古賀稔彦 必殺の背負い投げ、絶対に勝つという決意、そして挑戦者として自分と相手に挑み攻め続けた

古賀稔彦 必殺の背負い投げ、絶対に勝つという決意、そして挑戦者として自分と相手に挑み攻め続けた

小が大を制することができるのが柔道。しかしそこには小さな人間が大きな人間に挑んでいく勇気が求められる。古賀稔彦は「絶対に勝つ」と決意しつつも、安全な試合をするのではなく、挑戦者として相手に、そして自分に挑み攻め続けた。


九州の柔道少年

古賀稔彦は
小学校1年生のとき柔道を始めた
やがて家でも練習をやり始め
朝、自転車に乗る父親の背中を追ってランニングし
千栗八幡宮につくと
その石段を10往復した
学校から帰ってくると
家の庭に深い穴を掘って据えられた鉄柱に
巻いたチューブを握り
打ち込み(投げ技の練習)をした

古賀稔彦が毎朝、10往復した千栗(ちりく)八幡宮の石段

講道学舎

小学校卒業後
佐賀県から東京の講道学舎に入った
(また世田谷区立弦巻中学校に入学した)
講道学舎は
全国から柔道の強者を集め磨き上げるために設立された私塾で
対象は中学・高校生で全寮制
道場、学校長の推薦
家族の承諾
そしてなにより本人の熱意によって入門が許される
5:30起床
ランニング、うさぎ跳び、腕立て伏せなどトレーニング
そして道場で技の練習
寮母のつくる朝食を食べて学校に行き
授業が終わると道場にいき20:00まで練習
その後、夕食、風呂、就寝
これが1日のスケジュールだった

岡野功

古賀は
岡野功に
とくにその背負い投げに影響された
それまでは膝をついた背負い投げか
がに股での背負い投げだったが
普段から内股気味で歩き
爪先と踵のラインが平行になるように心がけ
足と肩のラインが平行に入る背負い投げを目指した

吉村和郎

あるとき練習中の道場に
スーツを着て殺気をみなぎらせて歩く男が入ってきた
古賀はヤクザだと思ったが
それが吉村和郎だった
吉村は練習では鬼軍曹のようだったが
道場の外ではいい兄貴だった
ある日の練習後、突然、吉村がいった
「明日野球やるぞ」
翌早朝
吉村を先頭に坊主頭の寮生は近所の公園にいった
勝つか負けるかの柔道に明け暮れる少年たちにとって
楽しむスポーツは非常に面白く興奮した
ワーワーと大声で遊んでいると
公園の管理人が走ってきた
早朝、しかも無断使用だったからだ
「逃げろ!」
吉村の声で全員が公園の金網をのぼって逃げた
そして管理人が消えると
また金網をのぼって中に入り野球を始めた
するとまた管理人が追いかけてくる
それを繰り返しているうち疲れてしまい
ついに管理人が追いつくのを待った
三十路の男と坊主頭の子供たちをみて管理人はいった
「あんた誰だ」
「・・・・・です」
吉村は自分の先輩の名を告げた
また中学の全国大会の1週間前
吉村は古賀たちを渋谷の映画館に連れて行った
映画館に坊主頭を並べて座っていると
シルベスター・スターローン主演の「ロッキー」が上映された
映画館を出るとき古賀はロッキーになっていた
試合当日
試合会場に向かうワゴン車の中でも
「ロッキーのテーマ」が流された♪
古賀は
「やってやるぞ!」
と燃えた
古賀は吉村から
妥協しないこと、
自主性、
そしてリラックスすることの大切さを学んだ

三四郎と呼ばれた世田谷学園高校時代

古賀稔彦は
世田谷学園高校に進学した
世田谷学園高校柔道部は
古賀稔彦、吉田秀彦、瀧本誠のオリンピックメダリストをはじめ数々の柔道選手を輩出
全国高校柔道選手権では10回の優勝を誇り
これは国士舘、天理、東海大相模などの強豪を抑えて断トツの1位
以下は、古賀が高校に入った時のスポーツテストの数値である

166.5cm
73kg
胸囲98cm
握力右:50kg左:49kg
背筋力 190kg
懸垂 25回
肺活量 4800cc

特に背筋力が強い
世田谷学園高校チームは
講道学舎の選手で成り立っていたが
みんな体は小さく「小兵軍団」と呼ばれた
古賀は団体戦では大将として100㎏超級を相手にすることもあったが
「絶対に勝つこと」
そして安全な試合をするのではなく
「挑戦者として相手に挑むこと」
この2つの決心を胸に戦った
高校3年生の時には
社会人に交じって日本一を決める大会(全日本柔道体重別選手)に出た
この頃から「昭和の三四郎」「平成の三四郎」などと呼ばれるようになった

