38歳の徹子は、思い切って1年間、仕事を休んで渡米。
メリー・ターサイ演劇スタジオ、ルイジ・ダンススクールで演技やダンスを学び、
アフターファイブは
「絶対にウケる」
と着物姿でパーティーやディナーなどに参加。
そこで友人となったヘアメイクアーティスト、須賀勇介と「タマネギヘア」を開発。
このヘアスタイルは、
「子供たちに会ったときにプレゼントするため」
にキャンディーを入れたり、海外へ行くときにパスポートも入れたり、小物入れとして活用されるようになった。
またこのニューヨークで
「キツいからいらない」
ブラジャーを外して以来、現在までノーブラ。
1971年10月に渡米し、1972年9月に新番組「13時ショー」の打ち合わせのための帰国。
この「徹子の部屋」の前身番組で、日本初の女性メイン司会者となったが、男尊女卑が根付いた日本の職場でやっていくのは大変だった。
「40歳になる少し前、ニュースショーの司会を頼まれました。
それまでニュースショーの司会といえば男性。
日本で初めての女性が中心になるニュースショーでした。
そのときはすごかったわね。
番組スタッフは私以外は全員男性で、しかも年上。
打ち合わせなんかで、やっぱり頭からものをいうような人がいたり。
私が「その次にこれをやるのは変だと思いますけど」といったりすると『何でもいいからやりゃあいいんだよ』という人がいたり。
そのときは「男の世界だなー」と思いまし女の立場が弱いってこういうことをいうんだなあ、『何でもいいからやりゃあいいんだよ』だなんて、そんなのってないんじゃないって。
戦争中だった8歳の頃、みぞれが降る寒い日に寒さと空腹で泣きながら歩いていたら、おまわりさんに 『おいコラ、なんで泣いてるんだ』と呼ばれたの。
「寒いからです」って答えたら『戦地の兵隊さんのことを考えたら泣いてなんかいられないだろ』って怒鳴られて。
男の人にガンガンいわれた時、そんなことを思い出しました。
でもね、結局のところ、自分は自分、人は人。
私の人格もよく知らずにガンガンいう人はロクなもんじゃないと思って「はい」とはいいながらも気にしない。
私は私よ、勝手にいってれば?って。
子どもの頃から、学校でも家庭でも人格を大切にしてもらったお陰で、自分が何ができるかはわからないけど「何かはできるだろう」とずっと思ってきました。
人は人って思えたのは、自己肯定感を育んでもらったことが大きかったと思います」
帰国直後の10月28日、日中友好の証しとして中国から贈られた2頭のパンダが上野動物園に到着した。
徹子は
「日本で1番パンダに詳しい人」
ということで取材が殺到し、「パンダと私」というエッセイ本も出版された。
徹子にパンダ好きは、6歳くらいのとき、叔父にアメリカのお土産としてぬいぐるみをもらったことがきっかけ。
「何よりも大切にしていたくらいで、いつも抱いていました。
戦争中も常にリュックにしまって、背負って空襲の中を逃げていました」
それ以来、資料が少ない中でも独自にパンダの研究を始め、テレビ出演をするようになってからは、まったく知られていなかったパンダを積極的に紹介。
このパンダの初来日のときも仕事のを抜け出して上野動物園の裏口へいき、長時間待った末、トラックが到着したが、パンダはコンテナの中にいたためにまったくみることが出来ず、逆にその徹子の姿がニュース番組の映像に映し出された。
「パンダの魅力は、まん丸くて、どこからみても可愛いところ。
