレースに勝てなかった。今でもあのスパートをかけられるシーンは見たくない。」と話している。

対照的だったゴールシーン

ゴール後に倒れる森下広一
最終的な順位は、中山竹通がソウルに続き4位入賞。
転倒で後れを取った谷口も挽回し、8位入賞を果たした。
同じ旭化成に所属する先輩の谷口は「森下をずっと隣で見てきていた。金メダルを取るのは森下だろうと思っていた。森下を抑えられれば自分が金メダルを取れると思っていた。」と語り、「僕がちゃんと走っていれば、森下の優勝をアシストできたのに」と悔しがった。

銀メダルを手にする森下広一
将来を期待されたが二度とマラソンを走ることなく、引退。
金メダルを逃したとはいえ、日本に24年ぶりのメダルをもたらした森下はまだ24歳。
次のオリンピックも十分現役で活躍できる年齢であり、バルセロナオリンピック後に一線を退いた中山の後を継ぎ日本マラソン界を引っ張る最有力候補として期待された。
だが、精神力によって小さな体を限界まで酷使する森下の走りに、肉体は耐えていけなかった。
長年故障の克服に挑み続けたが、ついに4度目のマラソンを走ることなく1997年8月、29歳で現役を引退した。
怪我に泣かされた森下だが、精神面の弱さがバルセロナ以降に低迷した要因だと自らを語っている。
「内面の問題、周囲の環境をうまく処理しきれなかった自分が弱かった」
森下広一の全マラソン成績
年月 | 大会名 | タイム | 順位 | 備考 |
1991年2月 | 別府大分毎日マラソン | 2:08:53 | 優勝 | 初マラソン日本最高 |
1992年2月 | 東京国際マラソン | 2:10:19 | 優勝 | バルセロナ五輪代表選考会 |
1992年8月 | バルセロナオリンピック | 2:13:45 | 2位 | 五輪銀メダル獲得 |
森下がマラソンで負けたのはオリンピックでの黄永祚のみであり、日本歴代最速ランナーとも言われた中山竹通には3戦3勝であった。
初マラソンで優勝し、3回目で五輪銀メダルを手にした天才ランナーは、バルセロナ以降に一度もマラソンを走ることなく、その短すぎる選手生命を終えた。
それでも、『世界で勝てる男』と日本歴代ナンバー1のランナーに推す専門家は多い。
指導者になり、トヨタ自動車九州陸上部監督に就任。
1999年、トヨタ自動車九州陸上部監督に就任。
森下の指導により、チームは着実に力をつけ、全日本実業団駅伝への出場、クロスカントリーやハーフマラソンの世界大会代表を出すまでとなった。
2005年にはチーム初のトラック種目代表として、北海道・深川にて10000mの日本歴代3位・国内日本人最高タイムを記録した三津谷祐をヘルシンキ世界選手権代表へ輩出。
また、深川のレースで三津谷をアシストしたルーキー、サムエル・ワンジル(ケニア)はゴールデンリーグと呼ばれる国際主要大会の10000mで世界ランク上位に相当する26分41秒75をマーク。
約2週間後に行われた9月のロッテルダムのレースではハーフマラソンの世界記録(59分16秒)を樹立した。

森下広一とサムエル・ワンジル。
教え子、ワンジルが北京オリンピックで金メダルを獲得。
ワンジルは調整方針を巡って会社と対立し、2008年7月にトヨタ自動車九州を退社。
その翌月の北京オリンピック男子マラソンで金メダルを獲得した。

北京オリンピック男子マラソンで優勝したワンジル
森下が手にすることのできなかった金メダルを獲得したワンジルは、「森下さんはバルセロナ五輪で2位だったから『サム(ワンジル)には金メダルを取ってほしい』と言っていた。それを考えて走った。森下さんに金メダルを見せたい」と感謝の気持ちを述べている。
また、森下は「おめでとう。陸上部のメンバーとともに金メダルを取れると信じて応援していました。今後の力になる勇気を与えてくれたと感謝しています」とコメントを出している。
さらなる将来を期待されたワンジルであったが、その後は私生活で様々なトラブルにに見舞われ、2011年にケニア中部のニャフルルにある自宅のバルコニーから転落し、遺体で発見された。
鈍器で頭部を殴打されたような痕跡があったが死因は特定されていない。
森下は「びっくりしています。ケニアは若い選手がたくさん出てきているが、五輪はタイムだけじゃ勝てない。サム(ワンジル)は日本人のような我慢を持っていた。ロンドン五輪も期待していたので残念です。 」と悲痛なコメントを寄せた。
現在もトヨタ自動車九州 陸上競技部監督として後進を育成中。
森下は現在もトヨタ自動車九州 陸上競技部監督として、箱根駅伝で活躍した元祖“山の神”今井正人など、有望なランナーを育て続けている。

現在の森下広一

スローガンは『闘走走覇』
バルセロナオリンピックの森下以降、オリンピック男子マラソンでメダルを獲得した日本人は現時点で誰もいない。
いつか、森下の『ケンカ走法』を受け継いだランナーがオリンピックで金メダルを獲得することを私は願っている。
トヨタ自動車九州 陸上競技部