酒井法子は、1971年2月14日 に福岡県で生まれ、2歳のときに両親が離婚し、父親の実家である佐賀県の寺に預けられ、さらに数年後、東京近郊に住む父親の姉の家に引っ越し。
幼く状況が把握できない酒井法子は、伯母を、
「お母さん」
新聞記者をしている伯父を
「お父さん」
7歳上の従兄弟を
「お兄ちゃん」
と呼び、本当の家族だと思いながら育った。
父親が再婚し、小学校2年生のときに福岡県へ戻り、義母(父親の再婚相手)、まだ赤ん坊の義弟の4人暮らし。
義母を
「ママ」
と呼んだが、お母さん(伯母)と違って厳しく、叱られるときはビンタが飛んできた。
「福岡に来てからは怒るとおっかないからねだらなくなった」
という酒井法子は、小学校5年生のとき、自ら帰りたいと希望し、関東のお母さんの家に戻った。
父親が再再婚したため、小学校卒業まで1ヵ月というタイミングで、再び福岡に転校。
3番目の母親と出会い、最初、
「こんにちは」
と挨拶され、
(美人で優しい人だな)
と思った。
こうして博多湾に近い福岡の中心部にある3LDKのマンションで3人暮らしを開始。
1ヵ月間だけ小学校に通って中学校に進むとソフトボール部に入部。
福岡の中学で屈指の強さを誇る、厳しいソフトボール部で、授業が終わると2~3時間、声を出しながら走って、キャッチボール、素振り、ノック、筋トレとみっちり練習。
練習後のグラウンド整備もロープをつけたタイヤを引っ張って行い、雨の日も雪の日も、顧問に
「お前ら、ボールがみえなくなるまで練習じゃ」
といわれて練習。
練習中、酒井法子が
「肩が痛いです」
と訴えても
「投げ方が下手ったい」
と休ませてくれず、
「星飛雄馬の世界が、そこにはあった」
真っ暗になるまで練習した後は、部活の仲間と一緒に禁じられている買い食いをしながら帰り、帰宅後も夜遅くまで電話をかけ合った。
食べることと共に着るものに対する執着もすごく、長いスカートを履きたくて、セーラー服のウエストを縫い上げて長くみえるように工夫し、カバンはペタンコにした
福岡出身のチェッカーズが流行り、仲間とその話で盛り上がり、中森明菜や小泉今日子も人気があったが、酒井法子の1番は変わらず松田聖子。
矢沢永吉も好きで、朝の目覚めには「「Rockin' My Heart 」を聴いた。
異性には奥手で、小学生時代、1人だけ好きになったが、まったくしゃべることができなかった。
中学では3年間で2人の男子を好きになり、1人目は野球部で、ラブレターを書いて、プレゼントも贈った。
中身はフェルトで野球のアップリケと彼の名前をくっつけた手作りの巾着袋だったが、遠くから投げるように渡した。
廊下で相手が向こうからくると後ろを向いて逃げ、一緒に歩くどころか、まともに会話することもなく、
「向こうも好きらしい」
と友達から聞くだけで満足し、後は妄想にふけるだけで終わった。
2人目は、想いを伝えた後、自転車に乗って彼の新聞配達に付き合った。
ドキドキして張り切りすぎて大きなガラス戸に激突し、おでこと上唇を強打。
何もなかったフリをして帰ったが顔は大きく腫れ上がり、それっきり恥ずかしくて会えなくなった。
酒井法子は父親を
「パパ」
と呼んでいたが、義母には、
「ママっていわれるのは嫌だから、お母さんって呼んでほしい」
といわれ、その通りにした。
お母さんは中洲のクラブで働いていて、酒井法子が学校から帰ると卵焼きや唐揚げ、カレーなどがつくってあり、それを食べていると出かけていった。
そしてどんなに遅くに帰ってきても、ご飯をつくり、酒井法子を起こして一緒に食べ、玄関で登校を見送った。
お母さんはいつも
「男の子を家に呼んじゃダメ」
と注意していた。
あるときお母さんが仕事に出た後、女友達が家に来て遊んでいたが、何かを受け取るために男の子を呼んだ。
それをみたマンションの管理人が夜中に帰ってきたお母さんに
「留守中に男の子が家に入っていった」
と報告。
お母さんは家に入るなり、寝ていた酒井法子を起こしてビンタし、
「約束したのに、なんでこんなことするの!」
酒井法子は、
「それはわたしじゃないし、部屋の中に入れていない」
といって泣いた。
お母さんに手を上げられたのは、この1度だけで、このときも
「想ってくれている表れだ」
と思った。
その後、2人は度々、ケンカをし、酒井法子は怒られて腹が立つと、部屋のドアに
「入らないで」
と張り紙をして閉じこもった。
するとお母さんも
「お母さんの部屋だから入らないで」
と張り紙。
そしていつもバカバカしくなって仲直りした。
一方、パパはあまり家にいなかった。
それまで酒井法子は、最初、出かけたいときに出かけ、たまにフラと帰ってくるパパを
「自分の人生を楽しんでいる」
「ゴーイング・マイ・ウエイな人」
そして
「正直、何をしているのかわからない」
と思っていたが、この頃になると小さいときに一緒にお風呂に入ったとき体に掘られた花をきれいだと思った記憶と十数年の人生経験により、事情がわかってきた。
すると自然と避けて過ごすようになり、パパとの間に緊張感が漂うようになった。
流行りの長いスカートをはいて遊びに出ようとしたとき
「そんなカッコウで外に出るな」
と注意されたが、無視して玄関へ。
「ちょっと待て!」
といわれ、腕をつかまれ、初めて殴られた酒井法子は、殴り返した。
そして跳ね飛ばされて冷蔵庫で顔を打ち、
「貴様、なんばしよっとか」
と怒鳴られると
「お母さん、助けて」
と風呂に入っていたお母さんに助けを求めた。
この後、ますますパパを遠ざけるようになった。
中学3年生になると、あまりの厳しさに同級生のソフトボール部員は10人になり、酒井法子は、レフト、9番でレギュラーを獲得。
夏、顧問が「必守必打」と書いた赤いハチマキを巻いて、全国大会出場をかけて福岡県大会に出場し、決勝戦でドラマチックな逆転サヨナラ負け。
酒井法子は
「中学時代は毎日が部活で精いっぱいで、それによって生活が充実していた」
といい、ソフトボール部員との友情は大人になってもずっと続いたが、あるとき最後の決勝戦の試合の内容を
「忘れてしまった」
というと
「マジでいいようと?」
といわれた。
部活を頑張りすぎてまったく勉強をしなかった酒井法子は、
ソフトボール推薦で高校に行く
中学生になって初めて美容室を経験し、素敵だと思った美容師の専門学校に行く
という2つの進路を考えていたが、雑誌で「 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」という記事を発見。
それは資生堂のシャンプーのイメージガールのオーディションで、優勝すればサンミュージックに所属し、ビクターからレコードデビューすると書かれてあった。
「サンミュージックといえば、憧れの松田聖子が所属する事務所。
地元福岡で九州地区予選があると知り、酒井法子は応募。
親に内緒にしていたが、書類選考を通過し、地区予選への出場案内が送られてきて、オーディション当日、学校が終わった後、家で着替えて出ていくとき、お母さんに見つかり、
「どこ行くの?」
と聞かれ、すべて打ち明けると
「夕飯までに帰っといで」
といわれた。
家から自転車で10分ほど走って九州朝日放送へ。
オーディション会場は、ピアノが置かれた小ホールで、志村香の「曇り、のち晴れ」を歌ったが、人前で歌うのは生まれて初めてで緊張し、うまく歌えず、他にうまい人が何人もいたため、
(これはダメだな)
とあきらめていたが、全国大会進出が決定。
保護者の承諾が必要ということで、ビクターの幹部と放送局のスタッフと一緒に自宅へ帰り、
「歌は最下位だけど光るものがあった」
と説明を受けたお母さんは、
「東京に行く口実ができた」
と喜んだ。
1985年10月26日、東京都中野区にある中野サンプラザでオーディションの全国大会が開かれ、北海道から九州まで各地区の代表が12人集まり、その模様は、テレビ中継されたが、幸か不幸か福岡では放送されなかった。
司会進行は、コント赤信号と桑田靖子。
酒井法子は、前イメージガールの早見優を間近でみて
「なんてかわいいひとなんだ」
と見惚れてしまった。
審査は、質疑応答、水着、歌、特技で、特技は菊池桃子のモノマネをする予定だったが、他の女の子が先にやることがわかり、急遽「落語」に変更。
関東のお母さんの家で聞いた落語テープを思い出し、羽織を着て 座布団をに座り「寿限無」の
「母ちゃん、痛い痛い」
というセリフを
「母ちゃん、痛か痛か」
に九州弁にした。