中国のものなので、なかなか中国にも行けず、1968年、わざわざロンドンの動物園までみに行きました。
パンダが上野に初めてやって来たのは1972年です。
中国からオスのカンカンとメスのランランが寄贈されました。
パンダが日本に来るなんて夢のように思いました。
初めてみたとき、カンカンは子どもっぽく、ランランは少しお姉さんのようで、はっきりと個性がわかって興奮しました」
そういう徹子は、日本パンダ保護協会名誉会長となり、四川省の成都パンダ繁育研究基地から、パンダの命名権を与えられたこともある。
1975年8月30日、タモリが「土曜ショー」という番組の夏休み特集「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」でテレビ初出演。
ジャズが好きでジャズをするために浪人をしながら早稲田大学に進んだタモリは、学費未納で退学になった後もジャズに携わり続けて収入を得ていたが、家の事情で故郷の福岡県に戻った。
数年後、喫茶店のマスターをしていたタモリは、博多で行われたジャズコンサートを観に行き、公演後、渡辺貞夫のマネージャーをやっていた学生時代の友人と一緒にホテルで飲んでいた。
午前2時頃、家に帰るために部屋を出ると、ドンチャン騒ぎする声が聞こえた。
それは山下洋輔(ピアノ)の部屋で、ドア越しに会話を聞いて
「こいつらとは気が合う」
と思い、ドアを少しだけ開けて中をうかがうと、浴衣姿の中村誠一(サックス)が頭に籐のゴミ箱をかぶって虚無僧となて歌舞伎口調で奇声を上げていた。
とっさに
(俺の出番だ)
と思ったタモリは、
「ヨォ~」
と歌舞伎口調で部屋に乱入。
中村誠一からゴミ箱を奪ってかぶり、踊った。
そして朝まで彼らとスウィングした。
東京に帰った山下洋輔が、新宿ゴールデン街のバー「ジャックと豆の木」で
「九州にモリタというすごいやつがいる」
と話すと、有志らによって「伝説の九州の男・モリタを呼ぶ会」が発足。
タモリは「呼ぶ会」から新幹線代をもらって7年ぶりに上京し、ジャックと豆の木で様々な芸を披露。
以後、福岡で生活しつつ月1回上京して芸を披露し、メンバーの家で一定期間居候するという二重生活を始めた。
3度目の上京で赤塚不二夫がジャックと豆の木に来店。
赤塚不二夫に
「君はおもしろい。
お笑いの世界に入れ。
それまでは住むところがないなら、私のマンションに居ろ」
といわれ、家賃17万円、4LDK、冷暖房完備の高級マンションで飲み放題食べ放題、服も着放題、ベンツ450SLCに乗り放題、30万円の小遣い支給という好条件で居候を開始。
赤塚はまったく家に帰って来ず
「別に住むところがあるんだろう」
と思っていたが、優しい赤塚は仕事場のロッカーを倒してベッド代わりにして泊まり、どうしても必要なものがあって取りに帰るときは
「今から行っていい?」
とタモリにお伺いを立てた。
居候を始めて半年後、赤塚が仕事場で寝泊まりしていることに知ったタモリは
「もう出ます」
といおうと思ったが
「せっかくの好意がグチャグチャになっちゃあ、居候道に反する」
と思い直し、福岡に残していた妻を呼び寄せ、2人で居候を続けた。
そんなハチャメチャなプロセスを経て、テレビ初出演を果たしたわけだが、たまたま「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」をみていた徹子は、タモリのパフォーマンスをみて、すぐに赤塚不二夫に電話。
「今日、出ていた、誰?
