酒井法子が現場についてから数十分後、会長が運転手つきの車で到着。
会長は、完全に冷静さを失っている酒井法子を周囲の視線から隠すように車の中へ。
会長は外に出ていった後、酒井法子は車中で祈っていたが、やがて戻ってきた会長は飄々といった。
「彼は覚醒剤を持っていて捕まっちゃったよ」
(やっぱり持ってたんだ!
あれだけ薬物の取り扱いには慎重にしようといってたのに)
酒井法子は、深刻な事態に、これからどうなるのか、どうしたらいいのか、体の中が不安だらけになり、真っ先に息子の顔が思い浮かび、続いて仕事のことを考えた。
色々な思いが頭の中に浮かぶが整理はまったくできず、恐怖と不安でパニック状態。
警察官に署に立ち寄るよういわれ、会長の車は渋谷警察の向かって走り出した。
車の中で会長に
「まさか君もやってないだろうね?」
と聞かれたが、酒井法子はとても本当のことはいえず、代わりに
「子供を友達に預けてるから迎えにいってもいいでしょうか」
会長は連絡先を書いたメモを渡し、後で携帯に電話するようにいった。
酒井法子は、109近くの路上で降ろしてもらい、タクシーを拾った。
息子の携帯は居場所を知られないよう電源を切り、まず息子を迎えに行くことも考えたが、迷った末に自宅マンションに向かった。
青山のマンションについたとき、すでに日付は変わっていた。
2009年8月3日午前1時過ぎ、自宅の部屋に入った酒井法子は、ただただこの現実から逃れたい一心で目に入った手提げかばんに衣類を押し込み、
「いつ騒ぎになるかわからない」
という刃を突きつけられるような切迫感に苦しみながら、20分もいられずに、カバンをつかんで部屋を出て、すぐにエレベーターの乗って外へ。
「今思えば、まず息子に会いに行くべきだった。
何が起きたのかきちんと説明して、それから警察に出頭するべきだった。
大人としては母親として社会人として、そう行動するべきだった。
でもできなかった。
そのことをずっと悔やんでいる」
マンションの近くでタクシーを拾うと、最初は東京駅へ向かったが、途中、息子の顔が浮かび、息子のいる渋谷方面へ行き先を変更。
その途中で
「もう寝ているだろうし、こんな遅い時間に友人の家を訪ねるのは迷惑だな」
と考え、
「落ち着いた場所で、これからのことを考えないと」
とホテルを見つけやすい新宿に向かった。
歌舞伎町近くでタクシーを降り、大通りの交差点近くのホテルが目に入り、フロントで1万円を払ってチェックイン。
部屋に入ると会長に連絡しようとしたが、部屋の電話は内線専用。
息子の携帯電話の電源を入れるのはこわいので、
「公衆電話を見つけるか、新しい携帯を買おう」
と荷物を持って外へ。
息子の携帯は、チップを抜き出した後、2つに折ってコンビニのゴミ箱に捨てた。
フラフラ歩いているとドン・キホーテを発見。
しかし店員に聞いてみると電話会社の都合で深夜は携帯電話は買えないという。
ドン・キホーテにあったATMから10万円を引き出し、衣類や飲み物を買い、店を出てと公衆電話を探したが見つからず、新宿でタクシーを拾って、四谷のサンミュージックの近くで降車。
救いを求めたいが、どうやって説明したらいいかわからないし、マネージャーや事務所の電話番号どころか、携帯すらない。
当てもなくさまよっていると事務所の近くの公園で公衆電話を発見。
急いで会長の携帯に電話をかけると
「外をフラフラしてたら目立っちゃうよ。
あまり外を歩くのはよくないな。
ホテルとか、どこか落ち着いた場所に入った方がいい」
といわれた。
そして息子と一緒に東京を離れようということになった。
新宿のホテルを出て、すでに数時間経っており、辺りは明るくなっていた。
「月曜日の早朝、もうじきサラリーマンが歩き始める時間。
新しい1日が始まろうとしていた」
「どこかホテルのある場所に行こう。
丸の内ならホテルが見つかるかもしれない」
と四谷からタクシーに乗って有楽町の東京国際フォーラムまで走り、近くにあったコンビニで飲み物や食べ物を買い、再びATMで数十万円を引き出した。
そして再びタクシーを拾って、運転手に
「近くのホテルを教えてください」
と頼むと銀座のホテルに案内され、1万5千円を払ってチェックイン。
不安は大きく膨らむばかりだったが、朝10時、息子を預けているママ友に電話。
すると留守番電話になったので
「お昼ごろには戻れると思う」
と吹き込んだ。
そのとき子供の顔を浮かび、原宿のおもちゃ屋に行く約束をしていたことを思い出した。
お昼近くに2度目の電話をするとママ友が出たので、まず謝った後、
「ちょっと大変なことになっちゃって戻れそうにない。
本当にごめん。
しばらく預かってもらえないかな」
と頼んだ。
ママ友は冗談っぽく
「1週間?