しかし全国応募総数54129名、「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」のグランプリには水谷麻里、準グランプリには岡谷章子が選ばれ、酒井法子は落選。
夜、オーディションをずっとみていたお母さんと焼き肉を食べ、翌日、一緒に原宿竹下通りにいって、飛行機の時間ギリギリまで遊んだ。
福岡に戻るとソフトボール推薦の期限が過ぎてしまっており、普通受験に向けて勉強をしなくてはならなかったが、オーディションから1週間後、東京から電話がかかってきた。
サンミュージックの相沢秀禎社長の長男でプロモート事業部長の正久は、
「頑張ってみる気あるの?」
「普段は何やってるの?」
などと何度も電話してきて、最終的に
「何も約束できないし、仕事も何も決まっていないけど、それでも東京に出てくる気はあるかい?」
とスカウト。
酒井法子は、すぐに
「はいっ」
といい、すぐに受話器をお母さんに渡した。
その後、電話と郵便で手続きが進められ、パパは、東京から送られてきた書類をみて
「事務所との契約は10年間もある。
いま14歳だから24歳まで辞められない。
これだけ長く拘束されるのは大変だぞ。
辞めたくなっても辞められんぞ。
それでもええのか」
「最高じゃん。
長く雇ってもらえるなんて、むしろありがたい。
絶対やりたい」
サンミュージックと契約を結んで1ヵ月も経たないうちに最初の仕事(テレビドラマ出演)が決まり、中学卒業を待たずに12月8日に上京。
高校卒業までは社長宅に下宿させるのが事務所の方針だったが、3つの下宿部屋が埋まっていたため、酒井法子は、社長宅から徒歩で3分のアパートの2DKの部屋で社長宅のお手伝いさんと2人暮らしすることになった。
食事は社長宅にいって6人掛けのテーブルに社長夫婦や先輩タレントと並んで座り、お手伝いさんがつくった大皿のおかず、ご飯、みそ汁を食べた。
夕食後はお風呂に入り、お手伝いさんは仕事があるために残り、1人で賑やかな社長宅を出てトボトボとアパートへ戻り、朝起きると、社長宅にいき、シャワーを浴び、食事をしてからバスに乗って中学校に通った。
最初の仕事は、渡辺徹&明石家さんま主演の人情コメディーテレビドラマ「春風一番!」
梅宮辰夫、菅井きん、松原智恵子、大場久美子、松本伊代、大西結花らとも共演して感動。
渡辺徹に
「下手でもいいからお腹の底から声を出して」
と教えてもらった人生初のセリフは
「トイレ、トイレ」
ドラマは1986年1月11日~3月29日まで全12話放送され、学校に通いながらの撮影に現場でうたた寝をしてしまい、叩き起こされたり、芝居経験ゼロの酒井法子は、何度もやり直しとダメ出しをもらい、何度も逃げ出したい気持ちになった。
春になると先輩タレントが高校を卒業し、社長宅の6畳の部屋に引っ越し。
堀越高校に入学し、通勤ラッシュの満員電車を初体験。
背の低い酒井法子は人と人の間に挟まれて知らない人の背中をみながら息をして、
「東京で生きるのは大変だ」
と思った。
堀越高校芸能コースは、仕事と勉強の両立を目指し、仕事があるときは早退や欠席を認める一方、教師が放課後、居残り授業を行うこともあった。
テストは普通に行われるため、酒井法子は徹夜で勉強したこともあった。
サンミュージックの事務所は、5階が1軍のアイドルやタレント、4階は2軍となっていた。
4階所属の酒井法子は、5階を目指し、学校が終わった後、週数回、サンミュージックの事務所で、芝居、歌、踊りのレッスンを受け、家に帰ると縄跳びをして、腹筋と背筋の筋力トレーニングをして、風呂では何曲かメドレーを歌った。
「アイドルという夢が叶いかけている。
そう思うだけで気持ちがいっぱいになった。
どうしたらデビューさせてもらえるか、どうしたらもっと魅力的になれるか、そのことばかり必死に考えていた」
サンミュージックはデビューに向けて準備を進め、酒井法子は芸名を持つことに憧れていたが、
「親がつけた名前が1番強い」
と本名でいくことが決定。
中学校のソフトボール時代、
「うれピー」
「たのピー」
など
「ピー」
をつけて話すことが流行り、それからもずっと話していたため、ニックネームは
「のりピー」
になった。
酒井法子は、地味な本名を名乗ることも、のりピーというニックネームも、ずっと憧れていたアイドル、松田聖子のイメージから
「かけ離れている」
と思った。
「アイドルの王道とは違う変化球を1つ1つ投げ込んでいくことで存在感を出す」
というのがサンミュージックの戦略で、正統派のアイドルが歌や容姿など直球で勝負するのに対し、酒井法子は変化球を投げることを求められ、斬新で突拍子のないアイデアを実践していった。
一方、福岡の両親は、山梨県のお母さんの実家の近くに引っ越し。
パパは、酒井法子の仕事に影響を与えないように稼業を引退し、お母さんの親戚の商売を手伝った。
1986年11月、映像ソフト「YUPPIE」が発売。
エイリアンハンターが怪獣をやっつけるという特撮ものだったが、何か異色で前例のない方法で酒井法子の売り出しを模索していてサンミュージックは、世界初のVHD(日本ビクターが開発したレコード盤形状のビデオディスク規格)で発売。
1987年2月5日、歌詞に「ピー」「ピー」を多用した、
「男のコになりたい」
でレコードデビュー。
9日後、16歳の誕生日に後楽園ホールでファンの集いを開催。
普段、ボクシングやプロレスが行われる会場で、スタッフに騎馬戦のように担がれて入場。
白いミニドレス姿でリングに上がり、デビュー曲を歌った。
「ファンなんて多くいないだろうと思っていたのに、会場がいっぱいになるほど人があふれていて、親衛隊のような人たちにも初めて会った」
「レコードを出せば自然と売れていって、すぐにスポットライトを浴びてどこへいってもキャーッと騒がれる」
と思っていたが、実際はマネージャーと2人で全国を回り、テレビやラジオ、スーパーや動物園のイベントまで様々な仕事場で
「やっピー」
と叫んだ。
休日のショッピングモールで買い物客の前で歌っていたとき、男の子に
「バーカ」
といわれて泣いてしまい、舞台を降りた後、マネージャーに
「プロなんだからそんなことで泣かないでよ」
と叱られ、
(バカっていわれてもニコニコしないといけないなんて!)
と衝撃を受けたが、
「のりピーのイメージは、いつも元気で明るくキャピキャピしている女の子だ」
と自分にいい聞かせ、ステージでは常に笑顔に。
「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」などの歌番組にも出演するようになったが、視聴者の投票によるランキング形式なので何週も続けて出させてもらえる保証はなく、
「もっと上位に行きたい」
という願いと
「今日で終わりかもしれない」
という緊張感の中、必死に歌い、毎週ハラハラと結果を待ち、ランキング外に落ちると泣いた。
番組出演時には歌手やアイドルを間近で眺めることができ、1人1人に強い個性と輝きを感じたが、特に印象的だったのは工藤静香。
ステージで花を髪につけて歌った工藤静香は、楽屋に戻ると、それをとって、
「ありがとうね」
といってキス。
酒井法子は、
「人がみえないところでキレイな心を持っているから輝いていられるのかもしれない」
と思った。
酒井法子は、「のりピー」として世間に浸透。
大きく貢献したのは「のりピー語」だった。
酒井法子は自らを「のりピー」と名乗り、あいさつ代わりの「やっピー」や「マンモスうれピー(とてもうれしい)」などの「のりピー語」で話し、これが流行。
のりピー語について、
「中学校のときから「いただきマンモス」とかいってたんですよ。
私がつくったというより、なんととなくみんなでいっていたと思う。
そのときにちょうどサンプラザ中野さん「ちゃんちゃらおかP音頭」という歌(1985年、酒井法子が14歳のときに発売)があっておもしろ~とか思ってうれピーとかたのピーとかいってて」
というが、以下のようなものがある。
------------------------------
あ行
あかピー 明るい
あたくピ 私、(類似語:あたピ・わたピ・わたくピ)
ありんこ ほんの少し(反対語:マンモス)
あっしねー 明日会おうね
いくピー 行くぞー
いきまろ いきなり
いただきマンモス いただきます
いっぴょ 一緒
美ピー 美しい(類似語:プリピー・めんこらピー)
うっピー 嘘
うれピー うれしい(「うれし」だと「うれピ」となる)
えっピ エッチ
おいピー 美味しい
お元ピ? お元気?
