選定対象の選手
セ・パ12球団になった1958年以降の選手を、選定対象としています。それ以前には、8球団に所属した後藤修がいました。
また、同一球団の身売りはカウントしないものとしますが、近鉄バファローズ→オリックスバファローズの球界再編は対象とします。
江夏豊(阪神→南海→広島→日本ハム→西武)
大阪学院高校時代、甲子園出場は叶わなかったものの、プロからの評価は高く、1966年のドラフト会議では4球団から1位指名を受けます。抽選の結果、阪神タイガースが指名権を獲得しました。
阪神時代は、1年目から活躍し、2年目には25勝で最多勝と沢村賞を獲得。401奪三振はプロ野球記録で、50年以上経った今も破られていません。三振の日本記録更新を王貞治から狙って取ったエピソードや、オールスターの9者連続奪三振、プロ野球史上唯一の延長戦ノーヒットノーランなど、阪神時代の伝説は枚挙に暇がありません。捕手・田淵幸一とのコンビは、黄金のバッテリーと呼ばれました。
阪神球団との確執で、1976年に南海ホークスに移籍。当時の野村監督からの説得で抑え投手に転向し、1977年には見事、最優秀救援投手に輝いています。野村監督の退団に合わせて、1978年に広島東洋カープに移籍。1979年の近鉄との日本シリーズでは、あの "江夏の21球" でチームを日本一に導きました。1981年から日本ハムファイターズに移籍すると、その年、25セーブを挙げて優勝に貢献。見事、MVPに輝いています。1984年に西武ライオンズに移籍し、その年に引退しました。
江夏豊 | 週刊ベースボールONLINE
加藤秀司(阪急→広島→近鉄→巨人→南海)
1968年の松下電器時代に、都市対抗で優勝。同年ドラフト2位で阪急ブレーブスに入団します。この年は、ドラフト1位が山田久志、7位が福本豊と阪急大豊作の年でした。
1971年は、西本監督が3番打者に大抜擢。期待に応え、リーグ2位の打率.321、25本塁打を記録し、リーグ優勝に貢献します。1973年に首位打者、1975年はMVPと打点王、1976年も打点王を獲得。タイトル争いの常連となります。中でも、1979年の記録は凄まじく、打率.364で首位打者、104打点で打点王を獲得。しかし、本塁打は自己最多の35本塁打を達成するも、トップのマニエルにわずか2本及ばず、三冠王を逃しました。
阪急の全盛期は、1番福本、3番加藤、4番長池の打順が定番でした。
1983年に、14年間在籍した阪急を離れ、広島東洋カープに移籍。1984年に近鉄バファローズ、1986年に読売ジャイアンツ、1987年に南海ホークスに移籍しますが、往年の活躍は見られず、その年で引退します。巨人時代は、全球団から本塁打という珍記録を達成しています。
加藤秀司 | 週刊ベースボールONLINE

阪急ブレーブス時代の加藤英司
山中潔(広島→ダイエー→中日→日本ハム→ロッテ)
PL学園高校2年の時、控え捕手ながら甲子園で優勝。同期には、小早川毅彦がいました。1979年、ドラフト4位で広島東洋カープに入団します。優勝した1984年頃から出場機会が増え、1985年には、正捕手の達川光男に代わって開幕捕手を務めました。90試合に出場、52試合で先発マスクをかぶり、打率.276、6本塁打と活躍。日本シリーズは、1984年に2試合、1986年に1試合途中出場しています。
1986年以降は控えが多くなり、1989年に福岡ダイエーホークス、1990年に中日ドラゴンズ、1992年に日本ハムファイターズと渡り歩きます。いずれも2番手捕手ながら、チームに欠かせない存在でした。1994年には戦力外通告を受けますが、千葉ロッテマリーンズのテストに合格。ここでも、2番手捕手としてチームの躍進に貢献しています。1996年に引退しました。
引退後は現役時代の経験を生かし、ロッテや日本ハムでブルペン担当コーチ、バッテリーコーチとして活躍します。特に、ロッテでは、里崎智也や橋本将を育て上げ、彼らから「山中さんがいなかったら今の自分はなかった」とまで言われています。
75 山中 潔 | 選手名鑑2022 | 北海道日本ハムファイターズ
光山英和(近鉄→中日→巨人→ロッテ→横浜)
上宮高校時代は、3年春に選抜出場。1983年、ドラフト4位で近鉄バファローズに入団します。1986年に一軍出場を果たすと、以後は主に控え捕手として活躍。1989年の巨人との日本シリーズでは、第2戦で2打数2安打、第3戦ではホームランを打ち、ヒーローインタビューを受けます。その時、一緒にお立ち台に立っていたのが、あの加藤哲郎です。
1990年には、ついに正捕手の座を獲得。野茂英雄とバッテリーを組みます。規定打席には届かなかったものの、打率.301、12本塁打の好成績を挙げています。その後は出場機会が減り、1997年に中日ドラゴンズ、1999年途中に読売ジャイアンツ、2001年に千葉ロッテマリーンズと渡り歩き、2002年に横浜ベイスターズに移籍したその年に引退しました。