1ヵ月?
9月になったらランドセルが必要になるよ」
酒井法子はマジメに
「1週間くらいだと思う」
といった。
「わかった」
とママ友は一言で了解。
事情は何も聞かずに電話を切った。
その後、酒井法子は、会長に電話。
あまりの憔悴ぶりに会長は運転手に銀座まで迎えに行くようにいった。
14時、酒井法子はホテルを出て、迎えの車に乗った。
車は西新宿の十二社通りで停車。
そこで待っているうちに夕方になり、会長の指示でやってきたお母さんが後部座席、酒井法子の隣に座った。
5月の子供の運動会以来、約2ヵ月ぶりの再会。
母親は肺ガンを患っていて、この日の朝、入院の手続きをしていて、本当なら病院おベッドの上で休んでいる時間だった。
「お母さん、ごめんね」
「何があったの。
泣いてないで説明しなさい」
「わたしのせいで、こんなことになっちゃった。
昨夜、死のうと思ったけど死ねなかった」
「あなたが死んだら子供はどうするの。
しっかりしなくちゃダメじゃない」
人知れないところで落ち着かせようという会長の配慮で、車は山梨へ向かった。
山梨には1人暮らしをしている伯母(母の姉)がいて、母が
「何も聞かずに今夜、法子と一緒に泊めて」
と頼むと快諾してくれた。
20時頃、中学のときに1度行ったきりの伯母の家のに到着。
運転手は、東京へ戻っていった。
事情を知らない伯母に
「久しぶりだね。
子供は大きくなった?」
と聞かれ、酒井法子は後ろめたい気持ちになり、テレビもつけずにつくってもらったそうめんを静かにすすった。
寝る前、本来なら今日、高相祐一が雑誌の取材を受ける予定だったことを思い出した酒井法子は、
「行けなくなったことを伝えなければ」
とお母さんの携帯を借り、隣の部屋に移り、自分のチップを差し込んだ。
しかしアドレス帳が消えているため、相手の連絡先がわからない。
番号案内に電話したが、結局、相手にはつながらなかった。
前日、一睡もしていない酒井法子は、連絡方法を考えているうちに眠くなり、朝まで寝てしまった。
2009年8月4日、高相祐一が職質を受けた2日後、酒井法子は、つくってもらった食事を食べ、雑誌を読んだり、庭を眺めたりしながら、ボーっと過ごした。
テレビは1度もみなかったが、午後、会長から電話があり、酒井法子の行方がわからないため、サンミュージックと高相祐一の親が捜索願を出し、マスコミが大騒ぎしていることを知った。
伯母の家もいつ知れるかわからないので会長が管理する東京のマンションへ移ることになった。
夕方、お母さんの携帯電話を借りてママ友に連絡。
「大騒ぎになってるけど大丈夫?
