
坂本博之
あくまでも強打にこだわる無骨なファイター。
器用さは無いが強靭な精神力とタフネスは絶大。
圧倒的な存在感でファンを引き付ける。
虐待、心も体も飢えていた少年時代

両親が離婚し、母と1つ下の弟と3人暮らしをしていたが
小学1年生になった春、母は仕事のために東京に行き、坂本博之と弟は知らない遠い親戚に預けられた。
親戚のオジサンはなにかあるとすぐに怒鳴り殴る人で、
布団はあったが寝る場所は硬い床の上。
「水道代がもったいない」とトイレは公園。
食事は、家ではもらえず、学校の給食だけの1日1食。
近所の川で魚やザリガニやタニシをとったり
誰かが食べ物を落とすのを期待してスーパーの出入り口近くで待ったりした。
生きるために仕方ないと自分に言い聞かせながら、食べ物を万引きをすることもあった。
和白青松園

小学校2年生のとき、児童養護施設「和白青松園」に入った。
離婚、虐待、家出など様々な家庭事情で引き取られた2歳から高校生までのたくさんの子供がいた。
2段ベッドだが自分の寝る場所ができた。
食事に朝夕に加えおやつも出た。
トイレも自由に使えた。
また集団生活の「温もり」があった。
人の痛みがわかる子供が多く、年上の年下の面倒見もよく、いじめなどはなかった。
しかしワルかった。
坂本も中学生からもらって小学2年生でタバコを覚えた。

小学校3年生のとき、
夕食を終えた後、食堂のテレビをみていると
2人の男が血を流しながら戦っていた。
ボクシングだった。
施設に入り空腹と孤独は満たされた。
しかし「感情」は閉じ込められたままだった。
ブラウン管の中のボクシングの世界は光り輝いていた。
それに比べて自分はなんて暗い閉じ込められた世界にいるのか。
ボクシングは坂本博之の心の中に火をつけた。
やがて母親が東京からきて
坂本博之と弟は和白青松園を卒園し3人で東京でl暮らすことになった。
東京

大都会東京
写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
東京ですべてが新しい人生が始まった。
家は台東区竜泉のアパート。
高層ビル、人の海、大都会は刺激的だった。
母は夜に仕事に出て朝の5時に帰ってくる。
朝食はつくってあったが、夕食は置かれた1000円でホカ弁でから揚げ弁当を買った。
ケンカはこちらから売ることはなかった。
しかし売られたら逃げなかった。
相手は1人のときもあったし、複数のときもあったが負けた記憶はない。
2人組にナイフを振り回されたときは背筋に冷たい汗が流れる気がしたが、それも一瞬だった。
「俺の右ストレートの方が早かったんよ。」
やるときは徹底した。
戦意を完全に剥ぎ取るまで容赦しなかった。
終わればぐったり横たわる相手のそばにしゃがみ、
「これで終わりにしようや。」
とタバコを差し出すのが常だった。
「殺されるかと思ったよ・・・」
怯えきった目が安堵の色を浮かべるまで傍らにいた。
体の傷はいつか癒える。
だが心の傷は放置しておけなかった。
男がその後、堕ちていくのが嫌だった。
「ま、虫のいい話なんだけどね。
心のケアというのかな、それはしてた。」
勉強はダメだった。
特に数学は8+5はわかるが-8+5となるとわからなかった。
高校受験のために夏から猛勉強を始めた。
学校から帰ってから同じクラスの成績のいい同級生に頼んで家庭教師をしてもらって勉強をした。
そしてさいたま市南浦和市にある私立小松原高校に合格した。
高校入学と同時に坂本博之は弟と2人暮らしを始めた。
深夜のビル清掃業や土木作業員などアルバイトも始めた。
友達と遊びまくった。
免許とカワサキ・GPZ(バイク)も手に入れた。
高校では最高に楽しい3年間を送った。
2度目のプロテストで合格

