初代タイガーマスク(佐山聡)  本物の強さを追求し、 独自の格闘技理論を実践、 選挙では 「暴走族を撃ち殺せ!!」と叫んだ

初代タイガーマスク(佐山聡) 本物の強さを追求し、 独自の格闘技理論を実践、 選挙では 「暴走族を撃ち殺せ!!」と叫んだ

アントニオ猪木が異種格闘技戦を行い タイガーマスク(佐山聡)が修斗 前田日明がRINGSという総合格闘技を創り RINGSからK-1が生まれるきっかけとなった まさに日本の格闘技ブームの創世であった 中でもタイガーマスク(佐山聡)は一見、異端なまでに独自路線を貫いた その異常な意志の強さは 異常なほどの鍛錬があってこそなのだろう 間違いなく佐山聡は強い!


プロレスラー 佐山聡

佐山聡(新日本プロレス)vsマーク・コステロ(全米プロ空手ミドル級第1位)

1977年11月14日、
梶原一騎主催の「格闘技大戦争」の中で
佐山聡(新日本プロレス)vsマーク・コステロ(全米プロ空手ミドル級第1位)戦が行われた
佐山のセコンドには山本小鉄がつき
リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦していた
まさにプロレスの威信をかけた試合だった
しかしこの試合は
両者ボクシンググローブ着用、寝技無しというプロレスラーには不利なルールだった

新日本プロレス道場

佐山は
アントニオ猪木を神のように崇拝していた
中学でレスリングや柔道を始め
高校1年のとき、アマチュアレスリングの大会で優勝
高校を中退し新日本プロレスに入門
プロレスを始めたのは17歳だった

「僕がいた頃の新日本の道場は、
まず山本小鉄さんの基本練習の厳しさがあり、
その上には『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があった
さらに毎年、数カ月から半年、カール・ゴッチさんが滞在する期間があって、
関節技とか寝技を指導する
それによって猪木さんの思想をさらに植え付けるというような、そういう場でしたよね
練習は過酷だったけれど大変だったとは思わない
むしろやりがいがあったし
楽しかった
それこそスパーリングだけで2時間とかやってましたからね
でも皆、負けず嫌いだし、お互い意地があるから2時間やっても極まらないんです
僕なんて歯が折れてもギブアップしなかったですから
スパーリング中は歯が折れた痛みも全然感じないんですよ
今思えば特殊な環境ですよね
じゃあ、なぜそこまでやっていたかといえば、
『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があったから
関節技や、ガチンコの部分はなぜあるのかっていうのが
もしかしたらレスラー自身もわかってなかったかもしれませんが
リング上で闘いを見せる上では必要なんだって、
そういう風に教え込まれてましたからね
みんな『俺たちがいちばん強い』と思ってましたし、
今考えると馬鹿げてると思うけど、
当時は、藤原さんたちと一緒に『俺たちってよ、世界で5本の指に入るよな』とか話してました」

(http://taishu.jp/16146.phpより)

目白ジム(黒崎建時道場)

上の選手になればなるほど、誰とスパーリングをやっても極まらない

「これに勝つには打撃を身につけるしかない」

佐山は新日本に黙ってキックボクシングの道場に通い出す

「今と違って当時はほかの道場に行っちゃいけないような空気がありましたからね
でもある日、
僕がキックの道場に通っていることが新日本にバレた
叱られるかなと思って覚悟していたら、
猪木さんは褒めてくれたんです
僕が強くなるためにやってることだったからでしょう」

(http://taishu.jp/16146.phpより)

山本小鉄

「(新日本プロレスの)道場には時々道場破りが来るんだけど
その相手をするのは佐山が担当で
佐山は全員を退けました
リアルファイトは前田も強かったけど
笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけでした」
(山本小鉄)

佐山聡(新日本プロレス)vsマーク・コステロ(全米プロ空手ミドル級第1位)

