澤穂希   愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

澤穂希 愛よりもサッカー 。愛ゆえにサッカー 。愛ゆえに愛を捨てサッカー。とにかく今はサッカーだ!!

13歳で国内リーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビュー、20歳でアメリカ挑戦。そして22歳で愛よりもサッカーを選び帰国。


東京都の中央、府中市で生まれた澤穂希は、3歳のときに全国にプールを持つ「イトマンスイミングスクール」に入会。
昇給テストに受かって級が上がるとスイミングキャップの色が変わっていくというシステムにハマり、新しい色のキャップを狙って夢中で泳ぎ、幼稚園に入る前に1番上の「特級」に到達。
生まれつき左利きだったが、書道を習って、
「文字は右手で書きなさい」
と指導され、書くのは右手、箸は左手という両利きになった。
「両手が使えることで右脳と左脳がバランスよく刺激されているかもしれない。
そのバランスがサッカーに生かされている気はします」
ある雪の日の夜、3歳の澤穂希と兄がイタズラをしたため、母親は
「反省しなさい」
と家の外に放り出した。
その後、家事に追われ、気がつくと、すでに1時間ほど経っていて、あわてて外をみると泣き疲れて玄関で眠る兄と物干し竿で遊ぶ妹がいた。

5歳のとき、父親の転勤で一家で大阪府高槻市に引っ越し。
兄が「安満サッカークラブ」に入ると、いつも母親と一緒に練習をみにいっていた。
6歳のとき、コーチに
「妹さんも蹴ってみない?」
といわれ、後をついてグラウンドへ。
「エイッ」
とつま先で突くように蹴ったボールは、コロコロと転がった。
澤穂希がワクワクしながら行方を見守っていると、何かに導かれるようにゴールへ吸い込まれていった。
ゴールの意味はわからなかったが、その瞬間、
(楽しい!!)
ととにかく嬉しく、大喜び。
母親をみると笑っていて、コーチは少し驚いていた。
この一蹴りで人生は決まった。
「ゴールに入ったのが嬉しくて。
すぐに私もサッカーをやりたいってなりました」
こうして澤穂希は、大阪でボールを蹴り始めた。
安満サッカークラブは、安満遺跡公園のグラウンドで練習し、夜遅くなると夜間照明がないために車のライトをつけて練習するような熱心なクラブだった。
「大阪では週に1回か2回の練習に参加するだけだったけど、サッカーに夢中でした」

7歳のときに父親の転勤が終わり、東京都府中市に戻ると「府ロクサッカークラブ」、通称「府ロク」に入った。
府ロクは、府中第6小学校の先生が創設。
授業の後、学校のグラウンドで練習し、全国大会に何度も出ているジュニアの名門チームだった。
兄は問題なく入ることができたが、澤穂希は、母親が
「妹は入れますか?」
と聞くと、男子、しかも小学校3年生以上でないと入れないというルールがあって、
「前例がないから」
と断られてしまう。
しかし母親はあきらめず
「前例がないのなら、うちの娘で新しい歴史をつくってください」
といい、小学2年生の女の子の「仮入団」が認められた。

仮入団の身である澤穂希は、グラウンドの隅で練習していたが、間もなく地元の小学生が出場する「狛江杯」があり、母親と兄の応援へ。
前半を0対0で終えたとき、コーチに
「出てみない?」
といわれ、ユニフォームを借りて後半から出場。
そしていきなりゴールを決め、チームは勝利。
本人は、
「無我夢中でプレーしたこと以外記憶がない」
というが翌日の地元の新聞に
「途中出場の女の子の決勝ゴール」
と取り上げられ、府ロクにも「正式入団」となった。

府ロクの練習は、月~金まで週5日で、土日は、試合や遠征、合宿があった。
学校が終わるとすぐに練習が始まり、帰宅は夜。
兄は家に帰ると
「疲れた」
といって風呂に入ったが、澤穂希は
「練習する」
といってボールを持って外にいき、1人で1時間くらい、家の前の壁にボールを当てたり、リフティングをした。
「自主練というより、ただただ楽しくて蹴っていただけ」
というが、雨の日は家の中でボールを蹴ることもあった。
府ロクに入って半年後、河口湖で行われた合宿で、広いグラウンドの外周を1度もボールを落とさずにリフティングで回ってコーチを驚かせた。

澤穂希は、身長が高く、髪型もショートカット。
大阪にいた頃、可愛い帽子をかぶったりして女の子らしい格好をしたこともあったが、東京に戻って男の子ばかりの中でサッカーをするようになってからスカートなどはいたことがなく、いつもGパンや短パンで、よく男の子に間違えられた。
運動会でスカートをはいてダンスをしなければならなくなると、練習のときからふてくされ、以後、ダンスは嫌いになった。

府ロクを含め、多くのジュニアサッカーチームは各学年ごとにチームがあり、チーム別に練習や試合を行う。
上手な子が上の学年でプレーすることもあるが、基本的にチームメイトは同級生。
誰もが試合に出られるというわけではなく、府ロクのポジション争いは激しかったが仲は良かった。
府ロクに入って1年、小学3年生でレギュラーとして左ハーフや左ウイングのポジションに入った。
チームメイトは練習熱心で負けず嫌いな澤穂希を大事な存在とし認めていた。
ある日の試合中、相手チームの選手に少しバカにした口調で
「女のくせにサッカーするなんて」
といわれたが、試合中だったので無視。
すると相手がスパイクを蹴ってきた。
さすがに頭にきて蹴り返したがかわされてしまう。
ムキになって蹴ろうとすると相手は逃走。
澤穂希は追いかけ、試合が止められ、審判に怒られた。
同じく小学校3年生のとき、母親と口論になり、ひどい言葉を浴びせるとブタれ、
「ピシッ」
と鼻血が台所の食器棚についた。
澤穂希は悔しくて泣きながら
「出てってやる」
と叫んだが、
「出ていきます。
探さないでください」
と置手紙を書いている内に落ち着いてしまい、家出は中止し、ケロッと過ごした。
「この頃から切り替えは早い方だった」

小学校5年生になると女の子のほうが身体の成長が早いため、府ロクでGKに続いて2番目の高身長になった。
2人1組で行うストレッチやトレーニングをするとき、異性を意識し始めたの一部のチームメイトが
「お前やれよ」
「お前がやれよ」
と譲り合うのをみて
「これまでそんなことなかったのに」
と不思議に思った。
運動会で騎馬戦の騎手となった澤穂希は、母親いわく
「まるで木登りするサルみたいに身軽ですばしっこくて、スキあらばという感じで」
相手チームの帽子をほとんど奪い取り、マラソン大会では、兄とそろって1位になった。
走るだけでなく食べるのも早く、
「兄はマイぺースで、兄がみかんを1個食べている間に穂希は2個食べていましたね。
白い線維のところもとらないでアッという間に食べちゃって。
野生的でしたよ」
(母親)

