ハイライト動画
岡山のジョー

岡山県倉敷市児島と瀬戸内海
辰吉丈一郎は
岡山県倉敷市児島阿津に生まれた

父、粂二は
ボクシング好きで
漫画「あしたのジョー」から「丈一郎」と名づけた
母は
丈一郎が1歳になるかならないかくらいの頃に家を出ていった

父は
赤ん坊を丈一郎を背負って働き
体調が悪く自分は食べられないのに
血を吐きながら丈一郎の食事だけは用意した
病院を行くよういわれても
丈一郎が1人になるのを恐れて行かなかった
あるとき父は5、6人のヤクザからケンカを売られ
「お前は危ないからちょっとここにおれ」
そういって丈一郎を自動販売機の上に置き
アッという間に全員を殴り倒し
「さあ帰ろうか」
といったという
そして10日間、留置場に入れられた
その間、家を出ていた母親が帰ってきて丈一郎の面倒をみた

粂二、丈一郎親子は
夜9時から
家にあったサンドバッグやボクシンググローブ、バット、木刀、バーベル
学校の校庭にある樹木や遊具でトレーニングをした
雨どいを伝って学校の3階までいったこともあった
イジメられっ子

丈一郎は
いじめられっ子だった
保育園の送迎バスに乗ると丈一郎だけ席がなかったり
砂場や池に突き落とされたり
飲めなかった牛乳を
他にも飲めない子供はいたのに
丈一郎だけ無理やり飲まされたり
耳そうじを丈一郎だけやってもらえなかったり
他の子供よりよくお尻を叩かれ
いじめられて泣いていていても怒られた
芋掘りのときも
「向うに行け」
といわれ
芋がないドブの近くで掘っていた

こんなことがずっと続き丈一郎は屈折してしまった
例えば
運動会のパン食い競走で
走るのが速いから
パンまではトップで走っていきながら
1番になるといじめられそうなので
そこでわざわざみんながパンをくわえるのを待って
自分が1番でないことを確認してからゴールに向かって走り
わざと負けたことを悟られないように
「くそっ」
とくやしがってみせた
イジメを克服

5歳の息子に父、粂二はいった
「ジョー
泣いても何でもいいから負けは認めるな
勝つとか勝たんとかの問題やない
とにかく負けを認めるな
とりあえずやってみい
そんなら自然と強くなるから」
この一言が
丈一郎の眠っていたなにかに火をつけた
あるとき
丈一郎は殴られた
でも泣きながらずっと気をつけをしていた
そしてずっと殴られていた
気味が悪くなったのか
嫌がらないから面白くなくなったのか
相手は殴るのをやめた
すると丈一郎はその相手を殴って泣かしてしまった
「・・君
今日泣いてん
ボク勝ったんやで」
「当たり前や
それが普通や
そんなことはこれからもあるやろ
自分を信じなアカンで」

これ以後
形勢は一気に逆転した
丈一郎は
運動会とケンカでは1番となり
ガキ大将となった
しかし自分より弱い者をイジメることはしなかった
すべてが楽しくなって
小学中学9年間は皆勤(遅刻、早退は多数)だった

丈一郎は
すべてのきっかけは
父、粂二の言葉だったという
「泣いてもいいから負けは認めるな」
それ以来、
そしていまでも
辰吉丈一郎は
自分のことを信用しているし
自分のことが好きだし
自分のことを尊敬している
11歳で3冠

倉敷市立赤崎小学校
小学校3年生で
はじめてアルコールを飲んだ
次の日起きたら頭が痛かった
マラソンの授業でゲエゲエ吐き
やたらペラペラ陽気にしゃべりまくった
4年生で
バイクをマスターした
父親が乗っていたカブで家の周りを乗り回した
5年生で
タバコを覚えた
父親のハイライトを吸い
クラクラするのが病みつきになった
番長

