元祖!17年間も一度も休まなかった世界一の鉄人男。衣笠祥雄

衣笠祥雄(きぬがさ さちお)
衣笠祥雄の獲得タイトル・主な表彰と記録
打点王:1回 (1984年)
盗塁王:1回 (1976年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1972年) ※1994年より表彰
表彰[編集]
MVP:1回 (1984年)
ベストナイン:3回 (1975年、1980年、1984年)
ゴールデングラブ賞:3回 (1980年、1984年、1986年)
月間MVP:4回 (1975年6月、1979年9月、1982年6月、1983年7月)
正力松太郎賞:1回 (1984年)
日本プロスポーツ大賞:1回 (1984年)
国民栄誉賞 (1987年)
野球殿堂入り (競技者表彰:1996年)
2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録
678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位
衣笠祥雄のプレースタイルは・・・

常にフルスイング!三振か本塁打の男
バットを当てるという考えはなく、常にフルスイング!で毎打席の勝負に挑んでいた衣笠祥雄。自身の成績からも、打率に関しては3割を超えた年は、23年間の現役のうち、たった1度しかない。三振の数も多く、当時は日本記録を保持するほど、フルスイングに掛けていた。
しかし、現在の記録保持者、清原和博と違い、清原はシーズン最多三振数も100以上あった年が多いが、衣笠は、90以上の三振をしたことがない。
安打数も清原より400本近く多いことから、バッティングセンスの高さがある選手だったと言えるだろう。
また、走塁も積極的で、盗塁王と打点王を獲った選手は、飯田徳治とイチロー選手の衣笠のわずか3人しかいない。
プレーに対しても、紳士的でどんなデットボールを受けても、左手をさっと上げて、「大丈夫だから」と伝え、怒ることなく、一塁に向かっていった選手である。
衣笠祥雄の生い立ちからプロ入りまで
広島東洋カープに入団して、めきめきと頭角を現す!!

広島カープに捕手として入団するが、当時の監督の思いで内野手に変更する。1968年ごろから一塁手として、レギュラーに定着し、活躍するが、1975年のジョー・ルーツ監督によって、広島の長嶋茂雄として、三塁手に変更される。
今だからいえるが、当時の助っ人選手が一塁手がいいと言ったことからコンバートされたらしい。
この頃から、4番、山本浩二の後の5番打者として、広島カープのクリーンナップを担い、広島カープ初のリーグ優勝へ貢献したと言えるだろう。
広島カープには、山本浩二が同じ時期にいたので、鉄人というイメージこそあれど、打者としてのイメージが目立っていなかったが、通算安打数は2543本(歴代5位)、通算本塁打数は504本(歴代7位)、通算打点数は1448打点(歴代10位)と山本浩二と張本勲しかいない、500本塁打、200盗塁も達成している。山本浩二と引けも獲らないほどのスタープレイヤーなのである。

広島の大砲!Y・K砲結成!
若いころは、決して真面目な紳士ではなかった・・・。
連続試合出場の記録は過酷な道のりだった・・・。
1970年から始まった連続試合出場の記録が始まり、17年間試合に出続けた訳だが、その道のりは簡単なものではなかった。その間には、怪我もあれば、スランプもある。
例えば、怪我でいえば、カープの主軸を担えば、厳しい内角攻めも当然あります。衣笠祥雄が浴びたデットボールの数も、161回(プロ野球史上3位)と非常に多い数を受けていますが、ある試合で、左の肩甲骨を骨折する重傷をおってしまい、診断も全治2週間といわれるほど。
当然のごとく、痛みは半端ではありません。しかし、その翌日の試合は、代打としてファンの前に姿を現し、フルスイングでの3球三振をします。
誰もが、連続試合出場はストップかと思われた時に、衣笠の姿を見た時は、カープファンのみならず、相手チームからも拍手が鳴りやまなかったそうです。
その翌々日の試合では、2番サードでフル出場を果たし、鉄人ぶりを周囲に知らしめました。
もちろん、スランプもあります。
1979年のシーズンは、極度に大スランプに陥り、打率は.198と低迷。当時の監督、木庭監督は、さすがに先発メンバーからは外す苦渋の決断をしたことで、連続フルイニング出場は当時の日本記録にあと22試合というところで断念することになります。
その時の、衣笠の荒れ様はすさまじく、手当たり次第荒れまくったそうです。
世界記録を更新した時も、ラストの2年間ぐらいから、なかなか成績が昔のように打ててはないですが、途中出場の時も頻繁になるようになりました。
ファンの中でも、「監督の温情だ」とか「記録づくりのために出場してiいる」とかいろいろ言われます。
そんな思いからか、衣笠祥雄は一般紙の新聞は読むが、スポーツ新聞は読まなかったそうである。理由は、スポーツ欄を多く見ることによって、野球に追っかけられているような気がしたかららしい。
少ないときでも、野球を頭から外したい時間が必要だったのでしょう。

世界記録を更新したとき、衣笠はこんな言葉を残した。
「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」
この言葉が記録の偉大さを物語っているのではないでしょうか。
引退後は野球解説に専念し、殿堂入りも果たす!
キヌガサは、アメリカで名の知れた日本人プロ野球選手の一人である。1996年にリプケンJrが記録を更新した時も、来賓として呼ばれるほど、この記録はアメリカで高い評価を得ているのだ。
当初の鉄人というニックネームは、丈夫な体という意味もあったが、当時流行った鉄人28号とおなじ背番号から来たものだった。
今でさえ、強さからくる鉄人の称号となったが、その称号はとてつもなく困難な道のりであったろうと思い直せます。
これから、その記録を破る選手は出てくるのか。衣笠イズムを誰が継承したのか要チェックです。