東京都の中央、府中市で生まれた澤穂希は、3歳のときに全国にプールを持つ「イトマンスイミングスクール」に入会。
昇給テストに受かって級が上がるとスイミングキャップの色が変わっていくというシステムにハマり、新しい色のキャップを狙って夢中で泳ぎ、幼稚園に入る前に1番上の「特級」に到達。
生まれつき左利きだったが、書道を習って、
「文字は右手で書きなさい」
と指導され、書くのは右手、箸は左手という両利きになった。
「両手が使えることで右脳と左脳がバランスよく刺激されているかもしれない。
そのバランスがサッカーに生かされている気はします」
ある雪の日の夜、3歳の澤穂希と兄がイタズラをしたため、母親は
「反省しなさい」
と家の外に放り出した。
その後、家事に追われ、気がつくと、すでに1時間ほど経っていて、あわてて外をみると泣き疲れて玄関で眠る兄と物干し竿で遊ぶ妹がいた。
5歳のとき、父親の転勤で一家で大阪府高槻市に引っ越し。
兄が「安満サッカークラブ」に入ると、いつも母親と一緒に練習をみにいっていた。
6歳のとき、コーチに
「妹さんも蹴ってみない?」
といわれ、後をついてグラウンドへ。
「エイッ」
とつま先で突くように蹴ったボールは、コロコロと転がった。
澤穂希がワクワクしながら行方を見守っていると、何かに導かれるようにゴールへ吸い込まれていった。
ゴールの意味はわからなかったが、その瞬間、
(楽しい!!)
ととにかく嬉しく、大喜び。
母親をみると笑っていて、コーチは少し驚いていた。
この一蹴りで人生は決まった。
「ゴールに入ったのが嬉しくて。
すぐに私もサッカーをやりたいってなりました」
こうして澤穂希は、大阪でボールを蹴り始めた。
安満サッカークラブは、安満遺跡公園のグラウンドで練習し、夜遅くなると夜間照明がないために車のライトをつけて練習するような熱心なクラブだった。
「大阪では週に1回か2回の練習に参加するだけだったけど、サッカーに夢中でした」
7歳のときに父親の転勤が終わり、東京都府中市に戻ると「府ロクサッカークラブ」、通称「府ロク」に入った。
府ロクは、府中第6小学校の先生が創設。
授業の後、学校のグラウンドで練習し、全国大会に何度も出ているジュニアの名門チームだった。
兄は問題なく入ることができたが、澤穂希は、母親が
「妹は入れますか?」
と聞くと、男子、しかも小学校3年生以上でないと入れないというルールがあって、
「前例がないから」
と断られてしまう。
しかし母親はあきらめず
「前例がないのなら、うちの娘で新しい歴史をつくってください」
といい、小学2年生の女の子の「仮入団」が認められた。
仮入団の身である澤穂希は、グラウンドの隅で練習していたが、間もなく地元の小学生が出場する「狛江杯」があり、母親と兄の応援へ。
前半を0対0で終えたとき、コーチに
「出てみない?」
といわれ、ユニフォームを借りて後半から出場。
そしていきなりゴールを決め、チームは勝利。
本人は、
「無我夢中でプレーしたこと以外記憶がない」
というが翌日の地元の新聞に
「途中出場の女の子の決勝ゴール」
と取り上げられ、府ロクにも「正式入団」となった。
府ロクの練習は、月~金まで週5日で、土日は、試合や遠征、合宿があった。
学校が終わるとすぐに練習が始まり、帰宅は夜。
兄は家に帰ると
「疲れた」
といって風呂に入ったが、澤穂希は
「練習する」
といってボールを持って外にいき、1人で1時間くらい、家の前の壁にボールを当てたり、リフティングをした。
「自主練というより、ただただ楽しくて蹴っていただけ」
というが、雨の日は家の中でボールを蹴ることもあった。
府ロクに入って半年後、河口湖で行われた合宿で、広いグラウンドの外周を1度もボールを落とさずにリフティングで回ってコーチを驚かせた。
澤穂希は、身長が高く、髪型もショートカット。
大阪にいた頃、可愛い帽子をかぶったりして女の子らしい格好をしたこともあったが、東京に戻って男の子ばかりの中でサッカーをするようになってからスカートなどはいたことがなく、いつもGパンや短パンで、よく男の子に間違えられた。
運動会でスカートをはいてダンスをしなければならなくなると、練習のときからふてくされ、以後、ダンスは嫌いになった。
府ロクを含め、多くのジュニアサッカーチームは各学年ごとにチームがあり、チーム別に練習や試合を行う。
上手な子が上の学年でプレーすることもあるが、基本的にチームメイトは同級生。