坂本博之は、高校卒業後、角海老宝石ジムに入りボクシングを始めた。
角海老宝石ジムは帝拳ジム、協栄ジムと肩を並べ、年間興行数、練習生数は全国でもトップクラスのジムである。
不遇の時代に夢を与えてくれたボクシングだったが、数か月後に受けたプロテストは不合格だった。
まだその頃は高校時代の仲間と夜遊びをしていたしタバコも吸っていた。
プロテストの前日でさえ夜中の2時まで遊んでいた。
不合格になって数日後、江戸川区小岩に引っ越した。
高校時代の仲間との関係を断ち切るため、
またロードワークがしやすい河川敷があったからだった。
ジムも角海老宝石ジムから勝又(現:角海老宝石勝又)ジムに変えた。
以後、妥協しなくなった。
すべてをボクシングに集中させた。
1年半後、2度目のプロテストで合格しプロボクサーとなった。

無敗のまま日本チャンピオン、肩から骨の欠片が数十個

デビュー後、7連勝で全日本新人王獲得。
以後も連勝し12戦全勝(10KO)。
そして日本チャンピオン、リック吉村に挑戦した。
リック吉村は15勝(9KO)2敗、J・ウェルター級とライト級の2つの階級で日本チャンピオンになったテクニシャンだった。
8R、坂本の左フックがリックの顎に入ってダウン。
起き上がってきたリックを坂本は右ストレートで2度目のダウンを奪った。
9R、坂本はラッシュしレフリーが試合を止めた。
坂本博之は日本チャンピオンとなった。
試合後、リック吉村は病院で右肩の手術を受けた。
坂本のフックを受け砕けた肩から骨の欠片が30個出てきた。
KO命

「『効いたパンチは無かった。』
『今日は調子が悪かった、もう一度やりたい。』
自分が勝った相手にあれこれ言い訳されることほどムカつくことはない。
判定で下された勝ち負けは相手に負けた理由を正当化させてしまう余地ができてしまう。
圧倒的な勝ち方、完璧なKOで勝たなければ意味がない。
顎の骨でも肋の2、3本でもいい、骨を折るくらいのパンチを浴びせる。
大の字に寝かせ、自力では立てず、担架で運ばれ退場するような強烈なKOだ。
そういう倒され方をしたら完敗を認めるしかない。
心から敗北を認めるしかない。
坂本という名前を聞くだけで逃げたくなる。
雪辱なんてしたくない。
それくらい恐ろしいイメージを与えたい。
何の恨みがなくてもそういう気持ちでボクシングをしてきた。
KO命。
ボクシングはスポーツではなく勝負事なんだ。
勝者だけが光を浴び自らも輝き光放つ、敗者は暗黒のどん底に陥る。
そういう残酷なまでに道をはっきり分ける勝負。
それがボクシングの本質なのだ。
そういう勝負をして勝てば「どうだ!これがオレだ!坂本博之だ!」と見せつけることができる。
大差のポイントで勝っていても安全運転で勝ち逃げしようとしたり
逆転を恐れ倒せるチャンスを放棄したり
絶対しない。
チャンスと見たら一気に攻め立てる。
ボクサーにもそれぞれ考え方があるから
『内容はどうでもいい勝てばいい』
『判定勝ちも勝ちは勝ち』
っていうようなボクシング哲学も否定する気は全然ない。
でも1つだけ言える。
そういうボクサーはオレみたいな奴とやったら負けるよ。」
(坂本博之)
殺気と拳の力は比例する