そんな経緯もあって
この試合に抜擢され
佐山はこの試合に備えて目白ジム(キックボクシングジム)でトレーニングを積み
92kgあった体重を77.5kgまで落とした

1R、
佐山は果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出した
2R以降、
マーク・コステロがパンチ・キック・膝蹴りと一方的に佐山を攻めまくり
佐山は毎ラウンド、ダウンしては立ち上がるを繰り返した
佐山はプロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの
7回ダウンを奪われるという屈辱的な判定負けを喫した
この試合に負けたことで佐山はより深く格闘技に傾倒していった
寮の自室に
「真の格闘技は、打撃に始まり、組み、投げ、最後に関節技で決まる」
という標語を貼りつけていた

海外武者修行

Satoru Sayama visita México

1978年、
佐山はメキシコへ渡り
体重が20kg近く減るほど慣れない環境や食生苦労しながら
「サトル・サヤマ」のリングネームで活躍
NWA世界ミドル級王座を獲得した

Sammy Lee in Europe.

1980年
佐山は
イギリスへ渡り
「ブルース・リーの従弟:サミー・リー」のリングネームで
サミー・リーは東洋武術を使うプロレスラーとして大活躍した

クイックキック・リー Kwik-Kik Lee

後にイギリスへ渡った前田日明は
「サミー・リーの弟:クイックキック・リー」のリングネームで活躍した

当時の試合の告知メディア

1981年、
佐山は会社(新日本プロレス)から
「タイガーマスクの映画を撮るので帰国して欲しい」
という連絡を受けた
佐山は(イギリスで)タイトルマッチが目前だったので断った
しかし
「1試合だけでいいから」
「アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」
と説得されしぶしぶ帰国した

タイガーマスク誕生

「タイガーマスク」もスポ根アニメの巨匠、梶原一騎の作品

「タイガーマスクの発端は
テレビ朝日でアニメの「タイガーマスク二世」の放映をスタートさせることになった時、
(原作者の)梶原(一騎)先生が
「新日本プロレスでタイガーマスク二世を作れないものかな」という相談をテレビ朝日にしたんだよ
それでスポーツ局の方から私に「梶原先生に会ってもらえませんか?」って話が来たの
梶原先生とはたしか永田町のホテルニュージャパンで会ったんじゃないかな
猪木は梶原先生の条件を聞いてすぐに「佐山だ!」と思ったみたいだね」
(新間寿)
(http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201006230010-spnavi)

新間寿

新間寿は
新日本プロレス専務取締役兼営業本部長
(社長はアントニオ猪木)
中央大学に入学後、
柔道部に所属しつつ
日本プロレスの道場にボディビル練習生として通った
そこで豊登と知り合った
大学卒業後、マックスファクター(化粧品メーカー)でサラリーマンをしていたが
豊登、猪木と共に東京プロレスの立ち上げた
しかし東京プロレスは3ヶ月で倒産し
新間は小来川鉱山鉱夫、ダイナパワーセールスマン、寿屋パン店の経営を経て
そして新日本プロレスに入った

グラン浜田

「後になって
(グラン)浜田が
「新間さん、何で俺を選んでくれなかったの?」って言ってきたから、
[お前のガニ股じゃあ、すぐに正体がバレちゃうよ]って
浜田は「いや、ガニ股は直しますよ」なんて言ってたけどね
タイガーマスクのプランが浮上してからデビューまで
裏ではかなりのドタバタだった
イギリスを発つっていう日に佐山がヒースロー空港から電話をかけてきて、
「新間さん、出国できないんです」って言うんだもん
佐山はちゃんと税金を払ってなかったんだよね
そこで佐山には1時間後にまた電話するように言って」
(新間寿)
(http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201006230010-spnavi)

福田赳夫

「私は福田先生(赳夫=第67代首相)の事務所に飛んで行ったわけ
それで事情を話したら外務省に連絡を入れてくれて
外務省を通じてイギリスの日本大使館が何もかもクリアしてくれたの
後に首相になる人の事務所が動いて
外務省が動いて
イギリス大使館が動いて帰国したんだから、
タイガーマスクのデビューは舞台裏も凄かったんだよ
それだけの裏の動きがあったのに
帰ってきた本人は
「新間さん、1試合だけですからね」って言うわけよ」
(新間寿)
(http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201006230010-spnavi)