この年、日本女子サッカー界に大きな変化があった。
それまで真剣勝負の場は年1度の「全日本女子選手権(現:皇后杯)」だけだったが、

読売サッカークラブ・ベレーザ(東京)
清水フットボールクラブ(静岡)
田崎真珠神戸フットボールクラブ・レディース(兵庫)
日産FCレディース(東京)
新光精工FCクレール(東京)、
プリマハム・FC・くノ一(三重)

という1都3県6チームが参加する「日本女子サッカーリーグ」が誕生したのである。
開幕戦は、読売サッカークラブ・ベレーザ(東京) vs 清水フットボールクラブ(静岡)。
全日本選手権2連覇中のベレーザが、日本代表選手に加え、チャイニーズタイペイ(台湾)代表の周台英を擁する清水に2対0で勝利。
しかし翌年1月に第1回日本女子サッカーリーグが終了したとき、初代女王に輝いたのは清水だった。

3ヵ月後の4月、第2回日本女子サッカーリーグが開幕したとき、澤穂希は6年生になったが、この年、人生でただ1度だけ、
「男の子に生まれたらよかったのに」
と思う出来事に遭った。
ジュニアサッカー選手にとって最高の目標は、毎年、夏休みによみうりランドで行われる「全日本少年サッカー大会」
全国のサッカー少年(少女)が、
「全少」
と呼び、読売ランドを崇め、情熱を燃やした、この大会は、現在は「全日本U-12サッカー選手権大会」と呼ばれている。
府ロクは、当然、出場&優勝を目指していたが、6年生チームの中心選手だった澤穂希にとっても、よみうりランドは夢だった。
しかし予選である都大会直前、コーチから
「お前は都大会に出場できない。
女子は出場資格がない」
と告げられ、澤穂希は、その言葉を理解するのに時間がかかった。
数年間、男女差など意識せずに共にボールを追いかけ汗をかいてきたチームの中に初めて性別の壁が現れたのである。
府ロクは、なんとか澤が出場できるように大会運営と交渉したが
「少年サッカー大会だから」
と認められず、納得できない澤は、悔しくて仕方がなく、
「どうして女の子に生まれたんだろう」
と心底悩み、傷ついた。
男子だけで出場した府ロクは、都大会でベスト8に入ったもののよみうりランドには出場できず、澤穂希は、さらに怒りに似た悔しさを味わった。

小学校卒業が近づくと府ロクのチームメイトは、進路について話し始め、強豪中学校のサッカー部、社会人チームである読売サッカークラブや日産FCのジュニアチーム、三菱養和スポーツクラブなどのサッカークラブなどについて語り合った。
澤穂希は、中学校に女子サッカー部はなかったが、自宅から比較的近い場所にベレーザがあり、実際に電車に乗って練習に参加したこともあった。
そのとき、ずっと男子と一緒にやってきた澤穂希は、女子だけの練習は居心地が悪く、、ベレーザの選手に話しかけられてもテレくさくて、どうしていいかわからなかった。
直後、国立競技場で府ロクのメンバーと試合を観戦していたとき、こちらに向かって手を振る女性がいて、しかも声をかけようと笑顔で近寄ってきた。
「誰?」
というチームメイトに
『ベレーザの大竹奈美さん』
といえばいいのに、
(来ないで)
という気持ちを込めて大竹奈美にらんだ。
そして帰っていく大竹をみて、
(わざわざ挨拶してくれたのに・・・)
(ひどいことをしてしまった)
と自己嫌悪に陥った。

1991年1月、第2回日本女子サッカーリーグが終わり、ベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分け無敗という圧倒的な強さだった。
4月、府中市立第5中学校に進んだ澤穂希は、小学校ではなかった制服を着なくてはならず、スカート問題に直面。
母親は、
「お母さん、私だけキュロットにすることはできないの?」
といわれ、
「我慢しなさい」
と答えた。
その後、登校するとき、娘のスカートが異様に膨らんでいるのをみて確認すると下着の上にブルマ、さらにサッカーの短パンを履いていた。
澤穂希は、中学校入学と同時に「ベレーザ」のジュニアチームである「メニーナ」の入団テストを受けた。
ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
2年前にできたばかりのメニーナは、出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
テスト内容は

50m走
リフティング200回
ゲーム

だったが、合格。

練習場所は、聖地、よみうりランドの中にある専用グラウンド。
練習頻度は、週6回。
2階建ての古い建物の中にベレーザとメニーナ共用のロッカールームとトレーニングルームがあり、両チームは同じ時間に練習した。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
澤は、朝起きて登校すると、まず学校のそばにある府ロクのコーチの家に練習用のカバンと服を置く。
学校が終わるとコーチの家にいって制服からジャージに着替え、バスで練習場へ。
うまくいくと練習開始1時間前に到着し、コンビニで買ったおにぎりを食べて、誰もいないグラウンドで練習。
帰り道、コンビニで食べ物を買って、バスに乗って家に着くのは22時~22時半。
そこから夕食を食べた。
「練習をしていなかったら肥満児になっていたんじゃないかというくらい食べてた」
風呂に入って、宿題をして、日記とサッカーノートをつけて、寝るのは24時~深夜。
そして7時に起床し、登校するという生活を繰り返した。
サッカーノートには、その日の練習内容や目標、課題などを絵入りで書いた。
「サッカーノートはずっとつけてました。
ミーティングの内容とか、練習の中で気づいたこと、メンタル面のことなども書いてましたね」
平日は練習、週末は試合で、試合の翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
学校があるため、丸1日休んだり、遊んだりすることはできなかったが、月曜日の放課後にクラスメイトと遊んだ。

メニーナに入って1ヵ月後、澤穂希は竹本一彦監督の判断でベレーザに昇格した。
中学1年生の澤穂希は、大人のチーム独特の
「ミスしたら怒られる」
というプレッシャーを感じた。
これまでは同い年の男子ばかりだったのに、周りは10代後半~20代の「お姉さん」
身体能力の差は明らかで、同じように走れないしトレーニングもこなせなかった。
そして練習が始まると日本屈指の強豪チームの中で夢のような気分になった。
「雲の上の存在だった憧れの本田美登里さん、高倉麻子さん、野田朱美さんを前に、わぁ、私、なんてすごい人たちとサッカーしているんだろうと毎日興奮し、練習なのに、試合以上に緊張してガチガチになっていました。
当時、練習や試合で右のハーフのポジションに入ることが多く、右サイドバックには本田さんがいて、ボールを持つとどうしても本田さんを頼ってボールを戻してしまうんです。
緊張しちゃって、前に相手選手がいるかどうかなんて冷静にみえていなかったんでしょうね。
あるとき本田さんにピッチで怒鳴られました。
『コラッ、澤!どうしてボールを戻すの!前を向いて自分で行きなさい!』って。
この「前を向いて自分で行く」は、憧れの人たちに囲まれたあのベレーザのピッチで私が最初に教えてもらったことかもしれない。
今でも覚えています」
お姉さんたちは恋愛話などもしていて、澤穂希はサッカー以外にもたくさん学び、野田朱実に
「耳年増」
といわれた。
よみうりランド内の専用グラウンドは、男子チームである東京ヴェルディも練習していた。
この頃、日本男子サッカーは初のプロサッカーリーグ誕生に向けて準備を進めている、いわゆる「Jリーグ前夜」、
そんな熱い時期に熱く練習する男たちをみることができ、その技術やフィジカル、そしてサッカーに対する意識が高さ、姿勢を尊敬せずにいられなかった。

