選出方法
12球団になった1958年以降を対象に、純粋に "勝敗だけ" を見て負け越し、最優秀防御率を獲得した選手を選出しました。抑え投手の場合、セーブの方が重要なので、勝敗だけに注目するのはナンセンスですが、そもそも抑え投手で規定投球回数をクリアすることが稀なので、敢えて基準は変えずそのまま選出しています。
選出したのは、以下の7投手です。
安田猛(1973年)
佐藤道郎(1974年)
鈴木孝政(1976年)
斉藤明夫(1982年)
村田兆治(1989年)
ネイサン・ミンチー(2001年)
金田政彦(2002年)
安田猛(1973年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
---|---|---|---|---|
安田猛 | ヤクルトアトムズ | 1973 | 10勝12敗 | 2.02 |
安田猛は、1972年に、社会人野球の大昭和製紙からヤクルトアトムズに入団。新人ながら先発、リリーフとフルでリーグ最多の50試合に登板し、最優秀防御率と新人王を獲得します。
翌1973年もリーグ最多の53試合に登板。この年は、14試合先発、11試合完投、4試合完封を記録するタフな投球ぶりで、しかも、無四球試合が多く、81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立しています。記録前後の四球はいずれも、阪神・田淵幸一への敬遠でした。208 2/3回を投げ、防御率は2.02。新人から2年連続で、最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
「王キラー」として名を馳せた名投手で、この年も王貞治は抑えるものの、巨人戦は一度も勝てずに終わります。二桁勝利を挙げるも、負けも二桁で負け越し。チーム防御率はリーグ1位の2.60ながら、チーム打率はリーグ6位の.229。好投しても報われない不遇の一年に終わりました。
安田 猛(ヤクルトスワローズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構

現役投手時代の安田猛
佐藤道郎(1974年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
---|---|---|---|---|
佐藤道郎 | 南海ホークス | 1974 | 7勝8敗 | 1.91 |
佐藤道郎は、1970年、新人ながらリリーフの主力として、リーグ最多の55試合に登板。いきなり18勝、防御率2.05を記録し、最優秀防御率と新人王を獲得します。その後も、たびたびリーグ最多登板を記録。1972年には、最高勝率のタイトルも獲得しています。
1974年からは完全にリリーフに徹しますが、シーズン大詰めの9月には、防御率2.2台で、規定投球回数も見える状況でした。残り5試合で、防御率2.03、投球回数は123 2/3。あと7イニング投げれば規定投球回クリアです。その後の登板は次の通り。
9月26日 日本ハム戦 2回0失点
9月28日 日本ハム戦1試合目 4回0失点
9月28日 日本ハム戦2試合目 2回0失点
これで、投球回数131 2/3で規定投球回をクリア。2位の神部の防御率が2.38で差があったため、残り2試合は登板を回避し、防御率1.91で最優秀防御率のタイトルが確定しました。
さらに、この年から設立された最多セーブ投手(13セーブ)のタイトルも獲得。勝敗は7勝8敗と負け越しですが、これはあくまで抑えの成否を表す数字の一つで、セーブ数と合わせれば成功が上回っています。
佐藤 道郎(横浜大洋ホエールズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構

南海時代の佐藤道郎
鈴木孝政(1976年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
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鈴木孝政 | 中日ドラゴンズ | 1976 | 7勝8敗 | 2.98 |
鈴木孝政は、1975〜1977年の3年間、抑えを中心に先発としても活躍。3年連続で最優秀救援投手(1975年は最多セーブ投手)のタイトルを獲得します。しかも、いずれの年も規定投球回をクリアし、1977年には18勝を挙げています。
そして、今回ご紹介する1976年は、60試合に登板。うち3試合が先発で、148 1/3イニングを投げ、防御率は2.98。最優秀防御率のタイトルを獲得しますが、セ・リーグでは歴代最も悪い数字です。勝敗は7勝8敗と負け越しですが、これはあくまで抑えの成否を表す数字の一つで、セーブ数(26セーブ)と合わせれば成功が上回っています。
3年間の無理がたたり、1978年からは肘の痛みで、球速も低下。4年連続で規定投球回未満に終わります。再び規定投球回に達したのは1982年、中日優勝の年でした。
鈴木 孝政(中日ドラゴンズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構

