【ジョージ・フォアマン】45歳で世界ヘビー級王者に返り咲いた伝説のボクサー

【ジョージ・フォアマン】45歳で世界ヘビー級王者に返り咲いた伝説のボクサー

象をも倒すといわれたパンチ力で最強と呼ばれながら『キンシャサの奇跡』でモハメド・アリに敗れたジョージ・フォアマン。 一度は引退するもカムバックを果たし、20年ぶり45歳で世界ヘビー級王者に返り咲いた伝説のボクシング王者について栄光から挫折そして復活の経歴、モハメド・アリやマイク・タイソンとの比較、ヘビー級最強説を紹介。


『象をも倒す』と称された世界ヘビー級王者、ジョージ・フォアマン

1973年、ボクシング統一世界ヘビー級王座を獲得。
『キンシャサの奇跡』でモハメド・アリに敗れ、その後28歳の若さで引退。
1987年に突如復帰し、45歳で世界ヘビー級王者に返り咲いた伝説のチャンピオン、ジョージ・フォアマン。

本名:George Edward Foreman
1949年1月10日生まれ
アメリカ合衆国テキサス州マーシャル出身。
身長:192cm
リーチ:208cm
通称:ビッグ(BIG)

ジョージ・フォアマン(George Foreman)

貧しい家庭に育ち、手の付けられない不良だった少年時代のフォアマン

ジョージ・フォアマンは母、継父と6人の兄弟姉妹の家庭で育った。
ガス代や電気代にも困るような貧しい家庭で、一つのハンバーガーを8つに分けて食べることことがご馳走であった。

そうした環境下でフォアマンは手の付けられない不良少年になっていく。
近所の人を恐喝して金を巻き上げるような有様で、中学校すら卒業しなかった。

だが、偶然テレビで目にした『君にもセカンドチャンスがある!』という職業訓練への呼びかけに参加することにした。
1度目の参加では誰とでも喧嘩ばかりしていたフォアマンだったが、2度目の参加でボクシングと出会い更生していった。

1968年、メキシコオリンピックでボクシング金メダルを獲得。

ボクシングと出会ったフォアマンは才能を開花。
身長192cm・リーチ202cmの当時としては恵まれた体格と圧倒的なパンチ力を武器に対戦相手を次々と破り、メキシコオリンピックで金メダルを獲得。
当時19歳、ボクシングをはじめてたった2年足らずでの出来事だった。

※五輪ボクシングは1984年のロサンゼルス大会からヘッドギア着用を開始しており、それまではパンチ力のある選手に有利に働いていた。
2016年リオデジャネイロ五輪の男子ボクシングは32年ぶりにヘッドギアなしで行うことが決定している。

プロ転向後、破竹の勢いでKOの山を築く。

オリンピック金メダリストとなったフォアマンは、即プロに転向。
1969年13連勝(11KO)、1970年12連勝(11KO)
1971年5月10日、NABF北米ヘビー級王座を獲得。
1972年5月11日、パンアメリカンヘビー級王座を獲得。
※どちらものちに返上

一度も負けることなく、世界王座へ挑戦することになった。
ここまで37戦全勝(33KO)
しかも、3ラウンド以内のKOが27回もある。

後に『フォアマン方式』と呼ばれる格下相手のブッキング

フォアマンのマネージャー兼トレーナーであるディック・サドラーは、神経質でメンタルに弱さを抱えるフォアマンの気質を熟知していた。
そこで、ジョージ・フォアマンが必ず勝てる相手を捜してはマッチメークし、後にフォアマン方式といわれたマネージメントでフォマンに強固な自信を付けさせていった。
(日本では亀田三兄弟が同様のマッチメークをしたことで亀田方式とも言われている。)

オリンピック金メダリストの実力と、プロでの自信を兼ね備えたフォアマンは遂に統一世界王座に挑戦する。

カムバック後の柔和な印象とは異なり、殺気と狂気を体から発していたフォアマンは撮影などにおいても苛立ちを隠さず不愛想に睨み付けるような写真が多かった。

一方で稼いだファイトマネーから恵まれない子ども達や施設に多額の寄付をする優しさも、この頃から持ち合わせていた。

若き日のジョージ・フォアマン

ジョー・フレージャーを2RKOで倒し、統一世界ヘビー級王座を獲得。

1973年1月22日、統一世界ヘビー級王者ジョー・フレージャーに挑戦。
フレージャーはこの時点で29戦全勝(25KO)、モハメド・アリを判定で倒すなど4度の王座防衛に成功しており当時最強と呼ばれたチャンピオンであった。
(NYSAC世界ヘビー級5回防衛を合わせると9度の防衛全てに成功)

1964年、東京オリンピックで金メダルを獲得。
プロに転向し、1970年にヘビー級の世界統一チャンピオンとなる。
蒸気機関車のような突進力で「スモーキン・ジョー(Smokin' Joe)」と呼ばれた。
モハメド・アリをプロキャリアで初めて敗北させたボクサーでもあった。
身長:182cm
リーチ:187cm