タイガーマスク 降臨

いきなりタイガーマスクが・・・

プロレスのリングに立った

1981年4月23日、
蔵前国技館の新日本プロレスのリングに
突如、タイガーマスクが出現し
コーナートップに飛び乗り人差し指を上げた
そしてダイナマイト・キッドと戦った

タイガーマスクデビュー戦 相手はダイナマイト・キッド

「猪木に相談したら
「佐山だったらダイナマイト・キッドが1番いいだろ
ヨーロッパスタイルのレスリングもできるからな」って
でも私としたら心配でねぇ
2人は1度も対戦したことがないっていうし
果たして佐山がどんなファイトをするのか
キッドがどう受けてくれるか・・・・
そうしたら佐山のあの軽やかなステップから始まって
キッドも見事に対応してくれて
蔵前国技館は歓声に包まれて
「もうイギリスには帰すまい」と思ったよ
試合後、
観に来ていた梶原先生のところにスッ飛んで行って
控え室に来てもらって佐山に会わせたの
それから2日ぐらいして梶原先生の方から
「相談したいことがあるから飯でも食おう」って電話があってね
「これからもずっと出して欲しい
だからウチは黙ってタイガーマスクを提供したんだし
これからコマーシャルやいろんなイベントの話が来るだろうから
覚書を交わしてくれ」と
その時、梶原先生は
「本来ならウチに全部の権利があるんだけど、
アニメをテレビで放映してもらっているし、
あんなにいい選手だから
俺は7割、8割よこせとは言わないよ、50:50にしよう」って言ってくれたの」
(新間)
(http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201006230010-spnavi)

4次元プロレス、4次元殺法

タイガーマスクは
新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに
全米プロ空手流の打撃技
ルチャリブレ(メキシカンプロレス)の空中殺法
を織り交ぜ
そのスタイルは「4次元プロレス」、「4次元殺法」と表現された
そして空前のタイガーマスクブームを巻き起こった
『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え
地方興行は大入り満員が続いた

猪木の影

もう一つの闘い―血糖値596からの糖尿病克服記-アントニオ猪木

1982年、
猪木は
血糖値596の糖尿病にかかり、
インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反すると言って
自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った

生キャベツ丼

その方法は
どんぶり千切りキャベツを主食にし
「糖尿病で血糖値が上がった際、
氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」
と大量の氷を入れた水風呂に入った
(医師は「とんでもないことだ」と驚愕し「普通の人間は真似してはいけない」と語っている)

第1回IWGP優勝戦

アントニオ猪木

ハルク・ホーガン 

1983年6月2日、
第1回IWGP優勝決定戦:アントニオ猪木vsハルク・ホーガン

IWGPベルト

IWGP(InternationalWrestlingGrandPrix)は
「プロレス界における世界最強の男を決める」と猪木が提唱したものだった
当初の計画は
開幕戦は日本で行い
韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし
決勝戦はニューヨークで行うという計画だった
が、プランが壮大すぎることや
「プロレス最強の男を決める」
ということに対し
(当然、負けたほうが損だから)
各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示し協力を渋るなど
紆余曲折あり
ここまで新日本プロレスは
2年という時間と莫大な費用を使用して準備してきたものだった

アックス・ホンバー!

猪木はリング下へ落ちていった

アントニオ猪木とハルク・ホーガンの戦いは一進一退だったが
途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け
リング下に転げ落ち上がってこなくなってしまった
レフリーのMr.高橘はカウントを数えだした
「高橋、バカ野郎、待てよ」
坂口征二がそう叫びながら
リングサイドから飛び出し猪木を抱えてリングに入れようとした

猪木さん?

猪木を気遣う坂口

しかし猪木は
エプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かなかった
坂口は
舌が巻きついて呼吸困難ならないよう
自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ

い、猪木ぃ~!!!

