1996年4月13日、若手お笑い芸人、猿岩石は
「だまされて」
目隠しとヘッドフォンをつけられて香港へ連れていかれた。
初海外という2人は、いきなり企画を聞かされ、ロンドンまで推定移動距離3万5000km、推定到達期間6ヵ月というユーラシア大陸横断ヒッチハイク旅をスタート。
ルールは
・旅のご予算は、10万円(番組から支給され、それ以外のお金は持っていけない)
・移動は徒歩かヒッチハイクのみ(お金を払って乗り物を利用するのは禁止)
・旅の道中、猿岩石の2人に1人のスタッフが同行し撮影するので3名で移動するが、スタッフは一切、手助けはしない。
2人は香港のタイムズスクエア前で、
「To LONDON」
と書いた紙を掲げ、そのまんま東に
「こんなモンで(車が)捕まるか」
とツッコまれながら、白いワンボックスカーをGET。
2人は押し込まれるように車に乗ったが、それはヒッチハイカーというより拉致される日本人観光客。
工事現場からの帰りというポールが運転する車は、香港島から海底トンネルを抜け、香港本土、つまりユーラシア大陸に突入。
しかしポールは
「ゴメン。
オフィスに行かなければならない」
といって、2人をタイムズスクエアからたった4㎞の地点で降ろした。
「ホテルは高い」
猿岩石は、海がみえる九龍公園を彷徨い、高さ数十cmの塀(段差)に囲まれた場所を発見。
寝袋など持っておらず、コンクリートの地面の上に寝転び、ジャケットを掛布団にして寝た。
この後、約半年間、基本的に野宿が続いたが、新しい場所に移動したら寝床の確保は最優先事項で、昼間のうちに野宿する場所を探すのは鉄則となり、
「野宿ポイント」
「野宿ポイント探し」
という言葉が用語化。
海外では公衆トイレが有料だったり、夜、閉まることもあり、
「野糞ポイント」
「野糞ポイント探し」
も同時に行われた。
2日目、ヒッチハイクを開始。
ロンドンまで行くためには、まず中国に入らなければならず、停まってくれた車にかけよって
「広州、広州、チャイナ」
と声をかけるが、乗せてくれる人はなかなかいない。
2時間後、ようやくGETした車に乗って約30㎞、国境にある中国出入国管理事務所に到着。
「いよいよ中国突入だ」
と思いきや、職員に
『Do You Have Chinese Visa(中国のビザはありますか)?』
といわれ、2人は初めて知った。
「国境を越えるためにはビザというやつが必要らしい」
そして乗せてきてもらった車でビザを申請する入境事務局がある九龍に逆戻りし、親切なドライバーにお礼をいってお別れ。
その足で入境事務局に行くも、日曜日のために休み。
仕方なくマクドナルドをテイクアウトして、九龍公園の小さな塀に囲まれた場所に戻って、野宿。
3日目、入境事務局にいって必要事項を書き込んでビザを申請。
費用は2人合わせて1650香港ドル(2万1500円)。
女性スタッフに
『発行できるのは18日になります』
といわれ、発行が3日後と知った2人は、九龍公園の同じ場所に戻って、野宿。
4日目、5日目と昼間はボーッと過ごし、夜は野宿。
6日目、入境事務局にいき、
『This is Chinese Visa』
と女性スタッフからビザが貼られたパスポートを受け取った。
意気揚々と
「To CHINA」
と書いた紙を掲げて4日ぶりにヒッチハイクを再開。
1時間後、中国の親せきの家に行くという車をGET。
九龍から2度目の国境へ行き、ビザを持って中国出入国管理事務所に入ると30分ほどで審査完了。
2ヵ国目、中国へ突入した。
7日目に中国に入国し、ベトナム国境手前にたどり着いたのが16日目。
この間の移動は、数台のトラックを乗り継いで、荷台で過ごした。
旅を通じて座席に乗せてもらえることも稀にあったが、圧倒的にトラックの荷台が多く、そこで数時間過ごすわけだが、最長記録は21時間。
最初は尻が痛くて仕方なかったが、自然と鍛えられてなんともなくなった。
この時点で、番組から渡された10万円は、
食費 24000円
宿泊 38000円
ビザ 21500円
地図 2000円
と合計85500円を使い、残りは14500円になっていた。
21日目、ベトナムの首都、ハノイに到着。
さっそくラオス領事館にいって、
「アイ・ワン・トゥー・ビザ。
トゥー・ラオス」
とビザを申請し
『1人、36ドルです』
といわれ
「はい?」
と日本語で驚いた。
2人分のビザ代、7800円を支払い、残金は700円。
しかも
『今日は金曜日ですから、月曜日に取りに来てください』
とビザ発行は3日後といわれ、領事館を出た2人は歩きながら
「いよいよだな」
「どうしよう」
「水とるか、メシとるかだな」
「水だろう」
と相談。
結局、断食&野宿でビザの発行を待つことにして公園に移動。
1日中、身動きもせずジッと耐え、ひたすら寝て
「オバさんを襲うか、万引きするか」
といけないことも頭によぎらせながら断食&野宿3連泊。
こうして生まれてはじめて無一文と飲まず食わずを経験することになった2人だが、
「所詮はテレビの企画。
最悪、スタッフが助けてくれる」
と思っていた。
しかし同行スタッフが目の前で缶コーラをおいしそうに飲み、余りを捨てるのをみて覚悟を決めた。
旅の間、同行スタッフは、2人がどんなに貧乏になっても、飢餓状態になっても、バンバン肉や米を食べ、酒やジュースを飲み、余ると足で踏んで食べられないようにした。
そしてペットボトルの水を飲みながら、
『あんまり水(水道水)は飲むなよ』
とアドバイス。
有吉が
「じゃあ、くれよ、それっ」
というと
『ダメ。
買えよ、自分で』
「金ねぇんだよ!」
結局、水問題と下痢問題は、香港からロンドンまで続いた。
「水って結構大変だなって思って。
ヒッチハイクで海外に190日いたけど、100日以上下痢。
海外行って水飲んでないのに何で腹壊すんだよって思ったら、(現地の水で)食べ物サ洗うでしょ。
それだけで壊す。
その国の水が汚いとかじゃなくて、合わないんだよね、体に」
そして野宿が基本の2人は、自然と「野糞慣れ」もした。
出した後は、手で拭くことも多く、森脇は左手で拭いて右手で食べるようにしたが、有吉は、右手で拭いて右手で食べた。
