坂本博之
あくまでも強打にこだわる無骨なファイター。
器用さは無いが強靭な精神力とタフネスは絶大。
圧倒的な存在感でファンを引き付ける。
虐待、心も体も飢えていた少年時代
両親が離婚し、母と1つ下の弟と3人暮らしをしていたが
小学1年生になった春、母は仕事のために東京に行き、坂本博之と弟は知らない遠い親戚に預けられた。
親戚のオジサンはなにかあるとすぐに怒鳴り殴る人で、
布団はあったが寝る場所は硬い床の上。
「水道代がもったいない」とトイレは公園。
食事は、家ではもらえず、学校の給食だけの1日1食。
近所の川で魚やザリガニやタニシをとったり
誰かが食べ物を落とすのを期待してスーパーの出入り口近くで待ったりした。
生きるために仕方ないと自分に言い聞かせながら、食べ物を万引きをすることもあった。
和白青松園
小学校2年生のとき、児童養護施設「和白青松園」に入った。
離婚、虐待、家出など様々な家庭事情で引き取られた2歳から高校生までのたくさんの子供がいた。
2段ベッドだが自分の寝る場所ができた。
食事に朝夕に加えおやつも出た。
トイレも自由に使えた。
また集団生活の「温もり」があった。
人の痛みがわかる子供が多く、年上の年下の面倒見もよく、いじめなどはなかった。
しかしワルかった。
坂本も中学生からもらって小学2年生でタバコを覚えた。
小学校3年生のとき、
夕食を終えた後、食堂のテレビをみていると
2人の男が血を流しながら戦っていた。
ボクシングだった。
施設に入り空腹と孤独は満たされた。
しかし「感情」は閉じ込められたままだった。
ブラウン管の中のボクシングの世界は光り輝いていた。
それに比べて自分はなんて暗い閉じ込められた世界にいるのか。
ボクシングは坂本博之の心の中に火をつけた。
やがて母親が東京からきて
坂本博之と弟は和白青松園を卒園し3人で東京でl暮らすことになった。
東京
大都会東京
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東京ですべてが新しい人生が始まった。
家は台東区竜泉のアパート。
高層ビル、人の海、大都会は刺激的だった。
母は夜に仕事に出て朝の5時に帰ってくる。
朝食はつくってあったが、夕食は置かれた1000円でホカ弁でから揚げ弁当を買った。
ケンカはこちらから売ることはなかった。
しかし売られたら逃げなかった。
相手は1人のときもあったし、複数のときもあったが負けた記憶はない。
2人組にナイフを振り回されたときは背筋に冷たい汗が流れる気がしたが、それも一瞬だった。
「俺の右ストレートの方が早かったんよ。」
やるときは徹底した。
戦意を完全に剥ぎ取るまで容赦しなかった。
終わればぐったり横たわる相手のそばにしゃがみ、
「これで終わりにしようや。」
とタバコを差し出すのが常だった。
「殺されるかと思ったよ・・・」
怯えきった目が安堵の色を浮かべるまで傍らにいた。
体の傷はいつか癒える。
だが心の傷は放置しておけなかった。
男がその後、堕ちていくのが嫌だった。
「ま、虫のいい話なんだけどね。
心のケアというのかな、それはしてた。」
勉強はダメだった。
特に数学は8+5はわかるが-8+5となるとわからなかった。
高校受験のために夏から猛勉強を始めた。
学校から帰ってから同じクラスの成績のいい同級生に頼んで家庭教師をしてもらって勉強をした。
そしてさいたま市南浦和市にある私立小松原高校に合格した。
高校入学と同時に坂本博之は弟と2人暮らしを始めた。
深夜のビル清掃業や土木作業員などアルバイトも始めた。
友達と遊びまくった。
免許とカワサキ・GPZ(バイク)も手に入れた。
高校では最高に楽しい3年間を送った。
2度目のプロテストで合格
坂本博之は、高校卒業後、角海老宝石ジムに入りボクシングを始めた。
角海老宝石ジムは帝拳ジム、協栄ジムと肩を並べ、年間興行数、練習生数は全国でもトップクラスのジムである。
不遇の時代に夢を与えてくれたボクシングだったが、数か月後に受けたプロテストは不合格だった。
まだその頃は高校時代の仲間と夜遊びをしていたしタバコも吸っていた。
プロテストの前日でさえ夜中の2時まで遊んでいた。
不合格になって数日後、江戸川区小岩に引っ越した。
高校時代の仲間との関係を断ち切るため、
