明大のエースからドラゴンズへ
徳島商業高校時代には、第75回全国高等学校野球選手権大会に4番・エースとして出場し、準々決勝まで進出。その後明治大学へと進学した川上投手は大学でもエースとして活躍。4年時には主将にも選ばれ、リーグ通算57試合に登板し、28勝15敗。大学のベストナインにも3度選ばれるなど大学球界を代表する選手でした。

明治大学時代
卒業後、川上投手は明治大学の大先輩である星野仙一氏率いる中日ドラゴンズを逆指名。契約金1億円、出来高払い5,000万円、年俸1,300万円(金額は推定)という最高級の契約を結びます。

新人入団時の川上投手
同級生で慶應大学の主将だった高橋由伸選手とは大学時代からライバル関係。巨人に入団した高橋選手と川上投手はプロ野球でも名勝負を繰り広げていきます。

高橋由伸選手と
大きな期待に対して・・・
入団一年目からローテーション入りした川上投手は14勝6敗という好成績を挙げます。ちなみに巨人の高橋選手も打率.300、19本塁打、75打点という大活躍。他にも坪井智哉選手(阪神タイガース)、小林幹英選手(広島東洋カープ)らとハイレベルな新人王争いを川上投手が制したのは、中日を二位に押し上げる貢献度(この年の優勝は横浜)だけではなく、高橋選手を直接対決で 22打数1安打(1本塁打)とほぼ完璧に押さえ込んだ事も関係していると言われています。
※他の3人も他の年では新人王に選ばれていても不思議ではない成績をあげており、川上投手以外の3人は「リーグ特別表彰」を受けています。

1999年の日本シリーズ2戦で勝利
翌1999年シーズンは8勝どまりでしたが、チームはリーグ優勝。ホークス相手の日本シリーズ第2戦で川上投手は好投。このシリーズでチーム唯一の勝ち星を挙げたことから、敢闘選手賞を受賞しました。ただ、この様に持っている能力の高さは示しながらも、しばらく負け星が上回るシーズンが続いていきます。(1999年8勝9敗、2000年2勝3敗、2001年6勝10敗)
ノーヒットノーラン達成
そうして迎えた2002年シーズン、川上投手は8月1日の対巨人戦でノーヒットノーランを達成します。(1四球のみの準完全試合)。巨人にとっては1987年の近藤真一投手、1996年の野口茂樹投手に続き、またも中日の投手にノーヒットノーランを達成される事となったのです。

ノーヒットノーラン達成
名実共にドラゴンズのエースに
2004年には、17勝を挙げてチームのリーグ優勝に貢献。西武ライオンズ相手の日本シリーズでも2試合に先発(1勝1敗)し、敢闘選手賞を受賞。この年、リーグ最優秀選手、最多勝、沢村賞など合計9つのタイトルを獲得。以降海外移籍するまで一度も負け越した事はなく、ドラゴンズのエースとよぱれるにふさわしい成績を挙げていきます。
2006年にも17勝をあげてリーグ優勝に貢献。最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献。日本シリーズでは、日本ハムに破れて日本一は逃したものの、川上投手は第一戦でダルビッシュ投手と投げあって勝利をあげるなど活躍。2度目の日本シリーズ敢闘選手賞を受賞します。
2007年、ペナントレースでは2位に終わったものの、ポストシーズンで阪神・巨人を倒して日本シリーズに進出。前年に続いて日本ハムとの日本シリーズになりましたが、中日は見事に雪辱。日本一になります。(川上投手は第一戦で敗戦投手になったものの、2被安打3失点と好投)
野手並のバッティングセンス
ちなみに川上投手は打撃にも定評がありました。広い名古屋ドームで右方向に本塁打を放ったこの本塁打は解説者を唸らせます。
海外挑戦
2008年に開かれた北京オリンピック。野球の代表チームを率いたのは恩師・星野監督でした。「星野ジャパン」の代表入りした川上投手は中継ぎとして起用されます。チームは準決勝まで順調に勝ち進むのですが、GG佐藤選手の「あの落球」などが影響し、結果は4位。川上投手も3位決定戦で敗戦投手になっています。

「星野ジャパン」に選出
オリンピックでの「後遺症」が心配された川上投手でしたが、帰国後は好調な投球を見せ、最優秀防御率のタイトルも狙える成績でしたが、規定投球回数に達する事はできませんでした。そしてこの年のシーズンオフに海外FA権を行使することを発表。アトランタ・ブレーブスと3年契約を結びます。

ブレーブス入団会見
大リーグ入りしてからの川上投手は厳しい戦いが続きます。1年目は先発で好投しても打線の援護が得られないことが多く、更にシーズンを通じて右肩の違和感と戦う事になります。中継ぎに配置転換されて以降安定感を見せますが、7勝12敗。

苦戦が続いた大リーグ時代
故障からの復帰を目指した2年目は開幕から先発ローテーション入りするものの、球団史上ワーストとなる開幕9連敗。シーズン通じての成績は1勝10敗。シーズン後半にはAA落ちも経験し、更に翌2011年はメジャー昇格する事なくシーズンを終えるのです。
日本球界に復帰
3年間の苦しい海外生活の後、川上投手は2012年に中日と再契約します。背番号は親しみのある「11番」になる事が決定。(それに伴い前年まで11番をつけていた岡田投手は21番に変更)この年の開幕第二戦に登板し、勝利投手になるのですが、直後に故障を発症し戦列を離れ、シーズン成績は3勝1敗。2013年も右肩痛のため、初登板は8月迄ずれ込みます。

中日に復帰
結局この年も1勝どまりに終わった川上投手に1時は戦力外が言い渡され(同時にコーチ打診も)るのですが、その後方針転換され、新たに2年契約が結ばれます。(この方針転換には落合GMと谷繁監督の意向があったと言われています)
引き続き中日のユニフォームを着ることになった川上投手は、なんと2014年シーズンの開幕投手に「サプライズ選出」されます。(開幕投手を7度も務めたのは、中日の球団史上最多記録)
ですがやはりこの年も故障に苦しんだ川上投手は、一軍では、6試合の登板で1勝2敗。二軍でも、10試合の登板で0勝5敗という結果に終わりますが、中日は年俸1000万増(推定)という条件で契約を更改します。不本意な成績が続いている故障持ちのベテラン投手に対してこの様な契約は異例とも言えますが、それだけ川上投手が特別な存在だったという事でしょう。
2015年右肩の腱板を痛めた川上投手は、9月末に腱板の再建手術を受けます。この年一・二軍とも実戦登板の機会がなかった川上投手は、中日からの退団を表明。長年つけていた「背番号11」はドラフト1位で獲得した小笠原投手に引き継がれる事になりました。

「11番」を引き継いだ小笠原投手
大学時代からのライバルである高橋由伸選手が巨人の監督就任と同時に現役引退を表明しましたが、川上投手は中日からの「退団」は表明したものの、現役引退はせず、手術後の回復を待って球界復帰を目指しています。

最多勝を2度獲得した魂のエース・川上投手はまだ燃え尽きていないのです。