澤穂希   愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

澤穂希 愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

13歳で国内リーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビュー、20歳でアメリカ挑戦。そして22歳で愛よりもサッカーを選び帰国。


一方、女子サッカーは、男子より96年遅れて正式採用されたため、全チームが初オリンピック。
そんな中で日本代表は、

ドイツ戦 2対3
ブラジル戦 0対2
ノルウェー戦 0対4

でグループリーグ4位敗退。
13歳で日本女子サッカーリーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビューをした澤穂希は、3試合にフル出場。
前年のワールドカップでキーパーをぶつかって負傷したが、オリンピックでもドイツ戦で再びキーパーに体当たり。
こぼれ球を木岡二葉がゴールに蹴り込んだ。
その後もブラジル戦、ノルウェー戦で体当たりし、跳ね返された。
「ただ怖いもの知らずだった」
最終的に、

金メダル アメリカ
銀メダル 中国
銅メダル ノルウェー

という結果となった。
澤穂希は、帰りの飛行機で
「どうして1勝もできないんだろう」
「どうして全敗なんだろう」
「なんでこんなに差があるんだろう」
そんなことばかり考えていた。

オリンピック後、8~12月に開催されたL・リーグでは、「日興證券ドリームレディース」が初優勝。
ベレーザは3位だった。
大手証券会社によって結成された日興證券ドリームレディースは、全選手が社員として雇用された上でサッカーに専念。
専用練習グラウンド、クラブハウス、選手寮、ユニホームや練習着だけでなく、オリジナルデザインの練習ボールまでつくられるというJリーグなみの環境。
さらに第1回女子ワールドカップ準優勝国、ノルウェー代表FW、リンダ・メダレン、DF、グン・ニイボルグ、MF、ヘーゲ・リサを獲得していた。
日興だけでなく、Lリーグに参加するチームの多くが専用グラウンドやクラブハウスを持ち、世界から選手が集め、
「世界最高の女子サッカーリーグ」
と呼ばれていた。

1997年1月、シドニーオリンピックに向け、女子日本代表監督が58歳の鈴木保から36歳の宮内聡となった。
最初の合宿に招集された23人の中でアトランタ経験者は8人だけで選手も世代交代が進められた。
新監督は、通常、1日に90~120分が1回行われていた練習を、午前、午後の2回、ときに夕食後に3回目を行うなど量を増やし、かつ内容も濃くした。
澤穂希は、ベレーザの竹本監督から進学を勧められ、父親に入学金を出してもらい、帝京大学に進学。
中学時代、サッカー選手になりたいと思いながらも、子供が好きで
「学校の先生になりたい」
という気持ちがあったので、教師になる卒業生が多いという文学部教育学科を選んだ。
大学生になっても昼間は学校、夕方から夜にかけてベレーザで練習というスケジュールは変わらなかったが、様々な人と知り合って人間関係の幅がグンと広がった。
1997年6月、日本女子代表は、東京の国立競技場で行われた中国との親善試合を、1対0。
1週間後、大阪での第2戦はドロー。
女子日本代表のキャプテンは、日興証券の山木里恵。
3歳下の澤穂希は副キャプテンを務め、そしてベレーザの先輩、野田朱美から背番号10を継いだ。
「日本代表の10番、それを野田さんという大先輩から受け継ぐのはうれしかった」

ベレーザでも「「お姉さん」となり、若手時代は自分が成長し自分のプレーだけに集中していればよかったが、チームのことを考えるのも仕事になった。
ときには選手を叱責することも求められたが、人見知りで不器用で優しい澤穂希には、なかなかできない。
悩み、苦しみ、試行錯誤を繰り返した末、たどりついた答えは、
「私なりでいいんじゃないか」
そう思うといろいろなことが自然体でできるようになり、
「足りない部分はプレーで引っ張ってプレーで伝える」
という覚悟と責任感、そして意欲がわいてきた。
グラウンドでは
「絶対にあきらめないという姿勢を示すことが仕事」
と決め、誰よりも走った。
「自分への「いいね」が大事。
仲間のいいところをホメ合う関係も大事」
という一方で
「ダメ出しを遠慮するようでは目標は達成できない。
嫌われるかな?、傷つくかな?といいたいこと、いうべきことを飲み込んでいては、よいチームにはなれない」
と何事もためらわず伝え、年下の選手に
「澤さん、今のパス、もう少し早く出してもらえたらよかったです」
などと遠慮なくいわれると心強く感じた。

