酒井法子は、1971年2月14日 に福岡県で生まれ、2歳のときに両親が離婚し、父親の実家である佐賀県の寺に預けられ、さらに数年後、東京近郊に住む父親の姉の家に引っ越し。
幼く状況が把握できない酒井法子は、伯母を、
「お母さん」
新聞記者をしている伯父を
「お父さん」
7歳上の従兄弟を
「お兄ちゃん」
と呼び、本当の家族だと思いながら育った。
父親が再婚し、小学校2年生のときに福岡県へ戻り、義母(父親の再婚相手)、まだ赤ん坊の義弟の4人暮らし。
義母を
「ママ」
と呼んだが、お母さん(伯母)と違って厳しく、叱られるときはビンタが飛んできた。
「福岡に来てからは怒るとおっかないからねだらなくなった」
という酒井法子は、小学校5年生のとき、自ら帰りたいと希望し、関東のお母さんの家に戻った。
父親が再再婚したため、小学校卒業まで1ヵ月というタイミングで、再び福岡に転校。
3番目の母親と出会い、最初、
「こんにちは」
と挨拶され、
(美人で優しい人だな)
と思った。
こうして博多湾に近い福岡の中心部にある3LDKのマンションで3人暮らしを開始。
1ヵ月間だけ小学校に通って中学校に進むとソフトボール部に入部。
福岡の中学で屈指の強さを誇る、厳しいソフトボール部で、授業が終わると2~3時間、声を出しながら走って、キャッチボール、素振り、ノック、筋トレとみっちり練習。
練習後のグラウンド整備もロープをつけたタイヤを引っ張って行い、雨の日も雪の日も、顧問に
「お前ら、ボールがみえなくなるまで練習じゃ」
といわれて練習。
練習中、酒井法子が
「肩が痛いです」
と訴えても
「投げ方が下手ったい」
と休ませてくれず、
「星飛雄馬の世界が、そこにはあった」
真っ暗になるまで練習した後は、部活の仲間と一緒に禁じられている買い食いをしながら帰り、帰宅後も夜遅くまで電話をかけ合った。
食べることと共に着るものに対する執着もすごく、長いスカートを履きたくて、セーラー服のウエストを縫い上げて長くみえるように工夫し、カバンはペタンコにした
福岡出身のチェッカーズが流行り、仲間とその話で盛り上がり、中森明菜や小泉今日子も人気があったが、酒井法子の1番は変わらず松田聖子。
矢沢永吉も好きで、朝の目覚めには「「Rockin' My Heart 」を聴いた。
異性には奥手で、小学生時代、1人だけ好きになったが、まったくしゃべることができなかった。
中学では3年間で2人の男子を好きになり、1人目は野球部で、ラブレターを書いて、プレゼントも贈った。
中身はフェルトで野球のアップリケと彼の名前をくっつけた手作りの巾着袋だったが、遠くから投げるように渡した。
廊下で相手が向こうからくると後ろを向いて逃げ、一緒に歩くどころか、まともに会話することもなく、
「向こうも好きらしい」
と友達から聞くだけで満足し、後は妄想にふけるだけで終わった。
2人目は、想いを伝えた後、自転車に乗って彼の新聞配達に付き合った。
ドキドキして張り切りすぎて大きなガラス戸に激突し、おでこと上唇を強打。
何もなかったフリをして帰ったが顔は大きく腫れ上がり、それっきり恥ずかしくて会えなくなった。
酒井法子は父親を
「パパ」
と呼んでいたが、義母には、
「ママっていわれるのは嫌だから、お母さんって呼んでほしい」
といわれ、その通りにした。
お母さんは中洲のクラブで働いていて、酒井法子が学校から帰ると卵焼きや唐揚げ、カレーなどがつくってあり、それを食べていると出かけていった。
そしてどんなに遅くに帰ってきても、ご飯をつくり、酒井法子を起こして一緒に食べ、玄関で登校を見送った。
お母さんはいつも
「男の子を家に呼んじゃダメ」
と注意していた。
あるときお母さんが仕事に出た後、女友達が家に来て遊んでいたが、何かを受け取るために男の子を呼んだ。
それをみたマンションの管理人が夜中に帰ってきたお母さんに
「留守中に男の子が家に入っていった」
と報告。
お母さんは家に入るなり、寝ていた酒井法子を起こしてビンタし、
「約束したのに、なんでこんなことするの!」
酒井法子は、
「それはわたしじゃないし、部屋の中に入れていない」
といって泣いた。
お母さんに手を上げられたのは、この1度だけで、このときも
「想ってくれている表れだ」
と思った。
その後、2人は度々、ケンカをし、酒井法子は怒られて腹が立つと、部屋のドアに
「入らないで」
と張り紙をして閉じこもった。
するとお母さんも
「お母さんの部屋だから入らないで」
と張り紙。
そしていつもバカバカしくなって仲直りした。
一方、パパはあまり家にいなかった。
それまで酒井法子は、最初、出かけたいときに出かけ、たまにフラと帰ってくるパパを
「自分の人生を楽しんでいる」
「ゴーイング・マイ・ウエイな人」
そして
「正直、何をしているのかわからない」
と思っていたが、この頃になると小さいときに一緒にお風呂に入ったとき体に掘られた花をきれいだと思った記憶と十数年の人生経験により、事情がわかってきた。
すると自然と避けて過ごすようになり、パパとの間に緊張感が漂うようになった。
流行りの長いスカートをはいて遊びに出ようとしたとき
「そんなカッコウで外に出るな」
と注意されたが、無視して玄関へ。
「ちょっと待て!」
といわれ、腕をつかまれ、初めて殴られた酒井法子は、殴り返した。
そして跳ね飛ばされて冷蔵庫で顔を打ち、
「貴様、なんばしよっとか」
と怒鳴られると
「お母さん、助けて」
と風呂に入っていたお母さんに助けを求めた。
この後、ますますパパを遠ざけるようになった。
中学3年生になると、あまりの厳しさに同級生のソフトボール部員は10人になり、酒井法子は、レフト、9番でレギュラーを獲得。