ジョー・フレージャー(Joe Frazier)

『キングストンの惨劇』と名付けられた戦慄のKO

卓越したディフェンスでフォアマンの強打を巧みに躱すフレージャーであったが、リーチの長いフォアマンに突き放され、パンチを掻い潜り中に入るとショートアッパーが待ち受けていた。
なすすべもなく一度目のダウンを奪われ足が止まったフレージャーは、フォアマンの容赦ない豪打を浴び続け2Rで計6度のダウンを喫し、王座を奪われた。

モハメド・アリにも勝利し絶対王者と言われていたフレージャーが6度もキャンバスに転がされてしまった試合は会場の地名をとって『キングストンの惨劇』と名付けられた。

ともにオリンピックの金メダリスト、全勝かつ高KO率を誇る両者の戦いは接戦も予想されていたがフォアマンの圧勝に終わった。

『象をも倒す』と称されたパンチで最強と呼ばれたフォアマン。

フォアマンのパンチは、キレやスピードよりも重さに特化した質を持っている。
ガードの上からであっても、クリーンヒットしてなくても相手をダウンさせることができる破壊力は『象をも倒す』と言われた。

通常は足を止め単発で力を込めたパンチを放つが、ここぞという時には左右フックにショートアッパーを混ぜるコンビネーションもよく見せている。

この時代のフォアマンを歴代ヘビー級で最強のハードパンチャーという声も多い。

ついでにトレーナーの帽子も吹っ飛ぶ。
フォアマンがサンドバッグを叩く姿を見た元世界フライ級王者・海老原博幸は「あれが当たれば誰でも倒れる」と驚いた。

サンドバッグを持つトレーナーごと吹っ飛ばす

若きジョージ・フォアマンのファイトスタイル

オフェンス重視でガードを下げ相手に対して真っすぐ突っ込むフォアマンは、ディフェンスが上手なテクニシャン・タイプではなかった。
相手を追い込む時の直線的な動きは速いが、フットワークを使い左右に回り込む動きは少ない。
(対モハメド・アリ戦を意識し、アリの真似をしたフットワークを「俺もこれぐらいできるぜ」とパフォーマンス的に見せつけることはあった。)
また、ウィービングやダッキングなどのディフェンス技術を使うことも少ない。
しかし、目と勘が良いフォアマンはパンチのポイントをずらし直撃を避けるのが上手かった。

被弾覚悟で突進し剛腕を振り回すフォアマンの強打は対戦相手を恐怖に陥れ、追い込んで一方的に打ちまくるパターンが多かった。
強引に見える攻めであっても、ガードの上からでも効くそのパンチ力により相手はアウトボクシングに徹するか、そのパンチを潜り抜けて接近戦に持ち込むか、どちらかの戦法しか選ぶことはできなかった。

しかし、フォアマンは実は遠近どちらの距離も苦手にしないオールラウンダーでもあった。
距離がある時にはリーチを活かした速くて重さのある左ジャブ、そして飛び込みながらの左右フック。
近づいてくる相手には器用に腕をたたんだショートアッパー。
巧みに使い分けることでKOの山を築き上げた。

フォアマンを最強に導いた優秀な『チーム・フォアマン』

攻撃面は元フェザー級の世界王者で通算103KO勝ちを記録したサンディー・サドラー。
ディフェンス面は元ライト・ヘビー級の世界王者でアーチ・ムーア。
そして、フォアマン方式と呼ばれるマッチメーク術を編み出したマネージャー兼トレーナーのディック・サドラー。

この3人のスペシャリストによって史上最強の剛腕チャンピオン、ジョージ・フォアマンが生み出されたのだった。

チームフォアマンと呼ばれた鉄壁のスクラムは、38戦無敗(35KO)という戦績を持つ怪物チャンピオンを誕生させた。

チーム・フォアマン

ヘビー級史上最強チャンピオンとまで言わしめた防衛戦

初防衛戦は来日して武道館で行い、世界No1のパンチを日本中に見せつけた。

モハメド・アリの顎を砕いたケン・ノートンを2RでKO

ケン・ノートンは1973年3月31日、モハメド・アリの持つNABF北米ヘビー級王座に挑戦。
アリの顎を砕き判定勝ち。
1973年9月10日にアリのリベンジを受けるも判定負けを喫し、NABF北米ヘビー級王座陥落。
(だが、ノートン優勢の意見も多く疑惑の判定と言われている。)
いずれにしても、モハメド・アリと互角に戦った男である。

アリの顎を砕いた男、ケン・ノートンを2RであっさりKOしたフォアマンを誰もが最強だと疑うことはなかった。
フォアマンの豪快KOを目の前で見せられたモハメド・アリは試合後に乱入し、フォアマンを挑発した。

ジョージ・フォアマン vs モハメド・アリ 『キンシャサの奇跡』

3年越しのリターンマッチとなったジョー・フレージャーを下したモハメド・アリはジョージ・フォアマンとの対戦を要求。
アフリカ・ザイール(現コンゴ民主共和国)の独裁者モブツ・セセ・セコが国家事業として企画したキンシャサでの世界挑戦が実現することになった。

