そしてラホールを出発して8時間後、19時、トラックは200km離れたハラッパに到着。
2人は
「名前通り、何もない街だな」
と思ったが、運転手に「ハラッパ遺跡」に案内された。
メソポタミア、エジプト、黄河文明に並び、世界4大文明の1つとして知られるインダス文明は、紀元前2600~1600年頃に栄えた。
そのインダス文明最大の都市が、「モヘンジョダロ(Moenjodaro)」
1921年に発掘が開始されて以来、長い間、仏教遺跡と信じられていたが、調査が進むにつれて単なる僧院ではなく巨大な古代都市であることが明らかとなった。
大量のレンガを積み上げてできた城塞や市街地は広さ4km四方に及び、沐浴場や穀物倉、上下水道が整えられ、高度な都市計画のもとに造られた都市であったことがうかがえるものの、そのほとんどが未だ謎に包まれたまま。
ハラッパ (Harappa) も、モヘンジョダロと並び称される遺跡で、東の「城塞区」と西の「市街地」からなり、城塞の北側には2列にならんだ「穀物倉」と「円形作業台」18基などが造られ、最盛期には2万人の人々が暮らしていたといわれている。
両者とも「未知の文明の都市遺跡」として 現在も遺跡の発掘作業は続いている。
そんな歴史的価値のある遺跡も2人にとってはただの空き地で
「これは何?」
「なんなのコレ?」
とその価値が理解できず
「ゴーゴー、バック」
「これだけのためにこんだけ歩いたのか」
とブーブーいいながらサッサと引き上げた後、トラックに別れを告げ、近くの原っぱで野宿した。
翌91日目、ハラッパでヒッチハイクを始めるも、ただでさえ何もない上、どうやら町外れらしく、車がまったく通らない。
2時間後、ようやくGETしたのは馬車ならぬロバ車。
「歩くよりは速いよ」
と喜んでいると、途中、道を歩いていた外国人ヒッチハイカーが乗り込んできて
「ついにライバル登場だ」
と笑った。
30分後、ロ馬車から降ろされると、外国人ヒッチハイカーの案内で街の中心部へ。
早速、ヒッチハイクを始めようとする2人を外国人ヒッチハイカーは
『一緒に駅に行きましょう。
僕は列車でムルターンに行きます』
と誘った。
「あのね、ノー・マネーだからノー・トレイン。
オンリー・ヒッチハイク」
と説明しても
『トレイン、ノー・プロブレム。
トレイン、ノー・マネー』
と鉄道でヒッチハイクができるというのである。
「トレイン・ノーマネー?」
『ノー・マネー、ノー・プロブレム』
「ノー・マネー、ノー・プロブレムなの?」
2人が半信半疑で駅までついていってみると、確かに改札口がない。
1時間後、列車が到着。
無賃乗車し、初の列車のヒッチハイクに成功。
「スゲー」
と喜んだが、車内は大混雑。
森脇は途中から何とかしゃがむことができたが、有吉は、身動きできないまま、立ちっぱなし。
3時間後、列車がハラッパから150㎞離れたムルターンという駅に到着すると
『ここで降りる』
という外国人ヒッチハイカーと一緒に降車。
外国人ヒッチハイカーと別れた後、猿岩石は駅の待合室を今夜の野宿ポイントに決定し、ベンチに荷物を降ろした。
「もう電車やんないぞ。
もうイヤだ。
電車イヤだ」
3時間立ちっぱなしだった有吉は、そういって寝ころんだが、翌日、緊急事態発生。
ひどい頭痛と腰の痛みを訴え、救急車が呼ばれ、病院に搬送されたのである。
診断は、「栄養失調」と「過労」
「栄養失調と、むちゃくちゃ汚い菌がたくさん出てきたっていうことで・・・
言葉がわかんないんで、それも確かかどうかわかんないんですけど、とりあえず何でも『あ、イエス』『あ、イエス』って・・・
それで注射を6本ぐらい、いっぺんに打たれて」
という有吉は、ベッドで点滴を受けながら、入院し、翌日には無事、退院となった。