倉敷市味野中学
中学1年のとき
授業中に
1年A組~H組の廊下でロケット花火を打ったり
爆竹を鳴らして騒いだ

「ボンビー(貧乏)」
といってきた同級生を殴り
その家までついていき
爆竹を家の中に投げ入れたりした
2年になると
丈一郎は他校の番長とケンカをするようになった
修学旅行では
バスの中から挑発してきた広島県の中学生に対し
そのバスの中に乗り込んでいって
その前歯を追った
そして自身も
バスの窓から顔を出して
暴走族風のバイクや車を挑発し
食べかけの弁当を投げつけていた

中1ではじめて400ccのバイクに乗って以来
その虜になっていた
ある夏の夜
仲間たちと
工事現場にあったツルハシ、ハンマー
家にあった作業用のクワ
などを持ち
突然、暴走族の前に飛び出して
急停車する彼らに奇襲攻撃をかけた
暴走族は
車のボンネットに刺さったツルハシをみて
バラバラになって逃げていった
丈一郎たちは戦利品を分け合った

1番へのこだわり

「世間にはお前みたいなクズは山ほどおるが
お前という人間は1人しかおらん
1番になれ
自分の値打ちを上げろ
何のために生まれてきたんじゃ
ジョー
なんでもいいから1番になってみろ」
父にそういわれ丈一郎は1番を狙った
ケンカでは1番だったが
勉強でも1番を狙った
答案用紙は
名前も書かずに出した
後ろから1番を狙ったのだ
しかし暇だったので
先生の似顔絵を描いたところ
40点の特別ボーナスを与えられてしまったことがあった
以来、絵も描けなくなった

逆にカンニングをしたこともあった
いつもは名前も書かないのに
そのときは前の席の生徒の答案用紙を丸写しした
数日後
先生が名前と点数が読み上げられながらテストを返していった
「・・さん、40点」
・・くん、80点
和田晴男、65点
和田晴男、65点・・・
辰吉、お前やろ!」
音楽はヘビメタが好きだった
ラウドネスを音楽室でボリュームいっぱいにして聴き
気分を高めた
体育の授業は
酒やタバコで体がシンドイので
1人だけ黒い学生服で参加した
からだ動かすの嫌い
頭使うの嫌い
遊ぶの大好き
飯食うの大好き
そんな中学生だった
依田進悟先生

辰吉丈一郎の本を読む恩師・依田先生と父・粂二さん
中学1~3年
辰吉の担任はずっと依田進悟だった
丈一郎がなにかやらかすと
ほとんどの先生は問答無用で辰吉を100%悪者扱いしたが
依田先生だけは
辰吉の言い分も聞き
その上で諭すところは諭した
「ひたすら怖がられ嫌われる番長ではなく、
周囲の仲間やクラスメートに好かれる番長だった
ハシにも棒にもかからない本物のワルじゃなく
不良仲間たちも含めてみんな陰湿なところが皆無で明るかった」
(依田)

味野中学校同窓会

中3になり
多くの者が自分の進路について考えはじめたが
辰吉丈一郎にはヴィジョンがなかった
とにかく楽をしたかった
ある日依田先生はいった
「辰吉
お前ボクシングやってみたらどうや?」
家庭訪問のとき
父、粂二とスパーリングする丈一郎の姿をみたのが
この進言の動機だった
「普通に大人が想像する子供のボクシング遊びとはレベルが違っていた
テレビで見たモハメッド・アリにそっくりで
間違いなくボクシングの才能がある
この子にはこれしかないと直感した」
(依田)
依田先生は
大阪帝拳ジムに連絡をとり
仕事まで探した
少しの間、悩んだが
16歳になった辰吉は大阪行きを覚悟を決めた
「親父、出世するけん」
「行って来いや
旅費は出したるわ」
父は6000円を渡した
上阪