そして猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった
坂口と新間は病室の外でひたすら待った
翌朝、徹夜明けの2人が病室に入ると
なんとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた
猪木は周囲の目を盗んで夜中にこっそりと抜け出していたのだ

猪木に怒る坂口

坂口は激怒した
「こんな話あるか
ふざけるんじゃないよ
俺は当分、会社出ないよ」

人間不信 坂口征二

人間不信 ( 格闘技 ) - 別冊『4の字日記』 - Yahoo!ブログ

そして
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分の机の上に置いてハワイに行った

マスコミも大騒ぎ

2、3日後、新間は病院に挨拶に行った
猪木が途中で帰ってしまったりマスコミが病院に押しかけたり大騒ぎになったので謝った
「ご迷惑をおかけしました」
すると看護師がこんなことを言った
「私たちはあの試合を見させていいただきました
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません
でも私たちは看護のプロです
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません
あれは猪木さんの芝居です」
新間はショックだった
勝つべき試合で猪木は失神KOされ今は雲隠れしている
坂口はいなくなってしまう
いったい何がどうなっているのか
新間はさっぱりわからなかった

(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prowh/prowh014.html)

猪木の、猪木による、猪木のためのIWGPが・・・

そしてこの事件をきっかけに
新日本プロレスは悪い方向に向かって行くことになる
「やはりレスラーはリング上で強くなくてはならない
そうでなけれぱ示しがつかなくなる
IWGPの優勝を猪木が逃すことによって組織のタガが外れてしまったのだ」
(新間)
(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prowh/prowh014.html)

クーデター

coup d'état

ホーガン戦の約2カ月後、新日本プロレスの内紛が表面化してきた
いわゆる「クーデター」である
クーデター側の主張は
会社(新日本プロレス)は年間20億円も売り上げがあるのに
利益が2000万円しか上がらないのは
社長である猪木が個人事業に回しているせい-というものだった

Sugar Cane, Brazil

その猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった
アントンハイセルは1980年に設立され
ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった

Brazil a leader in green power

当時からブラジル政府は
石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており
アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった

自由民主党本部

アントンハイセルを開始するにあたって猪木は自民党の大物議員に
「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ
逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されたという

Ethanol fuel Pollution

実際、プロジェクトを進めていくと
サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と
絞りカス(バガス)が公害問題となった

Bagasse

そこでバガスを家畜に飼料として食べさせるが
直ぐに下痢を起こしてしまった
土中にバガスをそのまま廃棄すると
土質を悪化させ農作物が取れなくなった

Bagasse Domestic animal Feces Organic fertilizer

バガスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料としようとしたが
日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗した

inflation in Brazil

さらに追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレにより経営は悪化の一途を辿った
こうしてアントンハイセルは数年で破綻し
その負債は数十億円とも言われる

テレ朝 logo

テレビ朝日に放送権を担保に12億円の肩代わり
(後に株券と引き換えに佐川清佐川急便会長に債権を移動)
してもらうがそれだけでは補えず
ついに猪木は新日本プロレスの収入の大半を補てんに回してしまった

Ethanol fuel

猪木の生家は
石炭を売っていたが
燃料として石油が主流化すると共に廃業に追い込まれ
そしてブラジルへ移民するという経験を持っている
だからなのか彼はこの後、政治家になったときも燃料問題には敏感だった
このときのアントンハイセルは失敗といっていいだろうが
この後、
地球環境問題や原油価格高騰などから
サトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は内容が見直され積極的に行われていった
先見の明がありすぎたのかもしれない

本来は仲良しなのに

さて話を戻すと
新日本プロレスのクーデター派はグループが3つあった

第1グループ

第1グループ、
長州力、アニマル浜口ら、(後のジャパンプロレス勢)

第2グループ、

第2グループ、
山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹(リングアナ)、永源遙、ミスター高橋(レフリー)ら

第3グループ

第3グループ、
望月和治、安西光弘、大塚博美(TV朝日からの出向組)