誰もが試合に出られるというわけではなく、府ロクのポジション争いは激しかったが仲は良かった。
府ロクに入って1年、小学3年生でレギュラーとして左ハーフや左ウイングのポジションに入った。
チームメイトは練習熱心で負けず嫌いな澤穂希を大事な存在とし認めていた。
ある日の試合中、相手チームの選手に少しバカにした口調で
「女のくせにサッカーするなんて」
といわれたが、試合中だったので無視。
すると相手がスパイクを蹴ってきた。
さすがに頭にきて蹴り返したがかわされてしまう。
ムキになって蹴ろうとすると相手は逃走。
澤穂希は追いかけ、試合が止められ、審判に怒られた。
同じく小学校3年生のとき、母親と口論になり、ひどい言葉を浴びせるとブタれ、
「ピシッ」
と鼻血が台所の食器棚についた。
澤穂希は悔しくて泣きながら
「出てってやる」
と叫んだが、
「出ていきます。
探さないでください」
と置手紙を書いている内に落ち着いてしまい、家出は中止し、ケロッと過ごした。
「この頃から切り替えは早い方だった」
小学校5年生になると女の子のほうが身体の成長が早いため、府ロクでGKに続いて2番目の高身長になった。
2人1組で行うストレッチやトレーニングをするとき、異性を意識し始めたの一部のチームメイトが
「お前やれよ」
「お前がやれよ」
と譲り合うのをみて
「これまでそんなことなかったのに」
と不思議に思った。
運動会で騎馬戦の騎手となった澤穂希は、母親いわく
「まるで木登りするサルみたいに身軽ですばしっこくて、スキあらばという感じで」
相手チームの帽子をほとんど奪い取り、マラソン大会では、兄とそろって1位になった。
走るだけでなく食べるのも早く、
「兄はマイぺースで、兄がみかんを1個食べている間に穂希は2個食べていましたね。
白い線維のところもとらないでアッという間に食べちゃって。
野生的でしたよ」
(母親)
この年、日本女子サッカー界に大きな変化があった。
それまで真剣勝負の場は年1度の「全日本女子選手権(現:皇后杯)」だけだったが、
読売サッカークラブ・ベレーザ(東京)
清水フットボールクラブ(静岡)
田崎真珠神戸フットボールクラブ・レディース(兵庫)
日産FCレディース(東京)
新光精工FCクレール(東京)、
プリマハム・FC・くノ一(三重)
という1都3県6チームが参加する「日本女子サッカーリーグ」が誕生したのである。
開幕戦は、読売サッカークラブ・ベレーザ(東京) vs 清水フットボールクラブ(静岡)。
全日本選手権2連覇中のベレーザが、日本代表選手に加え、チャイニーズタイペイ(台湾)代表の周台英を擁する清水に2対0で勝利。
しかし翌年1月に第1回日本女子サッカーリーグが終了したとき、初代女王に輝いたのは清水だった。
3ヵ月後の4月、第2回日本女子サッカーリーグが開幕したとき、澤穂希は6年生になったが、この年、人生でただ1度だけ、
「男の子に生まれたらよかったのに」
と思う出来事に遭った。
ジュニアサッカー選手にとって最高の目標は、毎年、夏休みによみうりランドで行われる「全日本少年サッカー大会」
全国のサッカー少年(少女)が、
「全少」
と呼び、読売ランドを崇め、情熱を燃やした、この大会は、現在は「全日本U-12サッカー選手権大会」と呼ばれている。
府ロクは、当然、出場&優勝を目指していたが、6年生チームの中心選手だった澤穂希にとっても、よみうりランドは夢だった。
しかし予選である都大会直前、コーチから
「お前は都大会に出場できない。
女子は出場資格がない」
と告げられ、澤穂希は、その言葉を理解するのに時間がかかった。
数年間、男女差など意識せずに共にボールを追いかけ汗をかいてきたチームの中に初めて性別の壁が現れたのである。
府ロクは、なんとか澤が出場できるように大会運営と交渉したが
「少年サッカー大会だから」
と認められず、納得できない澤は、悔しくて仕方がなく、
「どうして女の子に生まれたんだろう」
と心底悩み、傷ついた。
男子だけで出場した府ロクは、都大会でベスト8に入ったもののよみうりランドには出場できず、澤穂希は、さらに怒りに似た悔しさを味わった。
小学校卒業が近づくと府ロクのチームメイトは、進路について話し始め、強豪中学校のサッカー部、社会人チームである読売サッカークラブや日産FCのジュニアチーム、三菱養和スポーツクラブなどのサッカークラブなどについて語り合った。