岡山から新大阪まで5500円
一気に500円になった
依田先生が探してくれた仕事先は「京橋かまぼこ」
わかるのはそれだけで
電話番号も住所も持たず出てきていた
「おっさん
京橋かまぼこって知ってるか?」
辰吉は新大阪駅で周囲の人に誰彼かまわず聞いた
聞かれた人はみんな
剃り込みの入った丸刈りでヤクザ風の服を着た男を無視した
しかし親切な人もいた
「なんだそりゃ?」
「店の名前や」
「京橋かまぼこっていうくらいやから京橋にあるんとちゃうか
ここの電車に乗って
その次で環状線に乗り換えて
そうすれば京橋に出るはずや」
「そうか
ほんなら行ってくるわ」
大阪駅のおっさん

おっさんのいうとおり電車に乗ると大阪駅に着いた
そして環状線のホームまではすんなりいった
後は京橋がどっちにあるのか
また通りがかりのスーツを着た人に聞いた
「おっさん
なあ、おっさん、京橋って知らん?」
「誰にもの言うてんや、お前」
「誰にってお前しかおらんからお前に言うてんねん」
「お前、人にものを尋ねるのにそんな言い方あるか」
「何やとー
人が親切に聞いてんのに
お前答えんか!
もうええわ
お前には頼まんへんわ」
そしておっさんを殴った
その後
別の人に行き方を尋ね
なんとか京橋の駅に着いた

ポケットの残金は50円になった
駅を出て人の多さに驚いた
「何や、祭りか
えらいときに来てしまった・・・」
しかしお祭りにしてはおかしい
みんなスーツを着ていた
また道を行く人に尋ねた
「京橋かまぼこってどこ?」
「店の名前はわからんけどかまぼこ屋なら商店街にあったで」
歩いていくと京橋かまぼこがあった
「岡山から来たもんです
辰吉いいます」
大阪駅のおっさんとはエラい違いだった

次の日、初出勤した
「辰吉
お前、これ持って行け」
「持って行けってそれ何や
偉そうな口きいて
人にもの頼むのに持って行けはないやろ」
「バイトの人間がなにぬかしとんねん
はよう持って行かんかい」
「バイトもクソもあるか
人にもの頼むときはお願いしますっていうもんやろが」
大阪駅のおっさんとはエラい違いだった
強烈なアルバイト店員

少し仕事に慣れてくると
どうやってサボるか
どうやって手を抜くか
そればかり考えた
配達の通り道にパチンコ屋があった
やりすぎると帰りが遅くなりバレてしまうかもしれないので
ほどほどに打っていた
しかしあるときバレた
「お前なにしとってん
急ぎの荷物持って行ってもらおうと思って待っていても帰って来んし
配達先に連絡してももう20分前に帰ったっていうし」
「パチンコやってただけや」
「仕事中にそんなのするな
ええかパチンコしちゃアカンで」
その後もパチンコ屋に通った
そしてまたバレた
「お前
またパチンコやってたやろ」
「やってへん、パチンコやってへん」
「じゃあ20分もどこで何しとった」
「スロットやってた」
「・・・・」
京橋かまぼこは半年でクビになった

かつて辰吉が働いていた京阪電車の京橋駅構内にある「うどん・そば秀吉」
その後
立ち食いそば屋、トラック助手、パチプロ、サウナ
なんでもやった
大阪帝拳ジム

大阪についた翌日
京橋かまぼこで初仕事したあと
大阪帝拳ジムにいった
「まあ見学しとれ」
そうトレーナーにといわれ
ジムに上がろうとしたところ
「お前生意気や
態度がデカい
(バシッバシッ)」
と竹刀で叩かれた
クツのまま上がろうとしたためだった
「合計25回
今でもハッキリ覚えている」
(辰吉)
それが西原健司トレーナーだった
西原健司トレーナー