だが、ベトナム戦争における徴兵拒否により、WBA・WBC統一世界ヘビー級王座を剥奪されたアリは既に32歳となり全盛期は過ぎたと言われていた。
対して、26歳と若く、アリを倒したジョー・フレージャーとケン・ノートンに圧勝。
しかも、この時点の戦績は40戦無敗(37KO)と歴代で最も高いKO率、さらに24連続KOを誇っていたフォアマン優勢の声が圧倒的に多かった。

なぜ、ザイール共和国でのタイトルマッチになったのか。

経済大国ですら巨額なファイトマネーには尻込みする中、ザイールに目をつけたプロモーターのドン・キングはモブツと接触、当時では空前のファイトマネーを引き出すことに成功した。

独裁者モブツは、国費からフォアマンとアリ両者にファイトーマネーを500万ドル出すことを決定。
それだけの大金を出した理由として、自ら変更した国の名を世界中に宣伝するためとも、独裁政治による内政不満のガス抜きの為とも言われている。

ドン・キングは「黒人の故郷であるアフリカの地で行う歴史的イベント」と銘打って盛り上げていった。

アリとフォアマン二人合わせてファイトマネー1000万ドルの興行を成功させたドン・キングはアメリカ興行界で絶対的な地位を築くことになった。

ドン・キング(左)とモハメド・アリ(右)

フォアマンにとって完全アウェーでの環境でタイトルマッチ

長年にわたって黒人差別の撤廃を訴えてきたモハメド・アリは、ベルギーによる植民地支配の時代を知るザイール国民にとって、まさに希望の星であった。

フォアマンはアリと同じ黒人でありながら、入国時に旧宗主国ベルギーの警察犬だったシェパードを連れてきたこともあり、『白人の手先』と非難の的となってしまう。

シェパードでバッシング?

さらに、フォアマンが練習中にケガをして約1ヶ月試合が延期となったが、アメリカに帰国しての治療を望んだものの試合拒絶の逃亡と見なされ、出国禁止の軟禁状態に置かれることになってしまう。

アリの人気は高まるばかりで『アリ! ボマイエ!(現地リンガラ語でアリ!殺っちまえ!)』はザイールの国民的流行語になった。
なお、このときの『ボマイエ』が後に猪木ボンバイエに繋がっていく。

元々繊細なフォアマンは、完全アウェーの状態で軟禁され精神に大きなダメージを負い試合に臨むことになった。

伝説の戦法『ロープ・ア・ドープ』で敗れたフォアマン

1974年10月30日、世界中が見守った世紀の一戦は放送権を持っていた米国テレビ局の都合に合わせた、なんと現地時間の午前3時過ぎに行われた。

地元民衆の大歓声がアリに注がれる中、試合開始のゴングが鳴った。
王者フォアマンは攻勢を仕掛け、剛腕で相手を追い込むいつものスタイルを敢行。
1Rこそアリは蜂のように刺すと称された自慢のフットワークを使ってフォアマンの強打をかわしたが、2R以降はフォアマンのプレッシャーにズルズルと後退、ロープ際まで追い詰められて強打を浴び続ける。
誰もがフォアマンの早期KOを予想した。

だが、アリは常に顔面をカバーしながら、ロープの弾力を利用してフォアマンのパンチの衝撃を吸収し、頃合を見計らって鋭い反撃をする高等テクニック、後に『ロープ・ア・ドープ』と呼ばれる作戦を実行。

フォアマンと同等の体格(身長190cm、リーチ203cm)で、並外れた動体視力と反射神経を持つアリだからこそ実現できた戦法である。
ロープを背にのけぞることでフォアマンの得意とする左右フックからのアッパーを完全に封じた。

超高等テクニック『ロープ・ア・ドープ』

剛腕を振り回し続けるフォアマンはスタミナを奪われていく。
無敵王者の宿命で、早いラウンドでの決着が多かったフォアマンはこれまでの相手とは全く違う戦法に戸惑い、焦れば焦るほどパンチの精度も下がり益々スタミナを浪費し、動きに精彩を欠いていく。

そして、運命の8R。
それまでのラウンドと同様にフォアマンは前進を続けるがラウンド終盤に体が流れた瞬間、アリはその一瞬の隙を見逃さず体を入れ替えコンビネーションブローを放つ。
まともに連打されたフォアマンは最後にカウンターの右ストレートを浴び、キャンバスに沈んだ。
主審がテンカウントを宣告、最強の王者と呼ばれたフォアマンはプロ41戦目にしてついに初黒星を喫して王座を陥落した。

下馬評を覆す奇跡の勝利を挙げたアリは、ヘビー級としてはフロイド・パターソン以来史上2人目の世界王座返り咲きに成功した。

『肉を切らせて骨を断つ』戦法で奇跡の勝利をおさめたアリだが、その代償は大きくガードの上からでも効いてしまうフォアマンの強打はアリの体を蝕み、後にパーキンソン病を患う原因になったとも言われている。