「新日から脱退したい」

1983年5月16日、
クーデターの発端は
長州力が新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場したことだった
その夜、長州は猪木へメッセージを送った

「新日(新日本プロレス)から脱退したい」

「社長、 これは職場放棄ですよ 謹慎処分か退職処分にすべきではないですか」

新間はこの件を猪木に相談した

「社長、
これは職場放棄ですよ
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか」

「そう派手にやってくれるなよ、新間
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、
長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」

「いや、ペナルティを科して
それが受け入れられなければ辞めさせるべきです
なんなら馬場さんに言ってアッチ(全日本プロレス)でも使わせないようにしてやる」

「俺は長州を信じている」

(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

「俺は長州を信じている」

猪木は選手の気持ちがわかるというが
それは新間などの背広組に納得できる話ではなかった

「結局、猪木は長州、浜口を野放しにした
同じ釜のメシを食い
同じトイレを使い
肌をあわせ汗を流し
朝起きて夜寝るまで行動を同じくする選手達の絆の強さ
やはり選手は違うんだな
選手のほうが可愛いのかなと思った
しかし処分しなかったことで、山本、藤波ら第2グループは勢いづいた
これなら何をしても大丈夫だ
私たちの知らぬところで着々と手を打っていた」
(新間)
(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

83’サマーファイトシリーズを猪木は欠場

1983年7月、
83’サマーファイトシリーズを猪木は欠場した

「新団体はない」 「単なる新日離脱だ」

このシリーズ前、長州、浜口が記者会見した
2人は、
「新団体はない」
「単なる新日離脱だ」
と述べた

「このシリーズが終わったら話がある」

しかし
別のグループは水面下で動いていた
山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹、永源遙らは
「新団体をつくるためにはタイガーマスクがいる」と考えていた
1983年7月12日、
北海道苫小牧で
タイガーマスクは試合が終え
札幌のホテルの部屋に戻るところで藤波に声をかけられた
「このシリーズが終わったら話がある」
藤波はタイガーマスクが結婚問題で会社に嫌気をさしているということを知っていた

注:写真の方は奥さんではありません

佐山の結婚問題とは
佐山が東京スポーツの記者に口車に乗せられ
「タイガーマスク結婚」とスッパ抜かれたことから始まった

「冗談じゃない」

この記事を見て新間が烈火のごとく怒った

「まだまだタイガーマスクはこれからなのに
佐山はいったい何を考えているんだ
そんな浮ついたことでスター街道が歩めるか」

そして新間はタイガーマスクをリングに上げ
「結婚は3年間しません」
と誓わせた
一部マスコミは「タイガーマスクの人権無視」と非難した

「冗談じゃない
タイガーマスクと佐山聡は別ものだ
タイガーマスクは会社の財産であり
これからまだまだ稼いでもらわねばならないレスラーだ
企業防衛として結婚を打ち消すのは当然のことだ」

(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

「8月いっぱいで営業の者は突然いなくなります」

1983年7月22日、
大塚直樹(新日本プロレス営業部長)は
タイガーマスク(佐山)をクラブに誘った
大塚はここで初めてタイガーマスクに新団体の話をぶちまけた
「私達は新日本プロレスを辞めて新しい組織をつくります
8月いっぱいで営業の者は突然いなくなります」

(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

注:この写真は初代タイガーマスクではありません!

「当初、佐山の結婚はロスで極秘に行う予定だった
出席者は、
新郎新婦の両親、
猪木、
坂口、
野末陳平、
ジャイアント馬場&元子夫妻
そして私(新間)を予定していた
そんな時、佐山がロスの結婚式に友人を連れて行こうとしているのを耳にした
私は当然怒った
呼びたくても呼べない方がたくさんいるのだ
今回は普通の挙式ではないのだ
それが何故わからぬかと
ところがタイガーはこれがおもしろくなかったらしい
私の秘書が巡業地の函館に電話を入れると
「だったら会社を辞めます」と言った
ちょうど藤波達から誘われていた7月22日のことだった
藤波、永源は新日プロの体質を非難して佐山に会社を辞めさせようとしていた
そのため佐山は自分の結婚式まで管理する会社、腐敗だらけの会社だと思っていた」
(新間)
(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