またロードワークがしやすい河川敷があったからだった。
ジムも角海老宝石ジムから勝又(現:角海老宝石勝又)ジムに変えた。
以後、妥協しなくなった。
すべてをボクシングに集中させた。
1年半後、2度目のプロテストで合格しプロボクサーとなった。
無敗のまま日本チャンピオン、肩から骨の欠片が数十個
デビュー後、7連勝で全日本新人王獲得。
以後も連勝し12戦全勝(10KO)。
そして日本チャンピオン、リック吉村に挑戦した。
リック吉村は15勝(9KO)2敗、J・ウェルター級とライト級の2つの階級で日本チャンピオンになったテクニシャンだった。
8R、坂本の左フックがリックの顎に入ってダウン。
起き上がってきたリックを坂本は右ストレートで2度目のダウンを奪った。
9R、坂本はラッシュしレフリーが試合を止めた。
坂本博之は日本チャンピオンとなった。
試合後、リック吉村は病院で右肩の手術を受けた。
坂本のフックを受け砕けた肩から骨の欠片が30個出てきた。
KO命
「『効いたパンチは無かった。』
『今日は調子が悪かった、もう一度やりたい。』
自分が勝った相手にあれこれ言い訳されることほどムカつくことはない。
判定で下された勝ち負けは相手に負けた理由を正当化させてしまう余地ができてしまう。
圧倒的な勝ち方、完璧なKOで勝たなければ意味がない。
顎の骨でも肋の2、3本でもいい、骨を折るくらいのパンチを浴びせる。
大の字に寝かせ、自力では立てず、担架で運ばれ退場するような強烈なKOだ。
そういう倒され方をしたら完敗を認めるしかない。
心から敗北を認めるしかない。
坂本という名前を聞くだけで逃げたくなる。
雪辱なんてしたくない。
それくらい恐ろしいイメージを与えたい。
何の恨みがなくてもそういう気持ちでボクシングをしてきた。
KO命。
ボクシングはスポーツではなく勝負事なんだ。
勝者だけが光を浴び自らも輝き光放つ、敗者は暗黒のどん底に陥る。
そういう残酷なまでに道をはっきり分ける勝負。
それがボクシングの本質なのだ。
そういう勝負をして勝てば「どうだ!これがオレだ!坂本博之だ!」と見せつけることができる。
大差のポイントで勝っていても安全運転で勝ち逃げしようとしたり
逆転を恐れ倒せるチャンスを放棄したり
絶対しない。
チャンスと見たら一気に攻め立てる。
ボクサーにもそれぞれ考え方があるから
『内容はどうでもいい勝てばいい』
『判定勝ちも勝ちは勝ち』
っていうようなボクシング哲学も否定する気は全然ない。
でも1つだけ言える。
そういうボクサーはオレみたいな奴とやったら負けるよ。」
(坂本博之)
殺気と拳の力は比例する
「ハードヒッター、倒し屋、デビュー当時からKO率が高いオレはそう呼ばれた。
『僕はパンチがないから・・・』
『パンチがあっていいね・・・』
たまに他のボクサーから言われる。
確かに腕っ節には自身があるし、肉体的素質は恵まれているほうかもしれない。
でもオレは肉体的なパンチ力だけで倒してきたんじゃない。
オレは「殺気と拳の力は比例する」という考えを持っている。
殺気を出すことでパンチ力は増強するって信じている。
執着心、野望、集中力、危機感、勝利へのポジティブでl強烈な精神力が潜在能力を引き出す。
これが殺気を生む。
拳に力として伝わる。
相手は倒れる。
そういう強いココロの力を持つボクサーはハートのあるパンチを打つ。
肉体的なパンチングパワーが乏しくても殺気を出してハートで相手を倒すことはできる。
パンチがないから倒せないというのは言い訳だと思う。
逆に倒れるのその殺気に負けてしまっているのだ。
『顎が弱い』
『ボディがもろい』
『打たれ弱い』
見ている人はは簡単にそう評価する。
これもオレは「打たれ弱い体質なんていうものはない」と思っている
ボクサーが倒れるときは
肉体的なコンディショニングや強さを足りない、やる気が足りない、
相手の殺気や圧力に耐え切る精神力が足りないとか、
なにせ気が弱っているときなんだ。
「いくらパンチをもらっても俺は絶対に効かない、倒れない」
そう決めて戦えば絶対に効かないし倒れないと思っている。
俺は絶対に倒れないよっていう気迫を出せば倒れない。」
(坂本博之)
ファン・マルチン・コッジ、1階級上の元世界王者と対戦
17戦目で世界ランク入り(WBA11位)を果たした。