すごいじゃない」
その後、タモリは「ニュースショー」で2回目のテレビ番組出演を果たした。
「今でも覚えています。
あのとき電話のすぐ横にいたんです。
赤塚さんから黒柳さんがお前のことみて、おもしろいから番組に出てほしいっていってるよって、その場でいわれたんですよ」
(タモリ)
1976年、「徹子の部屋」が放送開始。
このとき徹子は、42歳。
「徹子の部屋」は、放送が始まった1976年から1989年まで14年連続「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO.1」に選出。
2011年4月27日には放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定され、2015年5月27日には放送10000回を突破。
そんなモンスター番組の第1回のゲストは森繁久彌。
番組冒頭、森繁はタキシードを着た徹子の衣装をたしかめるフリをして胸を触った。
森繁は、戦前、NHKのアナウンサー試験に合格し、満州で勤務。
終戦後、ソ連で強制労働を経験し、帰国後、劇団を渡り歩き、ラジオドラマで人気を獲得。
テレビがスタートすると、まだ録画放送や編集という作業がなく、撮り始めると失敗が許されない生放送のドラマで活躍。
「本当にセリフがうまい方でアドリブで自分な好きなことをいっているとしか思えないように自然なんです。
そんなセリフの自然な言い方、間、お客さんを笑わせるコツ、すべて森繁さんから教わったと思っています」
徹子にとって森繁は、師匠であり、テレビという新しいメディアをつくり上げていった同志でもあった。
2人はドラマやバラエティー番組で何度も共演し、「徹子の部屋」の共演も14回に及んだが、森繁は徹子に会うと必ず
「1回どう?」
と聞いた。
徹子は最初、意味がわからず
「何を?」
と聞き返したが、その後も会う度にずっと
「1回どう?」
といわれ続け、
「はい、今度ね」
とはぐらかしていた。
すると
「シワクチャになってからじゃイヤよ」
といわれることもあった。
「危険なオジサン」
と警戒しつつ
「かわいがってくださっている」
と思っていた徹子が、最後に森繁に会ったのは、彼が亡くなる4年前。
食事の後、車に乗り込んだ森繁に手を引っ張られ
「1回どう?」
1977年8月11日、まだ無名のタモリが「徹子の部屋」に初出演。
そして翌年の1978年から2013年まで、「徹子の部屋」の年末の最後のゲストはタモリとなり
・産まれたての仔馬
・コンドルの着地
・イグアナのモノマネ
・北京放送
・中国人の田中角栄
・中国製のターザン映画
・宇宙飛行士になった大河内傅次郎が宇宙船の中で空気漏れで苦しんでいるのを韓国語で
・日本製ウイスキーを、これは悪しき飲み物であると説教しながら飲み始めた中国人が、やがてこんなすばらしいものはないと言い始める
・4カ国語麻雀(ベトナム人が中国人の捨てた牌に『ロン』といい、中国人が『チョンボ』とクレームをつけ、アメリカ人が仲裁し、それを後ろから見ていた田中角栄が口を出して乱闘に発展する)
・アメリカの宇宙飛行士と中国の宇宙飛行士の絡み合い
・国連Aセット(台湾国連脱退をめぐる韓国、台湾、中国の演説、Bセット、Cセットもあった)
・強要特別番組、李参平と白磁の由来
・明日の農作業の時間
・松正丸事件の真相
・肥前ナイロビ・ケニヤ線乗換え
など新宿ゴールデン街で「恐怖の密室芸」と呼ばれた芸を披露。
また
・マヨネーズ石狩鍋
・たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ
・チョコレートしゃぶしゃぶ
・あんこ鍋
などゲテモノ料理を作って2人で食べることもあった。
1978年、TBSの毎週木曜日21時に「ザ・ベストテン」が放送開始。
徹子は久米宏と2人で司会を担当。
2人のトーク。
レコード売り上げだけでなく、有線放送、ラジオのリクエスト、番組へのリクエストハガキを集計し、若者たちのリアルな声を反映したランキング。
生放送ならではのハプニング。
ゲスト出演した歌手が垣間みせる素顔。
斬新な音楽番組は、最高視聴率41.9%を記録した。
「ランキング形式の音楽番組をやるなら、絶対に嘘をつかないでほしいというのが徹子さんの主張で、もしやらせがあったら降りますと宣言して始めたんです。
そのこだわりは番組スタート直後から波紋を呼びました。
人気絶頂だった山口百恵さんが11位になり、高視聴率が期待できるスターが出演できない!