「お前、大丈夫か?」
(森脇)
「もう大丈夫だね」
(有吉)
治療費は、日本でかけた海外旅行傷害保険で支払われることになり、セーフ。
2人は、次の目的地、100km西のテラガジカンに向けてヒッチハイク開始。
1時間後、
「ノット・ペイ、OK?」
『OK』
とトラックをGET。
運転手は、デラガジカンより300㎞も先のローラライまで乗せていってくれるといい、その上、4人乗りだったので荷台ではなく車内の後部座席に座らせてくれた。
快適なドライブが2時間続いた後、トラックは険しい山道の突入。
道幅は狭く、少し間違えば谷底に転落してしまうような危険な道を身を硬くしながら延々、2時間。
ようやく峠を抜け、ホッとしたのも束の間、雨が降り出し、それは激しさを増して暴風雨となり、トラックは、土砂降りの雨と横転するかと思うような強い横風で中々、前に進めない。
2時間後、天候は回復したものの、川が氾濫し、あふれた水が川となって道を塞いでいたため、トラックは立ち往生。
激流がおさまるのを待って2時間後、トラックは少し水量が減った川に突っ込み、慎重にゆっくりと前進。
なんとか無事横断したとき、思わず車内、みんなで拍手し合った。
その後は快調に走り続け、ムルターンからローラライまで400㎞を16時間かかって到着。
「サンキュー」
トラックと別れたとき、時間は23時。
「いい人たちだったなあ」
といいながら野宿ポイント探し。
「ここ、OK?
スリープ」
『OK』
「サンキュー」
店員の許可を得て、ドライブインの店先で野宿した。
翌93日目、7月14日、次の目的地を150km西のクエッタに定め、
「QUETTA」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク開始。
2時間後、ようやく4人乗りのトラックが停車。
「ようし、聞いてみよう」
素早く2人の男性が乗る運転席にかけよった。
「クエッタ」
「ノー・マネー」
『OK』
「サンキュー」
喜んで後部座席に乗り込んだ。
走り出して1時間後、運転手は自分の家に寄った。
建物をみるとかなりお金持ちそうで、森脇は日本語で
「これは期待できる」
お茶を煎れてもらい、高級そうなお菓子を出してもらい、大当たり。
運転席と助手席に座っていた2人の男性は兄弟で、休日に街に買い物に出たところ、猿岩石に出会ったという。
親切な兄弟は、引き続きクエッタまで送ってくれるという。
再び4人で車に乗り込み、3時間のドライブの末、到着。
猿岩石は、お礼をいって降車。
すると兄弟は
『戻ってくるから待ってて』
と言い残し、車でいってしまった。
いわれた通り道端に座って待っていると、車は10分ほどで戻ってきた。
笑顔で車から降りてきた兄弟は、空手着を着ている2人になにやらプレゼントを渡した。
箱を開けてみると中身は服。
「サンキュー」
「なんていい人なんだ」
2人は去っていく車に日本式に深々とお辞儀。
そしてさっそくもらった服を身に着けてみると、それはパキスタンの代表的ファッション、イスラム教徒用のモスリム服だった。
猿岩石は、真っさらで真っ白のモスリム服でバリっと決め、気持ちを新たにファイトをみなぎらせた。
翌日、クエッタでヒッチハイクを開始。
2時間後、4人乗りのトラックが停まってくれた。
運転手に
『From JAPAN?』
と聞かれ
「イエス。
アイム、モスリム(私はイスラム教徒です)」
有吉がハッタリをかますと森脇も
「モスリム」
とガッツポーズ。
『GOOD!!』
運転手は握手して後部座席のドアを開けて
『どうぞ』
のジェスチャー。
そして約5時間かけてクエッタから350㎞先のダルバンティンまで乗せてくれた。
「かっこいい」
2人は去っていく男に感動した。
103日目、
「TAFTAN」
