山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 

山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 

全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、528勝16敗15分、203連勝、外国人選手には1度も負けなかった。


山下泰裕 ハイライト動画

もっこす(強情な人)

「康裕は大事な初孫だ
どぎゃんかして丈夫で強か子に育てんば・・・」
娘が産んだ赤ん坊をみて山下泰蔵は思った
そして生後30日の山下康裕を
銭湯につれていき
からだを十分温めてから
肌が赤くなるまでヘチマでこすり冷水を浴びせた
(皮膚摩擦と冷水浴)
それをみた近所の人は
「あんたは赤子ば殺す気か」
と止めたらしいがやめようとしなかった
そしてミルクのほかに
鯛の骨と身を砕いて煮詰めた鯛のスープやふぐちりのスープ
野菜スープ、果物のジュースも飲ませ
離乳食になると
毎日、刺身を食べさせた
そして孫は
「第5回熊本県赤ちゃんコンクール・幼児の部」で最優秀児に選ばれた

祖父、山下泰蔵は
八代海に面する不知火町(現:宇城市)松合の漁師の家に生まれ
「鯛蔵」と名付けられたが
けんかっ早く、けんかの度に「くされ鯛」といわれるのが嫌で
14~15歳からずっと「泰蔵」で通してきた
若いころは大きく農業を営んだり
鉱山の事業を起こしたり
魚の仲買人として成功した
勝手気ままで奔放で活動的で太っ腹
1度言い出したら聞かないもっこす(強情)な人だった
自身の息子を幼くして医療的ミスで亡くした経験があり
孫に対する愛情は強引過ぎるくらい深いものだった
山下泰裕には
藤園中学校への入学、東海大相模高校へ転校という2度の転機があったが
どちらもこの祖父の強引さがなければ実現しなかった
そして山下泰蔵は
泰裕が首相官邸で国民栄誉賞を授与された日に息を引き取った

家は生鮮食料品店兼仲卸業をしていた
祖父、泰蔵が午前3時ごろに起きて熊本市内にある市場へ仕入れに行き8時半ごろに町に戻って来る
それから両親で仕入れた物を仕分けし
トラック2台に分かれて卸しに出掛けて行く
父、六男は無口な粘り強い人だった
山下泰裕をしかるのはもっぱら母で父はうるさいことはあまりいわなかった
しかし少年時代、山下泰裕が一番怖かったのは
気性の激しい祖父や母ではなく寡黙な父だった
無言の教育者のような父は
「柔道をとったら何も残らんような人間になるな」
といった
山下泰裕は柔道に没頭しながらも勉強をおろそかにしなかった
試合もよく見にいったが
試合が終わって人前で握手するのは祖父ばかり
父は息子の大事な試合の前になると
「願掛け」で好きなタバコを断ち
試合に勝つと真っ先に喫煙所へいきうまそうにタバコを吸った
母、倭子は、
無口な父とは対照的に勝ち気で男勝り
山下泰裕が小学校の1、2年生の頃
保育園からの友人が
同級生にいじめられているとの知らされ現場へ駆けつけ
「お前何をするんだ」
と大声で怒鳴ると
相手は泣き出した
誰かが職員室に言いに行き山下泰裕は教師からこっぴどく怒られ
母にも苦情の電話が入った
問い詰める母に山下泰裕は事実をありのままに話した
すると母は学校へ行き
「もう1度詳しい事情を調べてほしい」
と直談判した
息子は宿題をやってもいないのに
「やった」といって何度も裏切っていたのに
自分を母が信用してくれたことがうれしかった
ある日の学校帰り
友達数人でジャンケンをし負けた人がみんなのかばんを持って歩くという遊びをしていた
仲間の中に
小児麻痺を患った子がいて
その子が負けてみんなのかばんを抱えて歩いているところ
母がたまたま通りがかり烈火のごとく怒った
「泰裕! 
何ばしよっとね」
「これはゲーム
俺は悪くない」
「確かにお前はジャンケンに勝ったかもしれんけど、
何で俺が代わって持ってやるって言えんとね
それが悲しかし、情けなか」

