デビューから3歳秋まで
マヤノトップガンは1995年の年明け3歳の1月という遅いデビューで
さらに初勝利まで4戦を要し、2勝目をあげたのは日本ダービー当日の5月だった。
しかもそれまで使われたのはダート戦で、芝の適性があるかもわからない状態である。
その後、初めての芝のレースで3着となり、次走は芝のレースで勝ち上がる。
デビューから9戦目の夏の出来事である。
菊花賞制覇
マヤノトップガンは秋のトライアル、神戸新聞杯と京都新聞杯を続けて2着と好走すると、菊花賞へ駒を進める。この年は春のクラシックホース、皐月賞馬ジェニュインが天皇賞へ出走し、ダービー馬タヤスツヨシは秋になって2戦凡走、牝馬のダンスパートナーが一番人気に支持されるなど、手薄なメンバーであった。マヤノトップガン自身も重賞未勝利ながら、3番人気に支持され、レースは先行抜け出しという堂々としたレースぶりで重賞初制覇をG1初制覇とした。ダービー当日にダートで2勝目をあげた馬が菊花賞を勝つなんて誰が予測できただろうか、マヤノトップガンはダービー馬もオークス馬も下して、3歳世代のチャンピオンになったのであった。
有馬記念も勝利し、年度代表馬に
マヤノトップガンの次走はグランプリの有馬記念
菊花賞を勝って勢いに乗るマヤノトップガンであったが
使い詰めやメンバー強化もあって、6番人気と低評価であった。
しかし、そんな低評価をあざ笑うかのようにスタートから先頭に立つと
そのまま後続を寄せ付けず逃げ切り勝ちをおさめる。
最強牝馬のヒシアマゾンや三冠馬のナリタブライアンも寄せ付けない走りで
G1連勝、この勝利により、年度代表馬に選ばれ、世代を超えたチャンピオンとして
君臨することとなった。
世紀の名勝負
年度代表馬となったマヤノトップガンは明け1996年、春の天皇賞を目指すべく、阪神大賞典に出走をする。
ここには復活を目指す三冠馬のナリタブライアンも出走していた。
人気は二頭に集中し、連番オッズも2倍という、まさの2強状態であった。
3000メートルという長距離レースにも関わらず、直線早めに先頭に立つ
マヤノトップガンとナリタブライアン、あとはひたすら二頭の叩き合いで
3着以下には9馬身差をつけ、2頭同時にゴールを駆け抜ける。
結果、ナリタブライアンがわずかに出ており、マヤノトップガンにとっては悔しい敗戦となった。しかしながら、春の天皇賞に向けて、この二頭が主役ということを大きく印象付けるレースでもあった。

グランプリ連覇
予定通り、春の天皇賞に進んだマヤノトップガンであったが、折り合いを欠くことやナリタブライアンを意識しすぎてか、5着に敗れる。勝ったのはサクラローレル、今の段階では全くノーマークだった馬だが、今後、マヤノトップガンの前に大きく立ちはだかる一頭となる。
気を取り直して、グランプリ宝塚記念では、手薄なメンバーということもあってか貫禄を見せつけ勝利、G1レース3勝目をあげ、グランプリ連覇を飾る。
あまりにもあっさり勝ちすぎたため、マヤノトップガン史上インパクトの薄いレースもこのレースである。
立ちはだかる壁
秋初戦、オールカマーから始動したマヤノトップガンであったが、ここでも宿敵サクラローレルの後塵を喫することとなる。しかも、牝馬二頭にも先着され、全く良いところがない敗退だった。続く天皇賞では、サクラローレルの騎乗ミスもあって、サクラローレルには先着するも、3歳のバブルガムフェローに敗れ、2着敗退、昨年制した有馬記念もサクラローレルに屈して7着惨敗と、サクラローレルが勝ったレースでは3着にも入れないのだった。苦手意識もあるかもしれないが、とにもかくにもマヤノトップガンにとってはサクラローレルが立ちはだかった1年であった。

脚質変更と3強対決
年が明けて1997年、マヤノトップガンは昨年ナリタブライアンに惜敗した
阪神大賞典から始動する。ここでなんと最後方追走という追い込み戦法に出たマヤノトップガンは客席をどよめかせるものの、4コーナーで先頭に立って、押し切って圧勝。
続く天皇賞春では宿敵のサクラローレルとマーベラスサンデーとともに3強対決と言われた。
レースは先行するサクラローレルとマーベラスサンデーを最後の直線で一気に差しきり、見事優勝。
3分14秒4はライスシャワーのレコードを2秒7も更新する驚異的なレコードだった。
天皇賞の栄誉と4つ目のG1タイトル、何よりもサクラローレルを下しての価値ある勝利となった。3強が凌ぎを削ったこのレースは90年代の名勝負の一つと言っていいだろう。
引退へ
追い込みという新しい道を切り開いたマヤノトップガンはジャパンカップを目標に調整される。しかし、秋初戦の京都大賞典を前に故障を発生し、そのまま引退、サクラローレルもフランス遠征のレース中に故障発生し、引退を決めて間もない出来事だった。
現役時代で一番強いと思えたのが、引退前の2レースだったため、非常に惜しい結果であった。マヤノトップガンが1997年のジャパンカップに出走し、エアグルーヴやピルサドスキーとどういったレースをしたか、非常に見てみたかった一戦である。
種牡馬として
マヤノトップガンは種牡馬になると短距離やダートで活躍したプリサイスマシーンや
長距離で活躍したチャクラやムスカテールなど幅広い活躍馬を出している。
しかしながら、父を超える産駒は出ないまま種牡馬を引退、今は平穏な余生を送っている。
ちなみに現役時代のライバル、サクラローレルに比べれば種牡馬成績は良く
マヤノトップガンの勝ちと言えるだろう。
顕彰馬
マヤノトップガンはG1を4勝しており、顕彰馬にも準ずる成績となっているが
選出には至らなかった。最近は顕彰馬の選考も厳しく、よほどインパクトがない限り
トップガンの成績クラスでも選出されないのが現状である。
田原騎手
マヤノトップガンと言えば田原騎手の印象が強い、当時の田原騎手は少年誌で
読み切りで田原騎手の物語が連載されたり、某競馬雑誌で好きな騎手ランキングで
武豊騎手を差し置いて1位になったりと、華のある騎手だった。
マヤノトップガンの引退後、田原騎手も引退をしたので、田原騎手にとって
最愛最後のパートナーと言えるかもしれない。