澤穂希は、中学校に女子サッカー部はなかったが、自宅から比較的近い場所にベレーザがあり、実際に電車に乗って練習に参加したこともあった。
そのとき、ずっと男子と一緒にやってきた澤穂希は、女子だけの練習は居心地が悪く、、ベレーザの選手に話しかけられてもテレくさくて、どうしていいかわからなかった。
直後、国立競技場で府ロクのメンバーと試合を観戦していたとき、こちらに向かって手を振る女性がいて、しかも声をかけようと笑顔で近寄ってきた。
「誰?」
というチームメイトに
『ベレーザの大竹奈美さん』
といえばいいのに、
(来ないで)
という気持ちを込めて大竹奈美にらんだ。
そして帰っていく大竹をみて、
(わざわざ挨拶してくれたのに・・・)
(ひどいことをしてしまった)
と自己嫌悪に陥った。
1991年1月、第2回日本女子サッカーリーグが終わり、ベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分け無敗という圧倒的な強さだった。
4月、府中市立第5中学校に進んだ澤穂希は、小学校ではなかった制服を着なくてはならず、スカート問題に直面。
母親は、
「お母さん、私だけキュロットにすることはできないの?」
といわれ、
「我慢しなさい」
と答えた。
その後、登校するとき、娘のスカートが異様に膨らんでいるのをみて確認すると下着の上にブルマ、さらにサッカーの短パンを履いていた。
澤穂希は、中学校入学と同時に「ベレーザ」のジュニアチームである「メニーナ」の入団テストを受けた。
ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
2年前にできたばかりのメニーナは、出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
テスト内容は
50m走
リフティング200回
ゲーム
だったが、合格。
練習場所は、聖地、よみうりランドの中にある専用グラウンド。
練習頻度は、週6回。
2階建ての古い建物の中にベレーザとメニーナ共用のロッカールームとトレーニングルームがあり、両チームは同じ時間に練習した。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
澤は、朝起きて登校すると、まず学校のそばにある府ロクのコーチの家に練習用のカバンと服を置く。
学校が終わるとコーチの家にいって制服からジャージに着替え、バスで練習場へ。
うまくいくと練習開始1時間前に到着し、コンビニで買ったおにぎりを食べて、誰もいないグラウンドで練習。
帰り道、コンビニで食べ物を買って、バスに乗って家に着くのは22時~22時半。
そこから夕食を食べた。
「練習をしていなかったら肥満児になっていたんじゃないかというくらい食べてた」
風呂に入って、宿題をして、日記とサッカーノートをつけて、寝るのは24時~深夜。
そして7時に起床し、登校するという生活を繰り返した。
サッカーノートには、その日の練習内容や目標、課題などを絵入りで書いた。
「サッカーノートはずっとつけてました。
ミーティングの内容とか、練習の中で気づいたこと、メンタル面のことなども書いてましたね」
平日は練習、週末は試合で、試合の翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
学校があるため、丸1日休んだり、遊んだりすることはできなかったが、月曜日の放課後にクラスメイトと遊んだ。
メニーナに入って1ヵ月後、澤穂希は竹本一彦監督の判断でベレーザに昇格した。
中学1年生の澤穂希は、大人のチーム独特の
「ミスしたら怒られる」
というプレッシャーを感じた。
これまでは同い年の男子ばかりだったのに、周りは10代後半~20代の「お姉さん」
身体能力の差は明らかで、同じように走れないしトレーニングもこなせなかった。
そして練習が始まると日本屈指の強豪チームの中で夢のような気分になった。
「雲の上の存在だった憧れの本田美登里さん、高倉麻子さん、野田朱美さんを前に、わぁ、私、なんてすごい人たちとサッカーしているんだろうと毎日興奮し、練習なのに、試合以上に緊張してガチガチになっていました。
当時、練習や試合で右のハーフのポジションに入ることが多く、右サイドバックには本田さんがいて、ボールを持つとどうしても本田さんを頼ってボールを戻してしまうんです。
緊張しちゃって、前に相手選手がいるかどうかなんて冷静にみえていなかったんでしょうね。