子供は預かっておこうか?」
「ごめん。
お願いします」
「これからどうするの?」
「ちょっと考える」
「わかった」
その後、酒井法子は従姉妹の車で中央自動車道の境川パーキングまで送ってもらい、そこで会長の車に乗り換えた。
東京、東大和のマンションに着いたときは夜だった。
案内された部屋は、しばらく誰も使っていない、ホコリが積もっている状態で、エアコンはついておらず、扇風機と2組の布団があるだけだった。
翌日、お母さんは、部屋中を掃除し、衣類は洗濯機がないので洗面所で手洗い。
酒井法子は、何度も涙を流しながら
「もう死にたい」
「いなくなりたい」
とこぼし、そのたびにお母さんは
「あなたがいなくなったら子供はどうするの?」
といった。
酒井法子はまったく外に出ずに、お母さんが買い物へ。
スーパーやコンビニで弁当や飲み物、そしてレターセットをも買い、酒井法子はママ友に手紙を書いた。
ママ友は来週から旅行にいくといっていたので、息子も一緒に連れて行ってもらえるようお願いし
「愛してる。
待っていて」
という息子への伝言と数十万円の現金を送った。
昼過ぎ、会長から14型のテレビと小さな冷蔵庫が送られてきた。
テレビは配線に苦戦し、映ったときは日が暮れかけていた。
ちょうど画面にニュースが流れ、38歳の高相祐一は容疑者として、35歳の酒井法子は失踪者として顔が大写しになり、サンミュージックの社長に画面の向こうから連絡をするに呼びかけられた。
お母さんは食い入るようにニュースをみた後、意を決したように
「あなたも覚醒剤をやってたの?」
酒井法子は泣きながら
「うん」
「なんで?」
「別れようとしたとき、夫からクスリを勧められて、つい手を出してしまった。
気分がスッキリするからって。
それが最初のきっかけだった
ごめんなさい」
「早く出頭しないと子供に会えないわよ」
お母さんはそういっただけで何もいわず、酒井法子はずっと泣いた。
そして会話のないまま、2人は布団で寝た。
2009年8月5日、職質から3日後、酒井法子は
「お母さんのいう通りだ。
いつまでの逃げているわけにはいかない」
と思いつつ、薬物は1週間くらいで体内から消えると聞いていたので
「最後に使ってから、もうすぐ1週間になる。
いま出頭して検査を受ければ、薬物の成分が出るかもしれない。
せめて体内からクスリが消えるまでやり過ごして検査で検出されなければタレントとしてイメージダウンは最小限に抑えられる」
という考えもあった。
だからできるだけ長く風呂に入り、できるだけ汗を流した。
そのほかはすることがなくボーっと部屋で過ごしながら、
「死にたい」
「いなくなりたい」
とこぼした。
テレビはニュースやワイドシューを避け、バラエティ番組を少しみるだけだったが、
「山梨で酒井法子の携帯電話の電波がキャッチされた」
と報道されているのを知ると、恐ろしくなってチップを探した。
ズボンに入れたはずのチップはなくなっていた。
かつて作家との交際が発覚したり、できちゃった婚を発表したときも大きく取り上げられたが、これほど大きく、しかもスキャンダラスに報道されたことはなく、
「さらし者になるくらいなら消えてなくなりたい」
2009年8月6日、職質から4日後の夕方、運転手が迎えに来て、まだ酒井法子の薬物使用を知らない会長の、
「自然に囲まれた環境の方がいいだろう」
という計らいで、東大和のマンションから箱根の別荘に移動。
目立たないように高速道路を避け、第3京浜、横浜新道、国道1号線と走り、別荘に着いたのは、24時前。
辺りは真っ暗で、懐中電灯を持って2階建ての別荘の中に入り、途中、コンビニで買った弁当を食べてから就寝。
この日、高相祐一は覚醒剤の使用を認めた。