と紙に書いてヒッチハイク開始。
目指すは、イランとの国境の街、タフタン。
しかしダルバンティンは車の往来が少なく、2時間たっても車をGETできない。
3時間後、ようやくワンボックスカーが停まってくれてヒッチハイク成功し、最後部座席に収まり
「やったあー」
「これはいいや」
と喜んだ。
やっと乗せてもらった車は、砂漠の中をひたすら突き進んだ。
砂漠の中を突き進む車は、クーラーなどついておらず、窓を開けて走ると熱風が入ってきて、窓を閉めるとサウナという灼熱地獄。
おまけに途中、タイヤが砂に埋まってしまって立ち往生し、猿岩石は外に出て、タイヤがかき上げる砂ぼこりを浴びながら車を押して脱出させた。
アクシデントはあったものの、運転手は親切な人で、走り出した車でドライブインに入れると食事をオゴってくれた。
しかしドライブインを出発したとき、再びアクシデント。
なぜか車内の人数が増えていた。
「人、増えてねえか?」
(森脇)
「この人はね、親切な人なんだよ。
本当に」
(有吉)
車は6時間かかってダルバンディンから西に300km、国境の街、タフタンに到着した。
お礼をいって別れた後、まずはパキスタン出入国管理事務所で出国手続き。
意気揚々、イランへの入国手続きへ向かい、これも無事終了。
こうして98日目、10ヵ国目、イランに入国した。
「パキスタンはいい国だった。
一文無しで通過できるとは思っていなかった」
と森脇はパキスタンに好印象。
しかし有吉は、カメラが回っていないところで誰にもいえない体験をしていた。
「パキスタンで野宿してると来るんですよ。
警察官っていうか、兵隊が取り調べに。
それでパキスタンの兵隊さんが、僕に『マッサージしてあげる』って。
最初はマッサージしてもらってたんですけど、だんだん内モモとかもマッサージされはじめて・・・
何か気持ちいいんですよ。
内モモをもんでいたかと思うと、手が股間をスッと触った。
まあこれはミスかな?と思っていたら、今度は明らかにもんできて、だんだん内モモに比べて股間に触れる比率が高まり、股間:内モモの比率が8:2までになって・・・
でもまだズボンの上からだったということで、それでも許していたんです。
そうしたら今度は中に手が。
まあいい、パンツがある、と思っていたら、兵士はシャワーを浴びてこいと。
もまれている間は、相手が兵士だということで怖く、ヘタに逃げることはできなかったんですけど、5日ぶりの入浴だとシャワーを浴びていたんです。
浴びた後で逃げればいいだろうと。
そしたら男がシャワールームに入ってきて、フルチンで。
それで、ちょっといろいあったんですけど、ええ」
そのとき森脇は
「兵士の部屋の外で1時間ほど体操座りをして待っていた」
という。
次に野宿していて取り調べが来たとき、有吉は、
「襲われる」
と思って逃げ、1人になるのがイヤだった森脇も
「待ってくれよぉーっ」
と続き、2人は山の中へ逃げた。
10ヵ国目、イランの正式国名は、「イラン・イスラム共和国」
紀元前550年に誕生したペルシャ帝国をルーツに持ち、紀元500年頃にに誕生した預言者、ムハンマドの故国であり、2500年以上の歴史を誇る。
国土は日本の約4.4倍。
「中東」「西アジア」と呼ばれる地域にあり、東にパキスタンとアフガニスタン、、西にトルコとイラク、北にカスピ海、南にペルシャ湾を望む。
人口は、日本が1億3千万なのに対し、8300万人。
その内の16%、1400万人が首都テヘラン周辺に住むため、テヘランの人口密度は東京以上である。
世界に誇るペルシャ絨毯は、すべて手織りで、神秘的なデザインもパソコンや機械を使わない職人のオリジナル。
天然染料による染色、細かな織り、熟練の技術によって、踏めば踏むほど美しさが増し、しかも頑丈で100年の酷使にも耐えるという。