12月に行われたAFCアジアカップでは、

グァム 21対0
インド 1対0
香港 9対0
北朝鮮 0対1
チャイニーズタイペイ 2対0

と準決勝で北朝鮮に負けたものの3位。
1999年にアメリカで行われる第3回FIFA女子ワールドカップの出場権を入手。
一方、L・リーグは、日興證券ドリームレディースが2年連続の優勝。
しかし翌1998年10月、日興證券ドリームレディースは、シーズン真っ最中に、このシーズン限りでの解散を発表。
バブル経済崩壊後、経営不振に陥った日興證券のコスト削減の一環だった。
澤穂希が所属する「読売西友ベレーザ」も、西友が撤退し「読売ベレーザ」となった。
1999年1月、日興證券ドリームレディースがL・リーグ3連覇を達成した後、解散。
続いて「フジタサッカークラブ・マーキュリー」も廃部を決定。
男子Jリーグでも、運営会社の全日空と日産自動車の経営不振により、横浜フリューゲルスが横浜のマリノスに吸収合併されて、「横浜Fマリノス」に。
さらに第1回日本女子リーグチャンピオンの「鈴与清水FCラブリーレディース」と「シロキFCセレーナ」も撤退。
L・リーグは、10チーム中、4チームが消えてしまった。

1999年4月、「読売ベレーザ」はスポンサーが代わって「NTVベレーザ」に名前が変わると、澤穂希は、
「今の契約は3ヵ月後打ち切る」
と伝えられ、
「これからどうなるんだろう」
将来が不安になり、食が細くなり、体重が減り、筋力も落ちた。
しかしそもそもL・リーグの大半の選手が学生やサッカー以外の仕事をしていた。
ベレーザでもプロ契約しているのも数名だけで、他のチームメイトは働きながらプレー。
日本代表でも所属していたクラブが廃部になった選手がいた。
澤穂希は、彼女たちの前で弱気な姿をみせるわけにはいかなかったし、一緒にボールを蹴っていると不思議と不安は消えた。
澤と同様、ベレーザから契約見直しを告げられた選手の中に、アメリカ人のナタリー・二ートンがいた。
彼女はこれを機に帰国し、アメリカでプレーすることを決めていたが
「サワもアメリカでプレーすれば?」
と誘った。
澤穂希は、ナタリーからアメリカでは女子サッカーが大人気で、プロのリーグができると聞いて
「私にもチャンスがあるかな?」
するとナタリーは、以前自分が所属していたチーム、「デンバー・ダイアモンズ」に連絡。
そして
「サワ!
アメリカに行けるよ!
澤が望めば契約してもいいって」

6月、第3回FIFA女子ワールドカップがアメリカで開催。
ベスト8に入れば翌年のシドニーオリンピック出場権が得られる上、日本代表にとっては女子サッカーの人気回復もかかっていた。
しかし、