1991年5月、第8回AFC女子アジアカップが福岡県で開催。
第1回FIFA女子ワールドカップの予選も兼ねていて、上位チームは、その出場権を得ることができる。

中国
香港
マレーシア
北朝鮮
シンガポール
韓国
チャイニーズタイペイ(台湾)
タイ
日本

の9ヵ国が参加し、まずグループリーグでA組4チーム、B組5チームの2組に分けられ、総当たり戦を行い、上位2チーム、4チームが決勝トーナメントに進む方式。
ベレーザの先輩、野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子が入っている日本代表は、グループリーグを1位で通過。

中国
北朝鮮
チャイニーズタイペイ
日本

で行われた決勝トーナメントで決勝戦まで勝ち残ったが、中国に0対5で完敗。
銀メダルを獲得し、ワールドカップ出場を決めた。
その1ヵ月後、

「日興證券ドリームレディース」(千葉県]
「旭国際バニーズ女子サッカー部」(大阪)
「松下電器レディースサッカークラブ・バンビーナ」(大阪)
「フジタ天台サッカークラブ・マーキュリー」(神奈川)

と新しく4チームが加わって、10チームで第3回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月7日、中学1年生の澤穂希は、 フジタ天台SCマーキュリー戦で日本女子サッカーリーグデビュー。
右サイドハーフに入り、後ろの右サイドバック、14歳上の本多美里に、
「前向け!」
「前行け!」
と怒鳴れらながらプレー。
11日後の7月28日、デビュー3戦目、 新光精工FCクレール戦で、初得点を含む2ゴールを決めた。
最終的に、このシーズンは13試合出場5得点。
またU-20(20歳以下の)日本代表に選ばれ、韓国へ遠征し、韓国戦で初めて日本代表のユニフォームを着た。

ベレーザでは、澤穂希と同級生の五味輿恵、原歩も試合に出ていて、
「中3トリオ」
といわれ、何かと比較された。
男子と一緒にサッカーをやってきた澤にとって、同性、しかも同年齢のライバルは初めてで、
「何が何でも勝たなきゃ」
と思っていた。
一方、原歩にとってベレーザの主力としてプレーする澤は一歩先を行く存在だった。
「周りはライバルという括りでみていたかもしれませんが、私は3人のなかでも実力は1番下だと思っていたから、まだ楽だったのかもしれません。
自分にできるのは2人の後を必死に追っていくことだけでした。
きっと先頭を走る澤のほうが何倍も苦しかったはず。
そこに追いつけば、そして追い越すことができれば、自分はきっともっと強くなれると思ってました。
でも当時はあまり話をしませんでしたね。
ゴミ(五味輿恵)はいろんな人と話をするタイプだったけど、私は逆。
特に澤とは話さなかった(笑)」
3人は互いに意識し、刺激し合い、成長し、後に
「周りの思うツボだったね」
といい合った。

男子サッカーが日本初のプロリーグの正式名称「Jリーグ」、そしてJの文字の中央に日の丸をイメージした赤い円が描かれたロゴマーク発表。
女子サッカーは、ワールドカップが男子より61年遅れての開催され、4年に1度行われるようになった。
この中国で行われた「第1回FIFA女子ワールドカップ」には、12ヵ国が出場。
日本代表は、予選グループステージで、

vs ブラジル 0対1
vs スウェーデン 0対8
vs アメリカ 0対3

と無得点全敗。
優勝したのはアメリカ。
圧倒的な強さで優勝したアメリカだが、まだ全国的なリーグはなく、選手は各々の環境で個人練習に励むという状況だった。
欧州には全国リーグがある国もあったが、資金面で、あまり恵まれていなかった。
日本は全国リーグがある上、アマチュアながら大企業に支えられて仕事を保証されて、練習環境も良く、最も恵まれていた。

1992年2月、第3回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、2連覇達成。
澤穂希は、敢闘賞を獲得。
5月、男子のJリーグに参加する10クラブ、

鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
東京ヴェルディ
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパス
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島

のプロフィール、ユニフォームが発表。
よみうりランドにヴェルディ、ベレーザ共用の医療設備つきのクラブハウス、天然芝グラウンド2面と人口芝グラウンド2面が完成した。
6月、第4回日本女子サッカーリーグが開幕。
8月、夏休み、中学2年生の澤穂希は「日本代表候補」に選ばれ、遠征中のアメリカで14歳の誕生日を迎えた。
日本代表で刺激を受けたり、学ぶことは多く、当然、試合に出場したかったが日本代表戦は行われなかった。
「当時は女子代表が親善試合を開催することも海外へ遠征することも滅多になかった。
強化予算がなかったんです」
日本代表遠征から帰った澤穂希は、両親に
「大事な話がある」
といわれた。
2人は価値観の違いから離婚するといい、
「どっちと暮らす?」
と聞かれた澤穂希は、悩んだ挙句、母と暮らすことを決めた。
こうして母親、兄と3人暮らしとなり、澤は母親と同じ部屋、兄は1人部屋で生活。
母親は仕事をかけ持ちし、父親は、毎月、養育費を入れた。

現在ほど離婚する家庭は多くなく、澤穂希は学校や友達には秘密にした。
それでも恥ずかしいことやさみしいことはたくさんあったが、サッカーに熱中することでモヤモヤやわだかまりを、
「どうでもいいや」
「気にしてもしょうがない」
と消化。
運動会でリレーのアンカーとして最後尾からゴボウ抜きして1位でゴールした。
9月、Jリーグに参加する10クラブによって「第1回ナビスコカップ(現:Jリーグカップ)」が開始。
まず総当たり戦(各チーム9試合、計45試合)が行われ、ポイントが高かった4クラブによる決勝トーナメントが行われる。
11月、ヴェルディ、鹿島、清水、名古屋の4クラブで行われたナビスコカップ決勝トーナメントが終了。
「キング・カズ」こと三浦知良の決勝ゴールでヴェルディが初代王者になった。
また第4回日本女子サッカーリーグも終了し、ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、3連覇達成。
3シーズン51試合無敗というとてつもない強さだった。
「中学校でクラスメートには『ねぇ、サインもらってきてよ』と、よく頼まれました。
でもそんなクラブに自分がいることが、すでに自慢でしたから『ちょっと無理だと思うよ』なんて大人ぶって断ったりして。
本当は大好きなラモスさんとの2ショット、ちゃっかり撮影してもらっていましたけれどね」
と悦に浸る中学2年生の澤穂希だが、好きになった男子に告白してフラれてしまった。
ダンス、スカートに続いて告白もトラウマとなった澤穂希は、これ以降、大人になっても自分から告白したことはない。