夏、顧問が「必守必打」と書いた赤いハチマキを巻いて、全国大会出場をかけて福岡県大会に出場し、決勝戦でドラマチックな逆転サヨナラ負け。
酒井法子は
「中学時代は毎日が部活で精いっぱいで、それによって生活が充実していた」
といい、ソフトボール部員との友情は大人になってもずっと続いたが、あるとき最後の決勝戦の試合の内容を
「忘れてしまった」
というと
「マジでいいようと?」
といわれた。
部活を頑張りすぎてまったく勉強をしなかった酒井法子は、
ソフトボール推薦で高校に行く
中学生になって初めて美容室を経験し、素敵だと思った美容師の専門学校に行く
という2つの進路を考えていたが、雑誌で「 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」という記事を発見。
それは資生堂のシャンプーのイメージガールのオーディションで、優勝すればサンミュージックに所属し、ビクターからレコードデビューすると書かれてあった。
「サンミュージックといえば、憧れの松田聖子が所属する事務所。
地元福岡で九州地区予選があると知り、酒井法子は応募。
親に内緒にしていたが、書類選考を通過し、地区予選への出場案内が送られてきて、オーディション当日、学校が終わった後、家で着替えて出ていくとき、お母さんに見つかり、
「どこ行くの?」
と聞かれ、すべて打ち明けると
「夕飯までに帰っといで」
といわれた。
家から自転車で10分ほど走って九州朝日放送へ。
オーディション会場は、ピアノが置かれた小ホールで、志村香の「曇り、のち晴れ」を歌ったが、人前で歌うのは生まれて初めてで緊張し、うまく歌えず、他にうまい人が何人もいたため、
(これはダメだな)
とあきらめていたが、全国大会進出が決定。
保護者の承諾が必要ということで、ビクターの幹部と放送局のスタッフと一緒に自宅へ帰り、
「歌は最下位だけど光るものがあった」
と説明を受けたお母さんは、
「東京に行く口実ができた」
と喜んだ。
1985年10月26日、東京都中野区にある中野サンプラザでオーディションの全国大会が開かれ、北海道から九州まで各地区の代表が12人集まり、その模様は、テレビ中継されたが、幸か不幸か福岡では放送されなかった。
司会進行は、コント赤信号と桑田靖子。
酒井法子は、前イメージガールの早見優を間近でみて
「なんてかわいいひとなんだ」
と見惚れてしまった。
審査は、質疑応答、水着、歌、特技で、特技は菊池桃子のモノマネをする予定だったが、他の女の子が先にやることがわかり、急遽「落語」に変更。
関東のお母さんの家で聞いた落語テープを思い出し、羽織を着て 座布団をに座り「寿限無」の
「母ちゃん、痛い痛い」
というセリフを
「母ちゃん、痛か痛か」
に九州弁にした。
しかし全国応募総数54129名、「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」のグランプリには水谷麻里、準グランプリには岡谷章子が選ばれ、酒井法子は落選。
夜、オーディションをずっとみていたお母さんと焼き肉を食べ、翌日、一緒に原宿竹下通りにいって、飛行機の時間ギリギリまで遊んだ。
福岡に戻るとソフトボール推薦の期限が過ぎてしまっており、普通受験に向けて勉強をしなくてはならなかったが、オーディションから1週間後、東京から電話がかかってきた。
サンミュージックの相沢秀禎社長の長男でプロモート事業部長の正久は、
「頑張ってみる気あるの?」
「普段は何やってるの?」
などと何度も電話してきて、最終的に
「何も約束できないし、仕事も何も決まっていないけど、それでも東京に出てくる気はあるかい?」
とスカウト。
酒井法子は、すぐに
「はいっ」
といい、すぐに受話器をお母さんに渡した。
その後、電話と郵便で手続きが進められ、パパは、東京から送られてきた書類をみて
「事務所との契約は10年間もある。
いま14歳だから24歳まで辞められない。
これだけ長く拘束されるのは大変だぞ。
辞めたくなっても辞められんぞ。
それでもええのか」
「最高じゃん。
長く雇ってもらえるなんて、むしろありがたい。
絶対やりたい」
サンミュージックと契約を結んで1ヵ月も経たないうちに最初の仕事(テレビドラマ出演)が決まり、中学卒業を待たずに12月8日に上京。
高校卒業までは社長宅に下宿させるのが事務所の方針だったが、3つの下宿部屋が埋まっていたため、酒井法子は、社長宅から徒歩で3分のアパートの2DKの部屋で社長宅のお手伝いさんと2人暮らしすることになった。
食事は社長宅にいって6人掛けのテーブルに社長夫婦や先輩タレントと並んで座り、お手伝いさんがつくった大皿のおかず、ご飯、みそ汁を食べた。
夕食後はお風呂に入り、お手伝いさんは仕事があるために残り、1人で賑やかな社長宅を出てトボトボとアパートへ戻り、朝起きると、社長宅にいき、シャワーを浴び、食事をしてからバスに乗って中学校に通った。
最初の仕事は、渡辺徹&明石家さんま主演の人情コメディーテレビドラマ「春風一番!」
梅宮辰夫、菅井きん、松原智恵子、大場久美子、松本伊代、大西結花らとも共演して感動。
渡辺徹に
「下手でもいいからお腹の底から声を出して」
と教えてもらった人生初のセリフは
「トイレ、トイレ」
ドラマは1986年1月11日~3月29日まで全12話放送され、学校に通いながらの撮影に現場でうたた寝をしてしまい、叩き起こされたり、芝居経験ゼロの酒井法子は、何度もやり直しとダメ出しをもらい、何度も逃げ出したい気持ちになった。
春になると先輩タレントが高校を卒業し、社長宅の6畳の部屋に引っ越し。
堀越高校に入学し、通勤ラッシュの満員電車を初体験。
