第61代横綱『北勝海(ほくとうみ)』現・八角理事長

北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし)
小学生時代には既に1度北の富士から九重部屋への勧誘を受けていた。
広尾小学校の卒業文集に「将来は相撲取りになって、芝生のある家を建てる」という夢を書いた。
14歳で親元を離れ、九重部屋に入門。
早朝から稽古場で四股を踏み、それが終わると中学校へ通う日々を送る。
中学卒業の1979年(昭和54年)3月場所に初土俵。
後に北勝海と同じ「花のサンパチ組」が次々幕内上位で活躍する事となる。
花のサンパチ組

花のサンパチ組
該当する力士は、
◆北勝海信芳(第61代横綱、現在の年寄八角)
◆双羽黒光司(第60代横綱、現在は立浪部屋アドバイザー)
◆小錦八十吉(最高位大関、現在はタレント)
◆寺尾常史(最高位関脇、現在の年寄錣山)
◆琴ヶ梅剛史(最高位関脇、現在は相撲料理店経営)
◆孝乃富士忠雄(最高位小結、元プロレスラーの安田忠夫)
※寺尾は早生まれで学年は1つ上。
この中から双羽黒・北勝海・小錦の3人を抜き出して、「花のサンパチトリオ」と呼ぶ場合もある。
兄弟子・千代の富士との猛稽古により台頭
素質はそれほどないと言われていたが非常に稽古熱心であり、特に昭和の大横綱と言われる九重部屋の兄弟子・千代の富士との激しい稽古を重ねて強くなり、順調に出世していった。
その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話もある。
北勝海は「千代の富士がいなければ綱などとても取れなかった」と語っている。
19歳の83年春場所で新十両昇進。同年秋場所で新入幕を決める。
新入幕から所要わずか2場所で小結に昇進。
立ち合いでぶちかまし、突き押しに徹するだけではなく差し手からの寄りなど、馬力にスピードや技能も兼ね備えた取り口。
なにより、闘志を全面に出し、最後まであきらめない気迫あふれる相撲でファンを魅了した。
西関脇だった86年春場所で史上初めて5大関を破り、13勝2敗で初優勝を飾る。同年名古屋場所後に大関昇進。
四股名を保志から北勝海に改名した。
当初は出身地の「十勝(とかち)地方」にちなんで、「北十海」「十勝海」「十勝富士」などが候補だった。
しかし十勝の「十」の字は、『勝ち星が10勝止まりになりそうで止めた方が良い』となり、「十勝」から読みは十(と)ではあるが字は「勝」として、「北勝海」と決まった。
ライバル・大乃国との対決と因縁
同じ北海道十勝地方出身であり、中学時代には地方に名の知れた柔道選手であった一つ年上の大乃国とは新入幕の頃から同郷のライバルと言われていた。