8月7日、朝早く目覚めると、外の空気が吸いたくなった酒井法子は、玄関の外に出て、ポーチに座って一服。
そして温泉を引いている別荘の風呂にゆっくりと入り、パンやカップ麺を食べ、その後はボーっと過ごした。
昼過ぎ、隣の部屋でテレビを観ていたお母さんに呼ばれ、いってみるとテレビの画面に自分の名前と、
「覚醒剤所持容疑で逮捕状」
という文字。
高相祐一が逮捕された翌日、家宅捜索が行われ、自宅マンションで覚せい剤と酒井法子の唾液が付着した吸引具が見つかったということが伝えられ、自分の映像が何度も流れた。
長いニュースが終わった後、酒井法子は本気で
「わたし、もう死んだほうがいいね」
「本当にクスリをやっていたの?」
「うん」
それから間もなく会長からお母さんに電話がかかってきた。
話し終えたお母さんは
「もう警察に行こうね。
明日、迎えに来てもらうことになったから」
酒井法子は
「わかった」
と答えた。
その後、会長の依頼を受けた弁護士が警察と打ち合わせを始め、マスコミを避けて出頭することが決まった。
「失踪者」から「容疑者」に変わり、マスコミは一気にヒートアップ。
テレビの中で悪者扱いされるのをみて酒井法子は呆然となった。
そして泣きながらお母さんに頭を下げ
「本当にごめんなさい。
わたしがいない間、息子のことをよろしくお願いします」
2009年8月8日、職質から6日後、お世話になった気持ちを込めて、朝からお母さんと一緒に別荘を掃除。
昼過ぎ、会長と弁護士がやってきて、食卓でミーティング。
酒井法子は、会長に頭を下げて謝り、
「やってしまったことは仕方ない。
ちゃんと罪を認めてしっかり償ってきなさい」
といわれた。
18時、車に乗って箱根を出発。
高相祐一が職務質問を受けた渋谷の警察署はマスコミが殺到しているため、文京区の警視庁富阪庁舎へ向かった。
20時、車は富阪庁舎の玄関前に停車。
酒井法子は、お母さんに
「ごめんね」
といってから車を降り、建物の中に入っていった。
会議室のような部屋で担当の刑事と対面。
逮捕状など型通りのやり取りの後、
「やめられますか?」
と聞かれ
「はい、やめられます」
と答え、
「よしっ、即答できたんだからあなたはきっと立ち直れる。
頑張らないとダメだよ」
といわれ、そして手錠をかけられた。
1時間ほど経ってから警察の車に乗せられ、警察官が無線で連絡を取り合うのを聞きながら渋谷署へ。
21時半、警察署に入るとき、上空でヘリコプターが飛んでいる音が聞こえ、三方はカーテンで覆われていたため前方からカメラのフラッシュを浴び、酒井法子は下を向いて泣いた。
人ごみで車がなかなか前進できず、外から警察官の怒鳴る声やレポーターが叫び声、ボコッボコッと車に何かが当たる音が聞こえ、足元には無数の光が伸びてきた。
これまでたくさん取材を受けてきたが、こんなに攻撃的なものは初めてで、酒井法子は恐怖を感じた。
署に入って持ち物検査や取り調べを受けると渋谷署には女性が入る留置所がないため、江藤区の東京湾岸警察署へ移送されることになった。
日付が変わっているのにマスコミは残っていて、車は渋谷署を出たところで再び動けなくなった。
酒井法子は、四方のカーテンが閉められて外はみえなかったが、叫び声やカメラや人がぶつかる音が聞こえ、走り出してからもヘリコプターの爆音が聞こえた。
深夜、湾岸所に到着し、貸し与えられたジャージに着替え、留置所に入った。
周囲の部屋はすでに眠っていて、酒井法子は、監視されながら歯磨きと洗顔。
そして与えられた1人部屋に入るのだが、四角い部屋の1面は壁ではなく鉄格子。
部屋の入ると施錠され、床に布団を敷いて寝た。
規則で部屋の掛け布団は顔まで覆ってはならず、鉄格子の向こうには警察官がいて、酒井法子は眠れなかった。