ありとあらゆる場所でできるようになった2人だが、それでも森脇よりもお腹が弱い有吉は、よく下痢になって「寝てる間も起きてる間も」漏らすことがあった。
やがて「漏らし慣れ」までしてしまい、文字通り屁でもなくなったが、まったく食えないときもあったので
「ウンコが出るだけマシ」
と思っていた。
2人から
「悪魔の大王」
と恐れられた同行スタッフだが、ある意味、猿岩石よりもひっ迫していた。
もし襲わるなら、お金がない猿岩石より、ちゃんとした身なりをしてカメラを持っている自分。
ヒッチハイクで新しい車に乗る度に緊張し、走行中も、ちゃんと目的地に向かっているかなど常に警戒。
夜は、電気がとれる場所に泊まって充電し、その日撮った映像から、必要な部分を抜き出す編集作業。
編集した映像は、どこの町からでも送れるわけではなく、ある程度ためて大きな町から発送した。
それが日本に着くのには数日かかり、さらに編集されて放送されるのに数日かかった。
「進め!電波少年」の放送時間は、日曜 22時30分 ~22時55分。
毎週、25分の間に数本のVTRが放送され、「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」は、その中の1コーナーとして
5月24日、30日
6月3日、6日、14日、24日、30日
7月3日、18日、19日、25日、31日
8月5日、7日、9日、15日、19日、22日、29日
9月2日、10日、17日、25日
10月1日、11日、18日
と26回、放送。
最初は3~4分だったが、人気が出てくると10分、15分と増えていき、看板コーナーとなって番組の視聴率アップに貢献した。
25日目、4ヵ国目、ラオス入国
29日目、5ヵ国目、タイ入国
41日目、6ヵ国目、ミャンマー入国
46日目、7ヵ国目、インド入国
64日目、手違いで8ヵ国目、ネパール入国
69日目、インドに再入国
80日目、インドの首都、デリーに到着
やっとデリーにたどり着いた猿岩石は、さっそく次なる国、パキスタンの大使館へ。
そしてビザを申請すると、なんと即発行され、しかも無料だった。
喜んで大使館を出た有吉が
「やっとインド出れる感じがしてきたよ」
というと
「なっがいよ、インドも」
「なっげえよ、インドも」
と2人はハモり、
「ヨシッ!」
「よしっ!」
は完全に一致。
喜んだのもつかの間、パキスタンの次の国、イランのビザもデリーで取得しておかなくてはならないと聞いて、その足でイラン大使館へ向かうと
「1人、1750ルピーです」
といわれてしまい、撃沈。
2人で3500ルピー(12000円)
1日働いて50ルピーが常識のインドで、3500ルピーもの大金を稼ぐことなどできるのか。
デリーの街頭で
「I want job」
「We are Job Less」
と書いた紙を持って立ったが、2時間経ってもなんの収穫も得られず、あえなく撤退。
仕事探し2日目、まったく見つからず、3日目、残っていた200ルピーが飲食でなくなり、所持金0。
「全然ダメだ」
「今日、食わないと死ぬぞ」
公園で体力温存のために交替で立っていると、突然、爆風スランプのボーカル、サンプラザ中野とギター、パッパラー河合が現れた。
東京から助っ人に来たという爆風スランプは、公園で猿岩石のためにつくった曲、「旅人よ」を披露。
「強い風に今立ち向かってゆく♪
遥か彼方を目指した旅人よ♪
広い宇宙の上を歩いてゆく♪
遠い遠い自分に出会うために♪
カッコ悪い道を選んだ男♪
カッコ悪い夢を選んだ男♪」
猿岩石は涙を流しながら聴き、歌が終わると何度も頭を下げてお礼をいった。
その後、日本料理をオゴってもらい、ホテルに泊めてもらい、部屋についている風呂に入った後、フカフカのベッドで寝て、夢のように豪華な夜を過ごした。
翌日、爆風スランプは、猿岩石のイランのビザ代、3500ルピー(12000円)をつくるためにストリートライブを行った。
場所を変えながら数回のライブを行って、3600ルピーをGET。
森脇は
「働かずしてビザ入手だ」
と歓喜。
有吉は喜びのあまり、
「さすが爆笑さん」
と間違えて
「爆笑じゃねえよ」
と頭をハタかれた。
爆風スランプが見守る中、猿岩石は
「PAKISTAN」
と書いた紙を掲げ、ヒッチハイクを開始。
車が停まっては断られ続ける猿岩石と、停まる度に手を合わせてヒッチハイク成功を祈る爆風スランプ。
それを2時間、繰り返した後、トラックをGETし、4人は握手をして別れた。
ストリートライブの収益3600ルピーからイランのビザ代が3500ルピーを支払って残金は100ルピーになったが、別れ際に400ルピー の餞別をもらったので、500ルピーになった。
トラックはパキスタン国境に向かって3時間、ひた走り、デリーから100㎞離れたパニーパットという街に到着。
トラックはここから国境方面とは別方面に向かうため、2人は降車。
「OK」
「サンキュー」
とお礼をいい、街をみながら、
「大丈夫だ。
ゴラクプールとかに比べたら平和な感じがするよ」
と今夜の野宿ポイントを探し。
バスターミナルで路上生活で寝ている人たちを発見し、
「友達もいる」
といって、ここに泊まることを決めた。
少しくつろいでいると2人の男性が近づいてきて、有吉はヒゲを生やした男に手を握られ
『500ルピーで買ってやる』
「怖ぇー」
といって手を引っ込めても男は笑顔で迫ってくる。
「うわっ、ほんとやめて!」
さらに身を縮めて逃げたが、膝をついてにじり寄ってくる男に手を握られ、
「なんでソフトに触ってくんだよ、オイ」
身の危険を感じた2人は、野宿をあきらめて、ホテルのチェックイン。
お代は、2人で100ルピーだったので所持金は400ルピー(1400円)に。
その後、部屋にいるとブザーが鳴り、ドアを開けると
『ハロー』
といってさっきとは別のオカマ、2人が入ってきた。
瞬間、
(犯される)
と思った有吉は
「ノー・サンクス、ノー・サンクス」
といって追い返そうとした。
しかしオカマは手に下げたバッグからウイスキーを取り出すのをみて
(オカマはイヤだが酒は好き!)