怪童

山下康裕は
4歳(保育園児)のとき
すでに123cm、22.5kg
小学3年生くらいの体格だった
当時の山下泰裕私はよくいえば天真らんまん
悪くいえば悪ガキ!
自宅の前で遊んでいて
別の保育園に通う同級生が通り掛かると取っ組み合いのけんか
店に来ているお客さんのスカートをめくり
2階から下を通る女子生徒におしっこをかけた
5歳のとき
小学生も出ている子供相撲大会で優勝
(この大会は小学卒業まで連覇)
走るのも速くずっとリレーの選手だった
給食の牛乳の早飲み競争でも6年間、トップ
遊び場に入り込んできた理不尽な上級生に堂々と文句をいい
「マンモス」
と恐れられた
「やっちゃんが怖くて学校に行けない」
と学校に来なくなる同級生もいた
その存在だけで周囲には恐怖だった
体も力も違い過ぎた
山下にとっては軽いことでも相手の子どもにとっては大変
山下泰裕が遊び回る度に被害者が出た
母はその度に学校に呼び出され近所に謝りに回った
勉強の成績は常にトップクラスで
体育は鉄棒とマット運動が苦手
給食でも豚肉が苦手で
けんちん汁を何杯もおかわりしたとき
小さな肉のかけらをほじくり出しそれが山となった
これを担任は問題視し
給食の時間が終わってもそれを食べてしまうように指示
午後の授業中、すっと肉の山とにらみ続けた

藤壺道場

小学校4年生(9歳)のとき
藤壺道場に入り柔道を始める
藤壺清喜先生(写真)は警察官で礼儀を大事に指導していた
最初は苦労知らずのおぼっちゃんは大丈夫かと心配したが
柔道を始めて2カ月で町内大会で優勝
5年生になると県大会2位
6年生で県大会を優勝した
このときの山下泰裕を役員席から鋭い眼差しで見つめる人がいた
熊本市の藤園中学校柔道部監督の白石礼介だった
「技は知らないが動きが速い
下半身がほかの子よりうんと発達している」
白石はスカウトした
しかし山下は地元の中学へ進学するつもりだった
友達と別れるのが嫌だった
白石は練習をみに行こうと山下を誘い出した
藤園中柔道部は
県内で負け知らず
九州でもトップの実力を誇っていた
山下は夜の練習に飛び入り参加したが
まったく歯が立たない
同学年の子にも投げられた
しかもその子は山下が県チャンピオンになった時、まだ柔道を始めていなかったという
藤園中か、浜町中か
山下泰裕の心は揺れ動いた
そして最後は祖父の言葉で決まった
「藤園中に進学しろ」

白石礼介

こうして熊本市で1人暮らしをしていた祖父、泰蔵と同居しながら
熊本市立藤園中学校へ通うことになった
練習は質、量、共にかなり厳しかった
しかも休みは正月の元日だけだった
白石礼介先生は
柔道は常に真剣勝負であること
礼儀と文武両道の大切さ、
そして人間としての生き方、在り方を繰り返し教えた
「目標に向かって頑張っていく
失敗しても投げられても立ち上がっていく
決まりを守る
我慢をする
仲間と力を合わせる
弱い者に手を差しのべる
戦った相手を尊敬する
教室ではなかなか学べないがそれが人生では大事なこと
目指すのは人生の金メダルなんだ」
たとえ負けても
「よか勉強したねー」
といって怒らなかった
真夜中にそっと選手に布団を掛けて回り
ホームシックにかかった山下が週末に実家に帰ることも黙って許す優しさもあった

動く柔道

左組み

中学全勝

山下泰裕は
中1で
初段となり黒帯となった
中2のとき
東京の講道館で行われた全国中学校柔道大会で6試合連続1本勝ち
中3のときは
5試合連続1本勝ち
中学では74戦全勝だった
藤園中学も全国大会を3連覇した
山下は
ある試合で
会場に行くまでにコーラやジュースを10本を飲み
昼は2段重ねの折り詰め弁当を2つ
試合の終わった直後、コーラのホームサイズを6本
夜はカツ丼3杯をたいらげた