カナダ戦 1対1
ロシア戦 0対5
ノルウェー 0対4

と予選リーグを最下位で敗退。
優勝したのは、開催国のアメリカだった。
澤穂希は現地で女子サッカー人気を高さを目の当たりにした。
世界的に有名なミア・ハム選手を筆頭に、選手はサッカー少女の憧れの的になっていて、スタジアムにはユニフォームを着た大勢の小中学生が集まっていた。
競技人口も多く、1 つの州の中にたくさんの女子チームがあって、それぞれカテゴリー別にわかれていた。
3ヵ月前に告げられたベレーザとのプロ契約の打ち切りは数日後に迫っていたが、大学2年生、20歳の澤穂希は、すでにアメリカ行きを決めていた。
当初は
「大学を中退するのは高い入学費を払ってくれた両親に申し訳ない」
と葛藤していたが、父親に
「穂希の信じた道を歩みなさい」
といわれ
「チャレンジするなら今しかない」
と決心。
「貯金もほとんどなく、働けるビザもない。
残高証明書をアメリカ大使館に届けに行ったり、何もかも自分で手探りでやってみました」
ベレーザからは引き留められたが、1999年7月8日、アメリカ、コロラド州デンバーにあるデンバーダイアモンズへの移籍を発表。
7月20日、ジーンズにパーカーといういつもの服装に
「足りないものは向こうで買えばいいや」
とスーツケースを2つだけ持って、成田空港から飛び立った。
13時間のフライトを終え、デンバーに到着した澤澤穂希は、空港のとてつもない広さに驚いた。
アメリカは、建物、車、人、食べ物、すべてが大きかった。
澤穂希の渡米後、マスコミが
「日本人初、女子サッカー大国のプロリーグに挑戦」
と騒ぐ中、L・リーグが、7月から12月までの短期開催。
新しく「浦和レイナスFC」と学生チーム「日本体育大学女子サッカー部」が加わって、8チームで日本一を争った。
優勝したのは、プリンハムFCくノ一。
ベレーザは2位。
シーズン終了後、日体大と「OKI FC Winds」が退会。
さらに翌2000年のリーグ開幕前に、プリマハムと松下電器がスポンサー撤退を発表したが、プリンハムFCくノ一は「伊賀フットボールクラブくノ一」、松下電器パナソニック・バンビーナは「スペランツァFC高槻」と名前を変え、市民チームとしてL・リーグに残留。
澤穂希の先輩、高倉麻子は、プロ契約解除になった後、ベレーザを去って松下電器パナソニック・バンビーナへ移籍したが、2ヵ月後に廃部となってしまった。

一方、アメリカの澤穂希は、最初はナタリー・二ートンの家に滞在していたが、しばらくするとチームメイトと一緒に暮らすようになった。
そのチームメイトとは、アリソン・ギブソン。
日本のフジタマーキュリーでプレーしているときに、19歳の澤をみて
「なんてうまい選手なの!?」
と驚いたという。
2人が暮らす家は、練習場まで車で1時間もかかる自然豊かな田舎にあっった。
澤穂希は、最初はすべてが初体験で刺激が多く、楽しかったが、言葉の問題によってストレスを感じるようになった。
「なんとかなる」
と思っていたがが、実際に生活してみると相手のいっていることはわからず、自分の話も伝わらず、日常生活もままならなかった。
デンバー・ダイアモンズはセミプロチームで、チームメイトは昼間は仕事や学校にいって、夕方から練習が始まった。
澤穂希は、練習でも監督の指示が理解できず、ホワイトボードで説明してもらうなど、いろいろなことに時間がかかり、グラウンドでのチームメイトとのコミュニケーションにも問題が起こった。
日本の家族や友人に連絡しようとしても、まだメールなどない。
手紙を書いてから届くまで1週間、返事が届くまで1週間かかり、
「往復2週間の間に伝えたいことはたまっていった」
何曜日がゴミの日かわからず、欲しいものがあってもどこで売っているのかわからず、誰ともコミュニケーションがとれず、
「日本に帰りたい」
とホームシックで毎日泣いた。
特に昼間はアリソン・ギブソンが仕事に出るので夕方まで1人。
運転できない、言葉がわからない、おしゃべりできない、テレビも面白くないとないないづくしの澤はさみしさに襲われた。
渡米前に膨らませていた希望はしぼんでしまい、
「もうダメ」
と敗戦気分で過ごしていた。

しかし
「逃げ出すわけにはいかない」
「ここでやるしかない」
と自分にいい聞かせ、週2回、語学学校に通いながら、近くの店で積極的に話しかけ、夕方から練習が始まるとチームメイトが話す英語の輪の中に入っていった。
相手がいったことがわからなかったら、
(わかったフリをしたら前に進めない)

「なんていったの?」
とスペルや発音、意味をしつこく聞き、帰ったら辞書で確認。
それを繰り返すうちにわかる言葉が増え、日ごとにコミュニケーションが楽しくなった。
時間はかかったが、複雑な会話や抽象的な考えも聞いて理解し、英語で伝えられるようになり
「結局、どうにかなっちゃうものなんだ」
家の近くですれ違うと
「ハーイ」
「調子どう?」
と声をかけられたり、時間と場所をいうだけ誰が来るかもわからないホームパーティに誘われたり、オープンな人間が多いアメリカで、それに応じているうちに自分からもどんどん話しかけるようになり、人見知りもしなくなった。
「一緒にパーティーにいったりして彼女が人と知り合っていく様子をみてきましたが、出会った人の誰もがサワのことを好きになっていきました」
(アリソン・ギブソン)

