常に全力投球で勝負に挑んできた男、津田恒美

津田恒美(つだ つねみ)
津田恒美の獲得タイトル・主な表彰と記録
最優秀救援投手:1回(1989年)
新人王(1982年)
カムバック賞:1回(1986年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(1986年)
ファイアマン賞:1回(1989年)
野球殿堂入り(競技者表彰:2012年)
オールスターゲーム出場:5回(1983年、1986年 - 1989年)
津田恒美のプレースタイル

炎のストッパー!剛速球のクローザー
弱気は最大の敵と自身に問いかけながら投げる津田恒美。靭帯の手術後に投げる1986年の球種は90%以上が直球と、変化球は全くといっていいほど投げない投手だった。
球種もスライダー、フォーク、カーブとあるが、こんなにも、ストレートで押し切るピッチャーは他にはいないでしょう。
特に特徴なのが、ストレートもホップするストレートである。
常にストレートで強きな性格をイメージするが、アマチュア時代からメンタル面が弱く、高校時代には、監督から精神安定剤と言われて、メリケン粉を信じて愛飲していたほど。
津田の座右の銘、『弱気は最大の敵』、『一球入魂』と情熱的な言葉があるが、この言葉は強いからではなく、弱いからこそ、自らに向かって、気合を入れていたのである。
津田恒美のプロ入りまでの軌跡
山口県の都濃郡南陽町の山間部、和田地区の出身で地元の高校、山口県立南陽工業高等学校で野球部に入部、すぐに1年生からエースとして活躍していた津田恒美。1978年の第50回選抜高等学校野球大会に出場してベスト8となり、その年の夏の高等学校野球選手権大会では、2回戦に駒を進める活躍を見せた。

南陽高校時代の津田恒美
高校卒業後は、山口県の防府市に本拠地を置く今の協和発酵キリンに就職。その後、1981年に広島東洋カープにドラフト1位で指名されて、周囲の期待を背負いながら投手王国カープに入団する。
怪我に悩まされたプロ生活
津田恒実 - Wikipedia
涙ながらの野球人生にピリオドを打つ津田・・・。
1991年4月の最後の登板の翌日、今まで軽く考えていた頭痛も治らないことも相まって、広島大学病院に検査入院しました。検査結果は、悪性の脳腫瘍。それも、手術の出来ない位置にあるため摘出を断念せざるを得ません。
本人は告知されておりましたが、球団は周りの混乱を防ぐため、水頭症のために引退と発表。球団は準支配下選手として、津田の復帰を待ちわびたが、本人の希望もあり、11月6日付で現役を引退しました。
その後、奇跡的に一時の回復を見せましたが、1992年6月ごろに再び悪化し、1993年7月20日福岡の総合病院にて32歳の短い人生まで閉じることになりました。
今もなお、カープの一員として闘い続ける津田恒美
津田恒実 - Wikipedia

みんなの心に生き続ける津田恒美と言う人物
津田恒実 - Wikipedia
記録でいえば、最優秀救援投手を1度獲っただけである。
しかし、実質10年の野球人生の間に、オールスターも5度出場し、野球殿堂入りも果たすほど、それだけ、ファンに愛された投手であったことが垣間見れます。
津田の心は、マツダスタジアムでカープの後輩たちに受け継がれていることでしょう。