1993年5月、ついにJリーグがスタート。
開幕戦は、東京ヴェルディ vs 横浜マリノスで国立競技場は6万人近い観衆で埋め尽くされた。
翌日も4試合が行われ、鹿島のジーコがハットトリック(1試合3得点以上)を達成。
ラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内有力選手に加え、ジーコ、リトバルスキー、カレカ、ディアスなどワールドクラスの選手も参戦するJリーグに日本中が熱狂。
サッカーへの関心が爆発的に高まり、空前絶後のサッカーブーム、Jリーグブームが勃発。
この年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞は「サポーター」
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
この開幕シーズン、ブラジルから帰国した直後から
「日本をワールドカップに連れていく」
と豪語していた三浦知良は、20得点を挙げ、MVP、フットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞を受賞。
ゴールを決めると、両足で細かいステップを踏みながら両手をグルグル回し、最後に左手で股間を押さえ、右手で前方または天を指指さす「カズダンス」を行った。
三浦知良がゴールを決めるとチームメイトもサポーターもカズダンス。
しかし城彰二は自分がゴールを決めたときにカズダンスをして、後で三浦知良に呼び出され、以降、踊れなくなった。
澤穂希は、同じよみうりランドのグラウンドで練習するキング・カズを憧れのまなざしでみていた。
女子サッカーは、Jリーグ開幕、1ヵ月後に第5回日本女子サッカーリーグが開幕し、ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録を止められた。

兄が中学卒業後、競馬の調教師になるために北海道の厩舎へいったため、澤穂希は、母親と2人暮らしになると共に自分の部屋を手に入れた。
そして初めて「日本代表」に召集された。
前回は「日本代表候補」だったが、今回は「日本代表」
日本代表に選ばれると、まず日本サッカー協会からレターが所属先に送られる。
澤穂希は、ベレーザスタッフからそれを受け取り、召集されたことを知ると
「信じられない」
と驚いた。
新聞にも取り上げられ、中学校では校長から賞状をもらった。
そして15歳の冬、第9回AFC女子アジアカップがマレーシアで始まった。

マレーシア
香港
北朝鮮
中国
フィリピン
韓国
チャイニーズタイペイ
日本

が参加し、まず4チームずつ2組に分けられ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、計4チームで決勝トーナメントを行う。
日本は、12月4日のチャイニーズタイペイに6対0で勝利。
最高年齢27歳、1番近くても17歳というチームの中で、15歳の澤は、この試合をベンチで観戦。
「中学3年生で初めて代表に呼ばれたんですが、生意気な15歳で、試合に出られないのが悔しくて・・」
翌日の練習でベレーザの先輩で日本代表キャプテンでもある野田朱美 に、
「さあ、アピールしてこい」
といわれ、ウォーミングアップのジョギングで、それまで1番後ろにいたのに先頭を走り、野田は
「行け、行け!」
とハッパをかけた。
12月6日、第2戦、フィリピン戦の試合前も、
「監督の前で自分いるよって全力でウォーミングアップ」
そして澤穂希は、日本代表デビューを果たし、いきなり4得点し、日本代表は、15対0で勝利した。
12月8日、香港戦も4対0で勝利し、予選リーグを1位で通過し、決勝トーナメント進出。
12月10日、決勝トーナメント1回戦の中国戦を1対3で敗退。
12月12日、3位決定戦、チャイニーズタイペイ戦を3対0。
最終的に、優勝は中国(4連覇)、2位は北朝鮮、日本は3位だった。
8日間で5試合という過密スケジュールで大会はアッという間に終わったが、澤穂希はフィリピン戦後、すべての試合に出場した。
「代表という願いが叶うと、ワールドカップ、オリンピックと夢がどんどん大きくなりました」

1994年2月、第5回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録は失ったものの、4連覇を達成。
澤穂希は、ベストイレブンに選ばれた。
1994年4月、第6回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月、西友とスポンサー契約を結んで名前が変わった「読売西友ベレーザ」が前半戦を1位で終了。
9月、「日本女子サッカーリーグ」も「L・リーグ」に名前が変わり、公式イメージソング「OH OH OH We are the Winners」を発表。
メインボーカルは酒井法子、そしてリーグの10クラブから1選手ずつがバックコーラス。
各クラブもイメージソングも製作し、日興證券は早見優、TOKYO SHIDAX LSC(旧:新光FCクレール)」はマルシア、そしてベレーザは和田アキ子とそれぞれ個性的なキャスティング。
12月、第6回日本女子サッカーリーグが終了。
優勝したのは「松下電器レディースサッカークラブバンビーナ」
第2~5回まで4連覇したベレーザは3位。
東京都立南野高校1年生の澤は、毎月、給料の半分を家に入れて一定額を貯金し、お金の出し入れを堅実に管理。
中学に入るときスカートが嫌でナーバスになったが、高校ではルーズソックスまではき、ベレーザの練習が休みの月曜日は、放課後、ポケベルで連絡を取り合って、友人とカラオケやお茶をした。

1995年6月、スウェーデンで第2回FIFA女子ワールドカップが開催。
高校2年生の澤穂希は、日本代表の背番号7をつけてワールドカップ初出場。

参加12ヵ国が4チームずつ3組に分けられ、総当たり戦を行い、各組上位2チームと3位のチームの成績上位2チーム、計8チームよる決勝トーナメントが行われる。
そして決勝トーナメントに進出したベスト8国は、翌1996年に行われるアトランタオリンピックの出場権を得る。
ワールドカップ2大会連続出場、前大会、無得点予選敗退の日本は、

ドイツ戦 0対1
ブラジル戦 2対1
スウェーデン戦 0対2

とブラジルに勝って、グループリーグ3位で決勝トーナメント進出し、オリンピック出場権をGET。
しかし決勝トーナメント初戦で、アメリカに0対4で負けた。
澤穂希は、ドイツ戦で、体格、フィジカル、当たりで今までに経験したことのない大きさと強さを経験。
「0対1と結果だけみれば惨敗だったけれど、実際感じた差は大きなものだった」
ブラジル戦は、ベレーザの先輩、日本代表キャプテンの野田朱美 の2ゴールで勝利。
ホスト国、スウェーデン戦で、澤穂希はゴールキーパーと接触して足を負傷。
病院へ直行したが、松葉杖なしでは歩けない状態になり、
「ぜひ戦ってみたい」
と思っていた世界最強のアメリカとの戦いは、スタンドで観戦。
0対4で敗れるのをみて、世界の壁を痛感した。


