竹原慎二
竹原慎二
186cm、
86kg
日本人で初めてミドル級世界王座に挑戦し第20代WBA世界ミドル級王者となった
株式会社カンピオーネ代表取締役社長、
竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム会長
広島の粗大ゴミ

竹原慎二の両親は
焼肉、スナック、マージャン荘などを経営していた
兄の名は「秀吉」
父のその命名理由は
「秀吉のように日本一の男になるんじゃい
男はトップにならにゃいけん」
ちなみに店の名前は「藤吉郎」だった
父は結婚する前に
4回戦ボーイだったが東京でボクシングをしていた
ハンパじゃない竹原三郎

店は
従業員を数人雇うほど繁盛していたが
父、竹原三郎がギャンブルに手を出してから一変した
やがて借金取りから追われるようになり
一家は住処を転々とした
しかし
「次はちゃんと取り返してやったるわい」
と父はギャンブルをやめなかった
マージャン、競馬、競艇、パチンコ・・・
3日3晩不眠不休でやることもざらだった
彼の口癖は
「ハンパじゃない」
だった
結局
繁盛していた店から借金取りにとられていき
最後にスナックが一店だけ残った
その後、父は失踪した
酒、タバコ、シンナー、バイク

夜、
両親がいない家は
兄とその友人のたまり場になった
彼らは
酒を飲み
タバコを吸い
シンナーを吸い
無免許でバイクを乗り回した
竹原もワルかった
朝、中学校に行く途中
パン屋の店先に配達されてあるパンを盗み
「募金」といって同級生から50円ずつ巻き上げ
タバコを吸い
塗装会社のペンキ置き場から盗んだシンナーを吸った
町を歩くとき同じ年頃の男がいると
ガンを飛ばし威嚇した
ジョーカー

竹原は
高校を4校受験し
全部落ち
塗装会社に入った
朝
仕事現場に出ていくとき
同級生が高校に通学していた
うらやましくてしかたなかった
この頃、行方不明だった父が家に戻ってきた
そして母のスナックを焼肉屋に改造し
人が変わったようにまじめに働いた

竹原の本業はゾク(暴走族)だった
普段からバイクに乗りまわしていたが
毎週土曜日20時
バイクに乗ってたまり場に集合し走りに行った
「ジョーカー」という60人くらいの暴走族である
「アイツ、調子乗っとるけ
しばいたる」
「ワシらのシマを他の土地のヤツが通り抜けているけん
気ぃつけんといけん」
ささいなことで真夜中、呼び出し、呼び出されケンカをした
給料は
ゾク代
(月会費10000円
先輩から買わされた盗難や車検切れのバイクの支払い
ガソリン
理容(パンチパーマ)
特攻服など)
酒、タバコ、
パチンコとゲームセンターに消えた
足を洗う

あるときある同級生に出会った
その同級生は
つい最近、バイクの事故で亡くなったゾク仲間の悪口をいった
「なにいうてるんや
お前、ちょっと来い」
竹原は同級生をタクシーに押し込み
友人宅で友人と共にリンチした
「ええか
2度と陰口いうんやないぞ」
同級生は
「もうしない」
苦しそうにうめいた
この後、
この同級生は倒れて救急車で病院に入った
同級生の姉から電話があった
「あんたら
ちょっと病院来んさい
弟はあんたらに殴られて死にそうなんよ」
病院には同級生の親兄弟がいた
「すいません
俺が殴りました」
「傷害で訴えようと思ってすんや
病院でもそうすすめておるしね」
夜遅く帰宅し親に打ち明けた
「オレ、殴ってしまった」
「ケンカなんかしょっちゅうしとるやろが」
「そやけど今度ばっかりは・・・」
「今度ばっかりじゃと」
「殴った相手が死ぬかもしれんて」
父は相当ショックを受けたようだった
しかしガミガミ怒るわけでなく
「ケンカしたいならボクシングをやれ
リングの上で殴っても警察沙汰にはならんでのう」
それだけいった
母がいった
「どうして殴ったの」
「死んだ友達の悪口をいったからじゃ」
「そう」
母もそれだけだった
翌朝4時
同級生の親から電話が入った
「息子が危篤になった
どうしてくれるんや」
どうしていいかわからず突っ立っている竹原から
父が受話器をとり代わった
その後、両親は病院にいった
詳しく聞いてみると
危篤というのは大袈裟で命に別状はなかった
両親はひたすら頭を下げた
その後、脳波に異常なく打撲だけということがわかり
警察への告訴はなかった
「勝てるとわかっとるやつだけいじめてどうするんや
そんなことするのは
その辺のゴロついとるチンピラのすることや
勝てるかどうかわからんものに
真正面から向かっていくのが勝負じゃろうが
ケンカやりたかったら
堂々とリングの上でやれ
慎二、ボクシングやれ
ボクシングやるんじゃい」
「ボクシングやるよ」
「そうか
すぐに東京へ行け」
16歳の秋だった
宮下 政(みやしたおさむ)会長