「ハードヒッター、倒し屋、デビュー当時からKO率が高いオレはそう呼ばれた。
『僕はパンチがないから・・・』
『パンチがあっていいね・・・』
たまに他のボクサーから言われる。
確かに腕っ節には自身があるし、肉体的素質は恵まれているほうかもしれない。
でもオレは肉体的なパンチ力だけで倒してきたんじゃない。
オレは「殺気と拳の力は比例する」という考えを持っている。
殺気を出すことでパンチ力は増強するって信じている。
執着心、野望、集中力、危機感、勝利へのポジティブでl強烈な精神力が潜在能力を引き出す。
これが殺気を生む。
拳に力として伝わる。
相手は倒れる。
そういう強いココロの力を持つボクサーはハートのあるパンチを打つ。
肉体的なパンチングパワーが乏しくても殺気を出してハートで相手を倒すことはできる。
パンチがないから倒せないというのは言い訳だと思う。
逆に倒れるのその殺気に負けてしまっているのだ。
『顎が弱い』
『ボディがもろい』
『打たれ弱い』
見ている人はは簡単にそう評価する。
これもオレは「打たれ弱い体質なんていうものはない」と思っている
ボクサーが倒れるときは
肉体的なコンディショニングや強さを足りない、やる気が足りない、
相手の殺気や圧力に耐え切る精神力が足りないとか、
なにせ気が弱っているときなんだ。
「いくらパンチをもらっても俺は絶対に効かない、倒れない」
そう決めて戦えば絶対に効かないし倒れないと思っている。
俺は絶対に倒れないよっていう気迫を出せば倒れない。」
(坂本博之)
ファン・マルチン・コッジ、1階級上の元世界王者と対戦

17戦目で世界ランク入り(WBA11位)を果たした。
その後も2勝し19連勝。
そしてファン・マルチン・コッジとの試合が決まった。
コッジは
前WBAジュニアウェルター級の世界チャンピオンで
73戦68勝(41KO)2敗3分け、
2度世界チャンピオンになった実績を持っていた。
坂本博之は3Rにボディーにアッパーをもらって初めてダウンした。
立ち上がるもコッジのスパートに再びダウン。
しかし坂本博之は再び起き上がった。
「あきらめずに頑張れば必ずチャンスはある」
以後はダウンすることはなかった。
しかしKO負けこそしなかったものの完敗だった。
この年の坂本博之の成績は4勝1敗。
KO勝ちは1度もなかった。
何かおかしかった。
新人王、日本チャンピオンとなって立場が変わり
嫌なしがらみが増え、
人間関係も悪化し
人間不信に陥っていた。
何よりも大切な気力が薄れていた。
皮肉なことに「殺気とパンチ力は比例する」という自論を自ら敗北することで証明してしまった。
渡米、アメリカでの経験をきっかけに復活

「このまま気力がわかないままでは絶対ダメになる。
これまでと同じ練習をしたらオレは終わってしまう。
この環境を何とか変えないと・・・」
坂本博之はアメリカに渡った。
ラスベガスに到着するとすぐに市内のジムに直行した。

異国のボクシングの練習風景は坂本博之に初心を取り戻すきっかけとなった。
トレーナーは決して練習を押しつけない。
なにより選手の意志が尊重される。
みんな伸び伸びとボクシングをやっていた。
いつの間にか失っていたボクシングの楽しさがそこにはあった。
そして坂本博之はジェフ・メイウェザーとの試合で判定勝ちした。
10日間のラスベガス滞在を終え、帰りの飛行機の中で坂本博之はジムを変えることを決めた。
フセイン・シャー