という自分と
(リメンバー・ベトナム!
酔っぱらうわけにはいかない。
酔えば何をされるかわからない)
と自分が心の中で戦ったが、すぐに、
「ドリンキングね?
オンリー・ドリンキング」
といって招き入れてしまった。
オカマは水割りをつくって
『チアース(乾杯) !』
猿岩石は、
「ウワッ、強いよ」
「ウワッ、キツいな」
その後、森脇は、飲む量をセーブしたが、有吉は暴走。
10分後には、一気飲み。
30分後には、オカマの手を握って一緒に歌って踊り始め、
「ウイスキー・プリーズ」
『キス・プリーズ』
「キス・プリーズ?
キス・プリーズじゃないわ」
となぜかカマ言葉で返した。
「僕たちは4月13日に電波少年に騙されて・・・」
(有吉)
「騙されてって失礼だろ!」
(森脇)」
「・・・スタートいたしました!」
(有吉)
と語り出し、超ご機嫌でドンチャン騒ぎ。
2時間後、ボトル1本を空けてしまった。
途端、オカマは
『マニー』
といって手を出した。
「マニィー?」
有吉は不思議そうに顔をしてカマ口調で聞き返したが
「オイッ、お前、重大さ気づいてないだろ。
金払えっていってるぞ」
と森脇にいわれるとバッと立ち上がり
「エッ、ウソ!
私、払わないわよ」
とやはりカマ口調で抵抗。
「言ってもダメだって」
森脇は冷静だった。
実際に飲み食いした以上、代金は支払わなければいかない。
オカマは1200ルピーを要求したが、所持金400ルピーをすべて払うことでなんとか許してもらった。
「サンキューベリマッチ、バイバイ!」
有吉は、そういってオカマ達を送り出した後、
「怖ぇ、怖ぇ。
ホントアッタマくるよ」
とブツクサいいながらベッドに寝転んで即寝。
「ああ、こんなことしてたらいつまでたってもロンドンにたどり着けない」
(森脇)
「朝起きると部屋は散乱しており、俺は裸。
犯されたのか?
森脇に聞いても『さあね』とそっけない
犯られたのか?? 」
(有吉)
88日目、無一文となってしまった猿岩石は、
「PAKISTAN」
と書いた紙を掲げて、ヒッチハイク開始。
すると警官がやって来て
『何をしているんだ』
と怒り気味に紙を奪い取り、
『こいつらパキスタンに行こうとしている。
テロリストかもしれない』
と咎めた。
1947年にパキスタンが強引に分離独立して以来、インドとパキスタンは敵対的な関係にあり、多数の政治的な事件も起こり、パキスタンを嫌っているインド人は多かった。
ちょうどこのときもパキスタン国内で9人が死亡する爆弾テロ事件が発生し、パキスタン側が事件の背後にインドがいると主張したため、両国の緊張感は増していて、インド警察のパキスタン入国者に対するチェックは厳しかった。
そんなことは何も知らない猿岩石は、ただただ緊張。
警察署に連行されかけたが、パスポートとビザをみせて、なんとかことなきを得た。
警官は
『人騒がせな奴らだ。
これを出したら、また捕まるぞ』
と注意しながら紙を返した。
解放されたものの、インドとパキスタンが非常に危険な状態にあることを思い知った2人は、
「場所変えようか」
とパキスタンではなく、目的地を国境より手前にあるアムリッサルに変更した。
「Amritsar 」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク再開。
2時間後、トラックが停まってくれたので、あわてて運転席横にかけ寄り、
「お願いします」
と手を合わせ、心を込めて日本語で頼んだ。
『荷台でいいか?』
「YES」
『じゃあいいよ』
「やったー」
2人は勝利者のポーズをとって、ダッシュで荷物を取りにいった。
オカマで苦しんだパニーパットから、途中、食事をオゴッてもらいながら、8時間かけて北西に約400㎞移動し、アムリッサルに到着。
アムリッサルは、パンジャーブ州最大の都市。
インドで唯一、シク教徒が大多数を占め、その総本山、黄金寺院がある。
黄金寺院は、「アムリタ・サロヴァル(不老不死の池)」と呼ばれる聖なる池の中央に建てられ、この池の名が「アムリトサル」の由来といわれている。
しかし2人にとって重要なのは、アムリッサルがパキスタン国境まであと50kmという位置にあること。
着いたのは、17時。
国境はすでに閉鎖されていたので、今夜の野宿ポイント探し。
バスターミナルを発見し、
「あっ、ここいいねえ」
といってカーペットを敷いたのはトイレの前。
インド42日目の夜となる2人は、
「やっとだな」
「最後にふさわしい」
といいながら寝た。
翌89日目、7月10日、恐る恐る
「Pakistan」
と掲げ、1時間後、トラックをGET。
「これで出れるな」
「やっとだよ」
トラックに揺られて2時間後、国境に到着したことを知らされ、降車。
まずはインドからの出国手続き。
「まだパキスタンじゃないんだ。
「まだパキスタンじゃない。
インドが終わり」
と緊張しながらパキスタンへの入国手続きに向かい
『所持金を書いてください』
と聞かれ
「ノー・マネー」
と答え
『ノー?』
と驚かれた。
こうして徒歩で国境を越え、43日間と長かったインドの脱出、そして9ヵ国目、パキスタンへの入国に成功した。
良くも悪くもインドは、旅全体を通じて印象深い国だった。
有吉は、
「もしもう1度いくならインド」
といい、森脇は
「1番行きたくない国」
という。
野宿をしていると何かに嚊まれ、一瞬、蚊かと思ったが痛さが違うのでみてみるとトカゲだった。