協栄ボクシングジム
東京に着くとすぐに協栄ジムにいった
金平正紀会長は
元日本バンタム級1位
8人の世界チャンピオンを育てたことでも知られている
竹原が練習を見学していると声をかけられた
「君が竹原慎二か」
それが沖ジムの宮下政会長だった

宮下 政(みやしたおさむ)
宮下会長は
かなりのやんちゃだったが
「強い男になろう」と一念発起
高校時代から協栄ジムでボクシングを始めた

選手時代の宮下政
沖ジムのオーナー、沖徳一は
沖建材工業の代表取締役をつとめるかたわら
選手時代から宮下政を応援していて
彼を会長としたボクシングジムをスタートさせた
竹原はその選手第1号だった
TBSのバラエティ番組「ガチンコ!」のメイン企画「ファイトクラブ」では
沖ジムはロケ地にもなり
宮下と竹原は一躍有名となったが
この当時の沖ジムは
まだ自前のジムがなく
宮下会長と竹原は
協栄ジムを間借りして練習した
昼間はクロス屋さん、夜はボクサー

竹原は
昼間は「インテリア中村」という内装会社で働き
夜はボクシングの練習をすることになった
6:00
起床
7:00
出社
車に乗って現場に向かい
8:30
壁紙を張る仕事が始まる
15:00
竹原だけ早く仕事を終え協栄ジムに向かう
17:00にジムに入る
体操
ストレッチ
縄跳び
シャドーボクシング
サンドバッグ
ミット打ち
これらはすべて3分やって30秒休むというリズムで行われる
ときどきスパーリングも行われた
19:00までトレーニングし
掃除を終えて
20:00にジムを出る
この後、夕食、洗濯、銭湯
日曜日はパチンコをした

仕事を早く切り上げジムに行く竹原を
なじる仕事仲間もいた
「いいよな
仕事はろくにしなくてもいいんだから」
「給料泥棒だよ」
竹原は黙って耐えた
ある日、仕事の飲み会で
何気なく握った右手の中でビールグラスが割れて血が噴出した
自分で驚くほど力が強くなっていた
それからその仕事仲間はあまりいわなくなった
「おかしいのは 自分では何も一生懸命やろうとしないものほど 竹原だけいい思いしやがってということだった 夢もみないでダラダラ生きているヤツらがイヤだった」
竹原スタイル 奇跡を起こす人になれ 竹原慎二著
当時の協栄ボクシングジム