日体大

高校を卒業し、同時に講道学舎も卒舎すると日本体育大学へ進学した
ディスコ、カラオケ、ボーリング、居酒屋
これまでになかった自由を満喫した
しかしたとえ酒に酔い深夜に帰宅しても
5:30には起きて講道学舎でやっていたのと同じ練習をこなした

ケガから生まれた必殺技

大学1年生のとき
山梨国体の準々決勝で背負い投げをかけようとした瞬間
ブチッと音がして右肘に電流が走った
しかし棄権せずにテーピングで固定して試合を続けたが
試合後の診断結果は右肘靱帯損傷
ケガの理由は
自身で背負い投げがいつの間にか力任せになっていたからだとし猛省した
憧れの岡野功の背負い投げを忘れていた
「もう1度背負い投げの基本に戻ってやり直そう」
そう誓った
鏡の前で打ち込み{投げ技の練習}をして
姿勢、腰、肘、手足の指先、目の動きまでチェックした
なぜこの足の位置と形なのか
なぜこの姿勢なのか考え
基本を正確に意識させていった
チョークで足の位置を書いて1人打ち込みにも励んだ
そして自分の体を軸にして相手を巻き込むように回転させる背負い投げが生まれた

世界選手権、オリンピックで敗れる

大学2年生のとき
全日本柔道体重別選手権-71kgで優勝した
(このタイトルは6連覇)
しかし同じ年の世界選手権でまさかの3回戦敗退
さらにその翌年の
ソウルオリンピックでも3回戦敗退
このとき日本中が静まり返った
出国するときは
たくさんの人に囲まれ持ち上げられた
負けて帰国すると
多くの人がいなくなり
態度が手のひらを返したように変わった人がたくさんいた
敗戦ショックの加え人間不信に陥った
暗闇の中で古賀は自問自答した
「なぜ負けたのか?」
答えはかんたんに出た
「自分が弱かったからだ」
「だったらどうすればいいのか?」
これもかんたんだった
「もっと強くなれるように練習するだけだ」
また何事もなかったように接してくれる人もいた
敗北を自分のことのように悔しがってくれる人もいた
古賀は応援してくれる人のため
そして自分の誇りをかけて
もう1度戦おうと思った

3度目の世界挑戦

1990年、
古賀稔彦は
ユーゴスラビア・ベオグラードの世界選手権に出場した
1度目の世界選手権、ソウルオリンピックと2度、世界の壁にはじき返され
3度目の世界挑戦だった
準決勝で李選手(北朝鮮)に1本勝ち
決勝では
前回の世界選手権で負けたスウェン選手(アメリカ)を
1本背負いで「効果」を奪い勝った

無差別級トーナメントに出場

1991年、
古賀稔彦は
無差別級(体重制限なし)で真の日本一の柔道家を決める全日本柔道選手権大会に出場した
理由は日本一の柔道家になるためだった
100㎏超級の猛者が数多く出場する中、71㎏の体でエントリーしたのだ
東京予選を3位で通過し
本戦でも
大木をなぎ倒すように勝ち
決勝に進んだ
相手は重量級の世界チャンピオンである小川直也
両者は技をかけ合いプライドをぶつけ合ったが
最後は古賀の体が宙を舞い畳に叩きつけられた
よくやったと称える声援の中で
古賀は涙をこらえるのに必死だった

