伝統の「逆転の報徳」
高校野球には伝統的に「逆転の○○」と呼ばれるチームがいくつかあります。例えば大阪では「逆転のPL」でしょうし、石川では「逆転の星稜」…と、それこそ、全国各地にこう呼ばれるチームがあると思うのですが、兵庫出身の筆者にとっては…やはり報徳学園。
少々古い話になりますが、昭和36年夏の1回戦、対倉敷工業戦で延長11回表に6点を取られて敗色濃厚。それからその裏に6点取り返して同点・・・そして12回裏にサヨナラ勝ち。この試合以来、報徳学園は「逆転の報徳」と言われる様になり、以降、報徳学園は高校野球史に残る大逆転劇を度々演じてきたのです。
「逆転の報徳」
ちなみに筆者は、高校時代兵庫県の高校で野球をしていたのですが、報徳学園はいつも地区大会の優勝候補だったたのですが、多少劣勢になっても「逆転の報徳」という伝統がある為、最後まであきらめない・・・という、実に嫌なチームだったと記憶しています。
さて、話がそれましたが、その「逆転の報徳」の中でも、皆様の記憶に強く残っているであろう昭和56年夏の早稲田実業対報徳学園戦について書いていきたいと思います。
甲子園のアイドル「大ちゃん」と…
荒木大輔選手は高校一年生の夏から名門・早稲田実業でベンチ入りを果たすと、準決勝で選抜準優勝した帝京を完封するなど活躍し、チームを甲子園に導きます。甲子園に出場すると初戦から決勝進出するまで4試合完封。決勝で、愛甲猛選手擁する横浜高校に4-6で敗れるものの、チームを準優勝まで導きます。
荒木大輔選手(高校時代)
この大活躍に加えて、その甘いルックスが相まって幅広い女性ファンから人気を集め、「大輔」が新生児の人気名前ランキングの1位になるという「大ちゃんフィーバー」と呼ばれる社会現象を生み、松坂大輔選手も荒木選手にあやかって名付けられたという事は有名です。
そんな絶大な人気を誇っていた荒木大輔選手が高校2年生の夏(1981年)、3回戦で早稲田実業は報徳学園と対戦します
金村義明選手(高校時代)
この年、報徳学園は春の選抜大会にも出場。この時は1回戦で、槙原寛己擁する大府高校に敗れていたものの、エースで四番の金村義明選手を中心とした高いチーム力を背景として優勝候補に挙げられていました。
甲子園史に残る激闘
戦前の予想ではバランスのいい早稲田実業の方が優勢との下馬評でした。試合が始まると、荒木大輔投手・金村義明が評判通りの好投を見せます。試合が動いたのは7回表。疲れが見え始めた金村選手に早稲田実業が連打を浴びせ3点を先制。続く8回に1点を取り合い、4-1と早稲田実業がリードして9回裏を迎えます。
報徳はこの回先頭の4番金村選手が荒木選手の足元を抜く痛烈な当たり。センターへ抜けるかと思われた打球をセカンド小沢選手がうまく回りこんでノーステップで一塁へ送球する好プレー。アウトかと思われたのですが判定はセーフ。これで気落ちしたのか、荒木選手が次西原選手に死球を与え1・2塁とすると、岡部選手が三塁線を破るタイムリーヒットで、報徳は1点を返して2-4。この後1アウトを取られ、1死2・3塁となった場面で報徳は代打の浜中選手を起用すると、またも三塁線を破るタイムリーヒットが生まれ、4-4と同点に追いつき延長戦に入ります。こうなれば追うものの強みなのでしょうか、報徳学園は10回裏にサヨナラ勝ち。そのホームを踏んだのは、金村選手でした。実は、10回裏に打席に入った金村選手は荒木選手に対して「勝負」と叫び、それに荒木選手が頷いたという逸話が残っています。更に、金村選手は試合後「顔では負けるけど、野球では絶対負けんと思うてました」という言葉を残しており、当時話題になりました。
熱闘・その後
東の横綱・早稲田実業を下した報徳学園は、この大会優勝を果たすのですが、準々決勝の対今治西高校戦3-1。準決勝の対名古屋電気戦3-1。決勝の京都商戦は息詰まる投手戦で終盤まで0-0で進み、報徳学園が7回裏、8回裏に1点ずつ得点して、2-0と、激戦を制しての優勝でした。
優勝を果たして
荒木大輔投手は報徳に敗れた後、3年生の春・夏と甲子園に出場。実に高校1年生夏から五季連続で甲子園出場を果たします。1年生の夏で準優勝を果たして以来、優勝は悲願でしたが、高校3年生の夏の準々決勝では畠山準選手や水野雄仁選手らを擁する徳島・池田と対戦。「やまびこ打線」と称される巨力打線につかまって荒木選手はKO。続くリリーフ投手も打たれ、終わってみれば2-14という大差をつけられて、早稲田実業は敗れるのです。
この池田高校対早稲田実業の試合は後に「高校野球史の歴史を変えた」と言われ、ファンの間に強く残っている試合です。
金村選手・荒木選手の今
金村義明選手は近鉄への入団直後に内野手へ転向。「いてまえ打線」と呼ばれた打線の中軸として活躍。その後獲得したFA権を行使して中日に、移籍します。三塁のレギュラーとして起用されたのです、故障で戦線を離脱すると、外国人選手(ダネル・コールズやレオ・ゴメス)に定位置を奪われたことから、期待されたほどの成績を残せませんでした。1997年の開幕直後、トレードで西武ライオンズに移籍。すると、一塁手や指名打者として一軍公式戦に起用されると、勝負強さを発揮してリーグ優勝に貢献しました。
野球解説者として活躍中の金村義明さん
1999年に現役を引退すると、野球解説だけではなく、高校時代から「顔では負けるけど、野球では絶対負けんと思うてました」という言葉を残していた、そのユーモアあふれるキャラクターを生かしてバラエティー番組でも活躍しています。
野球解説者として活躍中の荒木大輔さん
荒木大輔選手は1982年秋のドラフト会議でと読売ジャイアンツが1位指名し競合、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団。(当初、荒木選手はは早稲田大学への進学を希望していました)3年目の1985年シーズンの後半から先発ローテーション入りし、1986年には開幕投手を務めるなど順調なプロ生活を送っていましたが、1988年シーズン中盤にヒジ痛を発症。そのごひじ痛だけではなく椎間板ヘルニアにも悩まされました。怪我から約4年後の1992年シーズンに1541日ぶりの一軍登板。激烈な優勝争いの中、荒木選手が2試合に先発し2勝を挙げたのは大きく、ヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝を果たすのです。1995年に現役を引退後、西武・ヤクルトでコーチを務め、現在は野球解説者として活躍されています。