大型扇風機と言われ、本塁打量産するラルフ・ブライアント
ラルフ・ブライアント(Ralph Wendell Bryant)
ラルフ・ブライアントの獲得タイトル・主な表彰と記録
本塁打王:3回 (1989年、1993年、1994年)
打点王:1回 (1993年)
MVP:1回 (1989年)
ベストナイン:3回 (1989年、1993年、1994年)
月間MVP:4回 (1988年8月、1989年7月、1992年5月、1994年7月)
オールスターゲームMVP:1回 (1990年 第1戦)
1試合3本塁打:8回 ※世界記録
シーズン1試合3本塁打:4回 (1989年) ※世界記録
シーズン本塁打率:7.85 (1988年) ※シーズン10本塁打以上で歴代2位
シーズン最多三振:204 (1993年) ※歴代1位
ラルフ・ブライアントのプレースタイルとは。
エディこと、ラルフ・ブライアントの生い立ちと近鉄で花開くまで。
アメリカのジョージア州クレイ郡出身で、大学時代はアメリカンフットボールに夢中の青年でした。ポジションはワイドレシーバーを任されており、1981年のMLB二次ドラフトでドジャースに入団。
その後、1985年にはメジャーにデビューしますが、鳴かず飛ばずでマイナーリーグを行ったり来たりを繰り返します。 メジャーデビューから3年経った1988年に中日ドラゴンズに移籍し日本野球界に来ることになりました。
その頃の中日ドラゴンズは、郭源治とゲーリーが一軍で活躍しており、なかなかブライアントの出番はなかった。日本の変化球に対応できず、二軍でも三振か本塁打の苦悩の日々を過ごしていた。
その矢先に、近鉄バッファローズからの金銭トレードの申し入れがあり、中日のスタッフはブライアントの将来性を高く評価して、放出に反対でしたがブライアントのことを考えてトレードに承諾しました。
猛牛打線に入り、大活躍のラルフ・ブライアント
シーズン途中から、近鉄に入団したブライアントは、中西太コーチの指導の甲斐があり、大型扇風機の華が開くこととなります。その結果、1試合に3ホーマーを2度も記録し、移籍後、わずか74試合で34本塁打を放つなど、近鉄の驚異的な追い上げに貢献しました。
この年の、267打数中34本塁打は、本塁打率7.85で2013年のバレンティンの記録7.32に次ぐ2位の記録であります。
翌年の1989年には、開幕から本塁打の量産体制に入りましたが、6月は22試合連続三振を喫するなど、本塁打も2本と絶不調、チームも首位のオリックスに8.5ゲームも差をつけられ、チームの大ブレーキとなってしまいます。
しかし、7月の1本の本塁打以降、月間で11本と、再び調子を取戻し、ブライアントの復調とともにオリックス、西武と3球団でシーズン終盤まで展開された熾烈なペナント争いを繰り広げました。
最後の西武との天王山、10月12日の西武とのダブルヘッダーは、今も語られる奇跡の4連発が有名なエピソードです。猛牛の一振りで、ライオンを蹴散らした瞬間でもありました。
この年は、49本塁打で本塁打王に輝き、1試合3本塁打の記録も、通算6回の王貞治を超える新記録も樹立し、悲願の近鉄バッファローズ優勝に大きく貢献した年でありました。
その後も、猛牛打線の主砲として活躍をつづけたラルフ・ブライアント。
記録もさることながら、記憶に残る活躍をみせてくれました。その一つが、東京ドームの天井スピーカーに当てて、特別グラウンドルールによる本塁打を記録したことでしょう。
設計上、スピーカーに当てることは不可能とされていた場所に直撃する打球を放ったブライアントのこの一打は推定飛距離が160mとされており、現在までは、2008年のズレータと2人だけである。
1992年には、千葉マリンスタジアムの電光掲示板を破壊。1993年には、福岡ドーム公式戦第1号の本塁打を放つなど、本塁打にまつわる記録と記憶が多いスラッガーでした。
引退後のエディはどうしたの?
ラルフ・ブライアントという人物を振り返って
三振の数も、本塁打も稀にみるスピード記録のラルフ・ブライアントですが、みんなの話題にのぼるエディは、今でもこんなにも話されています。
エディ・マーフィに風貌が似ていることから、チームメイトにエディと呼ばれ親しまれる存在でした。
日本人の記憶に残る選手だったということでしょう。
お酒が全く飲めない体質でして、みんなと飲みに行ったときは、常にコーラで過ごしていたらしいです。ビールのCMには出演しましたけどね。