負けて転校

山下康裕は熊本市の九州学院高校に進学した
白石礼介が同校の監督をなったからだ
そして
「高1でインターハイ(全国高校総合体育大会)優勝
高3で全日本選手権出場」
を目標に練習に励んだ
しかし高1の金鷲旗高校柔道大会の準決勝で
吉岡剛選手(福岡県)に判定で敗れた
(中学以来全勝の記録がストップ)
白石は血相を変えて試合場に上がり主審に食ってかかって猛抗議、
さらに審判長にも悔し涙を浮かべながら抗議を続けた
そして1週間後のインターハイでは吉岡剛に勝ち優勝した
(史上初の1年生チャンピオン)
高2のインターハイでは準決勝で松井勲(岐阜県)に負けた
練習相手の不足が原因と思われた
「松井に負けてどうするか
熊本におったっちゃこれ以上伸びんぞ
思い切って中央へ出て柔道ば勉強せんかい」
祖父の言葉が心を大きく揺さぶった
師、白石先生への思いと
強くなりたいという気持ちが入り混じり悩み苦しんだ
そして東海大付属相模高校(神奈川県相模原市)への転校を決めた
転校を決意してから白石先生や部員と顔を合わせるのがつらかった
山下が高2のこの年、
九州学院高校は
金鷲旗大会で前年に苦杯をなめさせられたライバル嘉穂高校に雪辱し初優勝を遂げ
残る1年半、全国大会優勝に向けて燃えていた
また精力を注ぎ込み手塩に掛けて育てた弟子を
悲願までもう少しのところで手放さなければならない師の無念さはいかばかりか
「キチンとあいさつしなければ・・・」
そう思いながらも足は重かった
同級生の父親に声を掛けてもらってやっと山下泰裕は道場に向かった
うつむき加減に戸を開けると道場には重苦しい空気が漂っていた
他の部員たちも気まずそうに下を向いていた
「よう来たな」
「先生」
「わかった
もう何もいうな
これで俺とお前の縁が切れずに済んだ
よう来てくれた」
そして涙ぐみながら白石はいった
「泰裕は今日をもって九学から東海大相模へ行くわけだが
よかか
これは転校じゃなかぞ
いろんな人がいろいろいうが
泰裕は転校じゃなくて一足早う卒業していくとだけん
みんなで気持ちんよう送り出してやろうじゃなかか」
みんな涙でくしゃくしゃになった

佐藤宣践

東海大学付属相模高校は
15000坪の広大な敷地に専用の陸上競技場や野球場、武道館などを持ち
人格、人道主義に基づく教育とスポーツクラブ活動に力を入れていた
山下泰裕は
東海大学の教職員アパートに入居して新生活をスタートさせた
東海大相模高での練習は週1回
残り5日間は東海大学での練習に参加し佐藤宣践先生の指導を受けることになった

全日本選手権

4強

日本の柔道の重量級は
上村春樹、遠藤純男、高木長之助、二宮和弘が「4強」といわれた
山下泰裕は
東海大学体育学部武道科に進学した
この年の全日本柔道選手権は
モントリオールオリンピックの予選も兼ねていた
山下泰裕は
1回戦、2回戦を「有効」を奪って勝ち上がり
準々決勝で前年敗れた上村春樹とぶつかった
開始5秒、
上村の左小内刈りで体勢を崩し「有効」をとられ
またしても負けた
そして1ヵ月後に行われたモントリオールオリンピック最終選考会(全日本選抜体重別選手権)でも
遠藤純男に「効果」をとられて負けた
山下泰裕は生涯で16回負けたが
このうち上村に4回、遠藤に4回、二宮に2回、高木に1回と4強に11回も負けている