翌日も
正座させられた上、説教を聞かされた
その次の日は
「掃除に手抜きしおって
お前ら正座して反省せんか!」
「オレ今来たばかりや」
「アホ
口答えするな
お前は追加じゃ」
次の日は
誰かがトレーニングをサボったということで
「腹筋1000回!」
を言い渡された
「それはないやろ
1000回なんてむちゃくちゃや
オレ仕事やってここ来てるんや
ただでさえシンドイのに腹筋1000回なんてむちゃや
だいたいオレ、ジムに来てまだ3日目やん
そもそも1000回なんてあんたもできひんやろ
自分でできんこと他人にいうたらアカンやろ」
「アホンダラ!(バチーン)」
平手が飛んだ
「お前は口答えしたから1000回を1週間や」
最初に日は何とかクリアしたが
2日目以降なおさらハードになってきた
尻の皮がむけ
腹筋痛でセキもクシャミもできない
なんとかやり抜いたあと
西原トレーナーはボクシングを教えてくれるようになった
「左は世界を制すいうくらいや
左ジャブの満足に打てんやつになにができる」
4ヶ月
西原トレーナは
毎日毎日とにかく左ジャブの練習ばかり繰り返した
ある日、
初めてスパーリングをした
辰吉は1分ほどで相手をKOした
倒したパンチは右ストレートだった
「お前
そんなパンチ教えてへんがな
(パシーン)」
「でもやれいうから
左ジャブだけで勝てるわけないやん」
「言われたとおりやっといたらエエんじゃ
このバカタレが
(バシッ、バシッ)」
数日後
またスパーリング
そしてまた1ランドで相手を倒した
今度は左だった
ただし左フックだった
「アホ、
誰が左フック教えた!
(バシン、バシン、バシン)」

西原トレーナーは元プロ選手だった
とにかくボクシングに対しては尋常ではない情熱を持っていた
ジムでは厳しかったが
外に出るとほんとうに優しい人だった
辰吉が食べるものに困っていた頃
よく弁当をつくって持ってきてくれた
大久保淳一トレーナー

3度目のスパーリングの相手は
アマチュアの全日本1位で
しかも体重も2階級重たい選手だった
「でもオレ、倒したら
西原先生に「そんな打ち方教えてない」ってまた怒られるんやからやめときますわ」
「そんならオレがこの打ち方教えるわ」
そういって大久保淳一トレーナは左ボディを教えた
「左ボディ打ちはな
相手がこうきたら左にシフトして
こっちをそのまま突き出すようにして打てばいい」
スパーリングが始まって1分もたたない頃
相手は右わき腹を押さえて倒れた
アマチュアデビュー

六車卓也の世界タイトルへの挑戦が決まり
和歌山県の白浜でトレーニングキャンプが行われることになり
辰吉も同行した
キャンプの目的は体力の底上げ
選手は
体力をつけるため
よくトレーニングしてよく食べて
体力と体重を増やし
キャンプ後、試合までキツい練習をしながら体重を落としていく
だからキャンプ中だけは
普段はウエイト管理にうるさい西原トレーナーも
よく食べることが推奨した
辰吉は1回にドンブリ9杯食べた
キャンプが終わったころには体重は60kgになっていた
直後
西原トレーナーが試合が決まったことを辰吉に告げた
「辰吉、試合決まったで」
「いつですか」
「3日後や」
「・・・」
「バンタム(52.163-53.524kg)で決めたで」
「西原先生
それやったらボク5kgオーバーですわ」
「どアホ!ボクサー失格や」
「メシ食えいうたんは・・・・」
「口答えすんなボケ!(バシン、バシン)」
この日から絶食し挑んだアマチュアデビュー戦は
1RKO勝ち
大久保トレーナーに教わっていた顔面への左フックで決めた
世界ランカーを圧倒

六車卓也の対戦相手、
世界ランキング2位のアサエル・モランが来日し
大阪帝拳ジムで公開スパーリングが行われることになった
そしてモランのマネージャーが
アマチュアのグリーンボーイ(キャリアの少ない選手)を要求したので
辰吉がその相手としてリングに上がった
スパーリングは3Rの予定だったが
辰吉がモランが鼻血を出させたため2Rで中止された
その後の試合でも
モランは六車に5RでKO負けした
16歳の辰吉は思った
「六車さんが5Rならオレは3Rで倒せる」
アマチュア日本チャンピオン