「なんでこんなことになっちゃったんだろう」
自分の38年間の人生を思い、声を殺して泣いた。
朝起きると布団を上げて歯磨きと洗顔。
鉄格子の向こうから差し出される食事を食べる。
取り調べがある日は、数時間それを受けるが、なければ1日中、1人で部屋で過ごすことになる。
最初、部屋の隅で正座してた酒井法子は、警察官に
「足を崩してもいいよ」
といわれた。
「6日間の逃亡の末の逮捕」
外では大騒ぎしていたが、取り調べで酒井法子は最初から泣きっぱなし。
「最後に吸ったのはいつなんだ」
刑事に何度も聞かれ、。酒井法子は、高相祐一が逮捕される数日前に奄美大島で使っていたが、3週間、否定し続けた。
8月28日、警察に出頭して20日後、酒井法子は「覚醒剤所持」で起訴され、サンミュージックを解雇された。
起訴後も「使用」について取り調べが続いた。
息子の夏休みが終わっても留置期間が延長され、酒井法子は
「1日も早く外に出て息子に会いたい」
と思い直し、正直に話すことを決意。
9月に入ると手紙を書くことを許可され、サンミュージックの社長、息子の小学校の校長に謝罪の手紙を出した。
そして夫から届いていた手紙に返事を出した。
9月11日、「覚醒剤使用」で追起訴された後、保釈に向けて警察と弁護士が話し合いを開始。
サンミュージックの社長は、すでに解雇している酒井法子のために謝罪会見を行うことを決め、マネージャーと共に面会に行き、
「頑張ろうな」
と声をかけた。
息子を預かってくれているママ友が他のママ友と一緒に面会に来て
「バカ!
なんで薬物なんてやったの!」
と怒った後、アクリル板越しに息子の写真をみせて様子を話し、
「頑張れ」
と励ました。
高相祐一の両親もやってきて
「絶対にがんばれ。
法子なら立ち直れる」
といわれた。
酒井法子は、頭を下げ続けた。
保釈の日、逮捕時に預けた荷物が返してもらい、その後、湾岸署の一室に案内されるとヘアメイクとマネージャーが待っていた。
身支度を整え、外に出ると、おびただしい数の報道陣がいた。
あまりの数に唖然としながら、頭を下げ、用意された車へ。
車が動き出すと追ってくる報道陣を警察が阻止。
酒井法子は、カーテンの隙間からそれをみて泣きながら頭を下げた。
車はレインボーブリッジを渡り、都心へ。
酒井法子にとって久しぶりの外の世界だが、上空にはヘリコプターがおり、車の中のテレビに自分が乗った車が生中継で映り、どこに向かうのか実況されていた。
車が停まる度にバイクの乗ったカメラが近づいてきて、一般の人たちも携帯のカメラを向けてきた。
記者会見の会場に着くと、車から控え室へ移動。
そこにはサンミュージックの元会長と元社長、ビクターエンタテイメントの会長が沈痛な面持ちでいて、いつもならにこやかに迎えてくれるスタッフも厳しい顔でうつむいていた。
「本当に申し訳ありませんでした」
酒井法子は頭を下げた。
マネージャーに
「時間ないから支度しちゃおう」
と促され、用意された服に着替えてメイク。
その間もスタッフは、なかなか目を合わせてくれず、目が合っても微笑んでくれなかった。
(わたしのせいで事件を背負わされて大変な目に遭ったんだろうな。
裏切られたという思いや憤りが募っているんだろうな)
酒井法子は、沈黙に見送られて会見場へ向かい、体験したことのない量のフラッシュとシャッター音を浴びた。
前をみることもできずに用意した謝罪の言葉を読み上げると自然と涙がこぼれ落ち、その度に大量のフラッシュが光った。
会見後、マネージャーは車まで見送ってくれて
「お疲れ様」
しかしいつものように
「また明日」
という言葉は続かなかった。