あるとき本田さんにピッチで怒鳴られました。
『コラッ、澤!どうしてボールを戻すの!前を向いて自分で行きなさい!』って。
この「前を向いて自分で行く」は、憧れの人たちに囲まれたあのベレーザのピッチで私が最初に教えてもらったことかもしれない。
今でも覚えています」
お姉さんたちは恋愛話などもしていて、澤穂希はサッカー以外にもたくさん学び、野田朱実に
「耳年増」
といわれた。
よみうりランド内の専用グラウンドは、男子チームである東京ヴェルディも練習していた。
この頃、日本男子サッカーは初のプロサッカーリーグ誕生に向けて準備を進めている、いわゆる「Jリーグ前夜」、
そんな熱い時期に熱く練習する男たちをみることができ、その技術やフィジカル、そしてサッカーに対する意識が高さ、姿勢を尊敬せずにいられなかった。
1991年5月、第8回AFC女子アジアカップが福岡県で開催。
第1回FIFA女子ワールドカップの予選も兼ねていて、上位チームは、その出場権を得ることができる。
中国
香港
マレーシア
北朝鮮
シンガポール
韓国
チャイニーズタイペイ(台湾)
タイ
日本
の9ヵ国が参加し、まずグループリーグでA組4チーム、B組5チームの2組に分けられ、総当たり戦を行い、上位2チーム、4チームが決勝トーナメントに進む方式。
ベレーザの先輩、野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子が入っている日本代表は、グループリーグを1位で通過。
中国
北朝鮮
チャイニーズタイペイ
日本
で行われた決勝トーナメントで決勝戦まで勝ち残ったが、中国に0対5で完敗。
銀メダルを獲得し、ワールドカップ出場を決めた。
その1ヵ月後、
「日興證券ドリームレディース」(千葉県]
「旭国際バニーズ女子サッカー部」(大阪)
「松下電器レディースサッカークラブ・バンビーナ」(大阪)
「フジタ天台サッカークラブ・マーキュリー」(神奈川)
と新しく4チームが加わって、10チームで第3回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月7日、中学1年生の澤穂希は、 フジタ天台SCマーキュリー戦で日本女子サッカーリーグデビュー。
右サイドハーフに入り、後ろの右サイドバック、14歳上の本多美里に、
「前向け!」
「前行け!」
と怒鳴れらながらプレー。
11日後の7月28日、デビュー3戦目、 新光精工FCクレール戦で、初得点を含む2ゴールを決めた。
最終的に、このシーズンは13試合出場5得点。
またU-20(20歳以下の)日本代表に選ばれ、韓国へ遠征し、韓国戦で初めて日本代表のユニフォームを着た。
ベレーザでは、澤穂希と同級生の五味輿恵、原歩も試合に出ていて、
「中3トリオ」
といわれ、何かと比較された。
男子と一緒にサッカーをやってきた澤にとって、同性、しかも同年齢のライバルは初めてで、
「何が何でも勝たなきゃ」
と思っていた。
一方、原歩にとってベレーザの主力としてプレーする澤は一歩先を行く存在だった。
「周りはライバルという括りでみていたかもしれませんが、私は3人のなかでも実力は1番下だと思っていたから、まだ楽だったのかもしれません。
自分にできるのは2人の後を必死に追っていくことだけでした。
きっと先頭を走る澤のほうが何倍も苦しかったはず。
そこに追いつけば、そして追い越すことができれば、自分はきっともっと強くなれると思ってました。
でも当時はあまり話をしませんでしたね。
ゴミ(五味輿恵)はいろんな人と話をするタイプだったけど、私は逆。
特に澤とは話さなかった(笑)」
3人は互いに意識し、刺激し合い、成長し、後に
「周りの思うツボだったね」
といい合った。
男子サッカーが日本初のプロリーグの正式名称「Jリーグ」、そしてJの文字の中央に日の丸をイメージした赤い円が描かれたロゴマーク発表。
女子サッカーは、ワールドカップが男子より61年遅れての開催され、4年に1度行われるようになった。
この中国で行われた「第1回FIFA女子ワールドカップ」には、12ヵ国が出場。
日本代表は、予選グループステージで、
vs ブラジル 0対1
vs スウェーデン 0対8
vs アメリカ 0対3
と無得点全敗。
優勝したのはアメリカ。
圧倒的な強さで優勝したアメリカだが、まだ全国的なリーグはなく、選手は各々の環境で個人練習に励むという状況だった。