ワールドカップが終わった後、L・リーグが8~12月という超短期間で開催し、「プリマハム・FC・くノ一」が優勝。
ベレーザは4位だった。
長年、ベレーザの天下だった日本女子サッカーリーグは、群雄割拠、下克上の戦国時代と化していた。
その理由は、黒船。
清水は、元々いた周台英に謝素貞、許家珍を加え「チャイニーズタイペイ・トリオ」で結成。
フジタは、アメリカ代表ゴールキーパー、グレッチェン・ゲグ、カナダ代表FW、キャリー・セアウェトニク。
プリマハム・FC・くノ一は、カナダ代表FW、シャーメイン・フーパー、中国代表の李秀馥と菫樹紅。
各支援企業が世界から優秀な選手を獲得した結果、男子のイタリア「セリエA」のような世界のスターが集まるリーグとなった。
澤穂希にとって特に印象深かったのは、シャーメイン・フーバーで、1人で局面を打開し、ゴールまで決めてしまう姿に驚いた。
「ベレーザにも外国人選手が在籍していて、チームメイトや対戦相手に高いレベルの選手がいると負けたくないという気持ちが生まれたし、もっともっと上手くなりたいという気持ちも自然と持つようになった。
外国人選手は府中市や東京しか知らない私にとって世界を教えてくれる存在でもあった。
世界にはこんな選手がいるんだと思うとワクワクした」

1996年4~5月、Jリーグに比べ、観客動員数が少ないL・リーグは、リーグ戦だけでなくカップ戦を導入し、「Lリーグカップ96」を開催。
L・リーグに参加する10チームが東西5チームずつに別れて総当り戦を行い、上位2チームで4チームで決勝トーナメントを行って、最終的にベレーザが優勝。
5月、女子日本代表は、アメリカに遠征し、US女子カップに参戦。
中国に 0対3、アメリカに0対4と連敗。
カナダ戦 をPK戦で勝って、なんとか3連敗は免れたが、帰国後、国内でデンマークと2回、壮行試合を行い、1敗1分。
その後、アトランタオリンピック最終選考合宿が行われ、最終日にアトランタオリンピック代表メンバーが発表された。
20名ほどいる候補の中で選ばれるのは16名。
名前を呼ばれたら、そのままアメリへ、呼ばれなければ代表選手を見送った後、地元へという残酷なシチュエーションをくぐりぬけ、澤穂希は代表メンバーとなった。
アメリカに着くと最終調整として2戦行ったが、オーストラリア戦に2対2、 スウェーデン戦に 1対3と両方とも勝てなかった。
7月、アメリカ、アトランタでオリンピックが開催。
伝説的ストライカー、釜本邦茂の活躍もあって1968年のメキシコで銅メダルを獲得したものの、それ以降、72年、76年、80年、84年、88年、92年と予選敗退の男子日本代表が、グループリーグ第1戦で、優勝候補のブラジルに1対0で勝利。
日本では「マイアミの奇跡」、ブラジルでは「マイアミの屈辱」といわれた。
その後、ナイジェリアとハンガリーに連敗し、グループリーグ3位で予選敗退。
(日本に負けたブラジルは、銅メダル獲得)

一方、女子サッカーは、男子より96年遅れて正式採用されたため、全チームが初オリンピック。
そんな中で日本代表は、

ドイツ戦 2対3
ブラジル戦 0対2
ノルウェー戦 0対4

でグループリーグ4位敗退。
13歳で日本女子サッカーリーグデビュー、15歳で日本代表デビュー、17歳でオリンピックデビューをした澤穂希は、3試合にフル出場。
前年のワールドカップでキーパーをぶつかって負傷したが、オリンピックでもドイツ戦で再びキーパーに体当たり。
こぼれ球を木岡二葉がゴールに蹴り込んだ。
その後もブラジル戦、ノルウェー戦で体当たりし、跳ね返された。
「ただ怖いもの知らずだった」
最終的に、

金メダル アメリカ
銀メダル 中国
銅メダル ノルウェー

という結果となった。
澤穂希は、帰りの飛行機で
「どうして1勝もできないんだろう」
「どうして全敗なんだろう」
「なんでこんなに差があるんだろう」
そんなことばかり考えていた。

オリンピック後、8~12月に開催されたL・リーグでは、「日興證券ドリームレディース」が初優勝。
ベレーザは3位だった。
大手証券会社によって結成された日興證券ドリームレディースは、全選手が社員として雇用された上でサッカーに専念。
専用練習グラウンド、クラブハウス、選手寮、ユニホームや練習着だけでなく、オリジナルデザインの練習ボールまでつくられるというJリーグなみの環境。
さらに第1回女子ワールドカップ準優勝国、ノルウェー代表FW、リンダ・メダレン、DF、グン・ニイボルグ、MF、ヘーゲ・リサを獲得していた。
日興だけでなく、Lリーグに参加するチームの多くが専用グラウンドやクラブハウスを持ち、世界から選手が集め、
「世界最高の女子サッカーリーグ」
と呼ばれていた。

1997年1月、シドニーオリンピックに向け、女子日本代表監督が58歳の鈴木保から36歳の宮内聡となった。
最初の合宿に招集された23人の中でアトランタ経験者は8人だけで選手も世代交代が進められた。
新監督は、通常、1日に90~120分が1回行われていた練習を、午前、午後の2回、ときに夕食後に3回目を行うなど量を増やし、かつ内容も濃くした。
澤穂希は、ベレーザの竹本監督から進学を勧められ、父親に入学金を出してもらい、帝京大学に進学。
中学時代、サッカー選手になりたいと思いながらも、子供が好きで
「学校の先生になりたい」
という気持ちがあったので、教師になる卒業生が多いという文学部教育学科を選んだ。
大学生になっても昼間は学校、夕方から夜にかけてベレーザで練習というスケジュールは変わらなかったが、様々な人と知り合って人間関係の幅がグンと広がった。
1997年6月、日本女子代表は、東京の国立競技場で行われた中国との親善試合を、1対0。
1週間後、大阪での第2戦はドロー。
女子日本代表のキャプテンは、日興証券の山木里恵。
3歳下の澤穂希は副キャプテンを務め、そしてベレーザの先輩、野田朱美から背番号10を継いだ。
「日本代表の10番、それを野田さんという大先輩から受け継ぐのはうれしかった」

ベレーザでも「「お姉さん」となり、若手時代は自分が成長し自分のプレーだけに集中していればよかったが、チームのことを考えるのも仕事になった。
ときには選手を叱責することも求められたが、人見知りで不器用で優しい澤穂希には、なかなかできない。
悩み、苦しみ、試行錯誤を繰り返した末、たどりついた答えは、
「私なりでいいんじゃないか」
そう思うといろいろなことが自然体でできるようになり、
「足りない部分はプレーで引っ張ってプレーで伝える」
という覚悟と責任感、そして意欲がわいてきた。
グラウンドでは
「絶対にあきらめないという姿勢を示すことが仕事」
と決め、誰よりも走った。
「自分への「いいね」が大事。
仲間のいいところをホメ合う関係も大事」
という一方で
「ダメ出しを遠慮するようでは目標は達成できない。
嫌われるかな?、傷つくかな?といいたいこと、いうべきことを飲み込んでいては、よいチームにはなれない」
と何事もためらわず伝え、年下の選手に
「澤さん、今のパス、もう少し早く出してもらえたらよかったです」
などと遠慮なくいわれると心強く感じた。