17歳で全日本社会人選手権大会で優勝し
ここまで11勝(11KO、RSC(レフリーストップ))
国体にも
大阪代表として出場した

そのとき廊下で
こちらを睨んで凄んでいる沖縄代表だった渡久地降人(後のピューマ渡久地)に
「もうかってまっか」
といわれたので
「オレらアマチュアやから儲かへん」
と答えた
するとなぜか渡久地がさらに怒りはじめ
わけはわからないが辰吉もムカつき
一触即発となった
渡久地は
「文句あっか」
といったのだった
初めて負ける

国体後
翌年のソウルオリンピックの代表選考会も兼ねた全日本アマチュア選手権が行われ
辰吉は1回戦で負けた
保育園以来、11年ぶりの敗北だった
ショックは大きく
誰にも何もいわず
岡山に逃げ帰り
誰にも会わず1ヶ月過ごした後
大阪に戻った
しかしジムには行けず
することもなく公園に住んだ
ダンボールで小屋をつくり
自動販売機の
つり銭口の忘れものと
機械の下の落しものを探したりした
徳丸るみ

白千館
ある日
ふと入った喫茶店に
後に夫人となる徳丸るみがウエイトレスをしていた
その後何度も通い
デートに誘った
「アンタ、仕事は?」
「プータローや」
「なりたいもんなんかあるんやろ?
夢が」
「できたらボクサーや
世界チャンピオンになりたい」
「あるんならエエがな
そういうのプータローとは言えへん
ただアンタの言うてることをするか、せえへんか、それだけの問題や
やったらエエやん」
「もう1度ボクシングに賭けてみよう
這い上がってみせる」
辰吉はジムに戻った
1年のブランクだった
復帰戦は大阪府民祭という大会
3戦3KO、RSC
この後プロに転向するので
アマチュアでの成績は
19戦18勝(18KO、RSC)1敗となった

やがて2人は同棲をはじめた
辰吉丈一郎18歳
るみ21歳だった
渡辺二郎とスパーリング

プロデビューを控え
大阪帝拳ジムの先輩
渡辺二郎とスパーリングをした
3R
辰吉は渡辺をロープに押し込むシーンもあった
プロデビュー

1989年9月29日、
崖相勉を相手にプロデビュー
崖は元韓国バンタム級、J・フェザー級2位
20戦以上のキャリアを持つベテランだったが
2RにKOした

2戦目は
なんと東京ドーム
マイク・タイソンの試合の前座だった
相手は
タイの前バンタム級チャンピオン、チューチャード・ウアンサンパン
1R、相手のパンチをもらい初めてダウンしたが
2RでKOした
4戦目で日本チャンピオン

4戦目、
日本チャンピオン、岡部繁の挑戦
4RでKO
アマにつづきプロでも日本チャンピオンになった

大阪帝拳の吉井会長は
「7戦目で世界挑戦」と宣言した
世界チャンピオンになる
「父ちゃんやったで」

WBCバンタム級チャンピオン、グレグ・リチャードソンと対戦
10R、ダウン寸前まで追い込み
この後のインターバルでグレグ・リチャードソンは棄権した
「父ちゃんやったで」
リング上のテレビカメラを通じて岡山の父に呼びかけた
網膜裂孔
21歳
世界チャンピオンになり
結婚して子供も生まれた
初防衛戦も決まったが
そのトレーニング中に
左目が網膜裂孔(網膜に穴があいたり裂け目が入る)だと発覚
初防衛戦は中止になった