おちゃっピー おっしゃれ
おちゃピー お茶をする、休む
オッチョロピー 恐ろしい
おめでたマンモス おめでとう
おれっピ オレ
か行
かっちょピー カッコイイ!
かなピー 悲しい
がんばらんち 頑張る、頑張って
ぎゃっピー うるさい・騒々しい
きょっきー 今日も元気?
ぐちゅピー カゼひいちゃった
くやピー 悔しい
くろまピー まっ黒
コケコッピー起きろ
ごちそうサマンサ ごちそうさま
さ行
さめプー 上手
しちくれる? してくれる?
しぶピー しぶい
しゃペピー おしゃべり
スウィート・やっピー 愛してます
すかんピー キライ
スタピー 勉強
すっからピー すばらしい
ステチ 素敵、ステピーではない
セミラッチー 少しラッキー
た行
たのピー 楽しい
ちゃっピー 助かっちゃった
ちゃらピー 帳消し
ちょろっとまっピー ちょっと待って
ちんぷんかんピー わからない
てれピまん テレてしまう
とーっぴ 取った
とっちくれる? 取ってくれる?
ドッカンピー とんでもないことをいうときに使う
な行
ナイス・トゥー・ミート・ユー あなたに会えてウレシイ
ナンジャラピー なに?
なんまんピー かわいそう(お経のナンマンダブより)
ニュッピー 新しい
ねぶピー 眠い
のりピー 酒井法子
は行
バイピー さようなら
はずかピー 恥ずかしい
はなピ 話(同義語:おはなピ)
ばばピー 大きい
バピポイ かしこい
はらへっピ 空腹
ピンピー ショッピング
ファーストやっピー おはよう
プリピー かわいい
ぶるっピ 寒い
ペコペコマンモス 本当にごめんなさい、あるいはかなり空腹
へたっピ 下手
ヘルチィー 体にいいこと
ほピー 欲しい
ま行
まっちぴり 待ってくれ
マンモスダウン 絶不調
マンモスラッチー すごくラッキー
マンモスリッチー お金持ち
めんこらピー かわいい(同義語:プリピー)
モテピー モテる
や行
やさピー 優しい
やっピー こんにちは
やらぴぃ イヤらしい
やりピー やったー
やるぴっ やるぞ
よろぴく よろしく
ら行
ラッチー ラッキー、ラッピーではない
わ行
忘れちゃっピッピー 忘れちゃった
わたくピ 私
わたピ 私
われっピー 片想い
ん行
んじゃピー さようなら(同義語:バイピー)
------------------------------
ちなみに「ゴジラパワー」は、ファンの協力を意味する。
のりピー語が話題となるとグッズも売り出され、グッズ販売店「のりピーハウス」までオープン。
のりピーハウスは数を増やし、夏限定で富士山の8合目にも出店。
デビューから1年の間に、4枚のシングルと2枚のアルバムが発売され、3枚目のシングル「ノ・レ・な・いTeen-age」は日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞を受賞。
4枚目の「夢冒険」は、NHK「アニメ三銃士」の主題歌になり、1988年のセンバツ高校野球の入場行進曲にも採用された。
アルバムを出した後は、ツアーやコンサートが中心となり、全国各地を飛び回った。
初めての海外は、ハワイ。
CMや写真集の撮影を行いつつ、
「ハンバーガーがえらく大きくて驚いた」
ロンドンでは2階建てバスの上で歌ったり、10㎝以上のもある巨大キノコのソテーを食べ、イタリアのローマ、フランスのパリやニースにも仕事で訪れ、17歳の酒井法子は普通の高校生では味わえないような体験をいくつもした。
高校卒業と同時に社長宅を出て1人暮らしを始めることになったが、慣れるまでお母さんが山梨から上京し、しばらく一緒に住むことになった。
お母さんは、掃除、洗濯、食事づくりなど家事を行い、楽屋に弁当を届け、マドレーヌやチーズケーキを焼いて仕事場に配ることもあった。
1989年5月17日、お母さんと暮らし始めて1ヵ月後、仕事場にいた酒井法子は、
「お父さんが事故に遭った」
と聞かされた。
パパは、山梨県大月市の中央自動車道で車を運転していて中央分離帯のコンクリート壁に激突。
車内には酒井法子のカセットテープが19本もあった。
酒井法子とお母さんは事故から5時間後、病院に到着。
パパは瀕死の状態で、日付が変わった数時間後、2人が見守る前で息を引き取った。
14歳で上京し、高校を卒業するまで「のりピー」のキャラクターと「のりピー語」を前面に押し出して成功。
18歳になると女子中学生のようなキャラクターを演じることに違和感を感じ始め、
「もっとキレイになりたい」
「しっとりとしたバラードも歌ってみたい」
「シリアルなドラマに出てみたい」
「髪の毛を伸ばして大人っぽいドレスを着るような仕事もしてみたい」
と思うようになり、周囲もリクエストに応えて仕事を用意したが、のりピーに比べてインパクトがなく、まったく目立たなかった。
変わりたいのに変われず、自分らしさについて悩み続けながら仕事を続け、22歳で「ひとつ屋根の下」に出演。
アイドルから本格的な女優に挑戦は、思い切って出演を決めたものの演技に自信がなく、プレッシャーで記者会見の3日前くらいから発熱し寝込んでしまう。
「ひとつ屋根の下」は、両親と死別後、生き別れになっていた柏木家の兄妹たちが、長男の達也(江口洋介)の呼びかけで共同生活を始め、絆を取り戻していくホームドラマ。
「あんちゃん」こと長男・達也(江口洋介)は、実業団のマラソン選手として活躍していたがケガで引退してクリーニング店を営み、情にもろいお調子者。
「チイ兄ちゃん」こと次男・雅也(福山雅治)は、クールな医学生。
三男・和也(いしだ壱成)は、荒れた10代を過ごし、傷害事件で少年鑑別所に収容された。
四男・文也(山本耕史)は、両親と死別後に事故に遭って車椅子生活。
次女・小梅(大路恵美)は、里親の元でイジメられ塞ぎ込んでいたが、兄弟と再会後、徐々に本来の明るさを取り戻していくが、誕生日にレイプ被害に遭ってしまう。
酒井法子は、長女・小雪役で出演。
6人の兄弟が身を寄せ合って生活する家でお母さんと姉の2役を担い、エプロン姿で家事を切り盛りする健気な小雪は、自分1人だけが本当の兄弟ではないという負い目と、長男・達也への恋心を密かに抱えながら、次男・雅也から求愛される。
人気脚本家の野島伸司が手掛け、「月9ドラマといえば恋愛もの」という常識を覆した「ひとつ屋根の下」は、平均28.2%、最高37.8%という視聴率を記録する大ヒット。
「本当にたくさんの人が観ていた。
のりピーを知っていた人も知らなかった人も、好きな人も嫌いな人もみていた。
そこで私が演じたのは、ずっと求められてきたのりピーではなく、酒井法子とほぼ同年代の柏木小雪だった。
それは大きな出来事だった。
のりピーが年月と共に大人になって実年齢と変わらないタレントになっている
ドラマが多くの人に愛されたおかげで大人になった酒井法子が初めて受け入れてもらえた。そんな気がしていた」
酒井法子は、これ以降、実年齢なりの仕事がくるようになった。
「ひとつ屋根の下」の脚本家、野島伸司は、大学1年生のときに渡米し、帰国後、大学を中退して、飲食店、肉体労働、テレビ局フロアディレクターなどいろいろなアルバイトをした。
「大学もやめてましたし何でもよかったんだとは思いますが、目立とうとしたわけでもないんです。
テレビもほとんどみていないし、物書きになりたかったわけでもないし、割と行き当たりばったりのバイトをしていたりしたので・・・
自分のよって立つもの、アイデンティティーが欲しかったというのは、やっぱり強かったんですけど・・・」
アルバイトをしながらシナリオスクール「東京山手YMCA」の9期研修科に入り、脚本家の伴一彦に師事。
翌年、バイトの帰りに偶然、公募雑誌でシナリオを募集しているのを見つけ、初めてワープロで書いた「時には母のない子のように」が「フジテレビヤングシナリオ大賞」を受賞。
「時には母のない子のように」でデビューし、同年、連続ドラマ「君が嘘をついた」が平均視聴率17.3%いう高視聴率を記録。
その後も、1989年「愛しあってるかい!」、1990年「すてきな片想い」、1991年「101回目のプロポーズ」、1992年「愛という名のもとに」、1993年「高校教師」、そして「ひとつ屋根の下」とコミカルなものから社会の闇やタブーを描いたものまで幅広い作品を世に送り、社会現象を巻き起こした。
酒井法子にとって野島伸司は8歳上。
30歳にして橋田寿賀子ら大御所と肩を並べる、飛ぶ鳥を落とす勢いの野島伸司に、