一方では、テレビ出演しないことを宣言していた中島みゆきさんが4位にランクインしてしまいました」
(久米宏)
徹子は、この番組の衣装を、ニューヨークコレクションをみて感激した森英恵のものを好んで着用。
靴は、
「ドレス着てるから足はみえないんじゃない?」
と透明のサンダル1足だけで通した。
スタイリスト、メイク、ヘアメイクなどはつけず、全部自分でメーキャップした。
「20代はドーラン(ファンデーション)を伸ばして粉をはたいて口紅を塗るだけ。
30代になってからオードリー・ヘプバーンをお手本にしてアイラインを描くようになった。
だって時間がかかるでしょう?
早くスタジオ入りするのが好きじゃなくて・・・
その点、自分だとチャッチャッと早いですから!」
寺尾聰 の「ルビーの指環」が12週連続1位になったとき
「パンダの中に入ります」
と約束していた徹子は、目のまわりを黒く塗って着ぐるみを着た
近藤真彦は、ビルの窓ガラス清掃に使うゴンドラに乗って「ギンギラギンにさりげなく」を歌ったとき、
「この番組はヤバい」
と思ったが、その後も夜の海に飛び込んだり、修学旅行生が泊める宿舎に潜入して生徒たちに押し潰されて、スタジオの徹子を慌てさせた。
地元が近いシャネルズ(ラッツ&スター)と横浜銀蠅が共演したとき、横浜銀蠅がステージに立って、リーダーの翔がMCで大学の話をした。
すると歌い終わってソファーに座っていたシャネルズが
「へえ~、ツッパリなのに大学に行くんだ」
と冷やかにいい、徹子は
「シャネルズのほうが本物なのね」
と理解しつつ、一触即発に備えた。
ある年、夏休み中の徹子は、ノルウェーから中継で番組に出演。
現地の人間に
「山口百恵 1位おめでとう」
って書いてもらった紙を巻いて、ヒモを引いて上から垂らしてみせようとしたが、巻物のままボタッと落ちてきた。
サザンオールスターズが1位になったとき、番組はお祝いとして生きた鯛を用意。
徹子は、それを手で持って渡そうとしたが、ピチピチと跳ねて落としてしまい、
「あなたにあげるんだから早く拾いなさい!
バタバタしてるじゃない!」
と叫び、桑田佳祐に拾わせた。
シブがき隊は、22曲もランクインを果たした番組有数のレギュラーだったが、3人共、小泉今日子が大好きで、共演するとキョンキョンの隣に座るためにバトルを展開。
「歌い終えた人がソファーのどこに座るか、自分たちで決めていいんですよ。
だから自分たちの歌が終わると、マイクを音声さんに渡して猛ダッシュ」
チェッカーズや吉川晃司がデビューし、ベストテンの常連となると、布川敏和や本木雅弘は交流しようとしたが、マジメな薬丸裕英は
「ジャニーズのタレントは他事務所の男性アイドルと親しくしない」
という事務所のルールに従い、それを許さず
「お前ら、吉川やチェッカーズにどれだけ俺らのファンを持って行かれたと思っているんだ」
と説教。
あるとき歌っていると、ミラーボールのような回転する照明に本木雅弘のマイクのコードに絡んで巻き取っていくハプニングが発生。
すると徹子はADよりも早く飛んでいき、照明を逆回転させてコードを戻した。
シブがき隊は
「さすが黒柳さん」
と感心した。
松田聖子は、ランクインする前に「スポットライト」コーナーで「ザ・ベストテン」に初登場。
そのとき徹子は、まだデビュー3ヵ月の松田聖子を
「他の歌手のみなさんが番組中に出す飲みものは何でもいいですっておっしゃっている中、1人だけクリームソーダがいいっていって、放送中にソファでアイスを食べていたんです。
それでちょっと大物かもしれないって思いました。
初出演で私だったらクリームソーダなんて食べられないわって」
と評価。
2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で初めてランクインし、羽田の飛行場で歌う松田聖子に対し、久米は
「こんなに細々していて芸能界でやっていけるかな」
とコメント。
徹子は