そんな美しさと機能性を併せ持つペルシャ絨毯は、1日5回ひざまづいて祈るイスラム教徒の祈禱用小型絨毯も需要も高い。
イランの政治は特殊な形態で、選挙で大統領が選出されるが、さらにその上に「最高指導者」という地位があり、宗教法学者に就き、その目的は
「救世主が現れるまで、イスラム教の最高解釈者がアッラーの意思に従って国家を指導する」
大統領は行政を行うことができるが、最終決定権は最高指導者にあり、事実上、イスラム教に最高指導者が、司法、立法、行政のすべてを掌握している超イスラム国家である。
この特異な体制ができた原因は、アメリカ。
第2次世界大戦後、敗戦国となったイランにアメリカが介入し、近代化、脱イスラーム化を進めた。
欧米化に反対する宗教法学者、ルーホッラー・ホメイニーは、アメリカの傀儡となった国王を批判し、パリに国外追放。
経済不調や貧富の格差拡大、そしてホメイニーの国外追放に不満を募らせた国民によるデモやストライキ、暴動が全国で起きると国王は、
「休暇のためにイランを一時的に去る」
といって政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近と共に友好関係にあるエジプトに亡命。
ホメイニーは、パリからテヘランに戻り、イスラム革命評議会を組織して政権を奪取し、最高指導者となった。
(イラン革命)
カイロ、モロッコ、バハマ、メキシコと転々としていた国王は、
「ガンの治療」
という名目でアメリカ、ニューヨークに到着。
ホメイニーは、アメリカ政府に抗議したが拒否され、激怒。
首都、テヘランにあるアメリカ大使館では連日、デモが行われるようになり、イスラム法学校の学生が敷地内に侵入。
警備するアメリカ海兵隊が発砲を躊躇する間に占拠し、外交官、海兵隊員、その家族、52名を人質にして、国王の引き渡しを要求。
アメリカは、国王をパナマへ出国させたが、大使館の占拠を解かれないため、軍事力による人質奪還を決定。
アラビア海に停泊中の艦船から8機のヘリコプターが、エジプトから6機の輸送機が飛び立ち、まずイランの砂漠で落ち合い、さらに別な場所に移動してから、陸路でテヘランへ向かう作戦だった。
が、3機のヘリコプターが砂塵のために到達できず、さらに1機が故障。
混乱の中、ヘリコプターと輸送機が接触事故を起こし、8名が死亡。
奪還どころか、敵と戦闘することないまま犠牲者だけを出して作戦は中止。
ジミー・カーター大統領は、国民に秘密作戦失敗を報告。
ホメイニーは、
「アメリカ軍の失敗を導いたのは神の思し召し」
と宣言した
しかしその後、国王がカイロで死去して占拠の目的が消えてしまった上、イラン・イラク戦争が勃発し、奇襲を受けて敗北を重ねたイランは、カーターが大統領選挙でロナルド・レーガンに敗れるのを見届けた後、人質返還に合意。
人質は、レーガンが大統領に就任した1981年1月20日、444日ぶりに解放された。
しかしこの「イランアメリカ大使館人質事件」以降、イランとアメリカの国交は断絶されたままである。
イランは、男子に21ヵ月間の徴兵を義務づけ、常時40万人の兵力があるが、この正規軍とは別に最高指導者の直轄軍「イスラム革命防衛隊」が存在する。
2020年1月、アメリカの無人攻撃機によって殺害されたガーセム・ソレイマーニーは、イスラム革命防衛隊の1部門、イラン国外でも特殊作戦を行うゴドス部隊の司令官だった。
イラン最高指導者の恐怖は、日本にも及んでいる。
1988年9月、預言者ムハンマドの生涯から着想を得た小説「悪魔の詩(The Satanic Verses)」が出版された。
