パンサーズ、アイヴィーズそしてバッドフィンガー
The Iveys
バッドフィンガーの前身は1961年に結成されたパンサーズ (The Panthers) というバンドです。
その後、アイヴィーズ (The Iveys) とバンド名を変え、1968年11月にザ・ビートルズのアップル・レコードから「メイビー・トゥモロウ」でデビューしました。
残念ながら、このデビュー曲はヒットしなかったため、翌1969年のファースト・アルバム「メイビー・トゥモロウ」はイタリア、西ドイツ、日本のみの発売でした。
デビュー時のメンバーは、ピート・ハム(ギター,ピアノ)、トム・エバンズ(ギター、ベース)、マイク・ギビンズ(ドラムス)、ロン・グリフィス(ベース)の4人です。
アイヴィーズ「メイビー・トゥモロウ」
その後ロン・グリフィスが脱退し、代わりにジョーイ・モーランドが加入してバンド名を「バッドフィンガー(Badfinger)」に改名します。
そして1969年にポール・マッカートニープロデュースによるアルバム「マジック・クリスチャン・ミュージック(Magic Christchan)」を発表。ポール・マッカートニーが作詞・作曲したシングルカットの「マジック・クリスチャンのテーマ(Come And Get It)」が全米トップ10に入る大ヒットとなりました。
因みにこの曲はリンゴ・スター出演の映画のテーマ曲として使われています。こうした関係もありザ・ビートルズの弟という見られ方をされていました。
アップル・レコード時代
本来であれば、前身バンドのアイヴィーズがアップル・レコードからデビューした時点でラッキーといえます。
しかし、そう言い切れないのは、当時のアップル・レコードはいくつもの問題を抱えており、就任したばかりの社長(アラン・クレイン)が会社の財政状況の調査が終わるまでザ・ビートルズ以外の作品のリリースを延期してしまったのです。
アイヴィーズのファースト・アルバム「メイビー・トゥモロウ」がイギリス、アメリカで発売されなかったのはこうした理由からで、まったく不運という他はありません。
アルバム「メイビー・トゥモロウ」が素晴らしい出来であったことは、バッドフィンガーとして1970年にリリースされたファースト・アルバム「マジック・クリスチャン・ミュージック」に「メイビー・トゥモロウ」から7曲も再収録されていることからもわかります。
マジック・クリスチャン・ミュージック
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更に1970年にはセカンド・アルバム「ノー・ダイス」もリリース。
シングル・カットされた「嵐の恋(No Matter What)」が全米8位となるヒットを記録しました。
また、後年ハリー・ニルソンやマライア・キャリーがカバーし大ヒットした「ウィズアウト・ユー」はこのアルバムに収録されています。
ノー・ダイス
苦労のかいがありアルバムも発売されヒットもし、さぁ次はアメリカ・ツアーだということで、ニューヨークで評判のスタン・ポリーというマネージャーとバッドフィンガーは契約します。
しかし、このマネージャー、実は犯罪組織とつながりがあり、極秘にひどい契約を結ばされておりバッドフィンガーは利益をむしり取られることになります。
この当時のバッドフィンガーは人気が高まっていたこともあり、実力もありで、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ジョン・レノンといった元ザ・ビートルズ・メンバーのレコーディングに参加しています。
そして、1971年には3枚目のアルバム「ストレート・アップ」がジョージ・ハリスンとトッド・ラングレンプロデュースのもと発売されます。
「ストレート・アップ」は商業的に最も成功したアルバムとなり、代表曲である「デイ・アフター・デイ」が収録されています。
ストレート・アップ
「ストレート・アップ」が売れたといっても稼ぎ頭であったザ・ビートルズが解散したことで、この当時のアップル・レコードは財政的に非常に混沌としていました。
マネージャーのスタン・ポリーは新たなレコードレーベルを探しており、そのことを知ったアップル・レコードとの関係はこじれてしまいます。
そんな中、4枚目のアルバム「アス」のセッションが1972年9月から始まり、なんと9カ月にも及んでいます。
その間にマネージャーのスタン・ポリーはワーナー・ブラザースと百万ドル以上の大型レコーディング契約交渉をしています。
その結果、ワーナー・ブラザースからのアルバム・リリースはアップル・レコードから合法的な処置で妨害されることとなり、アルバム「アス」はアメリカでは1973年にリリースされたものの、本国イギリスでは様々な理由をつけられ1974年5月まで発売を延期させられてしまいました。
しかも、アップル・レコード最後となるアルバム「アス」のジャケットは、バンドをロバに見立て巨大なニンジン(ワーナー・ブラザースとの巨額な契約にひっかけている)につられるという皮肉的なデザインにさせられています。
ご丁寧なことにアルバム・タイトルに「Ass(尻)と付けられて。
アス
ワーナー・ブラザース時代
ようやくワーナー・ブラザースに移籍したものの、ワーナー・ブラザースとの契約は1974年に2枚のアルバムをリリースするというものだったため、アップル・レコードとの契約が残っていたため本国イギリスでは1年間に2つのレーベルから3枚のアルバムをリリースするはめになってしまいます。
結局プロモーションされることもあまりなく、セールス的にも落ち込んでしまいます。
そんな波乱の幕開けとなったワーナー・ブラザース移籍第一弾となったのが、アルバム「涙の旅路(Badfinger)」です。
「アス」の録音終了から6週間後にスタジオに入り制作にとりかかっています。
このアルバムからは、「Love Is Easy」がイギリスで、「I Miss You」がアメリカでシングルになりましたが、共にヒットはしませんでした。
涙の旅路
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アルバム「涙の旅路」は、悪くはない!決して悪いアルバムではありませんが、POPなキラー・チューンがないことも事実で、全体に地味な印象です。
しかし、このアルバムがヒットしなかった理由には、アップル・レコードでお蔵入りとしていた前作にあたる「アス」をこの時期にぶつけてきたことがあげられます。
結果、このアルバムは本国イギリスでは注目されることはありませんでした。
それにしても、この「涙の旅路」のジャケットは素晴らしいです!