史上最年少で柔道日本一

大学1年のとき
全日本学生体重別選手権で優勝し
(史上初の1年生チャンピオン)
次の目標は全日本選手権の優勝だった
3度目の全日本選手権は
1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝をすべて1本勝ち
準決勝で高木長之助を破り4強の一角を崩した
決勝はやはり4強の1人、遠藤純男
一進一退の攻防は決着がつかないまま試合は終了
副審の旗は赤、白にわかれ
主審の手はサッと山下に上がった
19歳10ヶ月、史上最年少の日本チャンピオンの誕生だった
(以後、8連覇)
この後、
全日本選抜体重別選手権でも初優勝
世界選手権の代表にも選ばれた

最後の敗北

全日本選手権、全日本選抜体重別選手権というで2大タイトルを制した後
学生日本一を決める全日本学生体重別選手権に出場
決勝の相手は吉岡剛だった
高校時代に初黒星を喫した因縁の相手だが
前年の試合では勝っていた
しかし判定で敗れた
「日本チャンピオン、山下敗れる」
翌日の新聞にそんな見出しが躍った
「俺は日本一だ、さあ来いという気持ちが
受けて立つという受けの姿勢になり敗北につながった
大事なことは力を出し切ること
挑む柔道、攻める柔道、1本をとる柔道に徹するべきだった」
そして山下泰裕はここから203連勝する

山下時代

モスクワオリンピック

オリンピック不参加に泣かされる

闘志を失う

その後、山下泰裕は
全日本選手権を5連覇
オランダで行われた世界選手権で
10試合をオール1本勝ちし+95kgと無差別で2階級制覇
帰国後は大学院の修士論文に打ち込んだ
テーマは「著名な中学・高校柔道指導者の心理特性」
全国の指導者を訪ね歩き
面接調査を重ねて論文をまとめた
このころは指導や大学院の授業ばかり気にかかり
自分の柔道に対しては以前のように情熱を持てなくなっていた
全日本選手権で6連覇したときも、ついに燃えないままだった
4強といわれた先輩は畳を去り
勝利を積み重ねていくうち
いつの間にか現状に満足してしまっていた

斉藤仁

オレの方が強い

ロサンゼルスオリンピック

厳しい戦い

「先輩、行ってきます」

ケガで絶体絶命

ラシュワン

引退

ロサンゼルス五輪終えてしばらくたったころ
山下泰裕は東海大柔道部総監督である佐藤宣践先生に引退の意志を打ち明けた
オリンピックで金メダルを獲得し栄光の絶頂の中で引退する選択肢もあったが
斎藤仁がいた
勝ち逃げするわけにはいかない
山下は1985年の全日本選手権を最後の大会と決めた
ただオリンピックから帰ってくると取材や講演、イベントなどでスケジュールが埋まり
全くトレーニングや練習ができなかった
祝賀会で喜んでくれるのはありがたいが
そのためにトレーニングも満足にできない毎日はもどかしく悲しかった
祝賀会場でみせた涙は
感激の涙などではなく実は悔し涙だった
そんなトンネルを抜け
やっと明かりがみえたのは
大学で指導する学生たちだった
彼らは山下のために尽くした
「たとえ負けたとしても恥ずかしいことではない
ひたむきに戦う姿をみせ、学生に何かを感じてもらいたい」
大会まで約2週間、
ギリギリの調整で何とか間に合った
全日本選手権の決勝は予想通り斎藤仁だった
結果は斎藤がガッツポーズをするほどの僅差だったが、
山下が9連覇した
大会後、
4日間帰郷した
そのうち1日だけ居留守を使って実家の自室に閉じこもり
1人でじっくりと引退のことを考えた
心のどこからも闘争心は燃え上がらなかった
山下は
どうしたら自分の柔道をパーフェクトにできるか
そのことだけに全精力を集中し
攻めの柔道に徹することを心掛けた
そして
全日本選手権9連覇
世界選手権3連覇
通算559戦528勝16敗15分
勝率9割7分2厘
203連勝
外国人選手には1度も負けなかった

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