【前代未聞】取り直しが3回となった霧島と水戸泉の対戦
1988年 夏場所の初日。
当時まだ平幕だった霧島と水戸泉の対戦は、取り直しが3回で大相撲史上初の1日に4度対戦することになった。
【1回目】
水戸泉が左上手を取って出たところを、霧島が土俵際ですくい投げ
軍配は水戸泉
物言いがついて取り直し
【2回目】
霧島が下手出し投げから出て寄るが、土俵で水戸泉が抱えてうっちゃり
軍配は霧島
物言いがついて取り直し
【3回目】
左四つの水戸泉が右上手充分で寄って出る、しかし土俵際で霧島のうっちゃり
軍配霧島
物言いがついて取り直し
【4回目】
左四つで水戸泉が上手を取り、霧島が上手を切るものの水戸泉が上手を取り直す。
霧島は水戸泉を吊り上げきれず土俵際まで下がり、再び霧島がうっちゃるがやや際どい判定の末、水戸泉に軍配があがった。
水戸泉自身も忘れられない取組として、物言いにつぐ物言いで3回取り直しとなった1988年5月場所初日の霧島戦と、千代の富士にはじめて勝った1989年7月場所中日の一番をあげている。
度重なる怪我に苦しめられた「怪我のデパート」
1985年5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越して十両に陥落。
※この事故がきっかけで十両以上の力士の自動車運転が禁止された。
また、腰が高く膝がつっかえ棒のようになる体勢で相撲を取ることが多く、大乃国などの巨漢の右四つ力士と対戦して膝に大きな負担をかけることが常態化していた。
1986年9月場所での負傷は、医師からも「相撲はもう諦めるしかない」と言われたほどで、はじめてギプスをはずされて自分の青ざめた膝を見た時には、絶望的な思いになったという。
一時期は引退も考えたが、療養に訪れたリハビリ施設で自分より若くして重度の障害を負った人たちの前向きな姿に励まされたのと、やはり「親孝行したい」という思いとで土俵に上がり続けたと語っている。
怪我から復帰し、1988年3月場所再入幕。
9月場所には小結として10勝5敗。
大きな飛躍が期待されたが、またしても大乃国との対戦で左足首に負傷。
十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しむことになった。
幕内在位79場所で休場が99回は、横綱・大関を除けば当時過去最多の休場数であったため、「怪我のデパート」などと言われた。
第52代横綱・北の富士も「膝の故障がなければ当然大関」と公言しているほどであり、度重なる怪我で大関取りが阻まれたことが悔やまれる。
1992年、水戸泉は史上24人目の平幕優勝者に。
1992年7月場所、前場所に腰痛悪化の影響で5連敗して負け越し、西前頭筆頭まで下がった水戸泉は、幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星を積み重ねていく。
終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも勝って12勝2敗とした。
その後10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった。
水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐんだ。
優勝パレードでは大関・小錦が優勝旗の旗手を務めた。
同じ高砂一門に九重部屋の千代の富士と北勝海、また東関部屋の曙ら横綱陣や、さらに同部屋には大関の小錦がいたため、水戸泉は優勝パレードの旗手役の常連でもあった。
幕内優勝を果たす前、母親から水戸泉に対して「いつも優勝パレードでは旗持ちばかりして。たまにはあなたが優勝して、誰かに優勝旗を持たせるようにしなさいよ!」と奮起を促したことがあったという。
その水戸泉自身が幕内優勝を成し遂げたことで、立派に親孝行を果たせた。
水戸泉自身の平幕優勝時のパレードでは、小錦が旗手を務めてくれたにもかかわらず、「いつものように自分が優勝旗を思わず持ちそうになってしまった」と苦笑いしながら語っている。
優勝後も怪我に悩まされ現役引退へ
翌1992年9月場所は西張出関脇に昇進、8勝7敗と勝ち越して、11月場所の成績次第では大関取りだったが、またしても左足の負傷で1勝12敗2休に終わり平幕に下がってしまう。
1993年より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名。
しかし膝の故障が多発してそれ以降は三役に復帰できなかった。
1999年5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。
十両陥落後も、現役を続け蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、2000年9月場所を最後に引退した。
断髪式には史上最多の参列者
断髪式の際には470人もの参列者が鋏を入れたが、雑誌『相撲』によるとこれは史上最多の人数とされており、水戸泉が多くの人に慕われ愛されていたことを物語っている。
なお、断髪式の後はオールバックにする力士が多い中、水戸泉はすぐに坊主頭にした。
本人の弁ではその頃脱毛症に悩まされており、脱毛した部分が目立たないよう頭を丸めたという。
現在は症状が改善されたためか再び髪を伸ばしている。
「泣きの水戸泉」と呼ばれた人柄
小錦とは引退後も仲良し