それも40~50㎝もある大きなトカゲだった。
最初は怖かったが、食糧難の2人は石をブツけて捕獲。
皮をはいで食べようとしたが、インド人に
『殺生はやめろ』
といわれ断念した。
「インドが1番ツラかったですね。
紙を使わずにお尻もずっと・・・
爪には常にウンコが入ってる状況がインドでしたね」
(有吉)
「普通,左手で拭いて右手で食べるじゃないですか。
こいつ違いましたからね。
右手で拭いて右手で食ってましたから」
(森脇)
一方、新しく入国したパキスタンは、ウルドゥー語の「パク(神聖、清浄))」と「スタン(国、地方)」を合わせて名づけられた。
国土は79.6万km²と日本の約2倍。
東にインド、北に中国、アフガニスタン、西にイラン、そして南はアラビア海に面している。
北部には、ヒンドゥクシュ山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈が連なり、エベレストに次ぐ世界第2位の高さを誇る「K2」がそびえている。
この「Karakorum No.2 (カラコルム山脈測量番号2号 )」は、人里から遠く離れた奥地にあったため、19世紀末までほとんど存在を知られることもなく名前さえ無かった。
古代からインダス川の恵みを受け、肥沃な大地にインダス文明が興り、シルクロード交易で多くの民族、文化と交流してきた。
現在でもモヘンジョ・ダロやハラッパーなど、いくつものインダス遺跡が残っている。
人口は、2億38181万人。
首都は、イスラマバード。
宗教は、イスラム教徒97%。
日本でイスラム教と聞くと
「テロリスト」
「過激派」
「ジハード(聖戦)」
など血なまぐさいイメージが浮かびがち。
一般的なイスラム教徒(ムスリム)に対しても
「豚肉を食べない」
「酒を飲まない」
「1日何度か地面に頭をつけてお祈りをする」
などという習慣やモスク(イスラム教会)での集団礼拝のシーンあ異質にみえてしまう。
しかしそれらは断片的な情報から生じる誤解で、パキスタンのムスリムの多くは自然体の生活を送っていて、道徳教育が徹底されているので治安はよく、旅行者が犯罪に巻き込まれるのはヨーロッパ先進国よりも少ないといわれる。
世界3大宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教という順番で興り、信者数は、キリスト教が20億人、イスラム教が16億人、仏教が4億人。
1番若いイスラム教は生活全般に規範が示し、ムスリムはそれに従って生活する。
最も基本的なのは
1 信仰告白
2 礼拝
3 喜捨(金品を寄付・施捨すること)
4 断食
5 巡礼
という「5行」で、これらは時期や方法などが決められている。
「断食」は、イスラム暦第9番目のラマダーン月に行われるが、病人、老人、旅人、幼児、妊娠中の女性、乳児のいる母親、戦闘中の男子などは免除される。
食べ物は、ハラール(許されたもの)とハラーム(禁じられたもの)があるが、パキスタンで売られているものは、ほぼすべてがハラール。
一般的な料理として、カレー、ナン、チャパティー(無発酵のパン)、サモサ(揚げ餃子)、ビリヤーニ(炊き込みご飯)、タンドールという釜を使って調理する料理などがあり、よくチャイ(ミルクティー)を飲む習慣もある。
パキスタンは、手縫いサッカーボールで、世界の70~80%を占める大生産国だが、これはイギリス植民地時代に牛皮革の取り扱うことができるムスリムの安価な労働力が理由。
一方、インドのヒンドゥ教では、牛を神聖なものとして考え、お牛様が道を塞いで渋滞が発生することもある。
イギリスの植民地支配から独立建国したとき、インドを挟んで東パキスタン、西パキスタンにわかれた「飛び地国家」だった。
結果、パキスタン北部のカシミール地方の領有権争いで2回、東パキスタンが「バングラディッシュ」として独立しようとしたとき、インドが介入したことで1回、合計3回、「印パ戦争」が起こった。
パキスタンとインド、両国共に核を保有しながら、
2001年12月、インドの国会議事堂を襲撃する事件
2008年11月、インド最大の都市、ムンバイで、174名死亡、300名以上負傷という凄惨な同時爆破テロが起こり、実行犯10名のうち、パキスタン人のテロリスト1人が捕獲された後、処刑。
(「ホテル・ムンバイ」で映画化)
2019年2月、南北に分断されたカシミール地区のインド側で治安部隊を運ぶ車両部隊に1台の車が突っ込んで自爆し、44人と襲撃者が死亡すると、インド空軍が48年ぶりに管理ラインを超えてパキスタン国内イスラム過激派の拠点を空爆。
など軍事的緊張状態を続けている。
そんなこと何も知らない有吉は、歩いて国境を越えながら
「ハロー・パキスタン。
アイ・ラブ・パキスタン。
と新しい国にあいさつ。
森脇は、
「で、どこ目指すんだよ」
と地図を取り出した。
そして2人は、次の目的地を国境から30㎞のラホールに設定。
「ええっと、ノット、ペイ、OK?」
乗せてくれる車がないか、国境にいる車を1台1台当たっていった。
断られ続けて1時間後、
「ラホールシティ。
ノット・ペイ、OK?」
と聞くと
『OK、My Friend』
と肩を叩いていってくれる、文字通り超フレンドリーな運転手と出会い、ヒッチハイクに成功。
しかもそれはトラックの荷台を座席に改造したキレイな小さなバスのような車。
こんな車に本当にタダで乗車OKなのか?
