最後のサムライ、最後のストイックボクサー
現在社会において
ただひたすらストイック(禁欲的)にボクシングに打ち込み
その拳で夢をつかみとった
その野武士的ルックスと
謙虚でまじめな性格も相まって
「ラスト・サムライ」
「最後のストイック・ボクサー」
と呼ばれた
浜田のボクシングに対する姿勢は鬼気迫るものがあった
それは肉体的なハードワークだけにとどまらず
「体に悪いから」
とコーヒーすら飲まなかったり
「目に悪い」
とボクシング以外、テレビはみなかったり
ジュースを1本飲むべきか
自動販売機の前で2時間考え込むなど
日常にも及び
それは修行僧を思わせた
「パンチは10cmの隙間があれば倒せる」

21勝19KO
15試合連続KO
1R3分9秒で世界タイトル奪取
数字が示すように
そのパンチ力は破壊的だった
「パンチは10cmの隙間があれば倒せる」
そういう浜田の戦いぶりは豪快で
「パンチを当てて倒す」などという表現は生ぬるい
「なぎ倒す」といえばいくらか近い
浜田のサンドバックを打つ姿を近くで見た人は背筋が寒くなるという
まさにヒーロー
入場曲は『ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO』
夢はでっかく、世界チャンピオン

中城城跡
沖縄県中頭郡中城(なかぐすく)村に生まれ
小学校4年生のときボクシングを始め
高校は那覇市内にあるボクシングの強豪校、沖縄水産高校へ
バスで2時間以上もかけて通った
ボクシングの練習にすべてを捧げ
破壊的な左強打者となり
高校3年生でインターハイで優勝した
プロボクサー

高校卒業後、名門帝拳ジムに入門
入門した年の5月、デビュー戦でKO勝ち
2戦目もKO勝ち
3戦目判定負け
4戦目以降、KOで勝ち続けた
左拳骨折

手術跡が残る左拳
11戦目の
デオ・ラバゴ戦で
9RTKOで試合には勝ったが
左拳を骨折してしまう
その年に手術を受けたが
その後、3度骨折し2度目の手術を受けた
18歳でプロになり、
21歳のいままで8連続KO
しかし以後、23歳までの2年間
リングに上がることができなかった
変形した右拳

その2年間
昼間は
帝拳ジムのスポンサーだったKKベストセラーズで働くのだが
仕事場の建物は
鉄骨がむき出しになっていて
浜田はそれを叩いて右拳を鍛えた
そして夜は
ジムに行き
右パンチだけで練習した
現在も浜田の右拳は変形している
ランキングから「浜田剛」の名が消えた

リングに上がれなかった2年間
ランキングから浜田の名前が消え
後輩たちががどんどん追い抜いていった
しかし
浜田は復活を信じ
ひたすらトレーニングに励んだ
復活、手のつけられない強さ
長い長い2年間の地獄から這い上がり
ついに復活のときが来た
長期のブランクの影響や
左拳骨折の再発が心配されたが
浜田は
その情熱と強打で相手をバタバタとなぎ倒していった
13連続KO
元WBA世界ライト級チャンピオン、クロード・ノエルに4RKO勝ちし
13試合連続KO
それまでムサシ中野、串木野純也、赤井英和らの12試合連続KOの記録を破った
日本タイトル奪取
友成光に7RKO勝ちし日本ライト級王座奪取
14連続KO
15連続KO
タイ国ライト級王者、ダウトーン・チュワタナを2RKO
15連続KO
東洋タイトル奪取
東洋太平洋ライト級王者、ジョンジョン・パクインに挑み
12回判定勝ち
連続KO記録は途絶えたが王座獲得に成功
世界タイトルへ挑戦

帝拳ジムは
ファイトマネーなどで交渉が困難なライト級(58.967 - 61.235kg)を回避し
S・ライト級((61.235 - 63.503kg)に標的をに変えた
そして浜田剛史の世界タイトル挑戦を発表した
相手はWBC世界王者、レネ・アルレドンド
長身で強打を持つKO率は9割近いボクサーだった
右膝損傷