坂本博之は5年ぶりに角海老宝石に戻って練習を再開した。
そしてフセイン・シャートレーナーとコンビを組むことになった。
フセイン・シャーは
パキスタン代表としてソウルオリンピックのミドル級で銅メダルを獲得した後
イギリス、アメリカ、日本でプロのリングで活躍した。
幼い時に母を亡くし父が再婚すると継母から家を追い出され路上暮らしを始めた。
7歳のある日、さまよっているとボクシングジムでサンドバッグを打たせてもらった。
たまっていた感情を拳に込めて思い切り叩いた。
「爽快だった」
その後ボクシングにのめりこんでいった。
似た生い立ちを持つ2人はすぐに打ち解けた。
体づくり、気持ちの持ち方・・・
坂本は5歳上のフセインからいろいろなことを学んだ。
再びボクシング漬けの生活が始まった2か月後、ロジャー・ボレロスをTKOで破って東洋太平洋チャンピオンとなった。
同タイトルは2度防衛。
コッジに負けて1年、再び世界が視野に入ってきた。
「世界チャンピオン」という夢に向かって壮絶なトレーニングが始まった。
通常の練習メニュー以外に
逆立ち状態で腕立て伏せ、
寝た状態から、トレーナーにふくらはぎを押さえてもらい、腹筋と脚の筋力だけで立ち上がる、
上体を起こしたところでトレーナーに突き飛ばしてもらう腹筋運動、
しゃがんだ姿勢から幅跳びをする「カエル跳び」
など世界チャンピオンたち行ったトレーニングを加えた。
フセインは常におだてたりほめたりしてモチベーションを上げ坂本にパワーを与えた。
また
「倒れるのは相手のパンチが痛いからではなくてその衝撃で脳が揺れることで倒れてしまうんです。」
と徹底して走って下半身を鍛えた。
東洋太平洋のタイトルを2度防衛した後、世界挑戦が決まった。
届きそうで届かない世界
1度目の世界挑戦、スティ-ブ・ジョンストン戦

初の世界戦の対戦相手はスティ-ブ・ジョンストン。
アマチュアで257戦9敗。
プロに転向後、21勝(13KO)無敗の世界チャンピオンだった。
対する坂本博之は29戦目だった。
「技術では絶対に勝てない。
あの教科書のようなスタイルをオレの力と精神力でムチャクチャにぶっ壊してやる。」
(坂本博之)
試合で坂本博之はジョンストンのジャブに屈せず前へ進んだ。
得意のフックで何度もコーナーに押し込んだが判定で負けた。
動画:スティーブ・ジョンストンvs坂本 博之 WBC世界ライト級タイトルマッチ(dailymotion)
http://www.dailymotion.com/video/x49he59
2度目の世界挑戦、セサール・バサン戦

1年後、2度目の世界挑戦のチャンスが訪れた。
相手はセサール・バサン。
坂本博之は善戦するも判定負けした。
ライト級(58.967 - 61.235kg) という階級への憧れと減量苦

「階級を上げてみたらどうだ?
間違いなく世界獲れるぞ」
といわれたこともあった。
「このままやらせてください。」
坂本博之は頭を下げた。
ライト級にこだわりを持っていた。
ヘビー級に次いで伝統のあるクラス。
「石の拳」、ロベルト・デュラン。
フリオ・セザール・チャベエス。
憧れの歴史に残るチャンピオンがいた。
過去、ライト級で日本人で世界チャンピオンになったのはガッツ石松のみ。
それ以外で挑戦した日本人は5人いたが、いずれもKO負けしていた。
しかも1977年のバスソー山辺が最後の挑戦者。
坂本博之の挑戦は28年ぶりのことだったのだ。
それくらいライト級で世界チャンピオンになることは難しいことだった。

しかも坂本博之は170㎝で、骨太で筋肉質なため普段は73㎏。
ライト級は-61.2kg。
10㎏以上の減量があった。
試合が決まるのはだいたい2、3か月前。
すると坂本は冷蔵庫を空にする。
もしあればつい口にしてしまうかもしれないからである。
そして試合1週間前までに9㎏落とし、
最後の1㎏は脱水状態になるまでサウナに入りながら大量のガムを噛んで唾液を出す。
通常、人間の体に70%以上あるといわれる水分が
最後は20%という状態になるという。
3度目の世界挑戦、ヒルベルト・セラノ戦

坂本博之は2度の世界戦敗北から立ち上がり、以後、数年間、連勝した。
そして2000年1月、3度目の世界挑戦を行った。
相手はヒルベルト・セラノ。
1R55秒、坂本博之は右フックでセラノをダウンさせた。
2分10秒には左フックで2度目のダウンを奪った。
2R、セラノのパンチで左目の下を割られ、右目のまぶたも多いなダメージを負った。
5R2分27秒、坂本博之の右目にドクターチェックが入った。
そしてレフリーは試合をストップした。
坂本博之はTKO負けとなった。
畑山隆則