「新団体は猪木、新間、坂口を除く」

1983年7月29日、
富山で
クーデター派(大塚直樹、山本小鉄、藤波辰巳、永源遙)とタイガーマスクの会合が行われた
山本小鉄はこう言った
「新団体は猪木、新間、坂口を除く」

師弟の絆

これに対してタイガーマスク(佐山聡)は違和感を感じた
佐山聡にとってアントニオ猪木は師であり恩人であり神だった
アントニオ猪木なしなんて考えられなかったし
猪木を裏切るなんて耐えられないことだった

「新日を出るなら500万円払う」

大塚直樹はタイガーマスクに「新日を出るなら500万円払う」と言った
が、タイガーマスクはそれ以後、金の話はしないようにした
「もらったらまずい」と思ったのだ

「もう営業は全員やめるつもりなんですよ、ほら」

1983年8月、
タイガーマスクの保留態度に焦った第2グループは
彼に自分たちの辞表を見せた
「もう営業は全員やめるつもりなんですよ、ほら」
しかし辞表は全員ではなく4通しかなかった
タイガーマスク(佐山聡)はますます警戒心を高めた

突然、衝撃のプロレスラー引退

真夏の悪夢

1983年8月11日、
突如、タイガーマスク(佐山聡)は
新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り
一方的に契約の解除を告げ引退宣言をした

この直後、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し
自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した

「たとえ新日を辞めたとはいえ猪木に恩を仇で返すことはできない」

新日本プロレス退団後、
佐山は全日本プロレスからオファーを受けたが
「たとえ新日を辞めたとはいえ猪木に恩を仇で返すことはできない」
とオファーを断ったという
馬場(全日本プロレス)が提示した金額は1億とも2億とも言われている

タイガースキャンダル

何が起こったのか

クーデターの果て

猪木帰国

1983年8月20日、
海外にいた猪木が会社(新日本プロレス)の異変(クーデター)を知って帰国

猪木退任を迫られる

1983年8月21日、
猪木は新日本プロレス事務所に出向き
そこで望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られる

「な、何で、社長・・・・・・」

1983年8月24日、
猪木と同じく日本を離れていた新間寿営業本部長が帰国
猪木と対面した
1983年8月25日、
東京の南青山の新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれた
結局、クーデター事件の責任をとる形で
猪木は代表取締役社長を解任
新間は専務取締役営業本部長を解任された

「忘れもしない1983年8月24日
まさに寝耳に水だった
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声
「新間、もうダメだ
俺が両手をついて頼むから
新日本プロレスを辞めてくれ」
その瞬間、目の前が真っ暗になった
何とも弱々しい猪木の声
これが世界最強の男の吐く言葉か
「な、何で、社長・・・・・・」
すぐには信じられなかった
何が起こっているのかすらも理解できなかった
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった」
(新間)
(http://www43.tok2.com/home/shinma3jp/prows/prows001.html)

坂口征二、副社長退任

1983年8月26日、
坂口も副社長から退いた

Triumviratus

1983年8月29日、
新日本プロレスは
テレビ朝日からの出向役員:望月和治、大塚博美
新日本プロレスの鬼軍曹:山本小鉄
この3名による代表取締役体制を発足した
こうして新日本プロレスの内乱はクーデター側の勝利に終わったに見えた

「猪木が辞めたらうちは放送を打ち切るよ」

しかしテレビ朝日の重役の一言でクーデター派の新体制はたちまち力を失った
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらうち(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ」

臨時株主総会

1983年11月1日、
新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ
猪木は代表取締役社長に復帰
坂口も取締役副社長に復帰
大塚博美と山本小鉄は取締役に降格
望月和治はテレビ朝日に戻され
またテレビ朝日から岡部政雄取締役副社長、永里高平取締役専務の両氏が出向
ということになった