背の低い酒井法子は人と人の間に挟まれて知らない人の背中をみながら息をして、
「東京で生きるのは大変だ」
と思った。
堀越高校芸能コースは、仕事と勉強の両立を目指し、仕事があるときは早退や欠席を認める一方、教師が放課後、居残り授業を行うこともあった。
テストは普通に行われるため、酒井法子は徹夜で勉強したこともあった。
サンミュージックの事務所は、5階が1軍のアイドルやタレント、4階は2軍となっていた。
4階所属の酒井法子は、5階を目指し、学校が終わった後、週数回、サンミュージックの事務所で、芝居、歌、踊りのレッスンを受け、家に帰ると縄跳びをして、腹筋と背筋の筋力トレーニングをして、風呂では何曲かメドレーを歌った。
「アイドルという夢が叶いかけている。
そう思うだけで気持ちがいっぱいになった。
どうしたらデビューさせてもらえるか、どうしたらもっと魅力的になれるか、そのことばかり必死に考えていた」
サンミュージックはデビューに向けて準備を進め、酒井法子は芸名を持つことに憧れていたが、
「親がつけた名前が1番強い」
と本名でいくことが決定。
中学校のソフトボール時代、
「うれピー」
「たのピー」
など
「ピー」
をつけて話すことが流行り、それからもずっと話していたため、ニックネームは
「のりピー」
になった。
酒井法子は、地味な本名を名乗ることも、のりピーというニックネームも、ずっと憧れていたアイドル、松田聖子のイメージから
「かけ離れている」
と思った。
「アイドルの王道とは違う変化球を1つ1つ投げ込んでいくことで存在感を出す」
というのがサンミュージックの戦略で、正統派のアイドルが歌や容姿など直球で勝負するのに対し、酒井法子は変化球を投げることを求められ、斬新で突拍子のないアイデアを実践していった。
一方、福岡の両親は、山梨県のお母さんの実家の近くに引っ越し。
パパは、酒井法子の仕事に影響を与えないように稼業を引退し、お母さんの親戚の商売を手伝った。
1986年11月、映像ソフト「YUPPIE」が発売。
エイリアンハンターが怪獣をやっつけるという特撮ものだったが、何か異色で前例のない方法で酒井法子の売り出しを模索していてサンミュージックは、世界初のVHD(日本ビクターが開発したレコード盤形状のビデオディスク規格)で発売。
1987年2月5日、歌詞に「ピー」「ピー」を多用した、
「男のコになりたい」
でレコードデビュー。
9日後、16歳の誕生日に後楽園ホールでファンの集いを開催。
普段、ボクシングやプロレスが行われる会場で、スタッフに騎馬戦のように担がれて入場。
白いミニドレス姿でリングに上がり、デビュー曲を歌った。
「ファンなんて多くいないだろうと思っていたのに、会場がいっぱいになるほど人があふれていて、親衛隊のような人たちにも初めて会った」
「レコードを出せば自然と売れていって、すぐにスポットライトを浴びてどこへいってもキャーッと騒がれる」
と思っていたが、実際はマネージャーと2人で全国を回り、テレビやラジオ、スーパーや動物園のイベントまで様々な仕事場で
「やっピー」
と叫んだ。
休日のショッピングモールで買い物客の前で歌っていたとき、男の子に
「バーカ」
といわれて泣いてしまい、舞台を降りた後、マネージャーに
「プロなんだからそんなことで泣かないでよ」
と叱られ、
(バカっていわれてもニコニコしないといけないなんて!)
と衝撃を受けたが、
「のりピーのイメージは、いつも元気で明るくキャピキャピしている女の子だ」
と自分にいい聞かせ、ステージでは常に笑顔に。
「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」などの歌番組にも出演するようになったが、視聴者の投票によるランキング形式なので何週も続けて出させてもらえる保証はなく、
「もっと上位に行きたい」
という願いと
「今日で終わりかもしれない」
という緊張感の中、必死に歌い、毎週ハラハラと結果を待ち、ランキング外に落ちると泣いた。
番組出演時には歌手やアイドルを間近で眺めることができ、1人1人に強い個性と輝きを感じたが、特に印象的だったのは工藤静香。
ステージで花を髪につけて歌った工藤静香は、楽屋に戻ると、それをとって、
「ありがとうね」
といってキス。
酒井法子は、
「人がみえないところでキレイな心を持っているから輝いていられるのかもしれない」
と思った。
酒井法子は、「のりピー」として世間に浸透。
大きく貢献したのは「のりピー語」だった。
酒井法子は自らを「のりピー」と名乗り、あいさつ代わりの「やっピー」や「マンモスうれピー(とてもうれしい)」などの「のりピー語」で話し、これが流行。
のりピー語について、
「中学校のときから「いただきマンモス」とかいってたんですよ。
私がつくったというより、なんととなくみんなでいっていたと思う。
そのときにちょうどサンプラザ中野さん「ちゃんちゃらおかP音頭」という歌(1985年、酒井法子が14歳のときに発売)があっておもしろ~とか思ってうれピーとかたのピーとかいってて」
というが、以下のようなものがある。
------------------------------
あ行
あかピー 明るい
あたくピ 私、(類似語:あたピ・わたピ・わたくピ)
ありんこ ほんの少し(反対語:マンモス)
あっしねー 明日会おうね
いくピー 行くぞー
いきまろ いきなり
いただきマンモス いただきます
いっぴょ 一緒
美ピー 美しい(類似語:プリピー・めんこらピー)
うっピー 嘘
うれピー うれしい(「うれし」だと「うれピ」となる)
えっピ エッチ
おいピー 美味しい
お元ピ? お元気?