とってもオシャレですね。
そして、バッドフィンガーはアメリカ・ツアー終了後、6枚目のアルバム「素敵な君(Wish You Were Here)」のレコーディングを開始します。
なんともすごいスケジュールですね。
素敵な君
「素敵な君」は、前作に引き続きプロデューサーはクリス・トーマスで、クリス・トーマス自身も作品の出来に満足したというほどの名盤です。
アルバムは、ウキウキする「Just A Chance」からはじまり、マイク作の名曲「Your So Fine」、ジョーイ作の「Got To Get Out Of Here」、ミカ(元サディスティックミカバンドでクリス・トーマス夫人)の妖しい日本語が入った「Know One Knows」など充実しています。
しかし、名盤であるこのアルバムも数々のトラブルで前作と併せて市場から消えてしまいます。
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ヒットはしなかったもののアメリカでの「素敵な君」に対するアルバム・レビューは好意的だったとされています。
しかし、セールスの低迷という問題とは別に、バッドフィンガーはマネージャーのスタン・ポリーによる横領という金銭トラブルを抱えていました。
危機を感じ取ったジョーイの妻はスタン・ポリーとの完全な契約破棄を進言しましたが、他のメンバー、特にスタン・ポリーを信じ切っていたピートを説得することは出来ませんでした。
ピート・ハム
「素敵な君」のリリース直後の1974年12月から次作「Head First」のレコーディングが開始され2週間で完成させました。
しかし、この時期マネージャーのスタン・ポリーが管理していた10万ドルが消滅しているということが発覚し、ワーナー・ブラザースはバッドフィンガーの管理会社とスタン・ポリーを訴える準備をしていたため、このレコーディング・テープの受け取りを拒否します。
新作が発表できないことに加え、ワーナー・ブラザースからの金銭に関する問い合わせにマネージャーのスタン・ポリーは回答を拒否したため、1975年前半にはレコード店からバッドフィンガーのレコードは全て引き上げられてしまいます。
そもそもバンド゙・メンバーの給料は、スタン・ポリーがコントロールしている会社を通して支払われているもので、収益に対し酷く不充分なものであったといわれていますが、ワーナー・ブラザースから訴訟が起こされると、スタン・ポリーはその少ない給料の支払いを止めてしまいます。
因みに、お蔵入りとなった「ヘッド・ファースト(Head First )」は、2000年に発売されました。
ヘッド・ファースト
そして悲劇が起こります。
最後までスタン・ポリーを信じていたピート・ハムもスタン・ポリーの不正を知ることとなり絶望してしまい、間もなくガールフレンドに子供が生まれる予定だったにも関わらず、1975年4月23日ガレージで首つり自殺をしてしまいます。
その際に、以下の遺言が残されています。
アンナ、愛している。ブレア、愛している。でも、ぼくがみんなを愛し信じることは許されないだろう。このほうがいいんだ。ピートより。
追伸:スタン・ポリーは血も涙もない下衆野郎だ。あいつを道連れにしてやる。
ピート・ハムの死後
ピート・ハムの死によって解散状態にあったバッドフィンガーですが、ジョー・タンシンをボーカルに据えジョーイとトムによりバッドフィンガーが再結成されアルバム「ガラスの恋人」が発売されました。
ガラスの恋人
ジョー・タンシンは、「ガラスの恋人」のレコーディング終了後に脱退してしまいます。
アルバムは商業的な成功を収めることはなく、バッドフィンガーは新たなレコード会社と契約し次作「セイ・ノー・モア(Say No More)」の制作にとりかかります。
セイ・ノー・モア
アルバム「セイ・ノー・モア(Say No More)」発表後、トム・エヴァンズとジョーイ・モーランドは意見の違いから別れてしまい、それぞれバッドフィンガーを名乗ることになります。
そして対立したトムとジョーイは名曲「ウィズアウト・ユー」の利権を巡って訴訟へ。
1983年11月19日には、訴訟に疲れ果てたトム・エヴァンズはピート・ハム同様に自宅の庭の木で首吊り自殺してしまいます。
あまりにも悲しいですね。
こうして悲運のバッドフィンガーの歴史は終わりを遂げました。
但し、ジョーイは現在も「ジョーイ・モーランズ・バッドフィンガー(Joey Molland's Badfinger)」として活動を続けています。