元の鞘に収まるかと思われたが・・・

こうして新日本プロレスは元の鞘に収まるかと思われた
しかし結局、
タイガーマスク(佐山聡)と新間寿は新日本プロレスを去り
大塚(営業部長)と加藤、玉木(営業部員)も新日本プロレスを退社
株式会社新日本プロレス興行を設立
これが後にジャパン・プロレスとなり
長州らの大量離脱へとつながっていく

UWF

UWF Universal Wrestling Federation ユニバーサル・レスリング連盟

1984年、
クーデターにより新日本プロレスを追い出された新間は
新日から選手を大量に引き抜き
新団体UWF
(Universal Wrestling Federation:ユニバーサル・レスリング連盟)
を立ち上げるという大胆な計画を立てた

私はすでに数十人のレスラーを確保しました

万里の長城を築く

メディアには
「私はプロレス界に万里の長城を築く」
「私はすでに数十人のレスラーを確保した」
というフレーズも刷り込まれ
出場選手として
猪木、タイガーマスク、長州、アンドレ、ホーガン、前田らの顔が並んでいた

「猪木さんが「俺も後から行くから、先に行ってくれ」と言われたので移籍した」

「猪木さんが「俺も後から行くから、先に行ってくれ」と言われたので移籍した」
(前田日明)

1983 長者番付プロスポーツ部門

1984年4月、
猪木は1983年度の長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になった

猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった

1984年4月11日、
UWFの旗揚げ興行が行われた
埼玉・大宮スケートセンターは観衆3100人(超満員)
しかし
リングにポスターに掲載されていた猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどはおらず
前田、ラッシャー木村、剛竜馬ら新日本プロレスのリングではセミファイナル以下のレスラーたちだった
リングには時に罵声が飛び
時に猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった

嵐の船出

こうしてUWFは嵐の船出となった
旗揚げ後、しばらくUWFは路線も定まらない状態だった

しかし
藤原喜明が
高田延彦を引き連れて参加したあたりから方向性が定まり出した
それは道場で行われるスパーリングのような
関節技をかけ合う攻防を中心としたサブミッションレスリングだった

タイガー UWF参戦

タイガーマスク UWF参戦

メインは前田日明 vs タイガー

1984年7月23日、24日、
「UWF無限大記念日」大会に
引退していたタイガーマスク(佐山聡)がザ・タイガーとして参戦した

カールゴッチと佐山聡

そして
こうしてUWFメンバーがそろってみると
皆、カール・ゴッチを師事する男たちだった

UWFは熱狂的なファンを生み出した

UWFは
前田、タイガー(佐山)、藤原、高田、木戸修、山崎ら日本人対決を軸に壮絶な試合をした
ロープワークをしないし
相手の技も簡単に受けない
従来のプロレスのショー的要素を廃し
「キックが急所にまともに入ったら立っていられない」
「関節技がガッチリ極まれば絶対に逃げられない」
という格闘技色の濃いプロレスリングを展開した
UWFは従来のプロレスに飽き足らなくなっていた熱狂的なファンを生み出した
こうして一見、UWFは順調にいくかと思われた

一枚もののカレンダー

信念と理想と軋轢と確執

諸刃の剣

しかし佐山の参戦はUWFにとって諸刃の剣だった
まず佐山は参戦の条件として
一部のフロントの追放を挙げていた

新間寿追放

これにより新間は正式にUWFから身を引き
その後、新日本の裏方に戻った

タイガージム

また佐山はすでに自分の道場
(タイガージム(二子玉川)、後に移転しスーパータイガージム(三軒茶屋))
を立ち上げ
(金銭的に他のメンバーに比べ有利な状態だった)
「理想の新格闘技」を模索していた