元世界スーパーフェザー級チャンピオン、畑山隆則は
階級を1つ上げてライト級に挑戦し、2階級制覇に挑んでいた。
そして坂本博之を破ったヒルベルト・セラノをKOし見事それを達成した。
その試合後のリング上、畑山隆則は叫んだ。
「次は坂本選手と戦います。」
畑山隆則は坂本博之についてこう語っている。
「坂本選手とはスパーリングで手合わせしたこともあり、ものすごくパワーのある選手だと認識していました。
実際、背筋力なんてプロレスラー並みの数値を叩き出すらしいし、
たぶん、ボクシングよりもストリートファイトで強いタイプでしょう。
男として、ぜひ一度戦ってみたい相手でした。」
4度目の世界挑戦、畑山隆則戦

2000年10月11日、
横浜アリーナ
WBA世界ライト級チャンピオン、畑山隆則 vs 坂本博之
熊 vs 狼
パワー vs スピード
一撃 vs 連打
さまざまに表現された。
それくらい特徴を持った2人だった。
坂本博之は
背筋力の最高記録は300㎏。
同じく握力は左右共に80㎏。
打たれ強く、決して後退せずに強打を振るうパワー型。
畑山隆則は
スピード、テクニック、連打、パンチ力、フットワーク、コンビネーションを兼ね備えた万能型。
こうしてみると相反しているようにみえる2人だが共通しているところもあった。
それはハート(精神力)の強さと
単に勝つだけではなくKO勝ちを欲する打倒本能だった。
坂本博之は勝利を信じて横浜アリーナのリングに立った。
1R、
両者共に様子見もせずにいきなり打ち合いを始めた。
打たれたら打ち返す。
小手先は一切なかった。
畑山のコンビネーションと坂本の1発。
パンチこそ違え2人はどちらが強いのかを誇示しあった。
そして攻撃重視の作戦に出た。
左ガードを下げて左フックを出しやすくする「デトロイトスタイル」。
その分、防御が甘くなる危険があったが決して下がらず畑山を圧し続けた。

畑山はしっかりとガードを固めてパンチを出した。
下がるところは下がって、入る入るところは入って、決して逃げずに動き続けて、
坂本に比べて決して強いパンチではないが的確にパンチを出し続けた。
坂本博之は1R終了時、左目まぶたから出血。
9Rには左耳からも血が出た。
10R18秒、坂本博之はついに視界と平衡感覚を失い、両膝が折れ大の字になって倒れた。
タオルが投げ込まれ、坂本博之は初めてKO負けした。
「椎間板ヘルニア」との戦い、復帰戦は畑山戦から1年3か月後

セラノに負け、その7か月後に畑山に負け、これで世界戦4連敗。
世界ランキングからその名前は消えた。
30歳の坂本博之に対し、「限界説」「引退説」もあった。
しかし本人は世界チャンピオンになることをあきらめていなかった。
畑山戦の3か月半後、ジムワークを再開、
階級もスーパーライト級に上げることを決めて、新しい戦いが始まった。

しかし数日後には腰痛が発生。
「椎間板ヘルニア」と診断された。
以後、ケガとの戦いも始まった。
2002年1月5日、
畑山戦から1年3か月後、坂本博之はムアンマイ・シズソバと対戦。
1R、ゴングと共にラッシュし左ボディでダウンを奪い
立ち上がってくるところを左右のフックで2度目のダウン。
2分23秒、最後は左フックで沈めた。
坂本博之の451日ぶりの復活を超満員の観客たちが見届けた。
6月にはナンナーム・キャットプラサーンチャイを3RでKOした。
佐竹政一戦、坂本博之らしい戦い