竹原が入ったこの頃の協栄ジムには
すでにボクシングを引退していた渡嘉敷勝男がよく来ていて
礼儀を含めて厳しく指導していた

片岡鶴太郎も
真剣に練習に励んでいたし
崩壊後
ソ連からきた
オリンピックメダリストとトレーナーもいた

そして鬼塚勝也は
ジムの2階に住み
孤独な、そして鬼気迫る練習を行っていた
本物のプロボクサー

プロテストを控えたある日
仕事を終えジムに向かう前
ちょっとだけのつもり入ったパチンコ屋
気がつくとジムが終わる時間だった
次の日ジムで宮下会長にいわれた
「タケ、昨日はどうしていたんだ」
「あ、はい
休みました」
「そんなことはわかっている
なぜ休んだか聞いてるんだ」
「パチンコをしてました」
「そんなことでプロになれると思うのか
プロテストは1ヶ月延期だ」
「ええ!そんな!」
宮下会長は厳しかった
言葉遣い、挨拶、礼儀、ジムの掃除、・・・
その厳格さに耐え
人間としても成長し
本物のプロボクサーになるのだ
延長されたプロテストでは
ウエイト測定
健康診断
筆記試験
2Rのスパーリング
が行われ
翌日に合格と発表された
プロテスト後、沖オーナーはいった
「世界チャンピオンになるんだと今からしっかり思うんだ
1日3回はオレは世界チャンピオンになるんだと唱えろ
そしたら絶対になれるんだからな」
17歳の竹原は
大人を相手に
デビュー以来6戦6勝5KOで全日本新人王になった
ラストケンカ

年末年始の休みを利用して
数ヶ月ぶりに広島に帰ったとき
仲間とバイクに乗り
広島市内に飲みに行った
そこでやめていたタバコを吸ってしまった
吸ってしまってから後悔したが
もう止まらなかった
緊張が切れ
大酒を飲み
カラオケを歌った
歌っていると
見ず知らずの暴走族らしき2人がインネンをつけてきた
竹原は無視していたが
トイレに行ったとき
後からその2人が入ってきていきなり殴りかかってきた
竹原はとっさにパンチを出すと
「パタン」
相手は真後ろに倒れた
「ごめん」
もう1人は謝り泣き出した
「やばい
逃げよう」
という仲間を無視して竹原は飲み続けた
ほんの軽く出したパンチだった
ボクシングの強さに感動すると同時にこわくなった
それ以来ケンカをやめた
もっともっとボクシングに励もうと誓った
タバコを吸った後悔
4ヶ月で確実に力がついていることを自覚し
6日間の休暇を終え東京へ戻った
ボクシングは麻薬だ
一生懸命練習し
勝ち続けるほど
試合がこわくてたまらなかった
試合当日
交通事故に遭いたかった
地震になって後楽園ホールがつぶれてほしかった
勝っても負けても今回が最後と自分に言い聞かせ
リングに上がり
試合が終わると勝った喜びと解放感で
またボクシングがしたくなった
練習でも
ボディを打たれて
地獄だと
2度とイヤだ
人生真っ暗だと思ったのに
次の日には
またボクシングをやりたいと思った
日本および東洋太平洋ミドル級チャンピオンになる

焼肉 山甲
日本チャンピオンとなってから
試合の4日前から仕事を休むことができた
隙間風が吹くアパートからマンションに住むことができるようになった
父は必ず試合をみにくるようになり
実家も
両親とワルかった兄が協力し
焼肉店を繁盛させていた
竹原はますまず真剣にボクシングに向き合った
もっと極めたい
もっと強くなりたいと思った

竹原がトレーニングで駆け上がった池上本門寺の96段の階段
5:55、起床
それから1時間トレーニング
メニューは日によって違った
10kmを走ったり
800mを全力ダッシュして
そのまま3分走り
1分休む
これを6~7セット行ったりする
7:00
コンビニでおにぎりやサラダを買い出社
車に乗って現場に移動し仕事をして
15:00、仕事を終え
17:00、ジムに入り
20:00、練習を終えて夕食、洗濯、フロ
食事はプロになってからは朝、夜の1日2回だった
試合が決まると
2ヶ月前から体づくりをはじめ
1ヶ月前に本格的なトレーニングに入った
李成天(イスンチュン)に勝って
東洋太平洋ミドル級チャンピオンになってからは
会社を休職し
ボクシングに専念した
沖ジムも
独立してジムを構え
竹原は新しいジムで練習を始めた
日本人初のミドル級世界タイトル挑戦