「すごい人だ」
と憧れた。
はじめは大きな尊敬の気持ちから始まったが、酒井法子は自分の話をジックリと聞いて、真剣に話す野島伸司に心を奪われていき、仕事の合間に弁当を作って差し入れるようになった。
そして「ひとつ屋根の下」の撮影が終わる頃には、かなりのプレイボーイで知られていた野島伸司と付き合うようにになった。
芸能界に入って以来、
「アイドルだから・・」
という暗黙のルールはたくさんあったが、特に男子と遊ぶことはご法度。
1度だけ気になっていた相手から食事に誘われてマネージャーに
「いってきていいですか?」
と相談し
「ダメ」
といわれた酒井法子は、恋愛経験ゼロだった。
1993年秋、写真週刊誌が野島伸司のマンションに出入りする酒井法子をスクープ。
22歳にして初の恋愛スキャンダルだったが、すぐに記者会見を行い、
「今いちばん大切な人。
胸を張ってお付き合いしているといえる方です」
と交際を認め、
『結婚は?』
と聞かれると
「具体的には考えていません」
と答えた。
酒井法子は野島伸司のマンションで暮らし、キャップにTシャツ、短パンにサンダルというラフなスタイルでマンションを出て、野島伸司のためにタバコやジュースを買いに行くなど、まるで妻のように尽くす日々を過ごした。
酒井法子は自らの尽くす性格について
「愛されたいという気持ちは小さい頃からずっと持っている。
愛されたくて相手が何を喜ぶのか、いつも一生懸命考えてた。
アイドルやタレントして突っ走ってこれたのも自分が愛されたいと思っていたからだと思う」
といっている。
1995年4~7月、ドラマ「星の金貨」で、酒井法子は、耳と口が不自由な倉本彩を演じた。
彩と結婚の約束をしていながら記憶喪失に陥ってしまうエリート医師、秀一(大沢たかお)
異母兄である秀一への一途な愛を知りつつ彩を思い続ける拓巳(竹野内豊)
酒井法子は、記憶をなくしてしまった男との純愛を大熱演。
初回、7.2%だった視聴率は、最終回には23.9%と3.32倍に。
3倍以上を記録したのは「熱中時代」(1978年、12.2%から40.0%、3.28倍)以来で、上昇率では過去最高となり、連続テレビドラマの奇跡といわれた。
「ひとつ屋根の下」の小雪、「星の金貨」の彩と薄幸の美少女役が続き、それがハマった酒井法子は、「星の金貨」の主題歌の「碧いうさぎ」が自身初のミリオンセラーとなり、日本レコード大賞で優秀作品賞を受賞、
初めて紅白歌合戦に出場し、憧れの松田聖子と同じ舞台に立ち、上京して10年、24歳の酒井法子は感無量だった。
1997年3月、「ひとつ屋根の下2」の制作発表会見で、
『脚本は野島伸司さんですが、何かアドバイスは受けてますか?』
という質問が出ると
「すみません。
その質問はやめてください」
と関係者が制した。
酒井法子は野島伸司と2年間、同棲中で
「結婚間近」
「このドラマが独身最後」
と噂されており、
『結婚したら子供は欲しいですか?』
という質問には、
「子供?
ウ~ン、どっかからポンと生まれてくるのならいいけど、自分では生むのは・・・」
とトボけた。
そして5ヵ月後、プレイボーイの野島伸司に対する不信感から酒井法子の方から同棲を解消し、関係に終止符を打った。
「以前は仕事ばかりしていても幸せだったのに、気持ちが仕事以外にも向くようになった。
新しい現場に入っても不安や緊張は薄れた。
現場の空気に慣れて気持ちに余裕ができたことで逆に心のバランスを崩していった。
仕事も、恋愛も、生活も全部好きで頑張ったけど、ちょっと欲張りすぎたのかもしれない」
という酒井法子。
一方、野島伸司は、その後も遠山景織子、桜井幸子、安倍なつみと噂となり、「主演女優キラー」と呼ばれた。
2年ぶりに独りになった酒井法子は、1人の時間を楽しんだり、友人と食事や旅行に出かけた。
そして友人に誘われて海でボディボードを始めた。
「アイドルだった頃は、ハワイに行っても写真やCMを撮るだけで、日焼け厳禁だったから海に入らないで帰ってきた。
スキューバーダイビングの経験はあったけど波の上に乗ったことはなかった」
という酒井法子は海で自然を満喫。
房総の海にいったとき、危なくないようにとボディボードを教えてくれるプロのサーファーを紹介された。
それが高相祐一だった。
酒井法子より3歳上で、実家は東京、青山で「スキーショップJIRO」を営み、高校時代、お手伝いさんがいる実家から千葉県浦安市の東京学館浦安高校までタクシー通うこともあったという。
「それまで恋愛してきた男性とまったく異なるタイプで、そもそもサーファーと呼ばれる人と親しくなる自体初めてだった。
彼は波を求め、国内外を目まぐるしく移動していて、東京にいるときも道路をスケートボードで移動している。
60年代や70年代の洋楽が好きで、レコードショップで宝物を探すように1枚ずつチェックしていた。
少年みたいで、いつも遊び心を持っていて、何にも縛られない自由な雰囲気を漂わせ、どこで何をしているのかわからない、謎めいたところも魅力的に映った」
酒井法子は、それまで聴いたことがなかった音楽をたくさん教えてもらい、夜はクラブで行われるイベントに連れて行ってもらった。
「行ったこともみたこともない世界で、ドキドキしながら地下の店に続く階段を下りていった」
いい波があれば、すぐに海外に出かけてしまう高相祐一に対し、酒井法子は結婚を意識していなかったが、妊娠。
「あのね、赤ちゃんができたの」
というと高相祐一は思いっきり喜び
「結婚しよう」
2人で手を取り合って喜んだものの、翌日から酒井法子は悩んだ。
結婚するとなれば公表しなければならないが、世間からみれば物事の順番が違い、清純派としては仕事にどんな影響が出るかわからない。
なかなか決心できないでいたが、友人に、
「1つの命を絶って、その後の人生を生きるのか、この命を産んで育てる人生を選ぶか。
どっちがいいの?」
といわれ、迷いが消えた。
まずお母さんの家へいき、そこで初めてつき合っていることと妊娠したことを同時に報告。
お母さんは、高相祐一を玄関から上げず、酒井法子を激しく叱った。
それから3日間、酒井法子はお母さんの家に通ってケンカを続けた。
その間、高相祐一は車の中で待っていたが、3日目の夜中、ようやく家に上げてもらって挨拶をした。
頭を下げて結婚の許しを求め、お母さんは渋々承諾。
サンミュージックも結婚に反対し、
「酒井法子と生まれてくる子供のために」
と受け入れるのに1ヵ月間かかった。
それから仕事の調整に入り、ミュージカルやコンサートが中止になり、酒井法子は、高相祐一の両親にも挨拶を済ませ、1年の最後の仕事を終えた翌日、1998年12月28日に2人で婚姻届けを提出。
その足で記者会見に臨み、入籍したことと妊娠していることを報告。
野島伸司と別れて1年後のサーファーとのできちゃった婚に世間は驚いた。
酒井法子は、しばらく仕事を続け、お腹が膨らんでくると産休に入り、1999年4月、ハワイへ移動し、5月に結婚式を行い、7月17日、男の子を出産した。
1999年秋、ハワイから帰国した酒井法子は、2000年から仕事に復帰。
子供を自分のお母さんや夫の両親に預けながら、CMやドラマに出演し、CDをリリースし、日本と香港でコンサート。
2001年、復帰2年目は仕事の量をセーブし、家族3人、夏は誰も知らないような小さな砂浜に通い、冬は山で雪と戯れ、長い休暇が取れると旅行に出かけた。
ドラマで母親役が増え、子育ても仕事を頑張っているママとしての仕事が多くなった。
公的なイベントへの起用も多く、最高裁判所が制作した裁判員制度のPR映画にも出演。
国民的女優になりつつあった酒井法子は、結婚記念に左手小指に高相祐一とお揃いのタトゥーを入れていたが、仕事のときはファンデーションや指輪で隠し、プライベートと仕事で異なる面を持つことにかっこよさを感じた。
2003年、自分と同じヤングミセスをターゲットにしたファッションブランド「PP rikorino(ピーピーリコリノ)」が全国約100店の商業施設と中国や台湾でも販売を開始。
3歳まで自宅で育った息子が幼稚園に入園し、酒井法子は、初めてママ友ができた。
そんなある日、世田谷のマンションの居間の戸を開けると、隠れるように何かをしている高相祐一がいて、
「何やってるの?」
と聞くと
「気持ちがスッキリするものだよ。
やってみる?」
高相祐一がガラスパイプの中に入った白い結晶をライターであぶると白い煙が出て、酒井法子は、いわれるがままにタバコを吸うようにスッと吸い込んだ。