『キンシャサの奇跡』にまつわる謎と疑惑

【ロープをわざとゆるく張っていた?】
試合を見ると確かに不自然なほどロープがゆるい。
ロープがここまで緩くなければ、フォアマンのパンチをのけぞって躱すことはできなかったと思われる。
現地の人気を獲得したアリ陣営が「わざとロープをゆるく張らせたのではないか」とも言われている。
だが、アリのトレーナーであるアンジェロ・ダンディは試合が行われるまで『ロープ・ア・ドープ』という戦法自体を知らなかった。
事実、アリも1Rはフットワークを駆使する戦法を取っており、緩いロープに気付いたアリが急遽編み出したものだという説が有力である。

【フォアマンは薬を盛られていた?】
フォアマンは自叙伝『God in My Corner』の中で「あれは仕組まれた試合だった」と語っている。
リングに上がる直前に自分のトレーナーから薬のような味のする飲み物を与えられたと書き、何らかの薬物を盛られた可能性を示唆している。
「やっとの思いでリングにもぐり込み、3ラウンドが終わってみるとまるで15ラウンドを戦ったかのように疲労だった。」と自らの動きが急激に衰えた原因について述べている。
こうした発言に対して、「負け惜しみ」や「嘘つき」とフォアマンを批判する声もあるが、完全アウェーで軟禁された繊細なメンタルは壊れ、周りの人間全てが敵に感じてしまっていたのではないか。
この試合時には鉄の結束と言われた『チームフォアマン』は不協和音を生じていたという。

【レフェリーのカウントが早かった?】
動画で確認してもカウント9ぐらいで試合終了を合図したように見える。
だが、ダメージは明らかでフォアマン自身もフォアマン陣営も抗議する姿勢を見せていない。
仮にこのまま続行しても挽回するのは厳しかったと思われる。

『キンシャサの奇跡』後、再起をかけるフォアマン

フォアマンはアリに喫した初黒星から約15ヶ月後の1976年1月24日、ようやく再起戦を行った。
対戦相手は元囚人のボクサー、ロン・ライル。
アリに敗れて自信を失ったフォアマンに、かつて絶対王者と呼ばれた雰囲気は無かった。

このライル戦を例に出し、フォアマンは実はそこまで強くなかったという意見もあるが、ライルはこの半年近く前にモハメド・アリに挑戦し接戦(11RTKOで敗れる)を繰り広げているほどの実力を持っており、アリやフォアマンがいない時代であればチャンピオンになれたとも言われている逸材であった。

ジョー・フレージャーと二度目の対戦

『キングストンの惨劇』から3年後、王座から陥落したフォアマンに対して同じく元王者のフレージャーは雪辱に挑んだ。
前年、フレージャーはアリとも三度目の対戦を行いセコンドの申告により14R棄権で敗北したが、アリもこの時点で敗北を覚悟してグローブを外して欲しいとセコンドに頼んだほどの大接戦であった。

フレージャーを返り討ちにしたフォアマンは、スコット・レドゥー(3RTKO)、ジョン・ディノデニス(4RTKO)、ペドロ・アゴスト(4RTKO)と連勝を続け剛腕健在を印象付けた。

無名のジミー・ヤングに判定負けし、突如引退。

1977年3月17日、当時無名のジミー・ヤングに最終回ダウンを奪われた末に判定負け。
試合後のロッカールームで「神と出会った」と28歳の若さで引退を表明、牧師に転身した。
突然の引退宣言に周囲は「アリと再戦する勇気を失った」と考えた。

引退決意の理由については、ノンフィクション作家・山際淳司がフォアマンに直接取材を行って聞き出した内容が著書『スタジアムで会おう』にて明かされている。

スタジアムで会おう (角川文庫) : 山際 淳司

西武ライオンズの四番打者「清原和博」。神になったチャンプ「ジョージ・フォアマン」。天才ジョッキー「武豊」。劇場(スタジアム)では、様々なドラマが生まれ、去っていく。感動と興奮に満ちた物語。珠玉のスポーツノンフィクション集。

宣教師として青少年の更生に尽力するフォアマン

敗北による心の傷が癒えたらすぐにカムバックすると周囲は思っていたが、フォアマンは復帰の誘いを頑なに断り続けた。
やがて、引退から何年も経っていくと復帰の噂も無くなり、フォアマンは完全に過去のボクサーとなっていた。

宣教師となったフォアマンは、不機嫌そうに顔をこわばらせていた以前から別人のように変わり、柔和で穏やかな笑顔を絶やさずユーモアを連発するようになったという。

ヒューストンの通りで説教をし始め、ボクシングで稼いだお金で教会も設立した。
そして、かつて不良だった少年時代から職業訓練とボクシングとの出会いに救われたように、自分も青少年の更生を手伝いたいと考えるようになっていく。