アメリカは、自己主張が強く、自分の意見をハッキリ主張する人が多かった。
試合はもちろん練習グラウンドでもチームメイト同士でいい合うには日常茶飯事。
それは日本でもあったが激しさが違い、放送禁止用語を連発させて罵り合うチームメイトに
「アメリカ、怖っ」
「マジ?
そんなに言い合わなくても」
と驚いたが、
「サワはどう思う?」
と意見を求められることもあり、相手の合わせるのではなく自分の意見をハッキリさせて主張する大切さを学んだ。
「私自身自分の意見を持っていると思っていたが、彼女たちに比べたら白と黒だけでなくグレーがあるなと思った」
そしてアメリカの選手は、激しいいい合った後でも、ピッチを離れれば誰も引きずらなかった。
「そういう切り替えの早さも重要なことだと思う」
また練習が終わるとすぐに帰ってしまい、
「意外と練習しない!」
食事も、
「ピザばっかり!」
と驚いた。

アメリカ代表の平均身長は約170㎝。
165㎝の澤穂希は、日本でヘディングの競り合いで負けることは少なかったが、アメリカではがよく負けた。
体の大きさだけでなく、アメリカ人選手はスピードもパワーもケタ違いだった。
「日本と同じ感覚でプレーしていたらアメリカでは生き残れない」
と悟った澤穂希は、それでもなんとか自分の力をプレーを証明しないと試合に出してもらえないので
「自分の長所はなに?」
「他になくて自分にあるものは何か?」
と考え始めた。
出てきた答えは
「動き出しのスピード」
「判断の速さ」
だった。
日本代表の体力測定で、ほぼすべての項目が平均値。
長距離走は苦手で、「10m走」だけ大野忍に次いで2位だった澤穂希は、
「サッカーでは50mを一気にダッシュすることはあまりない。
1歩、2歩の動き出しのスピードが重要。
瞬発力、瞬間的な速さで勝負。
そこは私が自信を持っているところ。
誰にも負けないところじゃないか」
と自己分析。
速く動き出すことと多彩な技術で、身体能力と体格に差がある相手にも有利にプレーし、
「クイック・サワ」
と呼ばれるようになった。

2001年、アメリカに来て1年半後、アメリカ女子サッカーリーグ「WUSA(Women`s United Soccer Association)」がスタート。
参加している全米の8チームは、すべてプロ。
各チームは、直接交渉ではなくドラフト会議を経て選手を獲得しなくてはならず、アトランタ・ビートから指名を受けたホマレ・サワは、プロ契約を結んで、デンバーからアトランタへ引っ越し。
練習場は、ジョージア工科大学の敷地内にあるグラウンドで、キャンパスの一角にロッカールーム、シャワー、ミーテイングルームがあった。
初めてロッカールームに入ると練習用ウェアが用意されていて、日本では練習着の洗濯は選手の仕事だったが、練習後、バスケットに入れれば洗ってもらえるというシステムに驚いた。
「午前はチームの練習をして、午後は自分の体をケアする時間に充てられる。
洗濯物を出しておけば、次の日にはロッカーに置いてある。
その前からベレーザでもプロ契約はしていましたが、金額面でも環境面でも大きく違います。
またアメリカでは自分たちのチームを知ってもらうために様々なイベントをするんです。
例えば新しくショッピングモールができたら、何人かの選手が行ってサイン会、握手会をしてPRをする。
日本だとL・リーグの試合がいつあるのか、自分で調べないとわからないですよ」