辰吉が目の手術を終え退院すると
今度はるみ夫人が入院し
男児を生んだ
「寿希也」と名づけられた
vs ビクトル・ラバナレス1
初防衛ならず王座を失う

手術後
運動を禁止されたため
半年で体重が72kgに増えた
(バンタム級のリミットは53.524kg)
4月から動きはじめ
6月から本格的にトレーニングした
9月には
辰吉が怪我で試合ができない間に
暫定チャンピオンとなっていたビクトル・ラバナレスと対戦した
暫定チャンピオンとは
正規チャンピオンが怪我や病気、何らかの理由で長期的に防衛戦を行えないとき
制裁措置として
上位ランカー同士で王座決定戦を行いその勝者を暫定チャンピオンとすること
暫定チャンピオンは
チャンピオンベルトが贈られ
正規チャンピオン同様、防衛戦を行うこともできる
正規チャンピオンは指定期間内に暫定チャンピオンと戦うことが義務づけられている
もし指定期間中に統一戦が行われない場合、
暫定チャンピオンが正規チャンピオンと認められることもある
この試合
辰吉は
9R、TKOで負けた
vs ビクトル・ラバナレス2
2度目の世界チャンピオンに

10ヵ月後
ラバナレスと再戦
判定勝ち
2度目の世界タイトルを獲得
網膜剥離

再び左目に異常を感じ
検査してみると
今度は「網膜剥離」だった
(前回は「網膜裂孔」)
入院し手術を受けた
予定していた世界タイトル統一戦はキャンセル
タイトル(暫定チャンピオン)も返上となった
今回傷めた箇所は
前回とは違う場所で
かつ前回より軽症だった
しかし
日本ボクシングコミッショナーは
網膜剥離を患ったボクサーのリング復帰を認めていない
つまり網膜剥離になったボクサーは日本のリングには上れない
これが原因で引退したり
海外のリングに上がる選手もいた
活動

そして海外では網膜剥離になってからカムバックした選手もいた
日本では網膜剥離が治ってもライセンスは下りないが
海外では何人もリングに戻ってきている
WBAやWBCなど海外の規約では
数十年以上前から
数人の眼科医の完治の証明があれば復帰は可能となっていた
しかし日本のボクシングコミッショナーは古い規約を頑なに守っていた
大阪帝拳の吉井会長はルールの見直しを提案した
60000人以上のファンの署名も提出された
しかし日本のコミッショナーは受け入れなかった
辰吉は
ラスベガスとロサンゼルスに行き
専門医の検査を受け完治の証明をもらった
海外で戦うためである
vs ホセフィノ・スアレス
日本ボクシングコミッショナーを動かしルールを変える

この頃、
WBC世界バンタム級チャンピオンは薬師寺保栄だった
そして初防衛戦でホセフィノ・スアレスをKOした
辰吉は
ハワイで
このスアレス相手に復帰戦を戦うことになった
そして3RでKOした
この勝利によって
辰吉はWBC世界バンタム級暫定チャンピオンに復帰し
その上、
薬師寺とのタイトル統一戦が決まった
そして特例で日本のリングに上がることも許された
ただし
・負けたら引退
・再び目を傷めても引退
という条件がついていた
vs 薬師寺保栄

ただでさえ日本人同士の世界タイトルマッチは注目度が高かった
その上、両者は試合前から激しい舌戦を繰り広げた
「辰吉は思い上がり君」
(薬師寺)
「辰吉って1発で相手倒したこと ないでしょ?」
(薬師寺)
「王座決定戦の当日は
辰吉くんもチャンピオンベルトを巻いてくるだろうが
そのベルトには『暫定』と書いてこい」
(薬師寺)

「薬師寺は勘違い君」
(辰吉)
「世紀の一戦って
相手がアレで
笑わしたらあきまへんで」
(辰吉)
「主役と勘違いの力の差を見せつけたるわ」
(辰吉)
「あの年齢になって
髪の毛を染めるようなっちゃあかんよ
そんなん社会人デビューしたらダメ
ああいうのは
もう中高生で終わるのが当たり前
きっと彼の場合、
その間に目立つ時がなかったんやろね
輝けるときが」
(辰吉)
死闘

そして名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)で
2人はぶつかった
辰吉は
「圧倒的優位」といわれていたが
フルラウンドにわたる死闘の末
判定で負けた
最終ラウンド終了後
あれだけ憎み合っていた両者は健闘を称え合った
「ありがとう
今までのことはごめんな
ホンマ強かったわ」
(辰吉)
引退拒否