12月に行われたAFCアジアカップでは、

グァム 21対0
インド 1対0
香港 9対0
北朝鮮 0対1
チャイニーズタイペイ 2対0

と準決勝で北朝鮮に負けたものの3位。
1999年にアメリカで行われる第3回FIFA女子ワールドカップの出場権を入手。
一方、L・リーグは、日興證券ドリームレディースが2年連続の優勝。
しかし翌1998年10月、日興證券ドリームレディースは、シーズン真っ最中に、このシーズン限りでの解散を発表。
バブル経済崩壊後、経営不振に陥った日興證券のコスト削減の一環だった。
澤穂希が所属する「読売西友ベレーザ」も、西友が撤退し「読売ベレーザ」となった。
1999年1月、日興證券ドリームレディースがL・リーグ3連覇を達成した後、解散。
続いて「フジタサッカークラブ・マーキュリー」も廃部を決定。
男子Jリーグでも、運営会社の全日空と日産自動車の経営不振により、横浜フリューゲルスが横浜のマリノスに吸収合併されて、「横浜Fマリノス」に。
さらに第1回日本女子リーグチャンピオンの「鈴与清水FCラブリーレディース」と「シロキFCセレーナ」も撤退。
L・リーグは、10チーム中、4チームが消えてしまった。

1999年4月、「読売ベレーザ」はスポンサーが代わって「NTVベレーザ」に名前が変わると、澤穂希は、
「今の契約は3ヵ月後打ち切る」
と伝えられ、
「これからどうなるんだろう」
将来が不安になり、食が細くなり、体重が減り、筋力も落ちた。
しかしそもそもL・リーグの大半の選手が学生やサッカー以外の仕事をしていた。
ベレーザでもプロ契約しているのも数名だけで、他のチームメイトは働きながらプレー。
日本代表でも所属していたクラブが廃部になった選手がいた。
澤穂希は、彼女たちの前で弱気な姿をみせるわけにはいかなかったし、一緒にボールを蹴っていると不思議と不安は消えた。
澤と同様、ベレーザから契約見直しを告げられた選手の中に、アメリカ人のナタリー・二ートンがいた。
彼女はこれを機に帰国し、アメリカでプレーすることを決めていたが
「サワもアメリカでプレーすれば?」
と誘った。
澤穂希は、ナタリーからアメリカでは女子サッカーが大人気で、プロのリーグができると聞いて
「私にもチャンスがあるかな?」
するとナタリーは、以前自分が所属していたチーム、「デンバー・ダイアモンズ」に連絡。
そして
「サワ!
アメリカに行けるよ!
澤が望めば契約してもいいって」

6月、第3回FIFA女子ワールドカップがアメリカで開催。
ベスト8に入れば翌年のシドニーオリンピック出場権が得られる上、日本代表にとっては女子サッカーの人気回復もかかっていた。
しかし、

カナダ戦 1対1
ロシア戦 0対5
ノルウェー 0対4

と予選リーグを最下位で敗退。
優勝したのは、開催国のアメリカだった。
澤穂希は現地で女子サッカー人気を高さを目の当たりにした。
世界的に有名なミア・ハム選手を筆頭に、選手はサッカー少女の憧れの的になっていて、スタジアムにはユニフォームを着た大勢の小中学生が集まっていた。
競技人口も多く、1 つの州の中にたくさんの女子チームがあって、それぞれカテゴリー別にわかれていた。
3ヵ月前に告げられたベレーザとのプロ契約の打ち切りは数日後に迫っていたが、大学2年生、20歳の澤穂希は、すでにアメリカ行きを決めていた。
当初は
「大学を中退するのは高い入学費を払ってくれた両親に申し訳ない」
と葛藤していたが、父親に
「穂希の信じた道を歩みなさい」
といわれ
「チャレンジするなら今しかない」
と決心。
「貯金もほとんどなく、働けるビザもない。
残高証明書をアメリカ大使館に届けに行ったり、何もかも自分で手探りでやってみました」
ベレーザからは引き留められたが、1999年7月8日、アメリカ、コロラド州デンバーにあるデンバーダイアモンズへの移籍を発表。
7月20日、ジーンズにパーカーといういつもの服装に
「足りないものは向こうで買えばいいや」
とスーツケースを2つだけ持って、成田空港から飛び立った。
13時間のフライトを終え、デンバーに到着した澤澤穂希は、空港のとてつもない広さに驚いた。
アメリカは、建物、車、人、食べ物、すべてが大きかった。
澤穂希の渡米後、マスコミが
「日本人初、女子サッカー大国のプロリーグに挑戦」
と騒ぐ中、L・リーグが、7月から12月までの短期開催。
新しく「浦和レイナスFC」と学生チーム「日本体育大学女子サッカー部」が加わって、8チームで日本一を争った。
優勝したのは、プリンハムFCくノ一。
ベレーザは2位。
シーズン終了後、日体大と「OKI FC Winds」が退会。
さらに翌2000年のリーグ開幕前に、プリマハムと松下電器がスポンサー撤退を発表したが、プリンハムFCくノ一は「伊賀フットボールクラブくノ一」、松下電器パナソニック・バンビーナは「スペランツァFC高槻」と名前を変え、市民チームとしてL・リーグに残留。
澤穂希の先輩、高倉麻子は、プロ契約解除になった後、ベレーザを去って松下電器パナソニック・バンビーナへ移籍したが、2ヵ月後に廃部となってしまった。

一方、アメリカの澤穂希は、最初はナタリー・二ートンの家に滞在していたが、しばらくするとチームメイトと一緒に暮らすようになった。
そのチームメイトとは、アリソン・ギブソン。
日本のフジタマーキュリーでプレーしているときに、19歳の澤をみて
「なんてうまい選手なの!?」
と驚いたという。
2人が暮らす家は、練習場まで車で1時間もかかる自然豊かな田舎にあっった。
澤穂希は、最初はすべてが初体験で刺激が多く、楽しかったが、言葉の問題によってストレスを感じるようになった。
「なんとかなる」
と思っていたがが、実際に生活してみると相手のいっていることはわからず、自分の話も伝わらず、日常生活もままならなかった。
デンバー・ダイアモンズはセミプロチームで、チームメイトは昼間は仕事や学校にいって、夕方から練習が始まった。
澤穂希は、練習でも監督の指示が理解できず、ホワイトボードで説明してもらうなど、いろいろなことに時間がかかり、グラウンドでのチームメイトとのコミュニケーションにも問題が起こった。
日本の家族や友人に連絡しようとしても、まだメールなどない。
手紙を書いてから届くまで1週間、返事が届くまで1週間かかり、
「往復2週間の間に伝えたいことはたまっていった」
何曜日がゴミの日かわからず、欲しいものがあってもどこで売っているのかわからず、誰ともコミュニケーションがとれず、
「日本に帰りたい」
とホームシックで毎日泣いた。
特に昼間はアリソン・ギブソンが仕事に出るので夕方まで1人。
運転できない、言葉がわからない、おしゃべりできない、テレビも面白くないとないないづくしの澤はさみしさに襲われた。
渡米前に膨らませていた希望はしぼんでしまい、
「もうダメ」
と敗戦気分で過ごしていた。