欧州には全国リーグがある国もあったが、資金面で、あまり恵まれていなかった。
日本は全国リーグがある上、アマチュアながら大企業に支えられて仕事を保証されて、練習環境も良く、最も恵まれていた。
1992年2月、第3回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、2連覇達成。
澤穂希は、敢闘賞を獲得。
5月、男子のJリーグに参加する10クラブ、
鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
東京ヴェルディ
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパス
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島
のプロフィール、ユニフォームが発表。
よみうりランドにヴェルディ、ベレーザ共用の医療設備つきのクラブハウス、天然芝グラウンド2面と人口芝グラウンド2面が完成した。
6月、第4回日本女子サッカーリーグが開幕。
8月、夏休み、中学2年生の澤穂希は「日本代表候補」に選ばれ、遠征中のアメリカで14歳の誕生日を迎えた。
日本代表で刺激を受けたり、学ぶことは多く、当然、試合に出場したかったが日本代表戦は行われなかった。
「当時は女子代表が親善試合を開催することも海外へ遠征することも滅多になかった。
強化予算がなかったんです」
日本代表遠征から帰った澤穂希は、両親に
「大事な話がある」
といわれた。
2人は価値観の違いから離婚するといい、
「どっちと暮らす?」
と聞かれた澤穂希は、悩んだ挙句、母と暮らすことを決めた。
こうして母親、兄と3人暮らしとなり、澤は母親と同じ部屋、兄は1人部屋で生活。
母親は仕事をかけ持ちし、父親は、毎月、養育費を入れた。
現在ほど離婚する家庭は多くなく、澤穂希は学校や友達には秘密にした。
それでも恥ずかしいことやさみしいことはたくさんあったが、サッカーに熱中することでモヤモヤやわだかまりを、
「どうでもいいや」
「気にしてもしょうがない」
と消化。
運動会でリレーのアンカーとして最後尾からゴボウ抜きして1位でゴールした。
9月、Jリーグに参加する10クラブによって「第1回ナビスコカップ(現:Jリーグカップ)」が開始。
まず総当たり戦(各チーム9試合、計45試合)が行われ、ポイントが高かった4クラブによる決勝トーナメントが行われる。
11月、ヴェルディ、鹿島、清水、名古屋の4クラブで行われたナビスコカップ決勝トーナメントが終了。
「キング・カズ」こと三浦知良の決勝ゴールでヴェルディが初代王者になった。
また第4回日本女子サッカーリーグも終了し、ベレーザが、16勝2分無敗で優勝し、3連覇達成。
3シーズン51試合無敗というとてつもない強さだった。
「中学校でクラスメートには『ねぇ、サインもらってきてよ』と、よく頼まれました。
でもそんなクラブに自分がいることが、すでに自慢でしたから『ちょっと無理だと思うよ』なんて大人ぶって断ったりして。
本当は大好きなラモスさんとの2ショット、ちゃっかり撮影してもらっていましたけれどね」
と悦に浸る中学2年生の澤穂希だが、好きになった男子に告白してフラれてしまった。
ダンス、スカートに続いて告白もトラウマとなった澤穂希は、これ以降、大人になっても自分から告白したことはない。
1993年5月、ついにJリーグがスタート。
開幕戦は、東京ヴェルディ vs 横浜マリノスで国立競技場は6万人近い観衆で埋め尽くされた。
翌日も4試合が行われ、鹿島のジーコがハットトリック(1試合3得点以上)を達成。
ラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内有力選手に加え、ジーコ、リトバルスキー、カレカ、ディアスなどワールドクラスの選手も参戦するJリーグに日本中が熱狂。
サッカーへの関心が爆発的に高まり、空前絶後のサッカーブーム、Jリーグブームが勃発。
この年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞は「サポーター」
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
この開幕シーズン、ブラジルから帰国した直後から
「日本をワールドカップに連れていく」