しかし
辰吉は
「負けたら引退」とされていたため
再度引退の危機に立たされた
しかしここでも引退を拒否した
vs ダニエル・サラゴザ1

辰吉はバンタム級から1階級上げ
WBC世界J・フェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオン、
ダニエル・サラゴザに挑んだ
チャンピオンは37歳
辰吉の2階級制覇が期待された
しかし
1Rから打ち込まれ
11R、負傷によりTKO負け
vs ダニエル・サラゴザ2

13ヵ月後
再度サラゴサに挑む
が、判定で負けた
世界戦3連敗
vs シリモンコン・ナコントン・パークビュ ー

辰吉は階級を再びバンタムに下げ
16戦全勝、無敵のWBC世界バンタム級チャンピオン、
シリモンコン・ナコントン・パークビューに挑戦した
20歳のチャンピオンは
27歳の辰吉を
「7RにKOする」
と宣言した
るみ夫人からの手紙

試合前、
辰吉は精神統一のために控え室のトイレでるみ夫人からの手紙を読んだ
辰吉は
何のために戦うのか
明確になった
3度目の世界チャンピオン

5R
シリモンコンからダウンを奪ったものの、
6R以降
シリモンコンの反撃で
あわや逆転KO負けというところまで追い詰められる
7R
左ボディブローで2度目のダウンを奪い
辛くも立ち上がったシリモンコンを連打で追撃したとき
レフェリーストップがかかった
網膜剥離でタイトルを返上してから4年
ついに世界チャンピオンに返り咲いた
vs ウィラポン・ナコンルアンプロモーション1

その後、
2度の王座防衛に成功し
ノリノリの辰吉の3度目の防衛戦は
元WBA世界バンタム級チャンピオン、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションだった
序盤こそ互角の展開だったが
ラウンドが進むにつれ次第にウィラポンがペースアップ
6R
ウィラポンの左をまともにもらってダウン
なんとか立ち上がったもののウィラポンの激しい追撃に襲われ
最後は右ストレートを左のこめかみに受け仰向けに崩れ落ちた
ノーカウントで試合をストップされた
失神KO負け
3度目の世界王座陥落だった
父ちゃんが逝った


父、粂二が他界した
生前、丈一郎はもう1度ウィラポンとやると告げた
粂二はいった
「大したもんやのう」
「トンビがタカを生んだ」
丈一郎は返した
「カエルの子はカエルや」
遺骨は家の仏壇にある
お墓は依田先生の家のお墓の横に建てる予定である
丈一郎はロードワークから帰ってくると
昔、粂二に教わったように
鍋をガスコンロにかけてご飯を炊いて
それを仏壇に供え
お経を唱えた
練習に行くとき、帰ってきたときは鐘を鳴らした


そしてウィラポン戦のリングには
”父ちゃん”を背にして上がった
vs ウィラポン・ナコンルアンプロモーション2

王者・挑戦者の立場を入れ替え
ウィラポンとの再戦
最初から一方的に打ち込まれ
7R、レフェリーが試合をストップした

「普通のお父っつあんに戻ります」
辰吉はそういったものの
すぐに撤回し
復帰へ向けて始動した
vs セーン・ソー・プルンチット

3年4か月ぶりの復帰戦
元WBAフライ級チャンピオン、セーン・ソー・プルンチットに
7RTKO勝ち
vs フリオ・セサール・アビラ

フリオ・セサール・アビラと対戦
判定勝ち
大阪帝拳ジムから引退勧告を受ける

その後、
大阪帝拳ジムは辰吉に
「試合は絶対に組まない
スパーリングも厳禁」
と言い渡した
辰吉は、この後、数年間、
このジムの意思を尊重しながら練習を続け
ましてや勝手に海外で試合を行ったり
他のジムへの移籍するなどしなかった
ひたすらできることをして自由の身となる日を待ち続けた
そして数年後
大阪帝拳ジム内で
テスト・スパー(日本ランク9位の選手がパートナー)が行われたが
大阪帝拳は
「とても復帰を容認出来るような動きでは無い」
と引退勧告を続ける意向に変わりはないと発表した
また
日本ボクシングコミッショナーの
「原則的に37歳の誕生日で自動的にライセンスが失効される」
という規定から
国内では試合を行うことができなくなった
辰吉は
タイでの再起戦を決意した
「筋はちゃんと通した」
という思いがあっただろう
vs パランチャイ・チューワッタナ