あまりの気前の良さに
「なんか怪しいな」
(森脇)
「本当にタダなのか?)
(有吉)
と怪しみながらも乗車。
約1時間後、車はラホールの街に到着。
ラホール(Lahore)の語源は、「鉄(Loha)」
古代には鉄壁の防御を誇り、中世にはアフガニスタンのカズニ朝の都、16世紀にはムガル朝の都として繁栄。
そのときに建てられた壮大な建築物が現在も残る、カラチに次ぐパキスタン第2の都市である。
11世紀頃に建造されたラホール城塞は、東西425m、南北340m、周囲を城壁に取り囲まれた壮大なスケールを誇る世界遺産。
インドでタジマハールを建てたムガール帝国最後の皇帝シャー・ジャハーンが17世紀半ばに王族の保養地として造ったシャリマール庭園も、水を効果的に配置して暑い夏も涼しい工夫をしたムガール様式の庭園として世界遺産に指定されている。
その他、たくさんのモスクや皇帝の墓がある街で車は停まり、
『着きましたよ』
後ろに回ってきた運転手にいわれ、荷物を持って降車。
そのまま促されて案内されたのは、なんとホテルのフロント。
車はホテルの無料送迎車だった。
しかし無一文の2人は泊ることができない。
「ノーマネーね。
だからノーホテルね」
有吉は無一文だから泊まれないと説明。
『ノーマネー?』
それを聞いた運転手は、
『ノー・プロブレム』
といってもう1度、2人に車に乗るよう指示。
有吉は
「わかんない、意味が」
といいながら乗り込んだ。
そして1時間後、どこかに到着。
運転手は
『私の家です。
どうぞ入ってください』
といった。
そして2人が家に入ると
『私の母です』
『私の妻です』
と家族を紹介していった。
運転手の名前は、ハッサン。
弟家族も同居する大きな家だった。
猿岩石は、シャワーを借りて、久しぶりにサッパリ。
夜は一家と一緒に夕食をごちそうになった。
「うまいね」
『ハッサンカレー、ナンバーワン』
そして来客用の部屋のベッドで中で快適な寝心地を味わいながら寝た。
「ずっと不信感を持っていたのが恥ずかしく思った」
(有吉)
翌朝、朝食をごちそうになった後、
「サンキュー」
とお礼をいって立ち去ろうとしたが、またもハッサンに呼び止められ、手を引っ張られて車のところまで連れていかれ
『乗れ』
といわれた。
この日は金曜日で、イスラム教では休日。
ハッサンの家族も続々と乗り込んできて、どうやらどこかへお出かけするらしい。
一家と一緒に30分移動し、やって来たのはモスク。
毎週お参りに来ているという一家に習い、壁から出ている水道で口や手足を清めた。
そして参拝を済ませると、近くの公園に移動し、木陰でピクニック。
昼食をとり、幼い子供たちたちと遊んでのどかな時間を過ごした。
その後、結局、ハッサン家に戻って、もう1泊させてもらい、翌朝、ハッサンにトラックがたくさん通る道路まで送ってもらった。
『OK、バイバイ』
「サンキュー、ハッサン」
「どうもありがとうございました」
ハッサンと別れた後、猿岩石はヒッチハイク開始。
1時間後、大きくてド派手なトラックが停車。
事情を告げると運転手は
『お金の心配はしなくていいよ。
パキスタン人と日本人は友達さ』
といってくれてヒッチハイク成功。
トラックは200㎞先のハラッパという街まで行くという。
しかし荷台にいる2人は、40度を超える暑さに1時間もするとヘタってしまった。
それを同じく荷台に乗っていた男性に告げると
『行水をしよう』
といった。
やがてトラックが停まって、歩いていく男性についていくと、そこは泥色の水が流れる川。
「汚っねえー。
コレは入れねーよ」」
「泥だ、泥。
なんかに噛まれそうだよ」
ためらっていると男性は平気で入っていき
『GOOD!』
「GOODォ~?」
2人も恐る恐る入ってみると意外と冷たくて気持ちがよかった。
「イエーイ」
「ワァー気持ちイイ」
泥川ではしゃいですっかりリフレッシュした2人を乗せ、トラックは再びハラッパへ向かった。
そしてラホールを出発して8時間後、19時、トラックは200km離れたハラッパに到着。
2人は
「名前通り、何もない街だな」
と思ったが、運転手に「ハラッパ遺跡」に案内された。
メソポタミア、エジプト、黄河文明に並び、世界4大文明の1つとして知られるインダス文明は、紀元前2600~1600年頃に栄えた。
そのインダス文明最大の都市が、「モヘンジョダロ(Moenjodaro)」
1921年に発掘が開始されて以来、長い間、仏教遺跡と信じられていたが、調査が進むにつれて単なる僧院ではなく巨大な古代都市であることが明らかとなった。
大量のレンガを積み上げてできた城塞や市街地は広さ4km四方に及び、沐浴場や穀物倉、上下水道が整えられ、高度な都市計画のもとに造られた都市であったことがうかがえるものの、そのほとんどが未だ謎に包まれたまま。
ハラッパ (Harappa) も、モヘンジョダロと並び称される遺跡で、東の「城塞区」と西の「市街地」からなり、城塞の北側には2列にならんだ「穀物倉」と「円形作業台」18基などが造られ、最盛期には2万人の人々が暮らしていたといわれている。
両者とも「未知の文明の都市遺跡」として 現在も遺跡の発掘作業は続いている。
そんな歴史的価値のある遺跡も2人にとってはただの空き地で
「これは何?」
「なんなのコレ?」
とその価値が理解できず
「ゴーゴー、バック」
「これだけのためにこんだけ歩いたのか」
とブーブーいいながらサッサと引き上げた後、トラックに別れを告げ、近くの原っぱで野宿した。
翌91日目、ハラッパでヒッチハイクを始めるも、ただでさえ何もない上、どうやら町外れらしく、車がまったく通らない。