現役時代は経験豊富な捕手として重宝され、引退後も、西武、横浜、楽天でバッテリーコーチとして活躍しています。
光山 英和(横浜ベイスターズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
東瀬耕太郎(横浜→ロッテ→広島→中日→近鉄)
明治大学時代は、1989年、4年の春季リーグで大活躍。その年、ドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団します。入団初年こそ先発として登板しますが、その後は中継ぎが中心に。1992年に肩を故障し、1993年千葉ロッテマリーンズに移籍します。1997年には広島東洋カープに移籍。その年、中継ぎで37試合に登板する活躍を見せます。1999年に中日ドラゴンズ、2000年に大阪近鉄バファローズに移籍しますが、その年限りで引退しました。
変則左腕として使い勝手が良く、主に中継ぎとして活躍しました。引退後は、自身の移籍経験を生かし、プロ野球選手のマネジメントやFA交渉に携わっています。
東瀬 耕太郎(大阪近鉄バファローズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
中村紀洋(近鉄→MLB→オリックス→中日→楽天→横浜)
大阪府立渋谷高校時代は、2年生ながら4番打者として活躍。公立高校ながら、強豪校揃いの大阪で優勝し、甲子園に出場しました。1991年、ドラフト4位で近鉄バファローズに入団します。1995年に、20本塁打64打点を挙げレギュラーに定着。2000年には、本塁打王、打点王の二冠王、2001年には、46本塁打、132打点(打点王)、打率.320とキャリア最高の好成績を挙げます。
2005年にメジャー挑戦で、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。日本球界復帰後は、2006年オリックスバファローズ、2007年中日ドラゴンズ、2009年東北楽天ゴールデンイーグルス、2011年横浜ベイスターズと渡り歩きます。特に、2007年の中日時代は、日本シリーズで大活躍し、打率.444(18打数8安打)、4打点で日本シリーズMVPを獲得しました。
通算2101安打、404本塁打(歴代19位)、1348打点(歴代13位)の記録を持つ、プロ野球史に残る大打者です。2022年より、中日ドラゴンズの打撃コーチを務めています。
中村紀洋 | 週刊ベースボールONLINE
斉藤秀光(オリックス→阪神→オリックス→楽天→ソフトバンク→横浜)
横浜商大高校時代は、4番打者として甲子園に出場。1993年、ドラフト3位でオリックスブルーウェーブに入団します。しかし、1軍で出場したのは2年後で、ほとんどが守備固めでの起用でした。結局、2002年から阪神タイガースに移籍します。
阪神が18年ぶりの優勝を遂げた2003年、ウエスタン・リーグで首位打者を獲得。1軍でも4試合だけ出場しました。2004年に再びオリックスに移籍し、この年活躍のピークを迎えます。104試合に出場し、5番打者としても活躍。通算安打、通算本塁打、通算得点、通算盗塁、通算四球の半分以上はこの年に記録したものです。
2005年の球界再編で、東北楽天ゴールデンイーグルスに配属。その後は、2006年からソフトバンクホークス、2008年から横浜ベイスターズに籍を置きますが、目立った活躍はなく2009年で引退しました。
1軍では打撃成績は残せなかったものの、内野は全ポジションをこなし、守備力に定評のある選手でした。
斉藤 秀光(横浜ベイスターズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構
山﨑浩司(近鉄→広島→オリックス→西武→楽天)
大産大附属高校時代は甲子園出場はなかったものの、1998年、ドラフト3位で大阪近鉄バファローズに入団します。しかし、近鉄ではほとんど活躍することなく、2005年に広島東洋カープに移籍。初年は、初ヒット、初本塁打を記録し、さらにはリーグ2位の犠打数を挙げ活躍します。
2008年途中に、オリックスバファローズに移籍。翌2009年が活躍のピークで、97試合に出場し、打率.297を記録します。また、セ・パ両リーグで隠し球成功という珍記録を作っています。
その後は、2013年に埼玉西武ライオンズに移籍。2015年、東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍したその年に引退しました。
犠打を得意とし、内野の全ポジションを守れる器用さを持ち合わせた小回りのきく選手でした。因みに、俳優の杉浦太陽は、高校時代の同級生で親友です。
山崎浩司 | 週刊ベースボールONLINE