5年ぶりの再起を果たした
場所はタイのバンコク
しかもムエタイ興行の中に付け加えられた試合
メインイベントですらない
日本ボクシングコミッションは、
38歳になり
健康状態にも疑問がある辰吉に
選手としてのライセンスを与えず「引退選手」としたため
辰吉は日本ではボクシングの試合ができない
日曜のラジャダムナンスタジアムといえば、
若手のムエタイ選手が
少ない観客の中で黙々と試合をこなすのが常だが
この日はリングサイドにおよそ400人の観客が集まった
ほとんどが日本人
取材記者も多い
リングに上がった辰吉は四方に1回ずつ頭を下げた

パランチャイ・チューワッタナは
タイ国4位
戦績は2勝5敗
5敗はすべて日本でKO負け
しかも本来の階級は辰吉のバンタムより一階級下のS・フライ級
両者の地力の差はいかんともしがたく辰吉は2RTKO勝ちした
日本ボクシングコミッショナーの抗議

試合から1週間後
日本ボクシングコミッショナーは
日本国内で引退扱いとなり行き場を失った辰吉を受け入れ
試合をプロモートしたチュワタナ・ジムのアンモー会長に
ライセンス保持者以外の試合禁止を要請、
同ジムを経由するタイ人選手の招聘禁止という異例の措置を検討中と伝えた
辰吉はこの強硬手段に対して
「筋が違う」
と訴えた
網膜剥離を発症した後も、
引退を頑なに拒絶し続け
60000人を超える現役継続の嘆願の署名を集めたり
WBCスライマン会長の後押しを取りつけるなど
日本国内のルール(網膜剥離の発覚=即刻引退)を変更させたときから
しばしば辰吉と日本ボクシングコミッショナーは対立してきた
当時は辰吉を支援した帝拳ジムも「引退勧告」の立場であるため
辰吉の再起を阻止しようとする動きは
ますます加速していくことが予測され
練習場所やスパーリングパートナーの確保にも障害が出てくるかもしれなかった
タイ国内ランキングバンタム級1位

パランチャイ・チュワタナ戦の2ヵ月後
辰吉は
タイ国内ランキングバンタム級1位にランクインした
日本ボクシングコミッショナーと話し合い

その直後
辰吉は日本ボクシングコミッショナーと対談
日本ボクシングコミッショナーは
国内だけでなく国外でも辰吉に試合を認めるつもりのないことを伝え、
WBCと提携する米国の医療研究機関で身体の精密検査を受けることなどを提案した
辰吉は
「現役にはこだわる
(タイでの試合は)体を慣らしたかった」
と再起戦に臨んだ経緯などを話し
「5年も試合をしてなかったので
今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事
検査の意味はわかるけど決断することはできない」
とあくまで現役続行にこだわる姿勢をみせた
vs サーカイ・ジョッキージム

2009年3月8日、
日本ボクシングコミッショナーとの話し合いから2ヵ月後
タイのラジャダムナン・スタジアムで
タイ国内スーパーバンタム級ランキング1位、サーカイ・ジョッキージムと対戦
3R、
ダウンを奪われ
7R、
TKO負けした
「俺はまだ終わっとらん」

現在も
辰吉は
トレーニングを欠かしていない
次男の寿以輝が
大阪帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューしたし
映画「ジョーのあした?辰吉丈一郎との20年?」が公開された
まだまだ終わっていない!