これが人生の分かれ道となった。
「わたしが偶然見つけ、居心地の悪い夫が勧めてきた。
あのとき拒絶できていれば本当に良かった。
あんな場面、見つけなければよかったし、勧めてほしくなかったし、勧められても断固拒否するべきだった。
本当にそう思う。
なぜやめてといえなかったのだろう。
なぜ拒絶できなかったのだろう。
ずっと後悔している。
それでも勧められて吸ってみようと決めて実際に煙を吸ったのはわたし。
その事実は変わらない。
不安もあったけど好奇心もあったし、1度くらいという気持ちもあった。
2人だけの秘密だから大丈夫。
そう安易に思っていた。
悪いのは吸うと決めたわたし自身。
その事実は揺るがない」
子供が小学校に入学する前に青山のマンションへ引っ越し。
息子が地元の小学校に通い出すと酒井法子は、PTAの役員に立候補。
運動会などの学校行事だけでなく、息子の友達の誕生日会を開くなど夢中で頑張った。
一方、夫婦仲は悪化。
次第に衝突することが増え、
「距離を置こう」
ということになり、平日、高相祐一が房総半島の別荘で過ごし、週末だけ東京か千葉で家族で合流した。
酒井法子は別荘に行くと掃除などをしたが、高相祐一の浮気を疑って携帯をチェック。
あるとき女性の痕跡があったため、問い詰めると
「お茶をしただけ」
といわれ、さらに激怒。
別居してもケンカと仲直りを繰り返した。
「わたしたちはまったく異なる背景を持った人間同士が結婚した。
お互い知らないことや触ったことのないものをたくさん持っていて、それが魅力的で楽しく、カップルとして成り立つ原動力になった。
でも夫婦や家族の生活を維持するのは、それだけでは成り立たないことがいっぱいあった」
2008年3月12日、ライブにゲスト出演した酒井法子の足首に太陽と梵字のタトゥーがあり、清純派のイメージとかけ離れていたため、わざわざスポーツ新聞に報じられた。
2008年6月、酒井法子が別れ話を切り出したとき、高相祐一は
「これでスッキリするから」
といって薬物を差し出し、酒井法子は半ばヤケになって手を伸ばし、人生2度目、3年ぶりの使用。
以後、1年以上の間、月1、2回のペースで使うようになった。
誰から買ってくるのか聞くこともなく、知ることもなかったが、仕事や家事で疲れていると高相祐一がアルミホイルに乗せたりガラスパイプに入れてセットしてくれた。
高相祐一は、酒井法子が使い過ぎたり、使い方を間違えないようにないように注意した。
「何か頑張ったご褒美に、ちょっとやっちゃおうと息抜きのように使うこともあった。
使い終わったカスを取っておいて夫がいないときに使うこともあった。
薬物を吸引するとドップリとたまっていた疲れが消えていくような錯覚に陥る。
目が冴えて物事に集中できる。
そんな風に感じてた。
いろんな悩みがスッと消えて1つのことに夢中でのめりこむことができる。
ロボットのように機械的で何時間でも動ける人間になれた。
どれだけ行動力が上がったかで薬物に価値を見出せると思い込んでいた。
わたしの場合は夢中で家事をやった。
さっきまでくたびれていたのがウソのように体が動いた。
貯めこんでいた洗濯物を一気に洗って片づけられ、散らかっていた部屋の掃除を集中して何時間でも続けることができた。
夫は気に入っている音楽に聴き入り、本や写真集を夢中になって読み漁った。
夫婦は互いに干渉しなくなり、それぞれの世界に没頭した。
でも実際は、いいことなんて何もなかった。
一晩中起きていられるから限られている時間が増えたような気になるけど、ずっと起きてるだけ疲れもしっかり蓄積されていく。
薬物を吸引した日は徹夜できても次の日は思い切りダルくなっている。
眠たくなって寝てしまい、グッタリとした日が4日も5日も続くことになる」
息子には絶対に知られないように気をつけたが、寝坊して朝食がつくれなかったり、学校に遅刻させたりしてしまうこともあった。
そして悪かった夫婦仲は、さらに悪化した。
2人で何度も
「もうやめよう」
といい合い、薬物をトイレに流したこともあったが、やめることはできなかった。
2009年2月、酒井法子が薬物が蔓延しているクラブに出入りしているという情報をキャッチした週刊誌が、サンミュージックに問い合わせ。
マネージャーに
「まさかとは思うけど・・・・」
と薬物使用について聞かれた酒井法子は、
「子供がいるんだからそんなことするはずないでしょ」
5ヵ月後の2009年7月、家族旅行で奄美大島へ。
日本では46年ぶりの皆既日食をみるのをメインに、ホテルやテントを泊まり歩き、ビーチで日食を眺めて海へ潜り、10日間ほど滞在。
旅行の最終日である2009年7月30日、午前中、家族3人でホテル近くの海に出かけ、夫はサーフィン、酒井法子と息子はシュノーケリングを楽しんだ。
昼にホテルに戻ると夫が息子に気づかれないように指と目でバスルームの方を指し、
「置いてあるから吸っていいよ」
といってから息子と一緒に大浴場へ。
酒井法子がバスルームに入ると化粧ポーチで隠すようにアルミホイルに包まれたガラスパイプが置いてあった。
中に白い結晶が残っていて、一部が溶けていたので夫の吸い残りだとわかった。
酒井法子はガラスパイプの下からライターの火であぶって、挿し口から出てくる煙を体内に入れた。
そして元の場所に戻して、1人で大衆浴場へ。
戻ってきたとき、ガラスパイプはバスルームからなくなっていた。
それから荷物をまとめて、チェックアウトした。
3日後の2009年8月2日、息子が夏休みのキャンプから帰ってきたが、渋滞で学校への迎えが遅れた酒井法子は、同じ小学校のママ友に息子を預かってもらい、1度自宅に帰り、高相祐一に
「今日は少し遅くなる」
といって外出。
21時、ママ友の家の到着。
23時過ぎ、ママ友とシャンパンを飲んでいると高相祐一から着信が入り、切迫した声で
「今、警察の職務質問を受けている。
なかなかお巡りさんが帰してくれない。
どうしよう」
といわれ、酒井法子はママ友に聞かれないように、
「ちょっと出てくるね」
といって外へ。
改めて事情を聞くと
「渋谷で職務質問を受けてるんだけど、なかなか帰してもらえないんだ。
法子に来てもらいたいんだけど」
酒井法子は、
(渋谷までそう遠くない。
すぐに行かなくちゃ)
ととっさに動き出し、ママ友には何もいわずにタクシーを拾った。
「まさか戻ってこれなくなるなんて夢にも思わなかった。
まして自分の体内に残る薬物のことなど頭をよぎることもなかった」
「大事にならならないように収めないと・・・」
渋谷駅近くの繁華街でタクシーを降り、そこから何度も高相祐一に電話をかけて居場所を聞き直し、初めていくような路地裏で目印を探しながら近づいていった。
途中、高相祐一は
「建設会社の会長に連絡を取ろう」
といった。
それはお母さん母が数十年間、世話になっている人で高相祐一も何度か会ったことがあり、会長の兄は、元弁護士で70歳を過ぎた会長も法律に詳しかった。
酒井法子は
(確かにあの人の助けが必要かもしれない)
と思った。
しかしこのとき酒井法子が持っていた携帯電話は、息子のものだった。
自分の携帯電話は2ヵ月ほど前に液晶が壊れて文字が読めなくなったので、息子の携帯に自分の携帯のチップを差し込んで使っていた。
しかし慣れないせいで誤操作により、アドレス帳をすべて消去してしまい、入っているのは家族と数人の電話番号だけ。
会長の連絡先を知るため、酒井法子はお母さんに電話。
深夜の電話に心配するお母さんに、
「後でちゃんと説明するから、とにかく教えて」
といって教えてもらい、
「今夜は遅いからかけるのは明日にしてね」
といわれたが、すぐに教えてもらった電話番号にかけた。
会長の携帯は、1度目は留守番電話になったが、2度目につながり、事情を説明された会長は、
「まず落ち着くように」
といい、深夜にも関わらず、
「すぐに渋谷までいく」
といった。
夫が職務質問を受けている現場に着くと制服姿の警察官が取り囲まれた高相祐一がいて、ズボンの中にある巾着袋をみせるように求められて、
「なんでそこまでみせないといけないんですか」
「下半身の薬が入っているから恥ずかしい」
などといって拒んでいた。
そして酒井法子が近づくと顔を寄せてきて警察に聞こえないように
「ごめんね」
といった。
その瞬間、酒井法子の中に恐怖が走った。
(覚せい剤を持っているの?!)