ホルヘ・カストロ(Jorge Castro)
竹原は
WBA世界ミドル級チャンピオン:ホルヘ・カストロへの挑戦が決まった
ミドル級は
リミットは72.5kg
過去には
ジャック・デンプシー
シュガー・レイ・ロビンソン
カルロス・モンソン
シュガー・レイ・レナード
マービン・ハグラー
トーマス・ハーンズ
など伝説的な世界チャンピオンたちが君臨してきた階級である
日本人ではこれまで挑戦者すらいなかった
カストロも
すでに4度の防衛戦を勝ち抜いたチャンピオンだった
ニックネームは「ロコモトーラ(機関車)」
アマチュア126勝2敗
プロで98勝69KO4敗2分
竹原は全勝ながら24戦である
カストロはいった
「竹原が日本のボクサーとして初めて世界ミドル級に挑む勇気は称えよう
だが試合は早いラウンドで終わるだろう
オレは早く終わらせて国へ帰るよ
竹原に伝えておいてくれ
ミドル級のベルトをつけることができるのは
選ばれた人間だけなのだと」
世界戦だというのに
テレビは生中継はなく
深夜で録画が放送されることになった
ミドル級という注目度が低さ
新しいジムの資金とコネの少なさ
「圧倒的に竹原不利」という予想がそうさせた
戦う前からイヤな雰囲気が漂っていた
「勝つのはオレじゃい」
しかしかえってそれが
竹原の「なにクソッ」という気持ちを起こさせた
3R、
竹原が左ボディブローで
これまでダウンしたことがないカストロからダウンを奪う
ダウンから立ち上がった後は一進一退
終始打ちつ打たれつの激戦のままフルラウンド勝い
判定で竹原が勝利し
日本人初の世界ミドル級王者となった
「世界チャンピオンになれました
やればできるんですね」

6か月で世界王座陥落

初防衛戦は相手は
ランキング1位のウィリアム・ジョッピー
会場は18000人を収容する横浜アリーナ
竹原はこれまで3000人収容の後楽園ホールでしか戦ったことのなかった
テレビ中継もゴールデンタイムに全国ネットで生中継される
前回と打って変わり、
ジョッピー戦はマスコミ、ボクシング関係者の間は楽勝ムードで覆われた
1R
ジョッピーの右をまともに浴び竹原はダウン
その後もジョッピーにペースを握られ
9R、
挑戦者が連打で竹原がコーナーに追い詰めたところでレフェリーストップ
6か月で世界王座から陥落した
ジョッピーは、
この後、返り咲きを含めて約7年間、同王座に関わり続けたが
「竹原のパンチがこれまで1番強かった」
といっている
網膜剥離が判明、引退

試合の前から
竹原の左目は
視野が狭くなっていた
右目を閉じて左目だけでみると
目の中に黒いカーテンが下がって
なにもみえない部分があった
網膜剥離だった
手術を受け
再起をはかったものの
回復が思わしくなく
竹原は引退した
Campione(カンピーネ)