青少年更生施設の建設費用捻出のため38歳でカムバック。

残りの財産を使いユースセンター(青少年の保護・更生施設)の建設したフォアマンであったが、雇っていた会計士が横領事件を起こし、資金難に陥ってしまう。

教会とユースセンターを手放さねばならない状況になり、「このままでは多くの青少年を救う夢を実現できない…」とフォアマンは復帰を決意した。

負け犬のままリングを去ったんじゃないと、わかって欲しかった。

ヒューストンの郊外にある青少年更生施設「ジョージ・フォアマン・ユースセンター」

ジョージ・フォアマン・ユースセンター

『無謀』と嘲笑されたフォアマンの復帰

復帰を決めた38歳のフォアマンだったが約10年のブランクは彼の体を別人に変えていた。

引き締まった鋼のような体は、脂肪によってすっかり膨らみ体重は20kg以上増えてビア樽のようなお腹になっていた。

若きフォアマン(左)と、復帰後のフォアマン(右)

ジョージ・フォアマンが復帰した1987年、ボクシング界の王者はマイク・タイソン。
ヘビー級としては小柄ながらガードごと薙ぎ倒す桁外れのパンチ力、ヘビー級史上最速の評価をモハメド・アリと分かつスピード、急所を正確に打ち抜く高度なコンビネーション、そして相手のパンチをことごとく躱す鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをキャンバスに沈めていた。

「70年代の拳を振り回すだけのボクシングは、現在の発達したボクシング技術には通用しない。」
「あの腹でボクシング?サンドバッグのように打たれて殺されるぞ。」
「タイソンとやるどころか、誰にも勝つことはできない。」
などとフォアマンの復帰は歓迎されることなく、嘲笑された。

なかには、「マイクタイソンとの対戦し大金を要求したいだけの詐欺行為だ」と批判するジャーナリストすらいた。

18歳でプロデビュー、1986年に史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる。
モハメド・アリ引退後のヘビー級停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。
身長:180cm
リーチ:180cm

マイク・タイソン(Mike Tyson)

復帰したジョージ・フォアマンのファイトスタイル

1987年3月9日に下馬評を覆し4RTKOでスティーブ・ゾウスキーに勝利し復帰戦を飾ると、かつてのようにコツコツと勝利を積み上げていく。

元々スピードがあったタイプでは無いフォアマンは老いと体重増でさらに動きが遅くなり、「象をも倒す」と言われたパンチもスローに見えることがあった。

体格を生かしてプレッシャーをかけ、重い左ジャブと丸太のような剛腕から繰り出す左右のフック、もぐりこむ相手にはショートアッパー。
こうした基本的な戦術は若い頃と変わっていない。

だが、むやみに拳を振り回しスタミナを浪費することはなくなり、時にはディフェンスを駆使する理知的な戦い方をするようになっていた。
相手をじっくり見ながら、ベタ足で牛のようにノシノシと追い込む姿は若い頃とはまた違った迫力を感じさせる。

痩せるべきだという声に対して、フォアマンは「体重を減らそうとした事もあったけど、気が変わって皆に言ったのさ。ライオンに猫と闘う為に体重を減らせとは言わないだろう。減らす必要なんてないね。俺は大男なんだからさ。山を倒す事はできないだろう。」と考えを述べている。

アーチー・ムーア譲りのクロスアーム・ブロック

フォアマンの若い頃からサポートをつとめていたアーチー・ムーアは、フォアマンが復帰してからは特に重要な参謀役として活躍した。

両腕を胸の前で交差させるクロスアーム・ブロック、別名『アルマジロ・スタイル』でじわじわとフェイントをかけながら前進、少ない手数で強打を爆発させる戦術は、まさにフォアマンが師匠ムーアから継承したスタイルである。

フォアマンの太い腕を交差するとボディから顎まで拳の入る隙間は無く、フォアマンより背の低い対戦相手は打つ場所を失ってしまう。

フォアマンのクロスアーム・ブロック

アルマジロのようにガードを固め、隙をついて右強打を叩き込むスタイルでKOの山を築いた。
129とも141とも言われる通算KO回数はいずれにしても史上最多であり、今後も抜かれることのない記録だと言われている。

アーチー・ムーアのクロスアーム・ブロック

アーチー・ムーアは世界ライト・ヘビー級の王座を39歳で獲得し、なんと49歳まで王座を保持していた。
フォアマンに破られる前の最高齢王座獲得記録を保持していたのはムーアであり、ベテランボクサーに必要なディフェンステクニックやスタミナ配分、駆け引きなどを惜しみなく愛弟子に注ぎ込んだ。
※ムーアの生年については諸説あり1~2年程度の幅がある。