(ここで夫が逮捕されるようなことがあれば、私の人生にとって、そして息子にとっても、どれだけ大きな影響をもたらしかねない)
そして
(何とか防がなければならない!)
(何とか連れて帰らないと!)
と思い、警察官に冷静を装って
「私がちゃんと身柄を預かりますから、今日は帰していただけませんか?」
と訴えながら、心の中では
(この場をしのげるならもう2度と薬物はしないから、お願い)
と必死に願ったが、当然、警察は見逃してくれない。
酒井法子が現場についてから数十分後、会長が運転手つきの車で到着。
会長は、完全に冷静さを失っている酒井法子を周囲の視線から隠すように車の中へ。
会長は外に出ていった後、酒井法子は車中で祈っていたが、やがて戻ってきた会長は飄々といった。
「彼は覚醒剤を持っていて捕まっちゃったよ」
(やっぱり持ってたんだ!
あれだけ薬物の取り扱いには慎重にしようといってたのに)
酒井法子は、深刻な事態に、これからどうなるのか、どうしたらいいのか、体の中が不安だらけになり、真っ先に息子の顔が思い浮かび、続いて仕事のことを考えた。
色々な思いが頭の中に浮かぶが整理はまったくできず、恐怖と不安でパニック状態。
警察官に署に立ち寄るよういわれ、会長の車は渋谷警察の向かって走り出した。
車の中で会長に
「まさか君もやってないだろうね?」
と聞かれたが、酒井法子はとても本当のことはいえず、代わりに
「子供を友達に預けてるから迎えにいってもいいでしょうか」
会長は連絡先を書いたメモを渡し、後で携帯に電話するようにいった。
酒井法子は、109近くの路上で降ろしてもらい、タクシーを拾った。
息子の携帯は居場所を知られないよう電源を切り、まず息子を迎えに行くことも考えたが、迷った末に自宅マンションに向かった。
青山のマンションについたとき、すでに日付は変わっていた。
2009年8月3日午前1時過ぎ、自宅の部屋に入った酒井法子は、ただただこの現実から逃れたい一心で目に入った手提げかばんに衣類を押し込み、
「いつ騒ぎになるかわからない」
という刃を突きつけられるような切迫感に苦しみながら、20分もいられずに、カバンをつかんで部屋を出て、すぐにエレベーターの乗って外へ。
「今思えば、まず息子に会いに行くべきだった。
何が起きたのかきちんと説明して、それから警察に出頭するべきだった。
大人としては母親として社会人として、そう行動するべきだった。
でもできなかった。
そのことをずっと悔やんでいる」
マンションの近くでタクシーを拾うと、最初は東京駅へ向かったが、途中、息子の顔が浮かび、息子のいる渋谷方面へ行き先を変更。
その途中で
「もう寝ているだろうし、こんな遅い時間に友人の家を訪ねるのは迷惑だな」
と考え、
「落ち着いた場所で、これからのことを考えないと」
とホテルを見つけやすい新宿に向かった。
歌舞伎町近くでタクシーを降り、大通りの交差点近くのホテルが目に入り、フロントで1万円を払ってチェックイン。
部屋に入ると会長に連絡しようとしたが、部屋の電話は内線専用。
息子の携帯電話の電源を入れるのはこわいので、
「公衆電話を見つけるか、新しい携帯を買おう」
と荷物を持って外へ。
息子の携帯は、チップを抜き出した後、2つに折ってコンビニのゴミ箱に捨てた。
フラフラ歩いているとドン・キホーテを発見。
しかし店員に聞いてみると電話会社の都合で深夜は携帯電話は買えないという。
ドン・キホーテにあったATMから10万円を引き出し、衣類や飲み物を買い、店を出てと公衆電話を探したが見つからず、新宿でタクシーを拾って、四谷のサンミュージックの近くで降車。
救いを求めたいが、どうやって説明したらいいかわからないし、マネージャーや事務所の電話番号どころか、携帯すらない。
当てもなくさまよっていると事務所の近くの公園で公衆電話を発見。
急いで会長の携帯に電話をかけると
「外をフラフラしてたら目立っちゃうよ。
あまり外を歩くのはよくないな。
ホテルとか、どこか落ち着いた場所に入った方がいい」
といわれた。
そして息子と一緒に東京を離れようということになった。
新宿のホテルを出て、すでに数時間経っており、辺りは明るくなっていた。
「月曜日の早朝、もうじきサラリーマンが歩き始める時間。
新しい1日が始まろうとしていた」
「どこかホテルのある場所に行こう。
丸の内ならホテルが見つかるかもしれない」
と四谷からタクシーに乗って有楽町の東京国際フォーラムまで走り、近くにあったコンビニで飲み物や食べ物を買い、再びATMで数十万円を引き出した。
そして再びタクシーを拾って、運転手に
「近くのホテルを教えてください」
と頼むと銀座のホテルに案内され、1万5千円を払ってチェックイン。
不安は大きく膨らむばかりだったが、朝10時、息子を預けているママ友に電話。
すると留守番電話になったので
「お昼ごろには戻れると思う」
と吹き込んだ。
そのとき子供の顔を浮かび、原宿のおもちゃ屋に行く約束をしていたことを思い出した。
お昼近くに2度目の電話をするとママ友が出たので、まず謝った後、
「ちょっと大変なことになっちゃって戻れそうにない。
本当にごめん。
しばらく預かってもらえないかな」
と頼んだ。
ママ友は冗談っぽく
「1週間?
1ヵ月?
9月になったらランドセルが必要になるよ」
酒井法子はマジメに
「1週間くらいだと思う」
といった。
「わかった」
とママ友は一言で了解。
事情は何も聞かずに電話を切った。
その後、酒井法子は、会長に電話。
あまりの憔悴ぶりに会長は運転手に銀座まで迎えに行くようにいった。
14時、酒井法子はホテルを出て、迎えの車に乗った。
車は西新宿の十二社通りで停車。
そこで待っているうちに夕方になり、会長の指示でやってきたお母さんが後部座席、酒井法子の隣に座った。
5月の子供の運動会以来、約2ヵ月ぶりの再会。
母親は肺ガンを患っていて、この日の朝、入院の手続きをしていて、本当なら病院おベッドの上で休んでいる時間だった。
「お母さん、ごめんね」
「何があったの。
泣いてないで説明しなさい」
「わたしのせいで、こんなことになっちゃった。
昨夜、死のうと思ったけど死ねなかった」
「あなたが死んだら子供はどうするの。
しっかりしなくちゃダメじゃない」
人知れないところで落ち着かせようという会長の配慮で、車は山梨へ向かった。
山梨には1人暮らしをしている伯母(母の姉)がいて、母が
「何も聞かずに今夜、法子と一緒に泊めて」
と頼むと快諾してくれた。
20時頃、中学のときに1度行ったきりの伯母の家のに到着。
運転手は、東京へ戻っていった。
事情を知らない伯母に
「久しぶりだね。
子供は大きくなった?」
と聞かれ、酒井法子は後ろめたい気持ちになり、テレビもつけずにつくってもらったそうめんを静かにすすった。
寝る前、本来なら今日、高相祐一が雑誌の取材を受ける予定だったことを思い出した酒井法子は、
「行けなくなったことを伝えなければ」
とお母さんの携帯を借り、隣の部屋に移り、自分のチップを差し込んだ。
しかしアドレス帳が消えているため、相手の連絡先がわからない。
番号案内に電話したが、結局、相手にはつながらなかった。
前日、一睡もしていない酒井法子は、連絡方法を考えているうちに眠くなり、朝まで寝てしまった。
2009年8月4日、高相祐一が職質を受けた2日後、酒井法子は、つくってもらった食事を食べ、雑誌を読んだり、庭を眺めたりしながら、ボーっと過ごした。
テレビは1度もみなかったが、午後、会長から電話があり、酒井法子の行方がわからないため、サンミュージックと高相祐一の親が捜索願を出し、マスコミが大騒ぎしていることを知った。
伯母の家もいつ知れるかわからないので会長が管理する東京のマンションへ移ることになった。
夕方、お母さんの携帯電話を借りてママ友に連絡。
「大騒ぎになってるけど大丈夫?