イタリアンレストラン Campione(カンピオーネ)
引退後
まずはボクシングに未練タラタラだった
引退を撤回しようとか
K-1ならできるんじゃないかなど
ウダウダ考えてしまい
家の近くの眼科医にいって
ボクシング復帰できるように
「承諾書にサインをしてくれ」
と頼みあきれられたこともあった
次に
未練を断つために
タバコを吸った
そして毎日、開店から閉店までパチンコ屋に通った
芸能プロダクションに籍を置いたが仕事は来なかった
やがてプライドを捨て
日焼けサロンの店員のアルバイトをはじめた
そして1年間働きながら
自分が何をしたいのか考え
イタリアンレストラン「Campione(カンピーネ)」を開店させた
(2006年1月で閉店)
ガチンコ!ファイトクラブ
レストラン開店後、まもなく
「ガチンコ!ファイトクラブ」に出演した
プロデューサーは
ボクサー時代の竹原を知らなかったが
ボクシング名鑑で「広島出身」が目に入り
「広島=恐い」とイメージして
実際に会ってやはり恐かったため竹原のコーチ就任を決めた
番組は
不良少年にボクシングを指導しプロボクサーに育て上げるという企画で
約3年間の間に
12人の参加者がプロテストに合格
その中に俳優、斉藤一平もいる
下の下のゲットー

下の下のゲットー
またガチンコ!ファイトクラブ内での発言
「お前ら弱い世界じゃ強いじゃろうが、
強い世界じゃ下の下じゃ(ゲのゲじゃ)」
が
「下の下のゲットー」
としてCD化された
T&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム

T&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム
畑山隆則と共に
東京都新宿区に
T&H竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジムを開く
30upDIET

健康と美容のコンセプトブランド「30upDIET」を立ち上げ
サプリメント
サウナスーツ、
ウォーキングシューズ「マッスルトレーナー」がヒット
ボクシングの動きを採用したダイエットエクササイズビデオ、DVDを発行し
元アスリートとしてのノウハウも提供
激辛つけ麺

地元広島名物つけめん店「みんみん」とコラボし、
コンニャクを利用したダイエット用食品『激辛つけ麺』の開発に携わる
高校卒業

青森山田高等学校 広域通信制課程
青森山田高等学校通信課程を卒業
竹原慎二のボコボコ相談室

竹原慎二のボコボコ相談室
「竹原慎二のボコボコ相談室」の連載を開始
悩み解決?の名言が続出
Q.
仕事中のパチンコがやめられない
A.
おまえが賭けとるのは自分のクビじゃ
やめたいと抜かしつつ
その気もない口先だけのおまえに
どうせ何を言ってもやめんじゃろからそのままやっとけや
いずれ、会社にも嫁さんにもバレて、クビに離婚に借金じゃ
人生と引き換えの大当たりは
さぞ気持ちええじゃろ
Q.
飲み会でカツラを取られ屈辱を受けました
A.
最初から全社員知っとったわ
おまえの見た目にわかるヅラのおかげで他の社員や取引先に余計な気を使わせて、
会社としてもいい迷惑だったんじゃ
そんな回りの配慮にすら気付かんおまえは社会人としても失格
むしろ余計なメンテナンス費用がかからなくなった事を上司に感謝しろや
Q.
全く連絡が取れなくなった彼女
まるで結婚詐欺
プレゼントを返して欲しい
A.
モテん男に舞い降りた女神に文句言うんじゃねぇ!
女と付き合うには最低限の資格がいる
もとより備わっていない冴えない奴は自分で勉強して身につけるしかないんじゃ
でもな、モテない野郎の多くは、その機会すらないヤツのほうが多いのが現実
だからこそ、お前のようなセコい男にとっちゃあ、
彼女は天から舞い降りた天使に間違いないんじゃ
ボケが
Q.
月5000円しかくれない上に、カードゲームを勝手に処分
妻が許せない
A.
できた嫁じゃ
だいたい小遣いが足りんだのオモチャを捨てられただの
ガキがオカンに言う文句じゃ
おまえには夫としての責任感がなさすぎる
そんなおまえにどうにかなりそうなのは奥さんのほうじゃ
竹原慎二オフィシャルブログ

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竹原慎二オフィシャルブログを開始
アメーバブログの有名人アクセスランキングでは開始5日目にしてTOP10入り
しめの言葉、「じゃあの」が心地よい
ガンもボコボコにする
膀胱ガンが判明
リンパ節への転移も認められたが
手術・抗がん剤などの治療を経て
現在は通院を続けている