しかし
「逃げ出すわけにはいかない」
「ここでやるしかない」
と自分にいい聞かせ、週2回、語学学校に通いながら、近くの店で積極的に話しかけ、夕方から練習が始まるとチームメイトが話す英語の輪の中に入っていった。
相手がいったことがわからなかったら、
(わかったフリをしたら前に進めない)

「なんていったの?」
とスペルや発音、意味をしつこく聞き、帰ったら辞書で確認。
それを繰り返すうちにわかる言葉が増え、日ごとにコミュニケーションが楽しくなった。
時間はかかったが、複雑な会話や抽象的な考えも聞いて理解し、英語で伝えられるようになり
「結局、どうにかなっちゃうものなんだ」
家の近くですれ違うと
「ハーイ」
「調子どう?」
と声をかけられたり、時間と場所をいうだけ誰が来るかもわからないホームパーティに誘われたり、オープンな人間が多いアメリカで、それに応じているうちに自分からもどんどん話しかけるようになり、人見知りもしなくなった。
「一緒にパーティーにいったりして彼女が人と知り合っていく様子をみてきましたが、出会った人の誰もがサワのことを好きになっていきました」
(アリソン・ギブソン)

アメリカは、自己主張が強く、自分の意見をハッキリ主張する人が多かった。
試合はもちろん練習グラウンドでもチームメイト同士でいい合うには日常茶飯事。
それは日本でもあったが激しさが違い、放送禁止用語を連発させて罵り合うチームメイトに
「アメリカ、怖っ」
「マジ?
そんなに言い合わなくても」
と驚いたが、
「サワはどう思う?」
と意見を求められることもあり、相手の合わせるのではなく自分の意見をハッキリさせて主張する大切さを学んだ。
「私自身自分の意見を持っていると思っていたが、彼女たちに比べたら白と黒だけでなくグレーがあるなと思った」
そしてアメリカの選手は、激しいいい合った後でも、ピッチを離れれば誰も引きずらなかった。
「そういう切り替えの早さも重要なことだと思う」
また練習が終わるとすぐに帰ってしまい、
「意外と練習しない!」
食事も、
「ピザばっかり!」
と驚いた。

アメリカ代表の平均身長は約170㎝。
165㎝の澤穂希は、日本でヘディングの競り合いで負けることは少なかったが、アメリカではがよく負けた。
体の大きさだけでなく、アメリカ人選手はスピードもパワーもケタ違いだった。
「日本と同じ感覚でプレーしていたらアメリカでは生き残れない」
と悟った澤穂希は、それでもなんとか自分の力をプレーを証明しないと試合に出してもらえないので
「自分の長所はなに?」
「他になくて自分にあるものは何か?」
と考え始めた。
出てきた答えは
「動き出しのスピード」
「判断の速さ」
だった。
日本代表の体力測定で、ほぼすべての項目が平均値。
長距離走は苦手で、「10m走」だけ大野忍に次いで2位だった澤穂希は、
「サッカーでは50mを一気にダッシュすることはあまりない。
1歩、2歩の動き出しのスピードが重要。
瞬発力、瞬間的な速さで勝負。
そこは私が自信を持っているところ。
誰にも負けないところじゃないか」
と自己分析。
速く動き出すことと多彩な技術で、身体能力と体格に差がある相手にも有利にプレーし、
「クイック・サワ」
と呼ばれるようになった。

2001年、アメリカに来て1年半後、アメリカ女子サッカーリーグ「WUSA(Women`s United Soccer Association)」がスタート。
参加している全米の8チームは、すべてプロ。
各チームは、直接交渉ではなくドラフト会議を経て選手を獲得しなくてはならず、アトランタ・ビートから指名を受けたホマレ・サワは、プロ契約を結んで、デンバーからアトランタへ引っ越し。
練習場は、ジョージア工科大学の敷地内にあるグラウンドで、キャンパスの一角にロッカールーム、シャワー、ミーテイングルームがあった。
初めてロッカールームに入ると練習用ウェアが用意されていて、日本では練習着の洗濯は選手の仕事だったが、練習後、バスケットに入れれば洗ってもらえるというシステムに驚いた。
「午前はチームの練習をして、午後は自分の体をケアする時間に充てられる。
洗濯物を出しておけば、次の日にはロッカーに置いてある。
その前からベレーザでもプロ契約はしていましたが、金額面でも環境面でも大きく違います。
またアメリカでは自分たちのチームを知ってもらうために様々なイベントをするんです。
例えば新しくショッピングモールができたら、何人かの選手が行ってサイン会、握手会をしてPRをする。
日本だとL・リーグの試合がいつあるのか、自分で調べないとわからないですよ」

WUSAのシーズンは、4~9月。
記念すべき開幕戦は、ベイエリア・サイバーレイズ vs ワシントン・フリーダム。
アメリカ代表DF:ブランディ・チャスティン vs アメリカ代表FW:ミア・ハムというアメリカ2大スターの直接対決に、ワシントンのロバート・ケネディ・スタジアムには約35000人が入った。
特にミア・ハムは、競技の枠、男女の枠、そしてアメリカという国の枠さえ超えた世界的アスリート。
15歳でアメリカ代表に選ばれて以来、2度のワールドカップと1度のオリンピックの優勝に貢献し、FIFA最優秀選手の栄冠にも2度輝いていた。
1週間後、澤穂希が所属するアトランタ・ビートは、ホームであるジョージア工科大のボビー・ドッドスタジアムで ニューヨーク・パワーと対戦。
この開幕戦に澤穂希は先発し、積極的にシュートを放ったが0対0の引き分け。
2戦目もフル出場したが勝てず、3戦目、澤穂希にとってもアトランタ・ビートにとっても初となるゴール。
4戦目、ミア・ハムが所属するワシントン・フリーダムを相手に2試合連続となるゴールを決め、アトランタ・ビートは首位に立った。
WUSAの公式サイトで実施された「予想外に活躍している選手」投票で、「ホマレ・サワ」が上位にランク。
アトランタ・ビートは、地元で人気のあり、ホームゲームには平均1万人が集まり、サポーターは熱烈で応援は迫力があったが、つまらないミスをすればブーイングが起こった。
チームは、イベントやサイン会を行ってファンと交流。
「地元の人たちと触れ合える機会は純粋にうれしかった」
そしてアトランタ・ビートはシーズンが進むにつれて調子を上げ、ベイエリア・サイバーレイズとの優勝決定戦へ。
前半、0対1から澤のアシストで1対1。
その後、両チーム2点ずつとって3対3でPK戦へ。
アトランタ・ビートは、ここで敗れ、準優勝でシーズンを終えた。