子供は預かっておこうか?」
「ごめん。
お願いします」
「これからどうするの?」
「ちょっと考える」
「わかった」
その後、酒井法子は従姉妹の車で中央自動車道の境川パーキングまで送ってもらい、そこで会長の車に乗り換えた。
東京、東大和のマンションに着いたときは夜だった。
案内された部屋は、しばらく誰も使っていない、ホコリが積もっている状態で、エアコンはついておらず、扇風機と2組の布団があるだけだった。
翌日、お母さんは、部屋中を掃除し、衣類は洗濯機がないので洗面所で手洗い。
酒井法子は、何度も涙を流しながら
「もう死にたい」
「いなくなりたい」
とこぼし、そのたびにお母さんは
「あなたがいなくなったら子供はどうするの?」
といった。
酒井法子はまったく外に出ずに、お母さんが買い物へ。
スーパーやコンビニで弁当や飲み物、そしてレターセットをも買い、酒井法子はママ友に手紙を書いた。
ママ友は来週から旅行にいくといっていたので、息子も一緒に連れて行ってもらえるようお願いし
「愛してる。
待っていて」
という息子への伝言と数十万円の現金を送った。
昼過ぎ、会長から14型のテレビと小さな冷蔵庫が送られてきた。
テレビは配線に苦戦し、映ったときは日が暮れかけていた。
ちょうど画面にニュースが流れ、38歳の高相祐一は容疑者として、35歳の酒井法子は失踪者として顔が大写しになり、サンミュージックの社長に画面の向こうから連絡をするに呼びかけられた。
お母さんは食い入るようにニュースをみた後、意を決したように
「あなたも覚醒剤をやってたの?」
酒井法子は泣きながら
「うん」
「なんで?」
「別れようとしたとき、夫からクスリを勧められて、つい手を出してしまった。
気分がスッキリするからって。
それが最初のきっかけだった
ごめんなさい」
「早く出頭しないと子供に会えないわよ」
お母さんはそういっただけで何もいわず、酒井法子はずっと泣いた。
そして会話のないまま、2人は布団で寝た。
2009年8月5日、職質から3日後、酒井法子は
「お母さんのいう通りだ。
いつまでの逃げているわけにはいかない」
と思いつつ、薬物は1週間くらいで体内から消えると聞いていたので
「最後に使ってから、もうすぐ1週間になる。
いま出頭して検査を受ければ、薬物の成分が出るかもしれない。
せめて体内からクスリが消えるまでやり過ごして検査で検出されなければタレントとしてイメージダウンは最小限に抑えられる」
という考えもあった。
だからできるだけ長く風呂に入り、できるだけ汗を流した。
そのほかはすることがなくボーっと部屋で過ごしながら、
「死にたい」
「いなくなりたい」
とこぼした。
テレビはニュースやワイドシューを避け、バラエティ番組を少しみるだけだったが、
「山梨で酒井法子の携帯電話の電波がキャッチされた」
と報道されているのを知ると、恐ろしくなってチップを探した。
ズボンに入れたはずのチップはなくなっていた。
かつて作家との交際が発覚したり、できちゃった婚を発表したときも大きく取り上げられたが、これほど大きく、しかもスキャンダラスに報道されたことはなく、
「さらし者になるくらいなら消えてなくなりたい」
2009年8月6日、職質から4日後の夕方、運転手が迎えに来て、まだ酒井法子の薬物使用を知らない会長の、
「自然に囲まれた環境の方がいいだろう」
という計らいで、東大和のマンションから箱根の別荘に移動。
目立たないように高速道路を避け、第3京浜、横浜新道、国道1号線と走り、別荘に着いたのは、24時前。
辺りは真っ暗で、懐中電灯を持って2階建ての別荘の中に入り、途中、コンビニで買った弁当を食べてから就寝。
この日、高相祐一は覚醒剤の使用を認めた。
8月7日、朝早く目覚めると、外の空気が吸いたくなった酒井法子は、玄関の外に出て、ポーチに座って一服。
そして温泉を引いている別荘の風呂にゆっくりと入り、パンやカップ麺を食べ、その後はボーっと過ごした。
昼過ぎ、隣の部屋でテレビを観ていたお母さんに呼ばれ、いってみるとテレビの画面に自分の名前と、
「覚醒剤所持容疑で逮捕状」
という文字。
高相祐一が逮捕された翌日、家宅捜索が行われ、自宅マンションで覚せい剤と酒井法子の唾液が付着した吸引具が見つかったということが伝えられ、自分の映像が何度も流れた。
長いニュースが終わった後、酒井法子は本気で
「わたし、もう死んだほうがいいね」
「本当にクスリをやっていたの?」
「うん」
それから間もなく会長からお母さんに電話がかかってきた。
話し終えたお母さんは
「もう警察に行こうね。
明日、迎えに来てもらうことになったから」
酒井法子は
「わかった」
と答えた。
その後、会長の依頼を受けた弁護士が警察と打ち合わせを始め、マスコミを避けて出頭することが決まった。
「失踪者」から「容疑者」に変わり、マスコミは一気にヒートアップ。
テレビの中で悪者扱いされるのをみて酒井法子は呆然となった。
そして泣きながらお母さんに頭を下げ
「本当にごめんなさい。
わたしがいない間、息子のことをよろしくお願いします」
2009年8月8日、職質から6日後、お世話になった気持ちを込めて、朝からお母さんと一緒に別荘を掃除。
昼過ぎ、会長と弁護士がやってきて、食卓でミーティング。
酒井法子は、会長に頭を下げて謝り、
「やってしまったことは仕方ない。
ちゃんと罪を認めてしっかり償ってきなさい」
といわれた。
18時、車に乗って箱根を出発。
高相祐一が職務質問を受けた渋谷の警察署はマスコミが殺到しているため、文京区の警視庁富阪庁舎へ向かった。
20時、車は富阪庁舎の玄関前に停車。
酒井法子は、お母さんに
「ごめんね」
といってから車を降り、建物の中に入っていった。
会議室のような部屋で担当の刑事と対面。
逮捕状など型通りのやり取りの後、
「やめられますか?」
と聞かれ
「はい、やめられます」
と答え、
「よしっ、即答できたんだからあなたはきっと立ち直れる。
頑張らないとダメだよ」
といわれ、そして手錠をかけられた。
1時間ほど経ってから警察の車に乗せられ、警察官が無線で連絡を取り合うのを聞きながら渋谷署へ。
21時半、警察署に入るとき、上空でヘリコプターが飛んでいる音が聞こえ、三方はカーテンで覆われていたため前方からカメラのフラッシュを浴び、酒井法子は下を向いて泣いた。
人ごみで車がなかなか前進できず、外から警察官の怒鳴る声やレポーターが叫び声、ボコッボコッと車に何かが当たる音が聞こえ、足元には無数の光が伸びてきた。
これまでたくさん取材を受けてきたが、こんなに攻撃的なものは初めてで、酒井法子は恐怖を感じた。
署に入って持ち物検査や取り調べを受けると渋谷署には女性が入る留置所がないため、江藤区の東京湾岸警察署へ移送されることになった。
日付が変わっているのにマスコミは残っていて、車は渋谷署を出たところで再び動けなくなった。
酒井法子は、四方のカーテンが閉められて外はみえなかったが、叫び声やカメラや人がぶつかる音が聞こえ、走り出してからもヘリコプターの爆音が聞こえた。
深夜、湾岸所に到着し、貸し与えられたジャージに着替え、留置所に入った。
周囲の部屋はすでに眠っていて、酒井法子は、監視されながら歯磨きと洗顔。
そして与えられた1人部屋に入るのだが、四角い部屋の1面は壁ではなく鉄格子。
部屋の入ると施錠され、床に布団を敷いて寝た。
規則で部屋の掛け布団は顔まで覆ってはならず、鉄格子の向こうには警察官がいて、酒井法子は眠れなかった。
「なんでこんなことになっちゃったんだろう」
自分の38年間の人生を思い、声を殺して泣いた。
朝起きると布団を上げて歯磨きと洗顔。
鉄格子の向こうから差し出される食事を食べる。
取り調べがある日は、数時間それを受けるが、なければ1日中、1人で部屋で過ごすことになる。
最初、部屋の隅で正座してた酒井法子は、警察官に
「足を崩してもいいよ」
といわれた。
「6日間の逃亡の末の逮捕」
外では大騒ぎしていたが、取り調べで酒井法子は最初から泣きっぱなし。
「最後に吸ったのはいつなんだ」
刑事に何度も聞かれ、。酒井法子は、高相祐一が逮捕される数日前に奄美大島で使っていたが、3週間、否定し続けた。
8月28日、警察に出頭して20日後、酒井法子は「覚醒剤所持」で起訴され、サンミュージックを解雇された。
起訴後も「使用」について取り調べが続いた。
息子の夏休みが終わっても留置期間が延長され、酒井法子は
「1日も早く外に出て息子に会いたい」
と思い直し、正直に話すことを決意。
9月に入ると手紙を書くことを許可され、サンミュージックの社長、息子の小学校の校長に謝罪の手紙を出した。
そして夫から届いていた手紙に返事を出した。
9月11日、「覚醒剤使用」で追起訴された後、保釈に向けて警察と弁護士が話し合いを開始。
サンミュージックの社長は、すでに解雇している酒井法子のために謝罪会見を行うことを決め、マネージャーと共に面会に行き、
「頑張ろうな」
と声をかけた。
息子を預かってくれているママ友が他のママ友と一緒に面会に来て
「バカ!