その後も2勝し19連勝。
そしてファン・マルチン・コッジとの試合が決まった。
コッジは
前WBAジュニアウェルター級の世界チャンピオンで
73戦68勝(41KO)2敗3分け、
2度世界チャンピオンになった実績を持っていた。
坂本博之は3Rにボディーにアッパーをもらって初めてダウンした。
立ち上がるもコッジのスパートに再びダウン。
しかし坂本博之は再び起き上がった。
「あきらめずに頑張れば必ずチャンスはある」
以後はダウンすることはなかった。
しかしKO負けこそしなかったものの完敗だった。
この年の坂本博之の成績は4勝1敗。
KO勝ちは1度もなかった。
何かおかしかった。
新人王、日本チャンピオンとなって立場が変わり
嫌なしがらみが増え、
人間関係も悪化し
人間不信に陥っていた。
何よりも大切な気力が薄れていた。
皮肉なことに「殺気とパンチ力は比例する」という自論を自ら敗北することで証明してしまった。
渡米、アメリカでの経験をきっかけに復活
「このまま気力がわかないままでは絶対ダメになる。
これまでと同じ練習をしたらオレは終わってしまう。
この環境を何とか変えないと・・・」
坂本博之はアメリカに渡った。
ラスベガスに到着するとすぐに市内のジムに直行した。
異国のボクシングの練習風景は坂本博之に初心を取り戻すきっかけとなった。
トレーナーは決して練習を押しつけない。
なにより選手の意志が尊重される。
みんな伸び伸びとボクシングをやっていた。
いつの間にか失っていたボクシングの楽しさがそこにはあった。
そして坂本博之はジェフ・メイウェザーとの試合で判定勝ちした。
10日間のラスベガス滞在を終え、帰りの飛行機の中で坂本博之はジムを変えることを決めた。
フセイン・シャー
坂本博之は5年ぶりに角海老宝石に戻って練習を再開した。
そしてフセイン・シャートレーナーとコンビを組むことになった。
フセイン・シャーは
パキスタン代表としてソウルオリンピックのミドル級で銅メダルを獲得した後
イギリス、アメリカ、日本でプロのリングで活躍した。
幼い時に母を亡くし父が再婚すると継母から家を追い出され路上暮らしを始めた。
7歳のある日、さまよっているとボクシングジムでサンドバッグを打たせてもらった。
たまっていた感情を拳に込めて思い切り叩いた。
「爽快だった」
その後ボクシングにのめりこんでいった。
似た生い立ちを持つ2人はすぐに打ち解けた。
体づくり、気持ちの持ち方・・・
坂本は5歳上のフセインからいろいろなことを学んだ。
再びボクシング漬けの生活が始まった2か月後、ロジャー・ボレロスをTKOで破って東洋太平洋チャンピオンとなった。
同タイトルは2度防衛。
コッジに負けて1年、再び世界が視野に入ってきた。
「世界チャンピオン」という夢に向かって壮絶なトレーニングが始まった。
通常の練習メニュー以外に
逆立ち状態で腕立て伏せ、
寝た状態から、トレーナーにふくらはぎを押さえてもらい、腹筋と脚の筋力だけで立ち上がる、
上体を起こしたところでトレーナーに突き飛ばしてもらう腹筋運動、
しゃがんだ姿勢から幅跳びをする「カエル跳び」
など世界チャンピオンたち行ったトレーニングを加えた。
フセインは常におだてたりほめたりしてモチベーションを上げ坂本にパワーを与えた。
また
「倒れるのは相手のパンチが痛いからではなくてその衝撃で脳が揺れることで倒れてしまうんです。」
と徹底して走って下半身を鍛えた。
東洋太平洋のタイトルを2度防衛した後、世界挑戦が決まった。
届きそうで届かない世界
1度目の世界挑戦、スティ-ブ・ジョンストン戦
初の世界戦の対戦相手はスティ-ブ・ジョンストン。
アマチュアで257戦9敗。
プロに転向後、21勝(13KO)無敗の世界チャンピオンだった。
対する坂本博之は29戦目だった。
「技術では絶対に勝てない。
あの教科書のようなスタイルをオレの力と精神力でムチャクチャにぶっ壊してやる。」
(坂本博之)
試合で坂本博之はジョンストンのジャブに屈せず前へ進んだ。
得意のフックで何度もコーナーに押し込んだが判定で負けた。
動画:スティーブ・ジョンストンvs坂本 博之 WBC世界ライト級タイトルマッチ(dailymotion)
http://www.dailymotion.com/video/x49he59