WUSAのシーズンは、4~9月。
記念すべき開幕戦は、ベイエリア・サイバーレイズ vs ワシントン・フリーダム。
アメリカ代表DF:ブランディ・チャスティン vs アメリカ代表FW:ミア・ハムというアメリカ2大スターの直接対決に、ワシントンのロバート・ケネディ・スタジアムには約35000人が入った。
特にミア・ハムは、競技の枠、男女の枠、そしてアメリカという国の枠さえ超えた世界的アスリート。
15歳でアメリカ代表に選ばれて以来、2度のワールドカップと1度のオリンピックの優勝に貢献し、FIFA最優秀選手の栄冠にも2度輝いていた。
1週間後、澤穂希が所属するアトランタ・ビートは、ホームであるジョージア工科大のボビー・ドッドスタジアムで ニューヨーク・パワーと対戦。
この開幕戦に澤穂希は先発し、積極的にシュートを放ったが0対0の引き分け。
2戦目もフル出場したが勝てず、3戦目、澤穂希にとってもアトランタ・ビートにとっても初となるゴール。
4戦目、ミア・ハムが所属するワシントン・フリーダムを相手に2試合連続となるゴールを決め、アトランタ・ビートは首位に立った。
WUSAの公式サイトで実施された「予想外に活躍している選手」投票で、「ホマレ・サワ」が上位にランク。
アトランタ・ビートは、地元で人気のあり、ホームゲームには平均1万人が集まり、サポーターは熱烈で応援は迫力があったが、つまらないミスをすればブーイングが起こった。
チームは、イベントやサイン会を行ってファンと交流。
「地元の人たちと触れ合える機会は純粋にうれしかった」
そしてアトランタ・ビートはシーズンが進むにつれて調子を上げ、ベイエリア・サイバーレイズとの優勝決定戦へ。
前半、0対1から澤のアシストで1対1。
その後、両チーム2点ずつとって3対3でPK戦へ。
アトランタ・ビートは、ここで敗れ、準優勝でシーズンを終えた。

2002年8月、日本女子サッカー代表は、上田栄治が新監督となってスタート。
目標はアテネオリンピック出場だった。
この年、日本代表戦は11試合あったが、澤穂希は、8試合に出場し、5得点。
2003年は、

1月、アメリカ 0対0(親善試合)
3月、タイ 9対0 (親善試合)  
6月、タイでアジア大会が開催され、このワールドカップ予選を兼ねた大会で

フィリピン 15対0
グアム 7対0
ミャンマー 7対0
チャイニーズタイペイ 5対0

と勝ち進むも

北朝鮮 0対3
韓国 0対1

と負け、最終的に4位。
本来、ワールドカップは中国で行われるはずだったが、SARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに開催地が変更され、準優勝の中国が開催国枠で出場権を獲得していたため、日本は首の皮1枚つながった状態で大陸間プレーオフに進出。
北中米カリブ海3位のメキシコとの対戦し、アウェイで2対2、国立競技場で2対0と辛くも勝利を収め、なんとかワールドカップ出場を決めた。

9月15日、WUSAが活動休止を発表。
アメリカで女子サッカーは競技人口も多く人気も高かったが、野球、バスケットボール、アイスホッケー、アメリカンフットボールなどに比べて興行がよくなく、スポンサー2社が資金提供の打ち切ったのトドメとなった。
アトランタ・ビートで 2001 ~2003年まで3 シーズン連続でプレーオフに進出した澤穂希は愕然としたが、5日後の9月20日、第4回FIFA女子ワールドカップが始まった。
4大会連続参加の日本は、

アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3

と2大会連続予選リーグ敗退。
澤穂希は2ゴール挙げたが、大会後、リーグと共にチームも解散。
新しい所属先を探すか、あるいは引退して結婚するかを決めなければならなかった。

澤穂希は、年上のアメリカ人男性と交際していた。

「女子サッカー選手の中には彼氏ができたことがパワーになってサッカーもいい方向にいく選手がいるし、逆にプレーが悪くなる選手もいる。
女性には男性にはない出産があるため、仕事で上を目指したり、やり切ろうという場合、結婚が上で障害になることもある」
という澤穂希だが、サッカーと恋愛、どちらかだけではなく両方、追うタイプ。
また
「理想の彼氏像など特になく、一目ボレはしたことはない」
「自分からコクることはできない」
「思わせぶりな態度をとって駆け引きをすることはできない」
「1人の男性をずっと待つなんてできない」
という澤穂希は、自分が好きになったタイミングと自然と合った人と付き合うことが多かった。
そして好きな人や彼氏に夢中になっても、絶対にサッカーは疎かにせず、サッカーにマイナスになると思うようなことはしなかった。