おちゃっピー おっしゃれ
おちゃピー お茶をする、休む
オッチョロピー 恐ろしい
おめでたマンモス おめでとう
おれっピ オレ
か行
かっちょピー カッコイイ!
かなピー 悲しい
がんばらんち 頑張る、頑張って
ぎゃっピー うるさい・騒々しい
きょっきー 今日も元気?
ぐちゅピー カゼひいちゃった
くやピー 悔しい
くろまピー まっ黒
コケコッピー起きろ
ごちそうサマンサ ごちそうさま
さ行
さめプー 上手
しちくれる? してくれる?
しぶピー しぶい
しゃペピー おしゃべり
スウィート・やっピー 愛してます
すかんピー キライ
スタピー 勉強
すっからピー すばらしい
ステチ 素敵、ステピーではない
セミラッチー 少しラッキー
た行
たのピー 楽しい
ちゃっピー 助かっちゃった
ちゃらピー 帳消し
ちょろっとまっピー ちょっと待って
ちんぷんかんピー わからない
てれピまん テレてしまう
とーっぴ 取った
とっちくれる? 取ってくれる?
ドッカンピー とんでもないことをいうときに使う
な行
ナイス・トゥー・ミート・ユー あなたに会えてウレシイ
ナンジャラピー なに?
なんまんピー かわいそう(お経のナンマンダブより)
ニュッピー 新しい
ねぶピー 眠い
のりピー 酒井法子
は行
バイピー さようなら
はずかピー 恥ずかしい
はなピ 話(同義語:おはなピ)
ばばピー 大きい
バピポイ かしこい
はらへっピ 空腹
ピンピー ショッピング
ファーストやっピー おはよう
プリピー かわいい
ぶるっピ 寒い
ペコペコマンモス 本当にごめんなさい、あるいはかなり空腹
へたっピ 下手
ヘルチィー 体にいいこと
ほピー 欲しい
ま行
まっちぴり 待ってくれ
マンモスダウン 絶不調
マンモスラッチー すごくラッキー
マンモスリッチー お金持ち
めんこらピー かわいい(同義語:プリピー)
モテピー モテる
や行
やさピー 優しい
やっピー こんにちは
やらぴぃ イヤらしい
やりピー やったー
やるぴっ やるぞ
よろぴく よろしく
ら行
ラッチー ラッキー、ラッピーではない
わ行
忘れちゃっピッピー 忘れちゃった
わたくピ 私
わたピ 私
われっピー 片想い
ん行
んじゃピー さようなら(同義語:バイピー)
------------------------------
ちなみに「ゴジラパワー」は、ファンの協力を意味する。
のりピー語が話題となるとグッズも売り出され、グッズ販売店「のりピーハウス」までオープン。
のりピーハウスは数を増やし、夏限定で富士山の8合目にも出店。
デビューから1年の間に、4枚のシングルと2枚のアルバムが発売され、3枚目のシングル「ノ・レ・な・いTeen-age」は日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞を受賞。
4枚目の「夢冒険」は、NHK「アニメ三銃士」の主題歌になり、1988年のセンバツ高校野球の入場行進曲にも採用された。
アルバムを出した後は、ツアーやコンサートが中心となり、全国各地を飛び回った。
初めての海外は、ハワイ。
CMや写真集の撮影を行いつつ、
「ハンバーガーがえらく大きくて驚いた」
ロンドンでは2階建てバスの上で歌ったり、10㎝以上のもある巨大キノコのソテーを食べ、イタリアのローマ、フランスのパリやニースにも仕事で訪れ、17歳の酒井法子は普通の高校生では味わえないような体験をいくつもした。
高校卒業と同時に社長宅を出て1人暮らしを始めることになったが、慣れるまでお母さんが山梨から上京し、しばらく一緒に住むことになった。
お母さんは、掃除、洗濯、食事づくりなど家事を行い、楽屋に弁当を届け、マドレーヌやチーズケーキを焼いて仕事場に配ることもあった。
1989年5月17日、お母さんと暮らし始めて1ヵ月後、仕事場にいた酒井法子は、
「お父さんが事故に遭った」
と聞かされた。
パパは、山梨県大月市の中央自動車道で車を運転していて中央分離帯のコンクリート壁に激突。
車内には酒井法子のカセットテープが19本もあった。
酒井法子とお母さんは事故から5時間後、病院に到着。
パパは瀕死の状態で、日付が変わった数時間後、2人が見守る前で息を引き取った。
14歳で上京し、高校を卒業するまで「のりピー」のキャラクターと「のりピー語」を前面に押し出して成功。
18歳になると女子中学生のようなキャラクターを演じることに違和感を感じ始め、
「もっとキレイになりたい」
「しっとりとしたバラードも歌ってみたい」
「シリアルなドラマに出てみたい」
「髪の毛を伸ばして大人っぽいドレスを着るような仕事もしてみたい」
と思うようになり、周囲もリクエストに応えて仕事を用意したが、のりピーに比べてインパクトがなく、まったく目立たなかった。
変わりたいのに変われず、自分らしさについて悩み続けながら仕事を続け、22歳で「ひとつ屋根の下」に出演。
アイドルから本格的な女優に挑戦は、思い切って出演を決めたものの演技に自信がなく、プレッシャーで記者会見の3日前くらいから発熱し寝込んでしまう。