2013年の鈴木孝政
斉藤明夫(1982年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
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斉藤明夫 | 横浜大洋ホエールズ | 1982 | 5勝6敗 | 2.07 |
入団以来、先発で活躍していましたが、1981年途中、先発から抑えに転向。さらに、1982年には、登録名を「斉藤明雄」から「斉藤明夫」に変更します。すると、抑え投手として、8連続セーブ、年間30セーブを挙げ当時の日本記録を更新。しかも、投球回数134 2/3で、ギリギリ規定投球回をクリアし、防御率2.07で最優秀防御率のタイトルまで獲得しました。
56試合の登板で、先発は1度だけあるものの、1試合平均2イニング以上投球した計算になり、タフなシーズンだったことがわかります。勝敗は5勝6敗と負け越しですが、これはあくまで抑えの成否を表す数字の一つで、セーブ数と合わせれば成功が上回っています。
翌年以降も抑えとして活躍し、1983年と1986年には最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。
斉藤 明夫(横浜ベイスターズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構

2013年の齊藤明雄(斉藤明夫)
村田兆治(1989年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
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村田兆治 | ロッテオリオンズ | 1989 | 7勝9敗 | 2.50 |
1989年は、東京オリオンズ時代から在籍する村田兆治の22年目のシーズンで、40歳目前ながら、最優秀防御率のタイトルを獲得します。ベテランらしからぬ投球を見せ、マサカリ投法も健在。5月には、通算200勝を達成しています。
登板した22試合はすべて先発。しかもそのうち、16試合は完投、3試合で完封勝利を挙げています。しかし、村田が完投した試合の戦績は、6勝7敗3分。しかもそのうち、4試合が延長戦で2敗2分と報われない結果に終わっています。その結果、最終成績は防御率2.50に対し、7勝9敗とまさかの負け越し。実際、ロッテのこの年の戦績は、48勝74敗8分と最下位に終わっています。
翌1990年は40歳代でに二桁勝利をあげるも、23年間の現役生活に幕を下ろしました。
村田 兆治(ロッテ・オリオンズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構

引退試合の村田兆治
ネイサン・ミンチー(2001年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
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ネイサン・ミンチー | 千葉ロッテマリーンズ | 2001 | 12勝14敗 | 3.26 |
ネイサン・ミンチーが最優秀防御率のタイトルを獲得したのは、広島東洋カープから移籍した初年の2001年のこと。規定投球回数ギリギリで達成する投手も多い中、ミンチーはすべて先発登板で200回以上投げてタイトルを獲得しました。
フルイニング投げて自責点2〜3点で負けた試合も多く、中でも、8月19日の西武戦は9回3安打自責点0で負け投手になっています。その結果、30試合に先発登板し、5試合完投するものの、12勝14敗の負け越し。防御率3.26は、セパ両リーグ合わせて歴代2番目に悪い数字です。
2002〜2003年も先発で二桁勝利を挙げ、チームの躍進に貢献しています。

ロッテ時代のネイサン・ミンチー
N.ミンチー(千葉ロッテマリーンズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
金田政彦(2002年)
投手 | 球団 | 達成年 | 勝敗 | 防御率 |
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金田政彦 | オリックス・ブルーウェーブ | 2002 | 4勝9敗 | 2.50 |
金田政彦は、1993年オリックスに入団。1999年に初めて規定投球回に達し、初の二桁勝利を記録します。以降はローテーションの一角を担うようになり、2001年には開幕投手を務めています。
2002年も先発として活躍しますが、この年は打線が不調。7回1失点、7回2失点など好投して先発の役割を果たすも、勝利を逃すことたびたびでした。
チームは、50勝87敗3分の最下位。リーグ2位のチーム防御率3.59に対し、チーム打率は.235でリーグ最下位です。金田は、23試合すべて先発で登板し、140 2/3回を投げて、防御率2.50を記録しますが、4勝9敗の負け越し。史上最も少ない勝利数で、最優秀防御率のタイトルを獲得しました。

オリックス時代の金田政彦
金田 政彦(東北楽天ゴールデンイーグルス) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構