会員証

それはしっかりしたルールに則った格闘技で
佐山はその格闘技を「シューティング」、
その格闘技の選手を「シューター」と呼んだ

ルールづくり

理想に燃える佐山はUWFのルールに口を出した
そして実際に
「ノーフォールマッチ」
「Aリーグ、Bリーグの2リーグ制」
リーグ戦の戦績から「ランキング導入」
「反則をより明確にする」
「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」
「減点ポイント制を導入しロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」
「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行ってはならない」
など新ルールマッチが実験的に実行されていった

佐山聡と前田日明

しかし、
これは佐山以外の選手にとってはフラストレーションだった
彼らにしてみれば旗揚げから苦労を重ね、
やっとUWFが認知され始めてファンを獲得し
そこに後からポッと来た佐山が偉そうに次々と新しいことをやれと言ってくる
決して面白くはないはずである

UWFは佐山が加入したことで格闘技色が濃くなっていった

「UWFはプロレスではなくシューティングで自分達はシューター」
「自分はカールゴッチより強い」

佐山のこうした発言も
その他の選手の一部との確執が高めていった

前田日明と確執

前田日明が仕掛けた

1985年9月2日、
大阪府立臨海スポーツセンターで
前田日明が佐山聡に一方的に喧嘩マッチを仕掛けた
前田は
ラフな張り手、膝蹴り、グラウンド状態の佐山にローキックなど
尋常ならざる精神状態で尋常じゃないファイトを仕掛けた

攻防の中で佐山は前田の蹴りが自分の金的に当たったとアピールし
レフェリーは試合を止め
18分57秒、スーパー・タイガーの反則(金的蹴り)勝ちとなった

前田の蹴りは実際には佐山の下腹部には当たっておらず
佐山が喧嘩を回避するため一方的に試合を終わらせたものと見られている
UWFの不協和音が表に噴出した瞬間だった
(この後佐山聡はUWFへの参戦をキャンセルした)

UWF崩壊 新しい道へ

UWF崩壊

1985年9月11日、
UWFは崩壊した

新日本に復帰

前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らは業務提携という形で新日本に復帰し

シューティング(後の修斗)

佐山は理想の格闘技「シューティング」(後の修斗)の創設に力を注ぐことになる

「全日本プロレスに来ないか」

前田日明は
ジャイアント馬場に「全日本プロレスに来ないか」と誘われたが、
全日本が雇うのは前田と高田延彦の2人だけということだったので
他のレスラーの事も考え断ったという

佐山は
『ケーフェイ』を出版
プロレス界の実情を暴露
「ケーフェイ」は
聞かれるとまずい会話をしている時に他人が入ってきた際、
話題を変えるための合図に用いる隠語であり、
かつ詐欺師、インチキ、捏造などの意味があるという
「Fake」のkeとfaを入れ替えたともいわれる

シューティング(後の修斗)

スーパータイガージムでの指導をベースとして シューティングの普及活動

1985年12月、
佐山は
翌年からのアマチュアの格闘技大会、「アマチュアシューティング」の開催を予告
シューティングは
打撃、組み技、関節技が全てオッケーの総合格闘技で
佐山は
スーパータイガージムでの指導をベースとして
シューティングの普及活動に励み
後に協会設立やプロ化を実現していく

「シューティング」は「修斗」となった

「シューティング」は
現在、「修斗」となって続いている
(1996年、佐山は修斗の運営から退いた)

プロレス復帰

獣神サンダー・ライガーとエキシビション

1994年5月1日、
新日本プロレスに登場
獣神サンダー・ライガーとエキシビション

1995年、
本格的にプロレスに復帰
UWFインターナショナル
みちのくプロレス
東京プロレス
SAプロレス
等に参戦

1997年
「タイガーキング」に改名
新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦

UFO

1998年、
アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加
小川直也 vs 橋本真也のシュートマッチではセコンドに
1999年1月4月、
その後、猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱

掣圏

掣圏真陰流

1999年1月5月、
掣圏真陰流設立、

立候補

出馬

2001年、
第19回参議院議員通常選挙に佐山聡が出馬
選挙演説で
「暴走族を撃ち殺せ!!」
と発言した
(結果は33,762票を獲得したが落選)

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