2時間後、ようやくGETしたのは馬車ならぬロバ車。
「歩くよりは速いよ」
と喜んでいると、途中、道を歩いていた外国人ヒッチハイカーが乗り込んできて
「ついにライバル登場だ」
と笑った。
30分後、ロ馬車から降ろされると、外国人ヒッチハイカーの案内で街の中心部へ。
早速、ヒッチハイクを始めようとする2人を外国人ヒッチハイカーは
『一緒に駅に行きましょう。
僕は列車でムルターンに行きます』
と誘った。
「あのね、ノー・マネーだからノー・トレイン。
オンリー・ヒッチハイク」
と説明しても
『トレイン、ノー・プロブレム。
トレイン、ノー・マネー』
と鉄道でヒッチハイクができるというのである。
「トレイン・ノーマネー?」
『ノー・マネー、ノー・プロブレム』
「ノー・マネー、ノー・プロブレムなの?」
2人が半信半疑で駅までついていってみると、確かに改札口がない。
1時間後、列車が到着。
無賃乗車し、初の列車のヒッチハイクに成功。
「スゲー」
と喜んだが、車内は大混雑。
森脇は途中から何とかしゃがむことができたが、有吉は、身動きできないまま、立ちっぱなし。
3時間後、列車がハラッパから150㎞離れたムルターンという駅に到着すると
『ここで降りる』
という外国人ヒッチハイカーと一緒に降車。
外国人ヒッチハイカーと別れた後、猿岩石は駅の待合室を今夜の野宿ポイントに決定し、ベンチに荷物を降ろした。
「もう電車やんないぞ。
もうイヤだ。
電車イヤだ」
3時間立ちっぱなしだった有吉は、そういって寝ころんだが、翌日、緊急事態発生。
ひどい頭痛と腰の痛みを訴え、救急車が呼ばれ、病院に搬送されたのである。
診断は、「栄養失調」と「過労」
「栄養失調と、むちゃくちゃ汚い菌がたくさん出てきたっていうことで・・・
言葉がわかんないんで、それも確かかどうかわかんないんですけど、とりあえず何でも『あ、イエス』『あ、イエス』って・・・
それで注射を6本ぐらい、いっぺんに打たれて」
という有吉は、ベッドで点滴を受けながら、入院し、翌日には無事、退院となった。
「お前、大丈夫か?」
(森脇)
「もう大丈夫だね」
(有吉)
治療費は、日本でかけた海外旅行傷害保険で支払われることになり、セーフ。
2人は、次の目的地、100km西のテラガジカンに向けてヒッチハイク開始。
1時間後、
「ノット・ペイ、OK?」
『OK』
とトラックをGET。
運転手は、デラガジカンより300㎞も先のローラライまで乗せていってくれるといい、その上、4人乗りだったので荷台ではなく車内の後部座席に座らせてくれた。
快適なドライブが2時間続いた後、トラックは険しい山道の突入。
道幅は狭く、少し間違えば谷底に転落してしまうような危険な道を身を硬くしながら延々、2時間。
ようやく峠を抜け、ホッとしたのも束の間、雨が降り出し、それは激しさを増して暴風雨となり、トラックは、土砂降りの雨と横転するかと思うような強い横風で中々、前に進めない。
2時間後、天候は回復したものの、川が氾濫し、あふれた水が川となって道を塞いでいたため、トラックは立ち往生。
激流がおさまるのを待って2時間後、トラックは少し水量が減った川に突っ込み、慎重にゆっくりと前進。
なんとか無事横断したとき、思わず車内、みんなで拍手し合った。
その後は快調に走り続け、ムルターンからローラライまで400㎞を16時間かかって到着。
「サンキュー」
トラックと別れたとき、時間は23時。
「いい人たちだったなあ」
といいながら野宿ポイント探し。
「ここ、OK?
スリープ」
『OK』
「サンキュー」
店員の許可を得て、ドライブインの店先で野宿した。
翌93日目、7月14日、次の目的地を150km西のクエッタに定め、
「QUETTA」
と書いた紙を掲げてヒッチハイク開始。
2時間後、ようやく4人乗りのトラックが停車。
「ようし、聞いてみよう」
素早く2人の男性が乗る運転席にかけよった。
「クエッタ」
「ノー・マネー」
『OK』
「サンキュー」
喜んで後部座席に乗り込んだ。
走り出して1時間後、運転手は自分の家に寄った。
建物をみるとかなりお金持ちそうで、森脇は日本語で
「これは期待できる」
お茶を煎れてもらい、高級そうなお菓子を出してもらい、大当たり。
運転席と助手席に座っていた2人の男性は兄弟で、休日に街に買い物に出たところ、猿岩石に出会ったという。
親切な兄弟は、引き続きクエッタまで送ってくれるという。
再び4人で車に乗り込み、3時間のドライブの末、到着。
猿岩石は、お礼をいって降車。
すると兄弟は
『戻ってくるから待ってて』
と言い残し、車でいってしまった。
いわれた通り道端に座って待っていると、車は10分ほどで戻ってきた。
笑顔で車から降りてきた兄弟は、空手着を着ている2人になにやらプレゼントを渡した。
箱を開けてみると中身は服。
「サンキュー」
「なんていい人なんだ」
2人は去っていく車に日本式に深々とお辞儀。
そしてさっそくもらった服を身に着けてみると、それはパキスタンの代表的ファッション、イスラム教徒用のモスリム服だった。
猿岩石は、真っさらで真っ白のモスリム服でバリっと決め、気持ちを新たにファイトをみなぎらせた。
翌日、クエッタでヒッチハイクを開始。
2時間後、4人乗りのトラックが停まってくれた。
運転手に
『From JAPAN?』
と聞かれ
「イエス。
アイム、モスリム(私はイスラム教徒です)」
有吉がハッタリをかますと森脇も
「モスリム」
とガッツポーズ。
『GOOD!!』
運転手は握手して後部座席のドアを開けて
『どうぞ』
のジェスチャー。
そして約5時間かけてクエッタから350㎞先のダルバンティンまで乗せてくれた。
「かっこいい」