後にフォアマンが起こした奇跡は、このアーチー・ムーアなしでは起こりえなかった。

衰えを感じさせない驚異のKO率

一般的なベテランボクサーと異なり、フォアマンは40歳を超えても、ポイントを稼ぎ判定勝ちを狙うようなボクシングはしなかった。

ガードの上からでも効かせる大振りパンチ、相手の隙をみて急所に叩き込むコンパクトなパンチ。
二つをうまく組み合わせ巧みにダウンを奪っていった。
手打ちに見えるようなパンチであっても剛腕から繰り出された拳がクリーンヒットすると、ヘビー級の猛者たちが面白いように倒れていく。
若さとスピードを失っても『象をも倒す』パンチは健在だったのだ。

そして、復帰から約4年を掛け24戦無敗(23KO)95%を超えるKO率を引っ提げてフォアマンは世界王座に挑むことになった。

コンパクトなモーションから繰り出されたパンチは、ガードの隙間を掻い潜り一発で相手を倒す威力を持っていた。

ガードを固めた相手にも…

フォアマンの強打から逃れようと屈んだ相手の背中にパンチ。
こんなダウンシーンは見たことない…。

背中パンチでダウン!

1991年4月19日、王者イベンダー・ホリフィールドに挑戦

時のチャンピオンは、あのタイソンを倒したジェームス・ダグラスを3ラウンドKOで破ったイベンダー・ホリフィールド(当時28歳)であった。
世界挑戦資格を得ていたフォアマンは、王者イベンダー・ホリフィールドの初防衛戦の相手に指名される。
42歳のフォアマンにとって16年ぶりの世界タイトルマッチが決定した。

前半、王者ホリフィールドは卓越したスピードとディフェンス技術でフォアマンの強打をことごとく躱して、素早いコンビネーションで反撃。
フォアマンのブロックを突き破り、何度もクリーンヒットを当てていく。
だが、フォアマンは下がらない。まるで山のようにそびえ立ち、何事もなかったのように大砲でホリフィールドを追い込む。

中盤以降はお互いに正面から打ち合うシーンが多くなる。
フォアマンの重い一発をくらっても、ひるまずスピードある連打を打ち込むホリフィールド。
9Rにはフォアマンをダウン寸前のところまで追いつめた。
フォアマンも必死に応戦、これまで多くの相手をキャンバスに沈めてきた剛腕で王者を何度もグラつかせるシーンを見せた。

終盤になっても全く衰えない元王者と現王者の闘志は観客たちの心を打ち、スタンディングオベーションの中、試合終了のゴングが鳴り響いた。

結果は3-0でホリフィールドの判定勝ち。
だが、敗れたフォアマンの健闘を称える声は、勝者を讃辞する声を遥かに上回っていた。

「老いは恥ではないのだよ。」

ジョージ・フォアマンの名言

世界王座を諦めず挑戦を続けるフォアマン

ホリフィールド戦で健闘し「もう十分戦ったから引退してもいいのではないか」という声も出たが、フォアマンは現役を続け、3連勝すると1993年6月7日、トミー・モリソンの持つWBO世界ヘビー級王座に挑戦。
善戦したが、またも判定負け。

今度こそ引退かと噂されたが、そこから半年後ホリフィールドを破ったマイケル・モーラーの持つWBA・IBF世界ヘビー級王座に挑戦した。

復帰後3回目の世界王座挑戦で奇跡を起こしたフォアマン

1994年11月5日、WBA・IBF世界ヘビー級王者マイケル・モーラーに挑戦。

王者モーラーにとっては、人気のあるフォアマンは単なる客寄せパンダという認識で、負けるリスクが無いおいしい挑戦者としての指名したという。

モハメド・アリはフォアマンは勝てるか?との問いに小さく首を振り「オールドマン(もう老人だよ)」とだけ答えた。

この試合フォアマンはどことなくこれまでと様子が違っていた。
練習を非公開にしたり、復帰後は穏やかだったフォアマンが記者会見でモーラーに食ってかかるシーンも見られた。
ピリピリとしたオーラを発するフォアマンはまるで以前の『獰猛さ』を少し取り戻したようだった。
試合当日には、「これは初めてのことだが、今日だけは自分のために戦う」とコメントしている。

試合は序盤から一方的なモーラーのペース。
毎ラウンド、ポイントを失い打ちまくられたフォアマンの顔は大きく腫れあがる。
しかし、驚異的なタフネスを見せ、足に根が生えているかのように倒れないフォアマン。

試合を見ているフォアマンのファンが勝利を諦めていく中、当のフォアマンは全く諦めていなかった。
打っても打っても倒れないフォアマンにモーラーのスタミナと集中力は切れ始めていた。

百戦錬磨のフォアマンはそこを見逃さなかった。
少し空いたガードの隙間を狙った右ショートストレートがモーラーのアゴに炸裂。
『象をも倒す』と呼ばれた強打一発でモーラーはダウンし、起き上がれない。
劇的な逆転で史上最高齢(45歳9ヵ月)の世界王者が誕生した。