と豪語していた三浦知良は、20得点を挙げ、MVP、フットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞を受賞。
ゴールを決めると、両足で細かいステップを踏みながら両手をグルグル回し、最後に左手で股間を押さえ、右手で前方または天を指指さす「カズダンス」を行った。
三浦知良がゴールを決めるとチームメイトもサポーターもカズダンス。
しかし城彰二は自分がゴールを決めたときにカズダンスをして、後で三浦知良に呼び出され、以降、踊れなくなった。
澤穂希は、同じよみうりランドのグラウンドで練習するキング・カズを憧れのまなざしでみていた。
女子サッカーは、Jリーグ開幕、1ヵ月後に第5回日本女子サッカーリーグが開幕し、ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録を止められた。
兄が中学卒業後、競馬の調教師になるために北海道の厩舎へいったため、澤穂希は、母親と2人暮らしになると共に自分の部屋を手に入れた。
そして初めて「日本代表」に召集された。
前回は「日本代表候補」だったが、今回は「日本代表」
日本代表に選ばれると、まず日本サッカー協会からレターが所属先に送られる。
澤穂希は、ベレーザスタッフからそれを受け取り、召集されたことを知ると
「信じられない」
と驚いた。
新聞にも取り上げられ、中学校では校長から賞状をもらった。
そして15歳の冬、第9回AFC女子アジアカップがマレーシアで始まった。
マレーシア
香港
北朝鮮
中国
フィリピン
韓国
チャイニーズタイペイ
日本
が参加し、まず4チームずつ2組に分けられ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、計4チームで決勝トーナメントを行う。
日本は、12月4日のチャイニーズタイペイに6対0で勝利。
最高年齢27歳、1番近くても17歳というチームの中で、15歳の澤は、この試合をベンチで観戦。
「中学3年生で初めて代表に呼ばれたんですが、生意気な15歳で、試合に出られないのが悔しくて・・」
翌日の練習でベレーザの先輩で日本代表キャプテンでもある野田朱美 に、
「さあ、アピールしてこい」
といわれ、ウォーミングアップのジョギングで、それまで1番後ろにいたのに先頭を走り、野田は
「行け、行け!」
とハッパをかけた。
12月6日、第2戦、フィリピン戦の試合前も、
「監督の前で自分いるよって全力でウォーミングアップ」
そして澤穂希は、日本代表デビューを果たし、いきなり4得点し、日本代表は、15対0で勝利した。
12月8日、香港戦も4対0で勝利し、予選リーグを1位で通過し、決勝トーナメント進出。
12月10日、決勝トーナメント1回戦の中国戦を1対3で敗退。
12月12日、3位決定戦、チャイニーズタイペイ戦を3対0。
最終的に、優勝は中国(4連覇)、2位は北朝鮮、日本は3位だった。
8日間で5試合という過密スケジュールで大会はアッという間に終わったが、澤穂希はフィリピン戦後、すべての試合に出場した。
「代表という願いが叶うと、ワールドカップ、オリンピックと夢がどんどん大きくなりました」
1994年2月、第5回日本女子サッカーリーグが終了。
ベレーザは、開幕戦で清水に敗れて無敗記録は失ったものの、4連覇を達成。
澤穂希は、ベストイレブンに選ばれた。
1994年4月、第6回日本女子サッカーリーグが開幕。
7月、西友とスポンサー契約を結んで名前が変わった「読売西友ベレーザ」が前半戦を1位で終了。
9月、「日本女子サッカーリーグ」も「L・リーグ」に名前が変わり、公式イメージソング「OH OH OH We are the Winners」を発表。
メインボーカルは酒井法子、そしてリーグの10クラブから1選手ずつがバックコーラス。
各クラブもイメージソングも製作し、日興證券は早見優、TOKYO SHIDAX LSC(旧:新光FCクレール)」はマルシア、そしてベレーザは和田アキ子とそれぞれ個性的なキャスティング。
12月、第6回日本女子サッカーリーグが終了。
優勝したのは「松下電器レディースサッカークラブバンビーナ」
第2~5回まで4連覇したベレーザは3位。
東京都立南野高校1年生の澤は、毎月、給料の半分を家に入れて一定額を貯金し、お金の出し入れを堅実に管理。
中学に入るときスカートが嫌でナーバスになったが、高校ではルーズソックスまではき、ベレーザの練習が休みの月曜日は、放課後、ポケベルで連絡を取り合って、友人とカラオケやお茶をした。