2002年10月5日、
坂本博之は
東洋太平洋スーパーライト級チャンピオン、佐竹政一に挑戦。
勝てば東洋太平洋2階級制覇となる。
また5度目の世界挑戦へ負けられない一戦だった。
11R終了の時点でポイントでは優っていた。
しかし判定で勝つつもりはサラサラない坂本は12R(最終ラウンド)も打ち合った。
そして2分30秒、佐竹のカウンターを食らってダウン。
レフリーはスリップダウンとみなしたが、立ち上がったところをラッシュされTKO負けした。
手術、リハビリ、タッちゃん(西村達也)

9ヵ月後、
坂本博之はこれまで拒んできた椎間板ヘルニア手術を行い腰にメスを入れた。
腰にはボルトが埋め込まれ、そして2ヶ月の入院、1年以上のリハビリに取り組んだ。
ある日、坂本博之はリハビリ室で、西村達也、通称、「タッちゃん」という中学生に会った。
タッちゃんは体育の授業で頸椎を損傷し完全麻痺となり
最初の病院では「一生寝たきり、話すこともできないかもしれない」といわれたが
「4%の確率だが自力で話せ車椅子で社会復帰できるかもしれない」といわれドクターヘリで転院し手術を受けた。
「もうやめようか」
「いや、もう1回」
タッちゃんは理学療法士がいくらやめようといっても、もう1回、もう1回といって立つ訓練をしていた。
その倒れそうな体を理学療法士が支えていた。
坂本博之はその少年に「熱」を感じた。
時間を忘れみていると1時間が過ぎたがやめる気配はなかった。
リハビリが終わるのを待って坂本は車椅子に乗ったタッちゃんに近づいていった。
「すごいねえ
君、すげえ根性あるねえ。」
タッちゃんは微笑んだ。
以後、2人は毎日リハビリ室で顔を合わせた。
そしてそれぞれのメニューを黙々とこなした。
「跳び箱から落ちる?
みんなあることじゃないですか。
俺だって何回こけたかわからないのになんでタッちゃんはそうならなくちゃいけないの?
それを考えると本当に嫌になる。
僕はボクシングを続けたくて手術に踏み切った。
でも不安はあった。
でもね、
タッちゃんに会って弱い自分が消え去った。」
まだ退院の日どころか、腰がどうなるかもわかっていなかったが坂本博之はタッちゃんにいった。
「タッちゃん
俺決めたから
必ずリングに復帰してみせる。
俺の復帰戦に招待するから、それまでに東京に来られるようにリハビリ頑張ろうよ。」
坂本博之はタッちゃんだけでなく壮絶な闘病生活を送る人たちと出会って
改めて人間は強い気持ちを持てばなんでもできるんだなと感じさせられた。

2003年8月に退院。
3ヵ月後、腰のコルセットが取れた。
ケビン山崎トレーナーの指導で腰に負担がかからないように下半身強化を始め
4月にはジムワークと本格的なトレーニングを開始した。
だがブランクは大きくスパーリングで新人にパンチをもらった。
しかしボクシングができることがうれしかった。
タッちゃんも1年7か月ぶりに中学校に戻り奇跡の社会復帰を果たした。
2人は定期検診で再開し
タッちゃんは
2年近く授業を受けていないのに県内で1番難しい高校に合格すること。
そして将来パソコン関係の仕事に就きたいということを打ち明けた。
坂本博之は
「復帰戦は日本ランカーと戦う」といった。

「復帰戦のことですがお願いがあります。
ぜひ相手は日本ランカーにしてください。」
坂本博之は角海老宝石ボクシングジム会長、鈴木真吾に頭を下げた。
通常、ケガで2年以上試合をしていない選手がいきなり日本ランカーとやるなんてあり得ない。
まず実戦感覚を取り戻すためにランカー以外と選手と戦うのが常識である。
しかし絶対に逃げない、絶対に曲げない坂本博之は、日本ランキング4位、柏樹宗との試合を決めた。
柏樹宗戦、2年ぶりの試合でいきなり日本ランカー