車は再びバイクを引き連れて走り出し、保釈後の記者会見を終えた酒井法子は、都内の病院に入院。
メンタルヘルス科の担当医に会った後、個室に案内されると、そこに息子が1人で待っていた。
「ママ!」
1ヵ月半ぶりに再会した2人は抱き合った。
「ママ、もう悪いことしちゃだめだよ」
「ごめんね」
「もういいよ」
その後、病室で一緒に食事し、テレビはつけずに子供向け映画のDVDを観て、1人用ベッドで一緒に寝た。
翌日から検査とカウンセリングで精神状態や薬物の依存度などが調べられ、看護師が1時間おきに病室にやって状態を確認された。
病院は病室がバレないように配慮していたが、酒井法子も1歩も出なかった。
テレビをつけると記者会見の映像が流れるため、数日間しか観ることができず、その後は消したまま。
知っている人だけでなく知らない人からも手紙や花が届き、ママ友やサンミュージックのスタッフがやってきて
「無事でよかった」
といわれた。
酒井法子は、2週間で退院。
マスコミを避けるため、しばらく知人の親せきの家に身を寄せた。
10月21日に高相祐一の初公判が開かれた。
酒井法子の裁判の打ち合わせのため弁護士が知人の親せきの家にやってきて、
「これから先のことをどう考えているか、裁判で必ず問われることになる」
といわれ、酒井法子は離婚について真剣に考えるようになった。
10月25日、知人の親せき宅から東京のホテルに移動。
10月26日、東京地方裁判所に向かった。
車は報道陣に取り囲まれ、オウム真理教の麻原彰晃の裁判と同じくらいに注目されていた。
酒井法子は弁護士と2人で控室で待った後、法廷へ。
裁判官、検察官、弁護人に挟まれるように立ち、罪状を読み聞かされた。
薬物を使った経緯や理由、現在の心境について説明し
「離婚して介護の勉強を始めたい」
サンミュージックの横澤正久副社長が情状証人として証言台に立ち
「異変に気づけなかったのは自分の落ち度」
お母さんは、ガンの手術を受けた後だったために来れなかったが
「親の監督不行き届き」
という内容に誓約書を提出。
裁判が終わると酒井法子は、マスコミを引き連れながら、東京、青山のマンションへ。
湾岸署の拘置所から出るときに髪と顔を整えてくれたヘアメイクスタッフがご飯を用意して待っていて、2人で食事。
酒井法子は、お母さんに電話し
「お疲れさま」
といわれた。
酒井法子にとって3ヵ月ぶりの自宅マンションだったが、周りをおびただしい数のマスコミに囲まれ、1日何度もインターホンを鳴らされ、1歩も外に出られず、人に頼んで食料を差し入れてもらいながら1人で過ごした。
自宅マンションに帰って2週間後、再び東京地方裁判所に行き、懲役1年6ヵ月執行猶予3年の有罪判決を受け、裁判官から
「映画やドラマでいろんな役を演じてきたでしょうが、残念ながら、この事件も裁判も現実です」
といわれた。
この後、酒井法子は、マンションで息子と2人暮らしを開始し、福祉の勉強ができる大学に入学。
自宅のパソコンでインターネットを使って講義を受けてレポートを提出するというシステムだったが、酒井法子は初パソコン。
社会福祉、幸福論、音楽療法などについて学んだが、1科目に10分の講義が90回もあった。
相変わらずマンション付近には報道陣でひしめき合い、常に監視され、
「事務所を解雇されても芸能人はやめさせてもらえないんだ」
と感じた。
マンションにやってきたお母さんと3ヵ月ぶりに再会すると、それから数ヵ月間、息子と3人で過ごした。
パソコンでインターネットを開いても、自分の名前を検索することはこわくてできなかったが、数ヵ月後、初めて調べて、検索結果をみて落ち込んだ。
こうしてのりピーの時代は終焉。
酒井法子は新たなステージに進んでいった。