このタイトル戦発表の直前
浜田は密かに右膝に手術を受けていた
休むことなく毎日行った20kmのロードワークのせいか
拳と同じく自らのハードパンチを打った疲労の蓄積か
右膝の半月板を損傷していた
最初、診た医者はいったという
「立っている事すら信じられない
ここまでどうやって来たの?」
右膝の関節としての安定性が失われ
以前のように強い踏み込みができなくなってしまい
がむしゃらに走ることもできなくなっていた
しかし浜田は右膝のことをトレーナーにも隠し通した
「たとえ拳が砕けようとも、その時、相手が倒れていればそれでいい」

「この試合が終わった後、自分の体がどうなってもいい」
「たとえ拳が砕けようとも、その時、相手が倒れていればそれでいい」
そういう浜田のコンディションは最悪だった
練習中に突然視力が低下し
ミネラルウォーターの栓も締められないほ筋力が低下
階段も四つん這いでしか昇れなくなった
重度のオーバーワークだった
世界戦の1週間前まで練習を禁止し
休養に当てた
浜田は1日22時間眠ったという
帝拳ジムのマネージャー、長野ハルはいった
「彼が世界チャンピオンになれないなら神はいない」
3分9秒の惨劇
膝に不安のある浜田は、
長引けば長引くほど不利であると
ゴングを合図に突進
サポーターをつけた右膝で踏み込んで
いきなり左拳をアルデドンドに突き刺した
そして連打で追い込んでいった
アルレドンドも強気で応戦したが
浜田の右フックが炸裂した
左が使えなかった2年間
変形するまで鍛え上げた右の拳が
空白の2年間の怒りを爆発させたようだった
この右フックが基点となり
連打が決まり
アルデドンドは意識を失いダウンした
わずか3分9秒で夢を叶えた浜田は
テンカウント後もロープに手を掛けたまま全く動かなかった
「膝が痛くて動けなかった」
という
初防衛 「判定勝ちはどんな大差であっても勝者であっても負け」
同年、
世界ランキング5位、ロニー・シールズと対戦
浜田はこれが最後の試合になるだろうと思っていた
それくらい右膝は悪かった
必ずKOで倒すと心に誓ってリングに上がった
しかし2R激痛が走った
右膝を痛めた浜田は思うように戦えず苦戦した
判定で勝ったものの
右まぶたの上を切り血だらけの不本意な防衛だった
試合後、浜田は右脚をひきずりながら走って控え室へ帰った
無様な姿をさらしたくはなかったのだ
その姿はまるで敗者のようであった
自分自身を納得させるため
もう1試合戦うことを浜田は決めた
相手はあのレネ・アルデドンドだった
アルレドンドのリベンジ
2度目の防衛戦で
アルレドンドと再戦
激しい打撃戦となったが
浜田の前脚である右膝の状態は悪く
後ろ脚に重心がかかり
膝で左右にウィービングすることが出来ず
アッパーを食って目を切り裂かれ
6R、
無情の右フックを浴び続け
レフェリーが試合をストップした
浜田は王座を失った
突然の復帰戦キャンセル、突然の引退

浜田は
とにかく右膝を治して
1勝1敗となったアルレドンドとの決着をつけたいと思った
右膝さえ万全であれば絶対に負けない自信があった
しかし
東京ドームで予定されていた再起戦を
浜田はキャンセルした
対戦相手はフィリピン4位の選手
力の差は歴然としていた
ファイトマネーは1500万円が用意されていた
試合をキャンセルした2週間後
浜田は引退した
あまりに突然の出来事だった
アルレドンドに負けた試合がラストファイトとなった
(24戦21勝(19KO)2敗1無効試合)
引退後

引退後も
酒や煙草は一切やらずトレーニングを続け
後進の見本となり
プロボクシング解説者としての評価も高い