2人は去っていく男に感動した。
103日目、
「TAFTAN」
と紙に書いてヒッチハイク開始。
目指すは、イランとの国境の街、タフタン。
しかしダルバンティンは車の往来が少なく、2時間たっても車をGETできない。
3時間後、ようやくワンボックスカーが停まってくれてヒッチハイク成功し、最後部座席に収まり
「やったあー」
「これはいいや」
と喜んだ。
やっと乗せてもらった車は、砂漠の中をひたすら突き進んだ。
砂漠の中を突き進む車は、クーラーなどついておらず、窓を開けて走ると熱風が入ってきて、窓を閉めるとサウナという灼熱地獄。
おまけに途中、タイヤが砂に埋まってしまって立ち往生し、猿岩石は外に出て、タイヤがかき上げる砂ぼこりを浴びながら車を押して脱出させた。
アクシデントはあったものの、運転手は親切な人で、走り出した車でドライブインに入れると食事をオゴってくれた。
しかしドライブインを出発したとき、再びアクシデント。
なぜか車内の人数が増えていた。
「人、増えてねえか?」
(森脇)
「この人はね、親切な人なんだよ。
本当に」
(有吉)
車は6時間かかってダルバンディンから西に300km、国境の街、タフタンに到着した。
お礼をいって別れた後、まずはパキスタン出入国管理事務所で出国手続き。
意気揚々、イランへの入国手続きへ向かい、これも無事終了。
こうして98日目、10ヵ国目、イランに入国した。
「パキスタンはいい国だった。
一文無しで通過できるとは思っていなかった」
と森脇はパキスタンに好印象。
しかし有吉は、カメラが回っていないところで誰にもいえない体験をしていた。
「パキスタンで野宿してると来るんですよ。
警察官っていうか、兵隊が取り調べに。
それでパキスタンの兵隊さんが、僕に『マッサージしてあげる』って。
最初はマッサージしてもらってたんですけど、だんだん内モモとかもマッサージされはじめて・・・
何か気持ちいいんですよ。
内モモをもんでいたかと思うと、手が股間をスッと触った。
まあこれはミスかな?と思っていたら、今度は明らかにもんできて、だんだん内モモに比べて股間に触れる比率が高まり、股間:内モモの比率が8:2までになって・・・
でもまだズボンの上からだったということで、それでも許していたんです。
そうしたら今度は中に手が。
まあいい、パンツがある、と思っていたら、兵士はシャワーを浴びてこいと。
もまれている間は、相手が兵士だということで怖く、ヘタに逃げることはできなかったんですけど、5日ぶりの入浴だとシャワーを浴びていたんです。
浴びた後で逃げればいいだろうと。
そしたら男がシャワールームに入ってきて、フルチンで。
それで、ちょっといろいあったんですけど、ええ」
そのとき森脇は
「兵士の部屋の外で1時間ほど体操座りをして待っていた」
という。
次に野宿していて取り調べが来たとき、有吉は、
「襲われる」
と思って逃げ、1人になるのがイヤだった森脇も
「待ってくれよぉーっ」
と続き、2人は山の中へ逃げた。
10ヵ国目、イランの正式国名は、「イラン・イスラム共和国」
紀元前550年に誕生したペルシャ帝国をルーツに持ち、紀元500年頃にに誕生した預言者、ムハンマドの故国であり、2500年以上の歴史を誇る。
国土は日本の約4.4倍。
「中東」「西アジア」と呼ばれる地域にあり、東にパキスタンとアフガニスタン、、西にトルコとイラク、北にカスピ海、南にペルシャ湾を望む。
人口は、日本が1億3千万なのに対し、8300万人。
その内の16%、1400万人が首都テヘラン周辺に住むため、テヘランの人口密度は東京以上である。
世界に誇るペルシャ絨毯は、すべて手織りで、神秘的なデザインもパソコンや機械を使わない職人のオリジナル。
天然染料による染色、細かな織り、熟練の技術によって、踏めば踏むほど美しさが増し、しかも頑丈で100年の酷使にも耐えるという。
そんな美しさと機能性を併せ持つペルシャ絨毯は、1日5回ひざまづいて祈るイスラム教徒の祈禱用小型絨毯も需要も高い。
イランの政治は特殊な形態で、選挙で大統領が選出されるが、さらにその上に「最高指導者」という地位があり、宗教法学者に就き、その目的は
「救世主が現れるまで、イスラム教の最高解釈者がアッラーの意思に従って国家を指導する」
大統領は行政を行うことができるが、最終決定権は最高指導者にあり、事実上、イスラム教に最高指導者が、司法、立法、行政のすべてを掌握している超イスラム国家である。
この特異な体制ができた原因は、アメリカ。
第2次世界大戦後、敗戦国となったイランにアメリカが介入し、近代化、脱イスラーム化を進めた。
欧米化に反対する宗教法学者、ルーホッラー・ホメイニーは、アメリカの傀儡となった国王を批判し、パリに国外追放。
経済不調や貧富の格差拡大、そしてホメイニーの国外追放に不満を募らせた国民によるデモやストライキ、暴動が全国で起きると国王は、
「休暇のためにイランを一時的に去る」
といって政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近と共に友好関係にあるエジプトに亡命。
ホメイニーは、パリからテヘランに戻り、イスラム革命評議会を組織して政権を奪取し、最高指導者となった。
(イラン革命)
カイロ、モロッコ、バハマ、メキシコと転々としていた国王は、
「ガンの治療」
という名目でアメリカ、ニューヨークに到着。
ホメイニーは、アメリカ政府に抗議したが拒否され、激怒。
首都、テヘランにあるアメリカ大使館では連日、デモが行われるようになり、イスラム法学校の学生が敷地内に侵入。
警備するアメリカ海兵隊が発砲を躊躇する間に占拠し、外交官、海兵隊員、その家族、52名を人質にして、国王の引き渡しを要求。