2002年8月、日本女子サッカー代表は、上田栄治が新監督となってスタート。
目標はアテネオリンピック出場だった。
この年、日本代表戦は11試合あったが、澤穂希は、8試合に出場し、5得点。
2003年は、

1月、アメリカ 0対0(親善試合)
3月、タイ 9対0 (親善試合)  
6月、タイでアジア大会が開催され、このワールドカップ予選を兼ねた大会で

フィリピン 15対0
グアム 7対0
ミャンマー 7対0
チャイニーズタイペイ 5対0

と勝ち進むも

北朝鮮 0対3
韓国 0対1

と負け、最終的に4位。
本来、ワールドカップは中国で行われるはずだったが、SARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに開催地が変更され、準優勝の中国が開催国枠で出場権を獲得していたため、日本は首の皮1枚つながった状態で大陸間プレーオフに進出。
北中米カリブ海3位のメキシコとの対戦し、アウェイで2対2、国立競技場で2対0と辛くも勝利を収め、なんとかワールドカップ出場を決めた。

9月15日、WUSAが活動休止を発表。
アメリカで女子サッカーは競技人口も多く人気も高かったが、野球、バスケットボール、アイスホッケー、アメリカンフットボールなどに比べて興行がよくなく、スポンサー2社が資金提供の打ち切ったのトドメとなった。
アトランタ・ビートで 2001 ~2003年まで3 シーズン連続でプレーオフに進出した澤穂希は愕然としたが、5日後の9月20日、第4回FIFA女子ワールドカップが始まった。
4大会連続参加の日本は、

アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3

と2大会連続予選リーグ敗退。
澤穂希は2ゴール挙げたが、大会後、リーグと共にチームも解散。
新しい所属先を探すか、あるいは引退して結婚するかを決めなければならなかった。

澤穂希は、年上のアメリカ人男性と交際していた。

「女子サッカー選手の中には彼氏ができたことがパワーになってサッカーもいい方向にいく選手がいるし、逆にプレーが悪くなる選手もいる。
女性には男性にはない出産があるため、仕事で上を目指したり、やり切ろうという場合、結婚が上で障害になることもある」
という澤穂希だが、サッカーと恋愛、どちらかだけではなく両方、追うタイプ。
また
「理想の彼氏像など特になく、一目ボレはしたことはない」
「自分からコクることはできない」
「思わせぶりな態度をとって駆け引きをすることはできない」
「1人の男性をずっと待つなんてできない」
という澤穂希は、自分が好きになったタイミングと自然と合った人と付き合うことが多かった。
そして好きな人や彼氏に夢中になっても、絶対にサッカーは疎かにせず、サッカーにマイナスになると思うようなことはしなかった。

サッカーは手抜きせず集中して行い、グラウンドを出ると
「今日はおしまい」
と切り替える。
このオンとオフの切り替えが重要で、そのために欠かせないのが
「友達と会うこと」
だという。
サッカー関係者だけでなく多方面に友人を持ち、マメに連絡し、お茶や食事、買い物をしたり、大勢でワイワイ盛り上がって気持ちをリフレッシュさせる。
ときには男友達と2人で食事することもあり、それを許してくれない男性とはつき合えない。
その代わり「自分がイヤなことは相手にもしない」主義の澤穂希は、彼氏が女性と2人で食事するといっても怒ったり、止めたりしない。
極度に負けず嫌いな澤穂希だが、彼氏に対しては、
「彼に自分の意見や主張をぶつける理由がない」
とその性格はまったく発動させず、だいたいのことは許した。
そして1度つき合うと長続きした。

アメリカでも女子サッカーはTVで試合が放送されたり、試合会場が満員になることなど少なく、
「稼げる競技に転向したい」
「給料を上げてくれないとプレーしたくない」
「食べていけない」
といってやめていく選手もたくさんいたが、澤穂希は、
「お金のことは正直いってよくわからない」
といい、自分の価値や能力をお金に換算して考えたことがない。
大金を得るためでも、有名になるためでもなく、ずっと
「サッカーが好き」
「もっとうまくなりたい」
という気持ちだけでやっているので
『お金にならないだったら走る気にならない』
『誰も注目しないんならサボっちゃえ』
などと思うことは皆無で、
「目標に向かって毎日が特別」
が澤穂希のモチベーション。
だから契約更新時に年俸アップのために貢献度をアピールしたことなど1度もなかった。

逆に、
『10年後、何をしていると思いますか?』
と質問されても、本当に考えていないからと答えられない。
「目の前の目標が達成できなかったら、その次なんて絶対に来ない」
という気持ちで目の前のことにだけ全力を注ぐので、先のことは想像がつかなかった
しかしアメリカ女子サッカーリーグが休止するとなると将来のことを考えざる得ず、彼と話し合った。
真剣に結婚を考えていた澤は、
「選手を引退して家庭に入って彼を支えるのもいいな」
とも思っていて、彼に
『もうサッカーをやめて結婚しよう』
といわれれば、そうなったかもしれなかったが、
「ここでサッカーをやめたら後悔するよ」
といわれたため、迷いが生じた。
悩み続けた末、
「悔いを残したくない」
「あきらめたくない」
という気持ちをとった。
そうなるとリーグが消滅してしまったアメリカにとどまることはできなかった。

2004年1月末、澤穂希は6年ぶりに古巣、ベレーザに復帰。
澤穂希と同級生で中学時代からベレーザで一緒にプレーした「中3トリオ」の1人、五味輿恵は、その成長を感じた。
「アメリカから帰ってきたホマは、体格がすごく大きくなって当たりが強くなっていました。
私はボランチで攻撃的MFであるホマの1列後ろという位置でプレーしてましたから、変化にすぐ気がつきました。
それとアメリカに行く前のホマはすごく人見知りだったのですが、帰ってきてからは誰とでも気さくに話すようになりましたね
人が変わったんじゃないかってくらいです」
澤穂希は、離れ離れになったアメリカの彼とは、話し合いの末に別れることになった。
しばらく寂しい気持ちはあったが、目標に向かって突っ走っているうちに時間が解決。
自分の性格から
「結婚とサッカーの両立は無理」
「結婚はサッカーをやり尽した後」
と覚悟を決めた。
周りには、
「家庭に入ったら物足りなくなるんじゃない?」
と一生独身を推す声もあったが、
「結婚したら、掃除と洗濯は毎日して旦那さんが夜遅く帰ってきてもご飯とお風呂を用意して迎える」
「子供は3人くらい欲しい」
「できれば男の子が欲しい」
「年齢を考えると難しいかもしれないから、いっそ双子が欲しい」
「運動会では保護者が参加する種目で一般のママに負けられない。
メッチャ練習する」
などと将来の理想と妄想を語りながら、サッカーに励んだ。
アテネオリンピック、アジア予選は3ヵ月後に迫っていた。

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