安打を量産するも首位打者のタイトルを取れなかった男。田尾安志

田尾安志(たお やすし)
田尾安志の獲得タイトルや主な表象と記録
最多出塁数:1回 (1982年)
最多安打(当時連盟表彰なし):3回 (1982年 - 1984年) ※1994年より表彰
新人王(1976年)
ベストナイン:3回 (1981年 - 1983年)
月間MVP:1回(1981年4月)
オールスターゲーム出場:7回 (1980年 - 1986年)
田尾安志のプレースタイルは?

悲運の安打製造機
安打を量産し、クリーンナップへ繋げれる最高の打者である田尾は、体も決して大きくなく、守備も走塁も目立ってすごかったわけではない。
練習に、練習を重ね、安打を生み続けることをプレースタイルとして活躍してきた選手である。
田尾安志の生い立ちとプロに入るまでの軌跡
中日ドラゴンズに入団後、安打製造機として大活躍!
1975年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した田尾は、当時の監督が田尾に対し、「アンダースロー用の代打として期待している」とのコメントを見た田尾はレギュラーを取って、3割以上の打者として活躍してやる!と奮起して入団したらしい。
実際、4月は代打だけでの出場だったので、自ら二軍行きを志願し、二軍に行かせてもらったらしい。5,6月の2か月は二軍でみっちりと練習と実戦経験を積み、7月には1軍に返り咲き、代打ではなく、スタメンで活躍するほどまで成長した。
1976年には、新人王にも輝く活躍をし、1982年には最多安打の称号を獲り、中日ドラゴンズのリーグ優勝に大きく貢献し、中日ドラゴンズに田尾安志ありとスター選手へと駆け上がったのだった。

中日ドラゴンズのスター選手時代
1982年から1984年にかけて、最もリーグで安打を打った人間にはなれたが、首位打者の座は結局獲れなかった。
そして、1985年には交換トレードで西武ライオンズに移籍することとなる。
西武ライオンズに移籍して。。。
西武ライオンズに移籍し、127試合に出場し、リーグ優勝に大きく貢献した。数字こそは残せてないが、1986年には、日本一も経験するほど
その後、1987年には交換トレードで、自身の念願だった阪神タイガースのユニフォームを着ることになり、スタメンでの出場は減るが、勝負強さを発揮し、シーズンで3本サヨナラ本塁打を放つなどの大活躍を見せます。
伝説の5打席連続敬遠・・・。
引退後の田尾は、持ち前の雰囲気で野球評論家として大活躍。

初代楽天監督として奮起する田尾安志
野球人としての田尾は、見た目とかは違い、男気の溢れる男だった。
柔らかな紳士な見た目とは違い、特に野球に関しては硬骨漢な男で有名である。
中日時代にも、選手会長として球団側へ意見をはっきりという選手であったらしい。このことがトレードに関係したかどうかはわからないが。。。
西武時代にも、当時の監督の森祇晶氏がスタメン構想をいうと、田尾ははっきりと反対としたという。
阪神時代にも村山監督に助言を求められ、はっきりと監督と違う意見を言ったそうです。
そんな田尾の自分の意見をはっきりと言うことを、自らのエネルギーとしてサヨナラ本塁打を放つほどの原動力としていたそうです。
とにかくすごかったのは、ひたむきに練習を重ねる飛びぬけた向上心と、自分の考えをしっかりと持つ芯の通った心が今日までの結果を生んだのであろう。