アメリカは、国王をパナマへ出国させたが、大使館の占拠を解かれないため、軍事力による人質奪還を決定。
アラビア海に停泊中の艦船から8機のヘリコプターが、エジプトから6機の輸送機が飛び立ち、まずイランの砂漠で落ち合い、さらに別な場所に移動してから、陸路でテヘランへ向かう作戦だった。
が、3機のヘリコプターが砂塵のために到達できず、さらに1機が故障。
混乱の中、ヘリコプターと輸送機が接触事故を起こし、8名が死亡。
奪還どころか、敵と戦闘することないまま犠牲者だけを出して作戦は中止。
ジミー・カーター大統領は、国民に秘密作戦失敗を報告。
ホメイニーは、
「アメリカ軍の失敗を導いたのは神の思し召し」
と宣言した
しかしその後、国王がカイロで死去して占拠の目的が消えてしまった上、イラン・イラク戦争が勃発し、奇襲を受けて敗北を重ねたイランは、カーターが大統領選挙でロナルド・レーガンに敗れるのを見届けた後、人質返還に合意。
人質は、レーガンが大統領に就任した1981年1月20日、444日ぶりに解放された。
しかしこの「イランアメリカ大使館人質事件」以降、イランとアメリカの国交は断絶されたままである。
イランは、男子に21ヵ月間の徴兵を義務づけ、常時40万人の兵力があるが、この正規軍とは別に最高指導者の直轄軍「イスラム革命防衛隊」が存在する。
2020年1月、アメリカの無人攻撃機によって殺害されたガーセム・ソレイマーニーは、イスラム革命防衛隊の1部門、イラン国外でも特殊作戦を行うゴドス部隊の司令官だった。
イラン最高指導者の恐怖は、日本にも及んでいる。
1988年9月、預言者ムハンマドの生涯から着想を得た小説「悪魔の詩(The Satanic Verses)」が出版された。
1989年2月14日、ホメイニーは「悪魔の詩」が反イスラーム的であるとして、作者のサルマン・ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワー(fatwa、イスラム法学に基づいて出す解釈や裁断)を発布。
翌日、イランの財団は、ファトワーの実行者に対する懸賞金(日本円して3億7千万円)を提示。
1989年3月7日 、イギリス警察がサルマン・ラシュディを保護したため、イランはイギリスと国交を断絶。
1989年6月3日、ホメイニーが心臓発作で死去。
ファトワーは発した本人しか撤回できないので、永久的な命令として残った。。
1991年7月12日、「悪魔の詩」の日本語訳を出版した筑波大学助教授、五十嵐一が、キャンパス7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。
・犯人はエレベーターの使用を避けて階段で3階まで降りて非常階段から逃走
・事件当日、筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生が出国
・事件後、イスラム新聞、サラームは、「イスラーム教徒にとって朗報」とコメントを掲載
ということがわかっているが、未だ犯人は捕まらず、未解決事件となっている。
2022年8月12日、アメリカ、ニューヨーク州で講演会を行ったサルマン・ラシュディが、ステージ上で男に複数回、刺され、右目を失明し、首、胸、腹、腕、脚を刺され、複数の臓器を損傷。
男は、数人に押さえつけられても、なお攻撃を続けようとしたが、その場で捕獲された。
ニュージャージー州に住む24歳の男で、両親がレバノン南部ヤルーン村からアメリカに移住してきて、本人はアメリカ生まれ。
ヤルーン村を取材したジャーナリストは、イランが支援するヒズボラの旗、ハッサン・ナスラッラー、アリ・ガメネイ、ルホッラー・ホメイニ、カッセム・ソレイマニの肖像画を確認した後、ヒズボラに追い払われた。
そんなイランの国境からヒッチハイクに成功した猿岩石一行だったが、乗車中、警察の検問に遭遇し、撮影を止められた。
日本のテレビ番組であることを知ると
『テープをチェックさせろ』
『カメラをチェックする』
といい、車に乗せられ、警察署へ連れていかれた。
署内でチェックすると移動中の景色の中で意図せず軍事施設が映っていた。
実は女性も撮影禁止対象で、警官は、かなりモメた。
結局、戻ってきたカメラには、イラン入国からの撮影映像はすべて消去されていた。
映像に加え、荷物チェックも受け、
「怪しいものなど出てくるわけもないが、恥ずかしかったのが、パンツを洗濯しないでカバンに入れていたため異臭を放ち、警官がウエッと表情をしたことだ」
(有吉)
一行は5時間後解放されたが、
『ここから先もイラン国内で撮影は禁止』
といい渡され、同行スタッフは、事情を説明する手紙を日本に送り、
「よってしばらく撮影はできません」
と報告した。
こうして消息不明状態となり、安否が気遣われたが、手紙が届いて5日後、同行スタッフからビデオレターが日本に到着。
「テヘラン、いいねえ」
といいながら首都、テヘランの街を歩く猿岩石の後ろ姿が映っていた。
彼らは一時拘留された国境から、ザヒダン、 ケルマン、フタンと1500㎞移動し、首都のテヘランに到着していた。
そして有吉は街の中を流れる川、といっても自然の川ではなくコンクリートでできた用水路をしゃがみこみながらみて、
「ああ、いいねえ。
風呂入りたいけど捕まりそうだよ」
と日本では命の心配をされたときに風呂の心配。
一方、森脇は、テヘランに到着した3日後、8月1日、砂漠を歩きながら22才の誕生日を迎えた。
イランを抜けることができれば、次は11ヵ国目、トルコ。
アジアの西端、ヨーロッパとの境に位置する国だった。