サッカーは手抜きせず集中して行い、グラウンドを出ると
「今日はおしまい」
と切り替える。
このオンとオフの切り替えが重要で、そのために欠かせないのが
「友達と会うこと」
だという。
サッカー関係者だけでなく多方面に友人を持ち、マメに連絡し、お茶や食事、買い物をしたり、大勢でワイワイ盛り上がって気持ちをリフレッシュさせる。
ときには男友達と2人で食事することもあり、それを許してくれない男性とはつき合えない。
その代わり「自分がイヤなことは相手にもしない」主義の澤穂希は、彼氏が女性と2人で食事するといっても怒ったり、止めたりしない。
極度に負けず嫌いな澤穂希だが、彼氏に対しては、
「彼に自分の意見や主張をぶつける理由がない」
とその性格はまったく発動させず、だいたいのことは許した。
そして1度つき合うと長続きした。

アメリカでも女子サッカーはTVで試合が放送されたり、試合会場が満員になることなど少なく、
「稼げる競技に転向したい」
「給料を上げてくれないとプレーしたくない」
「食べていけない」
といってやめていく選手もたくさんいたが、澤穂希は、
「お金のことは正直いってよくわからない」
といい、自分の価値や能力をお金に換算して考えたことがない。
大金を得るためでも、有名になるためでもなく、ずっと
「サッカーが好き」
「もっとうまくなりたい」
という気持ちだけでやっているので
『お金にならないだったら走る気にならない』
『誰も注目しないんならサボっちゃえ』
などと思うことは皆無で、
「目標に向かって毎日が特別」
が澤穂希のモチベーション。
だから契約更新時に年俸アップのために貢献度をアピールしたことなど1度もなかった。

逆に、
『10年後、何をしていると思いますか?』
と質問されても、本当に考えていないからと答えられない。
「目の前の目標が達成できなかったら、その次なんて絶対に来ない」
という気持ちで目の前のことにだけ全力を注ぐので、先のことは想像がつかなかった
しかしアメリカ女子サッカーリーグが休止するとなると将来のことを考えざる得ず、彼と話し合った。
真剣に結婚を考えていた澤は、
「選手を引退して家庭に入って彼を支えるのもいいな」
とも思っていて、彼に
『もうサッカーをやめて結婚しよう』
といわれれば、そうなったかもしれなかったが、
「ここでサッカーをやめたら後悔するよ」
といわれたため、迷いが生じた。
悩み続けた末、
「悔いを残したくない」
「あきらめたくない」
という気持ちをとった。
そうなるとリーグが消滅してしまったアメリカにとどまることはできなかった。

2004年1月末、澤穂希は6年ぶりに古巣、ベレーザに復帰。
澤穂希と同級生で中学時代からベレーザで一緒にプレーした「中3トリオ」の1人、五味輿恵は、その成長を感じた。
「アメリカから帰ってきたホマは、体格がすごく大きくなって当たりが強くなっていました。
私はボランチで攻撃的MFであるホマの1列後ろという位置でプレーしてましたから、変化にすぐ気がつきました。
それとアメリカに行く前のホマはすごく人見知りだったのですが、帰ってきてからは誰とでも気さくに話すようになりましたね
人が変わったんじゃないかってくらいです」
澤穂希は、離れ離れになったアメリカの彼とは、話し合いの末に別れることになった。
しばらく寂しい気持ちはあったが、目標に向かって突っ走っているうちに時間が解決。
自分の性格から
「結婚とサッカーの両立は無理」
「結婚はサッカーをやり尽した後」
と覚悟を決めた。
周りには、
「家庭に入ったら物足りなくなるんじゃない?」
と一生独身を推す声もあったが、
「結婚したら、掃除と洗濯は毎日して旦那さんが夜遅く帰ってきてもご飯とお風呂を用意して迎える」
「子供は3人くらい欲しい」
「できれば男の子が欲しい」
「年齢を考えると難しいかもしれないから、いっそ双子が欲しい」
「運動会では保護者が参加する種目で一般のママに負けられない。
メッチャ練習する」
などと将来の理想と妄想を語りながら、サッカーに励んだ。
アテネオリンピック、アジア予選は3ヵ月後に迫っていた。

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