壮絶!バルセロナオリンピック

1992年、
古賀稔彦は
世界選手権を2連覇
講道館杯と体重別の全日本も連覇した
そして1993年、
スペインのバルセロナオリンピックを迎えた
24歳
2度目のオリンピックだった
7月21日に現地に入り
そして現地での練習初日
古賀は講道学舎の2年後輩で-78㎏級代表、吉田秀彦と練習した
途中、古賀の足が滑り自分と吉田の体重が古賀の左膝にかかった
「ボキッ」
と音がして痛みで倒れこんだ
練習場が畳ではなく滑るマットだったため起こった事故だった
「左膝靱帯損傷」だった
しかも通常なら3週間の安静が必要なほどの重症だった
試合は10日後だった
「5月に左腓骨を痛めていた秀彦が稔彦と稽古したいといってきた
ケガする危険があるから代表同士の乱取り(スパーリング)などありえないけど
吉田のために認めた
ケガをした稔彦も大変だったけど
させた秀彦のショックも大きかった
中学からずっと一緒だからなおさらだよ」
(2人を中学から指導しオリンピックコーチだった吉村和郎)
講道学舎の先輩後輩だった2人は選手村でも同部屋だった
コーチ陣は部屋を別にしようとしたが
吉村は
「別にしてもいいことはない」
と反対した
吉田は歩けない古賀の足となった
自分の練習が終わるとすぐに動けない古賀の部屋にいき
「調子はどうですか」
と聞いた
患部を冷やす氷を取り換え
洗濯をし
食事を運んだ
気分転換にと古賀を自転車に乗せてビーチにも行った
古賀は試合までケガの治療と減量が課題だった
体が動かせない状態で4㎏減量しなければならない
「古賀先輩は減量も大変で
毎日カロリーメイトだけ
それでも絶対に弱気はみせなかった
「大丈夫だから」って
普通じゃないですよ
絶対無理だと思った
練習どころか歩けないんだから」
(吉田秀彦)
そして吉田秀彦はオール1本勝ちで優勝し金メダルを獲得した
「今日の金メダルは半分です
明日、古賀先輩が金メダルを獲って初めてこのメダルが1つになります」
(吉田秀彦、試合後のインタビュー)
そして帰ってきて古賀の部屋に来た吉田は
金メダルのことは一切しゃべらず
古賀の左膝に両手を当てて祈っていた
「1番つらかったのは自分が金メダルを取った夜
試合前日の先輩と顔を合わせるのが嫌でリビングで寝た」
(吉田秀彦)
7月30日
いよいよ試合の日
膝に消炎剤を注射した
医師が注射するとき古賀の手足をコーチが押さえつけた
6か所の注射で
悪くもない場所に注射するとそこの筋肉まで麻痺してしまうからだ
コーチたちは古賀の痛さを紛らわそうと歌を歌った
40を超えた大男たちの歌う歌は不気味だったが
彼らはみんな真剣だった
注射をしてテーピングで固め
ケガをして以来の柔道着に袖を通し
ぶっつけ本番で畳に向かった
古賀は2回戦から登場
開始20秒、巴投げでバルガス選手(エルサルバドル)に1本勝ち
3回戦は
石承勝選手(中国)を右小内刈りで投げ技ありで優勢勝ち
4回戦は
終始攻めてブラハ(ポーランド)に判定勝ち
準決勝は
トッド選手(ドイツ)にケガがうそのように鮮やかな1本背負いを決めて1本勝ち
決勝は
ハイトシュ選手(ハンガリー)に苦戦したが3-0の判定で金メダルを獲得した
帰国後、
吉村が2人を病院に連れていき精密検査を受けさせた
結果
吉田秀彦は腓骨が折れていた
折れた足で全試合1本勝ちで優勝していた
また古賀稔彦は
「普通なら歩けないのに」
とその膝をみて医者はあきれた
そしてさらにいった
「胃に穴が開いています」
強烈なストレスで胃潰瘍になっていた

バラ色の生活を捨て復帰、そして敗退

新風

復帰戦を敗退しても
「もう1度夢や目標をもってやっていこう」
という決意は変わらなかった
ただトレーニング法を変えた
「前の自分に戻らないと」
と頑なに同じトレーニングを繰り返していたが
「いまできないことはできないと認めよう
そこを出発点としよう
新しい自分をつくっていこう」
と考え方を切り替えた
プロ野球の2軍の球場でノックを受け
フリーバッティングでは腰のキレとバランスを養うために左右のバッターボックスに入った
またテニスやエアロビクスもやった
1995年4月、
世界選手権の最終予選となる全日本体重別選手権の-78kgで優勝
同年、9月
千葉幕張で開かれた世界選手権でALL1本勝ちで優勝した

悔し涙のアトランタオリンピック

世界選手権で全試合1本勝ちし復活を果たした古賀稔彦は
翌年に行われるアトランタオリンピックでの2大会連続金メダルが期待された
果たして決勝まで順調に勝ち進んだ
決勝の相手はブーラ選手(フランス)
1年前の勝った選手だった
ブーラ選手が攻めないために審判は反則ポイントを与えた
それでもブーラ選手は攻めず反則ポイントを重ねた
あと1回反則すれば「反則負け」になってしまう
思いもかけず優勢となった古賀は思った
「楽勝だな」
一方、ブーラ選手は後がなくなり
今までが嘘のように攻め始めた
緊張の糸を切ってしまった古賀は守勢に立ってしまい
今度は自分が反則ポイントを与えられていった
そして試合は終わり
判定で負けた
古賀は泣いた
試合に負けたことではなくし
甘い考えに陥ってしまい
気が緩み緊張感を切らしてしまった自分が悔しかった

挑戦する意志を持ち続け2年5か月ぶりの復帰戦

「挑戦する意志を持ち続ける限り人は挑戦者であり続けることができる」
古賀稔彦はそういって
アトランタ後も
試合を目標に練習を重ねた
アトランタに残した弱い自分に勝ちたかった
もう1度オリンピックを目指し
その過程で弱い自分に負けたことを克服して行こうと思った
そして1998年、
2年5か月ぶりに講道館杯-81kg級に出場し3位となった
そして翌年も3位だった
情熱が衰えることはなかった
シドニーオリンピックが目標だった

シドニーオリンピックへの挑戦

1999年12月、
古賀稔彦は
シドニーオリンピック代表第1次選考会で3位に入り代表候補に残った
そして2000年4月、
最終選考会である全日本柔道体重別選手権に出場したが
シドニーへの切符をつかむことはできなかった

指導者に

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