1995年6月、スウェーデンで第2回FIFA女子ワールドカップが開催。
高校2年生の澤穂希は、日本代表の背番号7をつけてワールドカップ初出場。
参加12ヵ国が4チームずつ3組に分けられ、総当たり戦を行い、各組上位2チームと3位のチームの成績上位2チーム、計8チームよる決勝トーナメントが行われる。
そして決勝トーナメントに進出したベスト8国は、翌1996年に行われるアトランタオリンピックの出場権を得る。
ワールドカップ2大会連続出場、前大会、無得点予選敗退の日本は、
ドイツ戦 0対1
ブラジル戦 2対1
スウェーデン戦 0対2
とブラジルに勝って、グループリーグ3位で決勝トーナメント進出し、オリンピック出場権をGET。
しかし決勝トーナメント初戦で、アメリカに0対4で負けた。
澤穂希は、ドイツ戦で、体格、フィジカル、当たりで今までに経験したことのない大きさと強さを経験。
「0対1と結果だけみれば惨敗だったけれど、実際感じた差は大きなものだった」
ブラジル戦は、ベレーザの先輩、日本代表キャプテンの野田朱美 の2ゴールで勝利。
ホスト国、スウェーデン戦で、澤穂希はゴールキーパーと接触して足を負傷。
病院へ直行したが、松葉杖なしでは歩けない状態になり、
「ぜひ戦ってみたい」
と思っていた世界最強のアメリカとの戦いは、スタンドで観戦。
0対4で敗れるのをみて、世界の壁を痛感した。
ワールドカップが終わった後、L・リーグが8~12月という超短期間で開催し、「プリマハム・FC・くノ一」が優勝。
ベレーザは4位だった。
長年、ベレーザの天下だった日本女子サッカーリーグは、群雄割拠、下克上の戦国時代と化していた。
その理由は、黒船。
清水は、元々いた周台英に謝素貞、許家珍を加え「チャイニーズタイペイ・トリオ」で結成。
フジタは、アメリカ代表ゴールキーパー、グレッチェン・ゲグ、カナダ代表FW、キャリー・セアウェトニク。
プリマハム・FC・くノ一は、カナダ代表FW、シャーメイン・フーパー、中国代表の李秀馥と菫樹紅。
各支援企業が世界から優秀な選手を獲得した結果、男子のイタリア「セリエA」のような世界のスターが集まるリーグとなった。
澤穂希にとって特に印象深かったのは、シャーメイン・フーバーで、1人で局面を打開し、ゴールまで決めてしまう姿に驚いた。
「ベレーザにも外国人選手が在籍していて、チームメイトや対戦相手に高いレベルの選手がいると負けたくないという気持ちが生まれたし、もっともっと上手くなりたいという気持ちも自然と持つようになった。
外国人選手は府中市や東京しか知らない私にとって世界を教えてくれる存在でもあった。
世界にはこんな選手がいるんだと思うとワクワクした」
1996年4~5月、Jリーグに比べ、観客動員数が少ないL・リーグは、リーグ戦だけでなくカップ戦を導入し、「Lリーグカップ96」を開催。
L・リーグに参加する10チームが東西5チームずつに別れて総当り戦を行い、上位2チームで4チームで決勝トーナメントを行って、最終的にベレーザが優勝。
5月、女子日本代表は、アメリカに遠征し、US女子カップに参戦。
中国に 0対3、アメリカに0対4と連敗。
カナダ戦 をPK戦で勝って、なんとか3連敗は免れたが、帰国後、国内でデンマークと2回、壮行試合を行い、1敗1分。
その後、アトランタオリンピック最終選考合宿が行われ、最終日にアトランタオリンピック代表メンバーが発表された。
20名ほどいる候補の中で選ばれるのは16名。
名前を呼ばれたら、そのままアメリへ、呼ばれなければ代表選手を見送った後、地元へという残酷なシチュエーションをくぐりぬけ、澤穂希は代表メンバーとなった。
アメリカに着くと最終調整として2戦行ったが、オーストラリア戦に2対2、 スウェーデン戦に 1対3と両方とも勝てなかった。
7月、アメリカ、アトランタでオリンピックが開催。
伝説的ストライカー、釜本邦茂の活躍もあって1968年のメキシコで銅メダルを獲得したものの、それ以降、72年、76年、80年、84年、88年、92年と予選敗退の男子日本代表が、グループリーグ第1戦で、優勝候補のブラジルに1対0で勝利。
日本では「マイアミの奇跡」、ブラジルでは「マイアミの屈辱」といわれた。
その後、ナイジェリアとハンガリーに連敗し、グループリーグ3位で予選敗退。
(日本に負けたブラジルは、銅メダル獲得)