横綱・大乃国
初優勝・横綱昇進ともに北勝海の方が大乃国をリードしていたが、直接対決では分が悪く通算成績では14勝20敗と負け越し一番の苦手としていた。
特に1985年3月場所から1986年1月場所まで、6連敗を喫するなど圧倒的な差をつけられていた。
だが、北勝海が横綱昇進した1987年7月場所以降は決定戦を含め8勝6敗(1不戦敗)と力関係が逆転し、さらに1989年1月場所以降の成績は6勝2敗と大きく勝ち越している。
1989年9月場所の千秋楽の結びの一番では、7勝7敗と勝ち越しをかけた大乃国と対戦するも容赦なく下し、これで大乃国は7勝8敗とついに負け越してしまった。
1988年3月場所で「これ以上にない屈辱を受けた」という北勝海が、大乃国に対して『15日制が定着してからは初めての横綱皆勤負け越し』という、それ以上の屈辱を与えることになった。
稽古熱心さと品格の良さが認められ横綱へ昇進
大関昇進後、大関4場所目の1987年(昭和62年)3月場所には、上位陣総崩れの中12勝3敗の成績ながらも6場所ぶり2回目の幕内優勝となる。
自身初の綱獲りだった翌5月場所は、千秋楽で14戦全勝の大乃国と対戦するも寄り倒されて13勝2敗と優勝次点の成績に終わる。
15戦全勝優勝の大乃国とは2勝の差があり、千秋楽の後に日本相撲協会から横綱審議委員会へ諮問するとの公表も「横綱昇進は微妙」と報道された。
しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが横審委員会から高評価を得たことなどにより、満場一致で同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した。
横綱昇進時の口上は「横綱の名を汚さぬよう、これからも一生懸命稽古をし努力します」。
平成元年一月場所、怪我から復帰し見事な復活優勝
北勝海は優勝コメントで「まさか優勝するとは夢にも思わなかった。治療先では会う人全てがとても良くしてくれたから、自分も苦しい治療やリハビリを乗り切れたのだと思う。とにかく復活することが出来て本当に嬉しい。今までに会った人に感謝したい」と喜びを語る前に治療時にお世話になった人たちへのお礼の言葉を述べた。
また、この場所前リハビリから帰ってきた北勝海を見た師匠の九重親方は「以前より胸板が厚くなった。本気でリハビリに取り組んでいたんだ」と喜んだという。
北勝海の真面目さや人柄を感じさせるエピソードである。
千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦
取組後、北勝海・千代の富士は二人共「もう二度と対戦したくない」と語っている。
九重親方(北の富士)もかつて「一度は千代の富士対北勝海の決定戦を見てみたい」と語っていたが、二人の決定戦の終了後は「師匠としてもまともに見ていられなかった。もう(決定戦は)やらなくていい」とコメントしている。
これが両者にとって最初で最後の優勝決定戦となった。
なお、北勝海は兄弟子・千代の富士の優勝、または優勝争いで何度も援護射撃をしている。
1987年7月場所は優勝と綱獲りがかかっていた大乃国を千秋楽に下し、千代の富士に21回目の優勝をプレゼントした。
1987年11月場所14日目には、千代の富士と共に全勝だった横綱双羽黒を下した。翌日、千代の富士は双羽黒を下し22回目の優勝を決めた。
また、千代の富士が休場した場所で、弟弟子の北勝海が優勝するというケースも過去に5回もあった。
(1986年3月、1987年9月、1989年5月、1990年9月、1991年3月)
平成2年三月場所、異例の優勝決定巴戦を制す
巴戦の場合は、1力士が2連勝すると優勝が決まるが、2連勝しない場合は延々対戦が続く。
最初の北勝海対小錦戦は小錦が勝利。
小錦が次の霧島戦に勝てば小錦が優勝だったが、霧島が勝って小錦の優勝ならず。
今度は霧島が次の北勝海戦に勝てば霧島の幕内初優勝だったが、北勝海が勝ってまだ対戦は続く。
そして次の小錦戦は北勝海が下手投げで下して2連勝、ようやく北勝海の優勝が決まった。
なんと三つ巴の対戦が四つも続くという大熱戦だった。
度重なる怪我から引退へ
北勝海の持病である腰痛の影響は大きく、平成2年5月場所以降は優勝した場所以外は10勝前後で終わる事が多く、雲行きが怪しくなった。
マイナス190度の冷凍室に入る等さまざまな治療やリハビリを試しつつ、横綱としての懸命の土俵が続いていた。
1991年(平成3年)3月場所は、14日目に大乃国と優勝争いトップの12勝1敗同士の対決で、北勝海が寄り倒してひとり1敗を保持したものの、この一番で左膝を土俵の俵に打って負傷してしまう。
この場所千秋楽結びの一番は横綱同士の北勝海対旭富士戦で、その結び前の一番は横綱大乃国対大関霧島戦だった。
14日目時点で霧島は4勝10敗と負け越し、12勝2敗の大乃国が有利と見られ、千秋楽本割で大乃国が勝ち北勝海が負けると両者13勝2敗同士の優勝決定戦となっていた。
ところが大乃国は過去幕内での霧島戦が6勝7敗の苦手とし、さらに久々の優勝のプレッシャーもあったのか、不調の霧島に大相撲の末まさかの敗戦で12勝3敗となり、この時点で13勝1敗だった北勝海の8回目の幕内優勝が決まったのである。
その後、北勝海は結びの一番で、痛めた左膝を庇いながら旭富士に呆気なく押し出されて完敗。
大阪府立体育会館の観客や関係者達も大きくどよめいた一番だったが、これが北勝海の最後の優勝となった。
左足を引き摺りながら花道を歩いた後、記者陣とのインタビューでは「大阪のお客さんに失礼しました。最後は良い相撲を取りたかったのに」としきりに苦笑いしていた。
北勝海はこの膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。当時は4横綱が番付に名を連ねていたが、千代の富士の引退を皮切りに、大乃国、旭富士と相次いで土俵を去り、ついに北勝海のみの一人横綱となった。
横綱の責任感から北勝海はぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは回復しないため、平成4年5月場所直前に番付に名を残しながら、28歳10か月の若さで現役引退を表明した。
横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。
引退相撲では当時異例とも言える最後の取組が行われ、その対戦相手は同じ「花のサンパチ組」の寺尾であった。
北勝海が最後の場所となった1992年3月場所、3日目の対戦が寺尾と決まっていたが、北勝海は不戦敗となり5月場所前に引退したため、彼自身寺尾と対戦出来なかったことが心残りだったという。
そして彼は、引退相撲で寺尾と最後の対戦をしたいと申し出ると、寺尾は快く承諾。
そしてその取組では、寺尾が北勝海を寄り切って勝利したが、勝負が決まった瞬間寺尾は北勝海に「お疲れ様」と労いの言葉を贈った。
誰もが認める努力で横綱まで上り詰めた男、北勝海。
頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。
師匠の九重(北の富士)は北勝海のことを「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」と評し、「千代の富士が大横綱になったことよりも、北勝海が横綱に昇進した事が一番の驚きだった」とも語っている。
兄弟子・千代の富士は「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
解説を務めたサンデースポーツでは「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行ない、近年の力士のぶつかり稽古の不足に警鐘を鳴らしており、「(胸を出してもらえるのだから)ありがたくぶつかれ」、「(きつい稽古も)毎日やってると普通になってくる。普通になるまでやらなくちゃいけない」などと発言している。
引退後は親方、そして相撲協会理事長へ
1993年に年寄・八角を襲名し間もなく八角部屋の師匠となった。
九重部屋からの独立という見方をされるが、建物や部屋付き親方は北の富士が師匠を務めていた頃の九重部屋からそのまま受け継いでいる(千代の富士は九重部屋継承後に部屋を新築した)。
そして海鵬、北勝力、隠岐の海などの関取9人を出している。
日本相撲協会の理事を務めるなど千代の富士を凌ぐ順調な出世街道を歩み、2015年12月には第13代理事長に就任した。

日本相撲協会理事長に就任
現役時代から真面目さと人柄でファンのみならず相撲関係者からも慕われる八角新理事長。
より魅力ある相撲界を目指し頑張って下さい!