なんで薬物なんてやったの!」
と怒った後、アクリル板越しに息子の写真をみせて様子を話し、
「頑張れ」
と励ました。
高相祐一の両親もやってきて
「絶対にがんばれ。
法子なら立ち直れる」
といわれた。
酒井法子は、頭を下げ続けた。
保釈の日、逮捕時に預けた荷物が返してもらい、その後、湾岸署の一室に案内されるとヘアメイクとマネージャーが待っていた。
身支度を整え、外に出ると、おびただしい数の報道陣がいた。
あまりの数に唖然としながら、頭を下げ、用意された車へ。
車が動き出すと追ってくる報道陣を警察が阻止。
酒井法子は、カーテンの隙間からそれをみて泣きながら頭を下げた。
車はレインボーブリッジを渡り、都心へ。
酒井法子にとって久しぶりの外の世界だが、上空にはヘリコプターがおり、車の中のテレビに自分が乗った車が生中継で映り、どこに向かうのか実況されていた。
車が停まる度にバイクの乗ったカメラが近づいてきて、一般の人たちも携帯のカメラを向けてきた。
記者会見の会場に着くと、車から控え室へ移動。
そこにはサンミュージックの元会長と元社長、ビクターエンタテイメントの会長が沈痛な面持ちでいて、いつもならにこやかに迎えてくれるスタッフも厳しい顔でうつむいていた。
「本当に申し訳ありませんでした」
酒井法子は頭を下げた。
マネージャーに
「時間ないから支度しちゃおう」
と促され、用意された服に着替えてメイク。
その間もスタッフは、なかなか目を合わせてくれず、目が合っても微笑んでくれなかった。
(わたしのせいで事件を背負わされて大変な目に遭ったんだろうな。
裏切られたという思いや憤りが募っているんだろうな)
酒井法子は、沈黙に見送られて会見場へ向かい、体験したことのない量のフラッシュとシャッター音を浴びた。
前をみることもできずに用意した謝罪の言葉を読み上げると自然と涙がこぼれ落ち、その度に大量のフラッシュが光った。
会見後、マネージャーは車まで見送ってくれて
「お疲れ様」
しかしいつものように
「また明日」
という言葉は続かなかった。
車は再びバイクを引き連れて走り出し、保釈後の記者会見を終えた酒井法子は、都内の病院に入院。
メンタルヘルス科の担当医に会った後、個室に案内されると、そこに息子が1人で待っていた。
「ママ!」
1ヵ月半ぶりに再会した2人は抱き合った。
「ママ、もう悪いことしちゃだめだよ」
「ごめんね」
「もういいよ」
その後、病室で一緒に食事し、テレビはつけずに子供向け映画のDVDを観て、1人用ベッドで一緒に寝た。
翌日から検査とカウンセリングで精神状態や薬物の依存度などが調べられ、看護師が1時間おきに病室にやって状態を確認された。
病院は病室がバレないように配慮していたが、酒井法子も1歩も出なかった。
テレビをつけると記者会見の映像が流れるため、数日間しか観ることができず、その後は消したまま。
知っている人だけでなく知らない人からも手紙や花が届き、ママ友やサンミュージックのスタッフがやってきて
「無事でよかった」
といわれた。
酒井法子は、2週間で退院。
マスコミを避けるため、しばらく知人の親せきの家に身を寄せた。
10月21日に高相祐一の初公判が開かれた。
酒井法子の裁判の打ち合わせのため弁護士が知人の親せきの家にやってきて、
「これから先のことをどう考えているか、裁判で必ず問われることになる」
といわれ、酒井法子は離婚について真剣に考えるようになった。
10月25日、知人の親せき宅から東京のホテルに移動。
10月26日、東京地方裁判所に向かった。
車は報道陣に取り囲まれ、オウム真理教の麻原彰晃の裁判と同じくらいに注目されていた。
酒井法子は弁護士と2人で控室で待った後、法廷へ。
裁判官、検察官、弁護人に挟まれるように立ち、罪状を読み聞かされた。
薬物を使った経緯や理由、現在の心境について説明し
「離婚して介護の勉強を始めたい」
サンミュージックの横澤正久副社長が情状証人として証言台に立ち
「異変に気づけなかったのは自分の落ち度」
お母さんは、ガンの手術を受けた後だったために来れなかったが
「親の監督不行き届き」
という内容に誓約書を提出。
裁判が終わると酒井法子は、マスコミを引き連れながら、東京、青山のマンションへ。
湾岸署の拘置所から出るときに髪と顔を整えてくれたヘアメイクスタッフがご飯を用意して待っていて、2人で食事。
酒井法子は、お母さんに電話し
「お疲れさま」
といわれた。
酒井法子にとって3ヵ月ぶりの自宅マンションだったが、周りをおびただしい数のマスコミに囲まれ、1日何度もインターホンを鳴らされ、1歩も外に出られず、人に頼んで食料を差し入れてもらいながら1人で過ごした。
自宅マンションに帰って2週間後、再び東京地方裁判所に行き、懲役1年6ヵ月執行猶予3年の有罪判決を受け、裁判官から
「映画やドラマでいろんな役を演じてきたでしょうが、残念ながら、この事件も裁判も現実です」
といわれた。
この後、酒井法子は、マンションで息子と2人暮らしを開始し、福祉の勉強ができる大学に入学。
自宅のパソコンでインターネットを使って講義を受けてレポートを提出するというシステムだったが、酒井法子は初パソコン。
社会福祉、幸福論、音楽療法などについて学んだが、1科目に10分の講義が90回もあった。
相変わらずマンション付近には報道陣でひしめき合い、常に監視され、
「事務所を解雇されても芸能人はやめさせてもらえないんだ」
と感じた。
マンションにやってきたお母さんと3ヵ月ぶりに再会すると、それから数ヵ月間、息子と3人で過ごした。
パソコンでインターネットを開いても、自分の名前を検索することはこわくてできなかったが、数ヵ月後、初めて調べて、検索結果をみて落ち込んだ。
こうしてのりピーの時代は終焉。
酒井法子は新たなステージに進んでいった。