勝利に沸くセコンド陣の喧騒をよそにフォアマンはコーナーで静かにひざまづき神に祈りを捧げた。

悪夢だった『キンシャサの奇跡』を払拭

アリに敗れた『キンシャサの奇跡』を、フォアマンは「自分を粉々に砕いた」と語っていた。
神の道へ進んでもその悪夢は決して消え去ることは無かった。

だが、それから20年後自らがアリに喫した逆転KOで世界王座に返り咲いたフォアマンは試合後『とうとう幽霊を追い払ったよ。』とつぶやいた。

復帰後は白を基調としたパンツを多く穿いていたフォアマンだが、この試合は『キンシャサの奇跡』と同じ赤に白ラインのパンツを穿いていた。
試合前に「今日だけは自分のために闘う」と語ったフォアマン、この試合だけは子供たちの為でなく20年前の悪夢を払拭する為に臨むということだったのかもしれない。

また、20年前『キンシャサの奇跡』でフォアマンと逆のコーナーでアリのセコンドを努めたアンジェロ・ダンディは、アーチー・ムーアと共に復帰したフォアマンのトレーナーとなっていた。
自分を倒しトラウマを植え付けた宿敵アリを引退するまで支え続けた男をセコンドに付ける。
フォアマンはどのような心境だったのだろうか?
二人がどのような感情と交渉を経て、手を結んだのかは明らかにされていないがフォアマンの王座復帰に大きな影響を及ぼしたと考えられている。

王座復帰から引退まで

タイトル獲得から約半年後、アクセル・シュルツを破りIBF王座のみ初防衛。
だが、WBAランク1位のトニー・タッカーと戦わなかったことで、WBAのベルトはシュルツ戦と同時に剥奪されてしまった。
その後、フォアマンはシュルツとの再戦を拒否したため、IBF王座も剥奪された。

アントニオ猪木はフォアマンに北朝鮮・平壌で異種格闘技戦をやらないかと持ち掛けていた。
しかし、フォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と断ったという。

1996年11月3日、来日したWBUヘビー級タイトルマッチ

東京ベイNKホールでクロウフォード・グリムスリーを相手にWBUヘビー級タイトルマッチ(JBC非公認)を行い、12R判定勝ち。

丸太のような剛腕を見せつけ健在ぶりをアピールした。

来日した際のジョージ・フォアマン

1997年11月22日、一年ぶりの試合でシャノン・ブリッグスに12R判定負けして引退した。

70年代のフォアマン vs 90年代のフォアマン

70年代アリに敗れるまでのフォアマンと、90年代に王座復帰を果たしたフォアマン、どちらが全盛期だったのかという論争がある。

70年代のフォアマン(左)と90年代のフォアマン(右)

『史上最もKO率が高い70年代』と『一度もダウンしなかった90年代』

フォアマンの通算戦績は81戦76勝(68KO)5敗。
これを復帰前後に分けると下記の通りである。

【復帰前】
47戦45勝(42KO)2敗 KO率93%

【復帰後】
34戦31勝(26KO)3敗 KO率84%

復帰前と復帰後を別々に見てもともに歴代屈指と言われるべき戦績。
圧倒的な破壊力でフレージャーを2Rで6度も倒した復帰前はなんとKO率が93%。
歴代ヘビー級王者で最高のKO率を誇る男であった。

しかし、38歳で復帰してからもKO率が8割以上あったことは驚愕である。
復帰前が100kg程度であったのに対して復帰後はMAX145kgと大幅に増えた体重がパンチにさらなる重みを与え、スローに見えるパンチも大振りを減らし正確性が増したこと要因であると言われている。

また、復帰前の弱点であったスタミナを復帰後は克服している。
あえてフットワークを使わず、大振りを減らしたことで12R戦えるようにした戦術も素晴らしいが、車を引っ張るなどトレーニングによって足腰の強化も図っていた。

ボクサーとしてはかなり弛んだ体型に見える復帰後のフォアマンだが、地道なトレーニングをきっちり行っていた。
また、分厚い脂肪に覆われた腹もメディシンボールを落として鍛えていたという。

トレーニングで車を引っ張るフォアマン

そして、一番凄いのは復帰後のディフェンス技術の向上と打たれ強さである。
38歳で復帰してから48歳で引退するまで10年で34戦してKO負けはおろか、一度もダウンしていない。
90年代フォアマンは最も倒れせない男である。
弱点としては、相手を追う足が鈍い為アウトボクシングに徹して逃げ回る相手には判定負けする可能性が高いことである。

これらの点から対戦相手の誰もが恐れた70年代が全盛期だったとは必ずしも言い切れないのではないか。

なお、フォアマン自身は経験を活かせた90年代の方が強かったと語っている。

幻となったジョージ・フォアマン vs マイク・タイソン

フォアマンが復帰した時の王者はマイク・タイソンであったが、フォアマンが世界挑戦権を得た頃には王座を陥落し、レイプ事件で刑務所に収監されていた。

タイソンが服役を終えて再度王者になった頃には、フォアマンが王座を陥落しており翌年引退、何度も対戦話が持ち上がった両者は遂に戦うことなく終わった。

フォアマンとタイソン、どちらが強かったのかは未だにアメリカはもちろん日本でも論争となっている。

【タイソン優勢派の意見】
・フォアマンではタイソンのスピードに付いていけない。
・フォアマンのディフェンス技術ではタイソンのパンチをかわせない。
・ボクシング技術は進化しているので昔のボクサーの方が強いことはない。
・タイソンこそ最強の中の最強!それ以外は認めん!