「ひとつ屋根の下」は、両親と死別後、生き別れになっていた柏木家の兄妹たちが、長男の達也(江口洋介)の呼びかけで共同生活を始め、絆を取り戻していくホームドラマ。
「あんちゃん」こと長男・達也(江口洋介)は、実業団のマラソン選手として活躍していたがケガで引退してクリーニング店を営み、情にもろいお調子者。
「チイ兄ちゃん」こと次男・雅也(福山雅治)は、クールな医学生。
三男・和也(いしだ壱成)は、荒れた10代を過ごし、傷害事件で少年鑑別所に収容された。
四男・文也(山本耕史)は、両親と死別後に事故に遭って車椅子生活。
次女・小梅(大路恵美)は、里親の元でイジメられ塞ぎ込んでいたが、兄弟と再会後、徐々に本来の明るさを取り戻していくが、誕生日にレイプ被害に遭ってしまう。
酒井法子は、長女・小雪役で出演。
6人の兄弟が身を寄せ合って生活する家でお母さんと姉の2役を担い、エプロン姿で家事を切り盛りする健気な小雪は、自分1人だけが本当の兄弟ではないという負い目と、長男・達也への恋心を密かに抱えながら、次男・雅也から求愛される。
人気脚本家の野島伸司が手掛け、「月9ドラマといえば恋愛もの」という常識を覆した「ひとつ屋根の下」は、平均28.2%、最高37.8%という視聴率を記録する大ヒット。
「本当にたくさんの人が観ていた。
のりピーを知っていた人も知らなかった人も、好きな人も嫌いな人もみていた。
そこで私が演じたのは、ずっと求められてきたのりピーではなく、酒井法子とほぼ同年代の柏木小雪だった。
それは大きな出来事だった。
のりピーが年月と共に大人になって実年齢と変わらないタレントになっている
ドラマが多くの人に愛されたおかげで大人になった酒井法子が初めて受け入れてもらえた。そんな気がしていた」
酒井法子は、これ以降、実年齢なりの仕事がくるようになった。
「ひとつ屋根の下」の脚本家、野島伸司は、大学1年生のときに渡米し、帰国後、大学を中退して、飲食店、肉体労働、テレビ局フロアディレクターなどいろいろなアルバイトをした。
「大学もやめてましたし何でもよかったんだとは思いますが、目立とうとしたわけでもないんです。
テレビもほとんどみていないし、物書きになりたかったわけでもないし、割と行き当たりばったりのバイトをしていたりしたので・・・
自分のよって立つもの、アイデンティティーが欲しかったというのは、やっぱり強かったんですけど・・・」
アルバイトをしながらシナリオスクール「東京山手YMCA」の9期研修科に入り、脚本家の伴一彦に師事。
翌年、バイトの帰りに偶然、公募雑誌でシナリオを募集しているのを見つけ、初めてワープロで書いた「時には母のない子のように」が「フジテレビヤングシナリオ大賞」を受賞。
「時には母のない子のように」でデビューし、同年、連続ドラマ「君が嘘をついた」が平均視聴率17.3%いう高視聴率を記録。
その後も、1989年「愛しあってるかい!」、1990年「すてきな片想い」、1991年「101回目のプロポーズ」、1992年「愛という名のもとに」、1993年「高校教師」、そして「ひとつ屋根の下」とコミカルなものから社会の闇やタブーを描いたものまで幅広い作品を世に送り、社会現象を巻き起こした。
酒井法子にとって野島伸司は8歳上。
30歳にして橋田寿賀子ら大御所と肩を並べる、飛ぶ鳥を落とす勢いの野島伸司に、
「すごい人だ」
と憧れた。
はじめは大きな尊敬の気持ちから始まったが、酒井法子は自分の話をジックリと聞いて、真剣に話す野島伸司に心を奪われていき、仕事の合間に弁当を作って差し入れるようになった。
そして「ひとつ屋根の下」の撮影が終わる頃には、かなりのプレイボーイで知られていた野島伸司と付き合うようにになった。
芸能界に入って以来、
「アイドルだから・・」
という暗黙のルールはたくさんあったが、特に男子と遊ぶことはご法度。
1度だけ気になっていた相手から食事に誘われてマネージャーに
「いってきていいですか?」
と相談し
「ダメ」
といわれた酒井法子は、恋愛経験ゼロだった。
1993年秋、写真週刊誌が野島伸司のマンションに出入りする酒井法子をスクープ。
22歳にして初の恋愛スキャンダルだったが、すぐに記者会見を行い、
「今いちばん大切な人。
胸を張ってお付き合いしているといえる方です」
と交際を認め、
『結婚は?』
と聞かれると
「具体的には考えていません」
と答えた。
酒井法子は野島伸司のマンションで暮らし、キャップにTシャツ、短パンにサンダルというラフなスタイルでマンションを出て、野島伸司のためにタバコやジュースを買いに行くなど、まるで妻のように尽くす日々を過ごした。
酒井法子は自らの尽くす性格について
「愛されたいという気持ちは小さい頃からずっと持っている。
愛されたくて相手が何を喜ぶのか、いつも一生懸命考えてた。
アイドルやタレントして突っ走ってこれたのも自分が愛されたいと思っていたからだと思う」
といっている。
1995年4~7月、ドラマ「星の金貨」で、酒井法子は、耳と口が不自由な倉本彩を演じた。
彩と結婚の約束をしていながら記憶喪失に陥ってしまうエリート医師、秀一(大沢たかお)
異母兄である秀一への一途な愛を知りつつ彩を思い続ける拓巳(竹野内豊)