1989年2月14日、ホメイニーは「悪魔の詩」が反イスラーム的であるとして、作者のサルマン・ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワー(fatwa、イスラム法学に基づいて出す解釈や裁断)を発布。
翌日、イランの財団は、ファトワーの実行者に対する懸賞金(日本円して3億7千万円)を提示。
1989年3月7日 、イギリス警察がサルマン・ラシュディを保護したため、イランはイギリスと国交を断絶。
1989年6月3日、ホメイニーが心臓発作で死去。
ファトワーは発した本人しか撤回できないので、永久的な命令として残った。。
1991年7月12日、「悪魔の詩」の日本語訳を出版した筑波大学助教授、五十嵐一が、キャンパス7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。
・犯人はエレベーターの使用を避けて階段で3階まで降りて非常階段から逃走
・事件当日、筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生が出国
・事件後、イスラム新聞、サラームは、「イスラーム教徒にとって朗報」とコメントを掲載
ということがわかっているが、未だ犯人は捕まらず、未解決事件となっている。
2022年8月12日、アメリカ、ニューヨーク州で講演会を行ったサルマン・ラシュディが、ステージ上で男に複数回、刺され、右目を失明し、首、胸、腹、腕、脚を刺され、複数の臓器を損傷。
男は、数人に押さえつけられても、なお攻撃を続けようとしたが、その場で捕獲された。
ニュージャージー州に住む24歳の男で、両親がレバノン南部ヤルーン村からアメリカに移住してきて、本人はアメリカ生まれ。
ヤルーン村を取材したジャーナリストは、イランが支援するヒズボラの旗、ハッサン・ナスラッラー、アリ・ガメネイ、ルホッラー・ホメイニ、カッセム・ソレイマニの肖像画を確認した後、ヒズボラに追い払われた。
そんなイランの国境からヒッチハイクに成功した猿岩石一行だったが、乗車中、警察の検問に遭遇し、撮影を止められた。
日本のテレビ番組であることを知ると
『テープをチェックさせろ』
『カメラをチェックする』
といい、車に乗せられ、警察署へ連れていかれた。
署内でチェックすると移動中の景色の中で意図せず軍事施設が映っていた。
実は女性も撮影禁止対象で、警官は、かなりモメた。
結局、戻ってきたカメラには、イラン入国からの撮影映像はすべて消去されていた。
映像に加え、荷物チェックも受け、
「怪しいものなど出てくるわけもないが、恥ずかしかったのが、パンツを洗濯しないでカバンに入れていたため異臭を放ち、警官がウエッと表情をしたことだ」
(有吉)
一行は5時間後解放されたが、
『ここから先もイラン国内で撮影は禁止』
といい渡され、同行スタッフは、事情を説明する手紙を日本に送り、
「よってしばらく撮影はできません」
と報告した。
こうして消息不明状態となり、安否が気遣われたが、手紙が届いて5日後、同行スタッフからビデオレターが日本に到着。
「テヘラン、いいねえ」
といいながら首都、テヘランの街を歩く猿岩石の後ろ姿が映っていた。
彼らは一時拘留された国境から、ザヒダン、 ケルマン、フタンと1500㎞移動し、首都のテヘランに到着していた。
そして有吉は街の中を流れる川、といっても自然の川ではなくコンクリートでできた用水路をしゃがみこみながらみて、
「ああ、いいねえ。
風呂入りたいけど捕まりそうだよ」
と日本では命の心配をされたときに風呂の心配。
一方、森脇は、テヘランに到着した3日後、8月1日、砂漠を歩きながら22才の誕生日を迎えた。
イランを抜けることができれば、次は11ヵ国目、トルコ。
アジアの西端、ヨーロッパとの境に位置する国だった。