2005年春、
坂本博之が復帰戦に向けてジムで汗を流しているとき
タッちゃんは第1志望ではなかったものの第2志望の高校に合格した。
「僕は思うんです。
夢を持って突き進むのは体がどうのこうのとか年齢なんて関係ない。
若いからとか年をとっているからダメとかそういうのは絶対にない。
人間誰だってやれる。
タッちゃんを知っている人はみんなそれを感じるはず。
今度はオレがそれを証明する。」
そして2005年5月12日、
坂本博之は2年7か月ぶりにリングに上がり柏樹宗と戦った。
1Rから両者は壮絶に打ち合い坂本博之のハンマーのようなフックは会場は沸かせた。
しかしブランクのせいかラウンドごとに失速。
4Rの終わりにはコーナーに詰められてサンドバックのように打たれまくった。
そして5R、意識もうろうののまま打たれ続けレフリーが試合をストップした。
坂本博之はTKO負けとなった。
「タッちゃん、勝てなくてごめんな。
でも俺は自分自身にウソをついていないから。
そういう試合をしたと思う。
負けたけどまだあきらめない。
次は頑張るからな。」
坂本博之はタッちゃんの車椅子を押しながら後楽園ホールを出た。
筑波大学でトレーニング、飽くなき向上心

「坂本はもう終わった。」
「まだやるのか?」
そんな声も聞こえる中、坂本博之は毎日ジムに通った。
そして自ら考えて新しいトレーニングも導入した。
週1回、東京の自宅から車で1時間、65㎞離れた茨城県つくば市にある筑波大学のトレーニングクリニックに通った。

そして年齢と共に落ちていくといわれる反射神経を鍛えて無駄のない動きをする訓練を始めた。
器具は使わず、ただいろいろな方向に足を運ぶステップを繰り返すトレーニングだった。
これを3時間行った。
股関節周辺の筋肉を強くし反射神経を鍛えることで動きが速くなる効果が期待できるという。
ボクシングのジムでの練習でもストレッチに多く時間を割いた。
また相撲のしこも取り入れた。
ラストファイト

2006年1月14日、
柏樹戦から8か月後、坂本博之はリングに上がった。
1991年にデビュー後、19連勝、
「平成のKOキング」と呼ばれ
これまで世界戦4連敗、
その後、2度リングに上がって2連続TKO負け。
すでに35歳。
しかし坂本博之の魅力はすでに勝ち負けを超えていた。
リングの中でも外でも、その生きざまは多くの人に強烈なインパクトを与えた。
坂本博之は対戦相手、マンコントーン・ポンソムクワームを4度ダウンさせて沈めた。
2002年6月以来、1323日ぶりの勝利だった。
「俺のボクシングの第1章がKO勝ちなら
第2章は負けのスタートなんです。
そこからどうやって這い上がっていくか。」

2007年1月6日、
タイライト級1位カノーンスック・シットジャープライ戦は7R終了負傷判定で引き分け。
惜しみない歓声と拍手が降り注ぐ花道を坂本博之は控室に向かった。
そして15年にわたる壮絶なプロ生活を終えた。

SRSボクシングジム

2010年8月8日、
坂本博之は東京都荒川区に「SRSボクシングジム」を開いた。
児童養護施設を卒園後、プロボクサーを目指す子ども達を受け入れ、
経済的な援助をしながら、自立することをサポートし、ボクサーとしての育成。
児童養護施設出身のプロボクサーをはじめ、多くのプロボクサーを育成すると同時に、不登校や自閉症など、様々な悩みを抱える子ども達も受け入れている。
SRSジムからは、
児童養護施設出身であり、ジムのプロ第1号である錨吉人、若松一幸など多くの新星が誕生している。
児童養護施設への支援活動

また坂本博之は
子供たちに夢と勇気を与えるため、全国の児童養護施設を足を運び講演活動を行っている。
坂本博之が目指すのは、
「児童養護施設への支援活動の継続」
「SRSジムから世界チャンピオンを輩出すること」
この2つの夢の両立である。
しかし支援活動とジム運営の両立は様々な困難があり
いま現在、さまざまな問題に直面している。
しかし坂本博之は
その「夢の連鎖」を信じ
まだ闘い続けている。

