『象をも倒す』と称された世界ヘビー級王者、ジョージ・フォアマン
1973年、ボクシング統一世界ヘビー級王座を獲得。
『キンシャサの奇跡』でモハメド・アリに敗れ、その後28歳の若さで引退。
1987年に突如復帰し、45歳で世界ヘビー級王者に返り咲いた伝説のチャンピオン、ジョージ・フォアマン。
ジョージ・フォアマン(George Foreman)
貧しい家庭に育ち、手の付けられない不良だった少年時代のフォアマン
ジョージ・フォアマンは母、継父と6人の兄弟姉妹の家庭で育った。
ガス代や電気代にも困るような貧しい家庭で、一つのハンバーガーを8つに分けて食べることことがご馳走であった。
そうした環境下でフォアマンは手の付けられない不良少年になっていく。
近所の人を恐喝して金を巻き上げるような有様で、中学校すら卒業しなかった。
だが、偶然テレビで目にした『君にもセカンドチャンスがある!』という職業訓練への呼びかけに参加することにした。
1度目の参加では誰とでも喧嘩ばかりしていたフォアマンだったが、2度目の参加でボクシングと出会い更生していった。
1968年、メキシコオリンピックでボクシング金メダルを獲得。
ボクシングと出会ったフォアマンは才能を開花。
身長192cm・リーチ202cmの当時としては恵まれた体格と圧倒的なパンチ力を武器に対戦相手を次々と破り、メキシコオリンピックで金メダルを獲得。
当時19歳、ボクシングをはじめてたった2年足らずでの出来事だった。
※五輪ボクシングは1984年のロサンゼルス大会からヘッドギア着用を開始しており、それまではパンチ力のある選手に有利に働いていた。
2016年リオデジャネイロ五輪の男子ボクシングは32年ぶりにヘッドギアなしで行うことが決定している。
プロ転向後、破竹の勢いでKOの山を築く。
オリンピック金メダリストとなったフォアマンは、即プロに転向。
1969年13連勝(11KO)、1970年12連勝(11KO)
1971年5月10日、NABF北米ヘビー級王座を獲得。
1972年5月11日、パンアメリカンヘビー級王座を獲得。
※どちらものちに返上
一度も負けることなく、世界王座へ挑戦することになった。
ここまで37戦全勝(33KO)
しかも、3ラウンド以内のKOが27回もある。
後に『フォアマン方式』と呼ばれる格下相手のブッキング
フォアマンのマネージャー兼トレーナーであるディック・サドラーは、神経質でメンタルに弱さを抱えるフォアマンの気質を熟知していた。
そこで、ジョージ・フォアマンが必ず勝てる相手を捜してはマッチメークし、後にフォアマン方式といわれたマネージメントでフォマンに強固な自信を付けさせていった。
(日本では亀田三兄弟が同様のマッチメークをしたことで亀田方式とも言われている。)
オリンピック金メダリストの実力と、プロでの自信を兼ね備えたフォアマンは遂に統一世界王座に挑戦する。
若き日のジョージ・フォアマン
ジョー・フレージャーを2RKOで倒し、統一世界ヘビー級王座を獲得。
1973年1月22日、統一世界ヘビー級王者ジョー・フレージャーに挑戦。
フレージャーはこの時点で29戦全勝(25KO)、モハメド・アリを判定で倒すなど4度の王座防衛に成功しており当時最強と呼ばれたチャンピオンであった。
(NYSAC世界ヘビー級5回防衛を合わせると9度の防衛全てに成功)
ジョー・フレージャー(Joe Frazier)
『キングストンの惨劇』と名付けられた戦慄のKO
卓越したディフェンスでフォアマンの強打を巧みに躱すフレージャーであったが、リーチの長いフォアマンに突き放され、パンチを掻い潜り中に入るとショートアッパーが待ち受けていた。
なすすべもなく一度目のダウンを奪われ足が止まったフレージャーは、フォアマンの容赦ない豪打を浴び続け2Rで計6度のダウンを喫し、王座を奪われた。
モハメド・アリにも勝利し絶対王者と言われていたフレージャーが6度もキャンバスに転がされてしまった試合は会場の地名をとって『キングストンの惨劇』と名付けられた。
ともにオリンピックの金メダリスト、全勝かつ高KO率を誇る両者の戦いは接戦も予想されていたがフォアマンの圧勝に終わった。