酒井法子は、記憶をなくしてしまった男との純愛を大熱演。
初回、7.2%だった視聴率は、最終回には23.9%と3.32倍に。
3倍以上を記録したのは「熱中時代」(1978年、12.2%から40.0%、3.28倍)以来で、上昇率では過去最高となり、連続テレビドラマの奇跡といわれた。
「ひとつ屋根の下」の小雪、「星の金貨」の彩と薄幸の美少女役が続き、それがハマった酒井法子は、「星の金貨」の主題歌の「碧いうさぎ」が自身初のミリオンセラーとなり、日本レコード大賞で優秀作品賞を受賞、
初めて紅白歌合戦に出場し、憧れの松田聖子と同じ舞台に立ち、上京して10年、24歳の酒井法子は感無量だった。
1997年3月、「ひとつ屋根の下2」の制作発表会見で、
『脚本は野島伸司さんですが、何かアドバイスは受けてますか?』
という質問が出ると
「すみません。
その質問はやめてください」
と関係者が制した。
酒井法子は野島伸司と2年間、同棲中で
「結婚間近」
「このドラマが独身最後」
と噂されており、
『結婚したら子供は欲しいですか?』
という質問には、
「子供?
ウ~ン、どっかからポンと生まれてくるのならいいけど、自分では生むのは・・・」
とトボけた。
そして5ヵ月後、プレイボーイの野島伸司に対する不信感から酒井法子の方から同棲を解消し、関係に終止符を打った。
「以前は仕事ばかりしていても幸せだったのに、気持ちが仕事以外にも向くようになった。
新しい現場に入っても不安や緊張は薄れた。
現場の空気に慣れて気持ちに余裕ができたことで逆に心のバランスを崩していった。
仕事も、恋愛も、生活も全部好きで頑張ったけど、ちょっと欲張りすぎたのかもしれない」
という酒井法子。
一方、野島伸司は、その後も遠山景織子、桜井幸子、安倍なつみと噂となり、「主演女優キラー」と呼ばれた。
2年ぶりに独りになった酒井法子は、1人の時間を楽しんだり、友人と食事や旅行に出かけた。
そして友人に誘われて海でボディボードを始めた。
「アイドルだった頃は、ハワイに行っても写真やCMを撮るだけで、日焼け厳禁だったから海に入らないで帰ってきた。
スキューバーダイビングの経験はあったけど波の上に乗ったことはなかった」
という酒井法子は海で自然を満喫。
房総の海にいったとき、危なくないようにとボディボードを教えてくれるプロのサーファーを紹介された。
それが高相祐一だった。
酒井法子より3歳上で、実家は東京、青山で「スキーショップJIRO」を営み、高校時代、お手伝いさんがいる実家から千葉県浦安市の東京学館浦安高校までタクシー通うこともあったという。
「それまで恋愛してきた男性とまったく異なるタイプで、そもそもサーファーと呼ばれる人と親しくなる自体初めてだった。
彼は波を求め、国内外を目まぐるしく移動していて、東京にいるときも道路をスケートボードで移動している。
60年代や70年代の洋楽が好きで、レコードショップで宝物を探すように1枚ずつチェックしていた。
少年みたいで、いつも遊び心を持っていて、何にも縛られない自由な雰囲気を漂わせ、どこで何をしているのかわからない、謎めいたところも魅力的に映った」
酒井法子は、それまで聴いたことがなかった音楽をたくさん教えてもらい、夜はクラブで行われるイベントに連れて行ってもらった。
「行ったこともみたこともない世界で、ドキドキしながら地下の店に続く階段を下りていった」
いい波があれば、すぐに海外に出かけてしまう高相祐一に対し、酒井法子は結婚を意識していなかったが、妊娠。
「あのね、赤ちゃんができたの」
というと高相祐一は思いっきり喜び
「結婚しよう」
2人で手を取り合って喜んだものの、翌日から酒井法子は悩んだ。
結婚するとなれば公表しなければならないが、世間からみれば物事の順番が違い、清純派としては仕事にどんな影響が出るかわからない。
なかなか決心できないでいたが、友人に、
「1つの命を絶って、その後の人生を生きるのか、この命を産んで育てる人生を選ぶか。
どっちがいいの?」
といわれ、迷いが消えた。
まずお母さんの家へいき、そこで初めてつき合っていることと妊娠したことを同時に報告。
お母さんは、高相祐一を玄関から上げず、酒井法子を激しく叱った。
それから3日間、酒井法子はお母さんの家に通ってケンカを続けた。
その間、高相祐一は車の中で待っていたが、3日目の夜中、ようやく家に上げてもらって挨拶をした。
頭を下げて結婚の許しを求め、お母さんは渋々承諾。
サンミュージックも結婚に反対し、
「酒井法子と生まれてくる子供のために」
と受け入れるのに1ヵ月間かかった。
それから仕事の調整に入り、ミュージカルやコンサートが中止になり、酒井法子は、高相祐一の両親にも挨拶を済ませ、1年の最後の仕事を終えた翌日、1998年12月28日に2人で婚姻届けを提出。
その足で記者会見に臨み、入籍したことと妊娠していることを報告。
野島伸司と別れて1年後のサーファーとのできちゃった婚に世間は驚いた。
酒井法子は、しばらく仕事を続け、お腹が膨らんでくると産休に入り、1999年4月、ハワイへ移動し、5月に結婚式を行い、7月17日、男の子を出産した。
