ジャスティス誕生
シルクジャスティスは1994年3月18日北海道の早田牧場新冠支場で産まれた。
父はアメリカのG1フロリダダービーを制したブライアンズタイム。
母はJRAで4勝をあげたユーワメルド。
三冠馬・ナリタブライアンを管理した大久保正陽厩舎に入厩することになる。

父・ブライアンズタイム

大久保正陽調教師
問題児ジャスティス
素質の欠片を見せていたものの、シルクジャスティスは気性に問題を抱えていた。
人を乗せることを嫌がり、時には調教助手をも振り落とす。
気に入らないことがあると怒って暴れだす。
走り出しても本気で走ってくれず、厩舎のスタッフをおおいに手こずらせた。
そんな気性が災いして、初勝利をあげたのは5か月後。
実に7戦目のことであった。
開き出した才能
しかしシルクジャスティスの能力を信じていた大久保調教師は、目線をクラシックに
据えていた。
重賞初挑戦は1997年3月23日毎日杯。
前走1着とはいえダートの未勝利戦。12番人気という低評価は仕方のないものだった。
しかしこのレースを不利を受けながら追い込んで0.2秒差の3着。
そして4月の若草ステークス、5月の京都4歳特別を連勝。
日本ダービーへ勢い充分に駒を進めた。
届かなかった末脚
そして迎えた1997年6月1日第64回日本ダービー。
ダートの未勝利戦で勝ちあぐねていたシルクジャスティスは、3番人気に
推されるまでになっていた。
しかしレースでは逃げるサニーブライアンと大西直宏に幻惑される。
ジャスティスは大外から驚異的な末脚を繰り出すも、届かず2着。
鞍上の藤田伸二騎手は
「自分の馬が一番強い競馬をした」
とコメントし、秋の飛躍へと思いをつないだ。
出せぬ結果 非難の声
秋初戦の神戸新聞杯。
シルクジャスティスは3番人気におされるも、見せ場なく8着に敗れた。
しかし続く京都大賞典で古馬相手に勝利したことが評価され、菊花賞では1番人気。
ところがレース中、進路をカットされる不利もあり5着。
中2週で挑んだジャパンカップでも、猛然と追い込んだが5着。
「騎手を変えろ」
「戦法が間違っているのでは」
非難の声が、鞍上・藤田伸二騎手に集まっていた。

京都大賞典1着

藤田伸二騎手
その末脚を信じて
乗り替わりの噂もあったが、1997年12月21日有馬記念。
シルクジャスティスの背中にいたのは藤田伸二騎手だった。
大久保調教師が藤田を信頼していたように、藤田もジャスティスの末脚を信頼していた。
ジャスティスのペースを守り、道中は後方待機。
直線に入ると他馬の間をすり抜け、前を行くマーベラスサンデーとエアグルーヴを捉えに
かかる。
激しい叩き合いの末、ジャスティスの頭ひとつ抜け出したところがゴールだった。

盟友・エリモダンディー
シルクジャスティスを語るときに、欠かせない1頭の馬がいる。
同じ厩舎に所属していたエリモダンディーだ。
いじめられやすく、怖がりだったダンディーをいつも守っていたのがジャスティスだった。
ダンディーが他馬に威嚇され脅されると、怒っていじめっ子を退治していたという。
そんなジャスティスを慕い、後ろをついて回るようになったダンディーは、気こそ
弱かったが能力は確かで真面目に走る馬だった。
調教で2頭を併せると、あのジャスティスが悪癖を見せずに本気で走った。
有馬記念優勝の陰の立役者は、ダンディーだったのではないだろうか。

エリモダンディー
友の死をきっかけに
1998年2月8日。
シルクジャスティスのかけがえのないパートナーとなっていたエリモダンディーが、
腸捻転でこの世を去ってしまった。
ジャスティスを本気で走らせることができるのは、ダンディーだけだった。
ジャスティスは以前のように真面目に走らなくなり、成績も低迷。
2000年5月27日の金鯱賞が現役最後のレースとなった。
現在は北海道日高郡の畠山牧場で穏やかに余生を過ごしている。
息子は障害G1馬!
主な産駒に、中山大障害を勝ったバシケーンがいる。
種牡馬引退後の産駒中央重賞初勝利だった。