【フォアマン優勢派の意見】
・復帰前のフォアマンならタイソンに圧勝だ。タイソンと同タイプのフレージャー戦を見れば歴然。
・フォアマンは大柄だが接近戦に強く、タイソンが中に入ったら強打をモロに食らう。
・アリですら前半は逃げ回るしかなかった。タイソンが殴り勝てるわけがない。
・タイソンが2回も負けたホリフィールドに42歳のフォアマンの方が善戦していた。

などなど、激しい論争が繰り広げられている。
この二人は『ハードパンチャー』、『全盛期が短い』、『メンタルが弱い』、『スタミナに不安がある』など共通点も多い。

互いの全盛期をどこからどこまでと判断するかや、リアルタイムで見ていたのがどちらだったのかという世代の違いによって大きく意見が異なっている。

なお、両者の試合をリアルタイムで見てきたボクシング評論家・ジョー小泉氏は70年代のフォアマンは全盛期のタイソンを上回るとの見方を示している。

写真共有サービス「Pinterest」にアップされた合成写真。
もしも実現していたら、どちらが勝つにしてもKO以外の決着は起こりえない対戦カードである。

【合成】若きフォアマンvsマイク・タイソン

マイク・タイソンと共に歴代最強のヘビー級ボクサーと言われるモハメド・アリ。

だが、アリはフォアマンとの直接対決で勝利したが、アリが敗北したことのあるフレージャーやノートンをフォアマンはあっさりKOしており、『キンシャサの奇跡』と言われるようにあの敗戦は様々な要因が重なって生まれた奇跡なのだとフォアマン最強説を唱える人も根強く存在している。


フォアマン、アリ、タイソン。3人の戦績を比較してみると下記の通りである。
◆フォアマン:81戦76勝(68KO)5敗 KO率84%
◆アリ:61戦56勝(37KO)5敗 KO率66%
◆タイソン:58戦50勝(44KO)6敗2無効試合 KO率76%

ボクシング引退後のジョージ・フォアマン

1997年に引退したフォアマンは再び宣教師として青少年の更生に力を入れる。
そして、その傍らで意外な成功を収める。

チーズバーガー好きで知られるフォアマンは、引退前の1995年から「サルトン」という家電メーカーと契約し、卓上グリルの広告塔となっていた。

テレビショッピング番組では自ら出演し、商品をPR。
この『ジョージ・フォアマン グリル』と呼ばれる卓上グリルは大ヒット商品に成長していく。
様々なバリエーションを出してロングセラーを記録、5500万台以上を販売し、自身も1億5000万ドル(日本円にして約180億円)を稼いだという。

柔和な笑顔で美味しそうな肉を焼くフォアマンの説得力は抜群。

卓上グリルを売り込むジョージ・フォアマン

ジョージフォアマン クラシック プレート エレクトリック ハンバーガー グリル GR136B【並行輸入品】

特許取得済みの傾斜設計で余分なオイルの排除、2個のハンバーガーが同時に焼ける。

ビジネスにおいても成功したフォアマンはその資金も躊躇なく、青少年の更生につぎ込んでいった。
彼がボクシングに復帰することで守り抜いた「ジョージ・フォアマン・ユースセンター」からは1万人以上の不良や問題児が卒業していったという。

フォアマンには10人の子供がおり、うち息子は5人、全て名前は『ジョージ』である。
次男のジョージ・フォアマン3世(MONK)はユースセンターで働きながら、父の後を追いプロボクサーになりデビュー戦を1RKO勝ちで飾った。
『ビッグ』の愛称で呼ばれた身長192cmの父より大きい196cmのMONKはその後も連勝街道を突き進んでいる。

16戦16勝(15KO)無敗
※2016年7月時点

当初はプロデビューに反対していたフォアマンだったが、最後はベストを尽くしてみろと認めた。
「タイトルを獲得してもしなくても、いい成績で大学を卒業してくれたので、私の中でMONKは既にチャンピオンなんだ」と語っている。

フォアマンと息子、MONK。

2016年6月3日、かつての宿敵モハメド・アリが入院していた病院で亡くなった。

スラム街の不良少年がボクシングを通して富と栄光を得るが挫折。
宣教師として愛や平和を説き、恵まれない子供達の為に現役復帰する。
そして、45歳の年齢で世界王座を再び手に入れ、ビジネスマンとしても大きな成功を収める。
稼いだ私財で多くの問題児を更生させ、温厚な人柄で今も世界中のファンに愛されている。

まるで、映画や小説のような人生を歩んできたジョージ・フォアマン。
彼こそまさに『生ける伝説』である。

多くのオトナを勇気づけたジョージ・フォアマンの名言

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