1999年秋、ハワイから帰国した酒井法子は、2000年から仕事に復帰。
子供を自分のお母さんや夫の両親に預けながら、CMやドラマに出演し、CDをリリースし、日本と香港でコンサート。
2001年、復帰2年目は仕事の量をセーブし、家族3人、夏は誰も知らないような小さな砂浜に通い、冬は山で雪と戯れ、長い休暇が取れると旅行に出かけた。
ドラマで母親役が増え、子育ても仕事を頑張っているママとしての仕事が多くなった。
公的なイベントへの起用も多く、最高裁判所が制作した裁判員制度のPR映画にも出演。
国民的女優になりつつあった酒井法子は、結婚記念に左手小指に高相祐一とお揃いのタトゥーを入れていたが、仕事のときはファンデーションや指輪で隠し、プライベートと仕事で異なる面を持つことにかっこよさを感じた。
2003年、自分と同じヤングミセスをターゲットにしたファッションブランド「PP rikorino(ピーピーリコリノ)」が全国約100店の商業施設と中国や台湾でも販売を開始。
3歳まで自宅で育った息子が幼稚園に入園し、酒井法子は、初めてママ友ができた。
そんなある日、世田谷のマンションの居間の戸を開けると、隠れるように何かをしている高相祐一がいて、
「何やってるの?」
と聞くと
「気持ちがスッキリするものだよ。
やってみる?」
高相祐一がガラスパイプの中に入った白い結晶をライターであぶると白い煙が出て、酒井法子は、いわれるがままにタバコを吸うようにスッと吸い込んだ。
これが人生の分かれ道となった。
「わたしが偶然見つけ、居心地の悪い夫が勧めてきた。
あのとき拒絶できていれば本当に良かった。
あんな場面、見つけなければよかったし、勧めてほしくなかったし、勧められても断固拒否するべきだった。
本当にそう思う。
なぜやめてといえなかったのだろう。
なぜ拒絶できなかったのだろう。
ずっと後悔している。
それでも勧められて吸ってみようと決めて実際に煙を吸ったのはわたし。
その事実は変わらない。
不安もあったけど好奇心もあったし、1度くらいという気持ちもあった。
2人だけの秘密だから大丈夫。
そう安易に思っていた。
悪いのは吸うと決めたわたし自身。
その事実は揺るがない」
子供が小学校に入学する前に青山のマンションへ引っ越し。
息子が地元の小学校に通い出すと酒井法子は、PTAの役員に立候補。
運動会などの学校行事だけでなく、息子の友達の誕生日会を開くなど夢中で頑張った。
一方、夫婦仲は悪化。
次第に衝突することが増え、
「距離を置こう」
ということになり、平日、高相祐一が房総半島の別荘で過ごし、週末だけ東京か千葉で家族で合流した。
酒井法子は別荘に行くと掃除などをしたが、高相祐一の浮気を疑って携帯をチェック。
あるとき女性の痕跡があったため、問い詰めると
「お茶をしただけ」
といわれ、さらに激怒。
別居してもケンカと仲直りを繰り返した。
「わたしたちはまったく異なる背景を持った人間同士が結婚した。
お互い知らないことや触ったことのないものをたくさん持っていて、それが魅力的で楽しく、カップルとして成り立つ原動力になった。
でも夫婦や家族の生活を維持するのは、それだけでは成り立たないことがいっぱいあった」
2008年3月12日、ライブにゲスト出演した酒井法子の足首に太陽と梵字のタトゥーがあり、清純派のイメージとかけ離れていたため、わざわざスポーツ新聞に報じられた。
2008年6月、酒井法子が別れ話を切り出したとき、高相祐一は
「これでスッキリするから」
といって薬物を差し出し、酒井法子は半ばヤケになって手を伸ばし、人生2度目、3年ぶりの使用。
以後、1年以上の間、月1、2回のペースで使うようになった。
誰から買ってくるのか聞くこともなく、知ることもなかったが、仕事や家事で疲れていると高相祐一がアルミホイルに乗せたりガラスパイプに入れてセットしてくれた。
高相祐一は、酒井法子が使い過ぎたり、使い方を間違えないようにないように注意した。
「何か頑張ったご褒美に、ちょっとやっちゃおうと息抜きのように使うこともあった。
使い終わったカスを取っておいて夫がいないときに使うこともあった。
薬物を吸引するとドップリとたまっていた疲れが消えていくような錯覚に陥る。
目が冴えて物事に集中できる。
そんな風に感じてた。
いろんな悩みがスッと消えて1つのことに夢中でのめりこむことができる。
ロボットのように機械的で何時間でも動ける人間になれた。
どれだけ行動力が上がったかで薬物に価値を見出せると思い込んでいた。
わたしの場合は夢中で家事をやった。
さっきまでくたびれていたのがウソのように体が動いた。
貯めこんでいた洗濯物を一気に洗って片づけられ、散らかっていた部屋の掃除を集中して何時間でも続けることができた。
夫は気に入っている音楽に聴き入り、本や写真集を夢中になって読み漁った。
夫婦は互いに干渉しなくなり、それぞれの世界に没頭した。
でも実際は、いいことなんて何もなかった。
一晩中起きていられるから限られている時間が増えたような気になるけど、ずっと起きてるだけ疲れもしっかり蓄積されていく。
薬物を吸引した日は徹夜できても次の日は思い切りダルくなっている。
眠たくなって寝てしまい、グッタリとした日が4日も5日も続くことになる」
息子には絶対に知られないように気をつけたが、寝坊して朝食がつくれなかったり、学校に遅刻させたりしてしまうこともあった。
そして悪かった夫婦仲は、さらに悪化した。
2人で何度も
「もうやめよう」
といい合い、薬物をトイレに流したこともあったが、やめることはできなかった。
2009年2月、酒井法子が薬物が蔓延しているクラブに出入りしているという情報をキャッチした週刊誌が、サンミュージックに問い合わせ。
マネージャーに
「まさかとは思うけど・・・・」
と薬物使用について聞かれた酒井法子は、
「子供がいるんだからそんなことするはずないでしょ」
5ヵ月後の2009年7月、家族旅行で奄美大島へ。
日本では46年ぶりの皆既日食をみるのをメインに、ホテルやテントを泊まり歩き、ビーチで日食を眺めて海へ潜り、10日間ほど滞在。
旅行の最終日である2009年7月30日、午前中、家族3人でホテル近くの海に出かけ、夫はサーフィン、酒井法子と息子はシュノーケリングを楽しんだ。
昼にホテルに戻ると夫が息子に気づかれないように指と目でバスルームの方を指し、
「置いてあるから吸っていいよ」
といってから息子と一緒に大浴場へ。
酒井法子がバスルームに入ると化粧ポーチで隠すようにアルミホイルに包まれたガラスパイプが置いてあった。
中に白い結晶が残っていて、一部が溶けていたので夫の吸い残りだとわかった。
酒井法子はガラスパイプの下からライターの火であぶって、挿し口から出てくる煙を体内に入れた。
そして元の場所に戻して、1人で大衆浴場へ。
戻ってきたとき、ガラスパイプはバスルームからなくなっていた。
それから荷物をまとめて、チェックアウトした。
3日後の2009年8月2日、息子が夏休みのキャンプから帰ってきたが、渋滞で学校への迎えが遅れた酒井法子は、同じ小学校のママ友に息子を預かってもらい、1度自宅に帰り、高相祐一に
「今日は少し遅くなる」
といって外出。
21時、ママ友の家の到着。
23時過ぎ、ママ友とシャンパンを飲んでいると高相祐一から着信が入り、切迫した声で
「今、警察の職務質問を受けている。
なかなかお巡りさんが帰してくれない。
どうしよう」
といわれ、酒井法子はママ友に聞かれないように、
「ちょっと出てくるね」
といって外へ。
改めて事情を聞くと
「渋谷で職務質問を受けてるんだけど、なかなか帰してもらえないんだ。
法子に来てもらいたいんだけど」
酒井法子は、
(渋谷までそう遠くない。
すぐに行かなくちゃ)
ととっさに動き出し、ママ友には何もいわずにタクシーを拾った。
「まさか戻ってこれなくなるなんて夢にも思わなかった。
まして自分の体内に残る薬物のことなど頭をよぎることもなかった」
「大事にならならないように収めないと・・・」
渋谷駅近くの繁華街でタクシーを降り、そこから何度も高相祐一に電話をかけて居場所を聞き直し、初めていくような路地裏で目印を探しながら近づいていった。
途中、高相祐一は
「建設会社の会長に連絡を取ろう」
といった。
それはお母さん母が数十年間、世話になっている人で高相祐一も何度か会ったことがあり、会長の兄は、元弁護士で70歳を過ぎた会長も法律に詳しかった。
酒井法子は
(確かにあの人の助けが必要かもしれない)
と思った。
しかしこのとき酒井法子が持っていた携帯電話は、息子のものだった。
自分の携帯電話は2ヵ月ほど前に液晶が壊れて文字が読めなくなったので、息子の携帯に自分の携帯のチップを差し込んで使っていた。
しかし慣れないせいで誤操作により、アドレス帳をすべて消去してしまい、入っているのは家族と数人の電話番号だけ。
会長の連絡先を知るため、酒井法子はお母さんに電話。
深夜の電話に心配するお母さんに、
「後でちゃんと説明するから、とにかく教えて」
といって教えてもらい、
「今夜は遅いからかけるのは明日にしてね」
といわれたが、すぐに教えてもらった電話番号にかけた。
会長の携帯は、1度目は留守番電話になったが、2度目につながり、事情を説明された会長は、
「まず落ち着くように」
といい、深夜にも関わらず、
「すぐに渋谷までいく」
といった。
夫が職務質問を受けている現場に着くと制服姿の警察官が取り囲まれた高相祐一がいて、ズボンの中にある巾着袋をみせるように求められて、
「なんでそこまでみせないといけないんですか」
「下半身の薬が入っているから恥ずかしい」
などといって拒んでいた。
そして酒井法子が近づくと顔を寄せてきて警察に聞こえないように
「ごめんね」
といった。
その瞬間、酒井法子の中に恐怖が走った。
(覚せい剤を持っているの?!)
(ここで夫が逮捕されるようなことがあれば、私の人生にとって、そして息子にとっても、どれだけ大きな影響をもたらしかねない)
そして
(何とか防がなければならない!)
(何とか連れて帰らないと!)
と思い、警察官に冷静を装って
「私がちゃんと身柄を預かりますから、今日は帰していただけませんか?」
と訴えながら、心の中では
(この場をしのげるならもう2度と薬物はしないから、お願い)
と必死に願ったが、当然、警察は見逃してくれない。