(本当に女の人を見る目がないな)
と思った。
「青い珊瑚礁」は、その後、ランキング1位を獲得。
(1980年9月18日、以後、3週連続1位)
18歳で九州の田舎から単身上京し、初めて1位に輝いた松田聖子は、福岡県の母親と中継がつながると
「お母さーん」
と涙声で呼びかけた。
徹子はステージに移動する聖子の顔をハンカチで拭い
「泣いていましたね」
といったが、久米は
「いや、涙は出ていなかったような気がする」
と発言。
たしかに顔をくしゃくしゃにしながらも涙は流れていなかった。
「♪ あ~~私の恋は~~南の風に乗って走るわ~♪」
歌が始まっても泣き顔&聖子スマイルで、しかし涙は流さない松田聖子をみて
「さすがプロ!」
と評価する視聴者もいたが、多くは
「ウソ泣き」
「ブリッ子」
というイメージを定着させた。
1981年1月、トモエ学園の思い出をユーモアあふれる文体で綴った「窓際のトットちゃん」が出版開始。
徹子は、公立の小学校に入学するも、活発すぎて、3ヵ月後、母親が呼び出され
「お嬢さんがいるとクラス中の迷惑になります」
といわれて退学。
今でいうADHD、ASD、LDなどの障害のある子供と判断されたのかもしれない。
そして日本初のリトミック教育(音楽、演劇、ダンスなどを多用して楽しく学ぶ教育)を導入したトモエ学園に転校。
席も自由、時間割も自由、その日の気分で好きな席に座り、各自のペースで勉強するというスタイルの下、友達と一緒にノビノビと元気よく育った。
本のタイトルの「窓際」 は、転校前の小学校で、徹子さんが授業中に歩いて窓際でチンドン屋さんを待っていたことや、学校で何となく感じていた疎外感、「窓際族」に由来する。
「トットちゃん」は、徹子のあだ名で、小さい頃、自分のことを「テツコ」といってるのに舌足らずで「トット」といっていたことに因んでいる。
「窓際のトットちゃん」は、世界36ヵ国で翻訳され、累計800万部を記録する「戦後最大のベストセラー」となり、徹子は、1981年から1985年までの5年間と1987年に高額納税者ランキングの俳優・タレント部門で1位となった。
38歳でニュースアナウンサーとなり、40歳を過ぎてから「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」を始め、40代後半で「窓際のトットちゃん」を出版し、若い頃、「邪魔」といわれた個性も認められ、この頃の徹子は非常にモテたという。
「個性を磨こうとするとき、1番邪魔になるのが虚栄心ね。
野心を抱いている男の人だけじゃなくて、普通の女の人でも自分をよく見せようとかこれを持っていないと悔しいとか、そういうレベルの見栄とか虚栄心を持たなければ、自分のどんな些細な個性であっても誇りをもって生きていけると思うんです。
まずは自分と人を比べないこと。
ありのままの自分を受け入れること。
ただし努力は必要!」
「窓際のトットちゃん」の印税で「トット基金」を設立した徹子は、プロのろう者の劇団「日本ろう者劇団」の理事長となった。
「日本ろう者劇団」は1980年4月、演劇の好きな仲間が集まり「東京ろう演劇サークル」として発足。
手話狂言、創作劇、ムーブメントシアター、サインマイムなど視覚的なことに重点をおいて、聞こえる人も聞こえない人も共に楽しめるものを目指して活動。
そしてトット基金の付帯劇団となって「日本ろう者劇団」と改称された。
「私の著書「窓ぎわのトットちゃん」が大評判となり、その印税をもとに設立したのがトット基金です。
トット基金では2つの大きな事業をやっています。
1つめは、就労継続支援B型施設「トット文化館」の運営です。
トット文化館では、利用者の皆さんが野菜や花を育てて販売したり、エコ袋を作ったり、職員と一緒に様々な作業をしています。
館内では、聞こえる人も聞こえない人も、手話で話をしています。
静かなのに、とても賑やか。
それがどんな風に素晴らしいか、ホームページをご覧頂き、よろしければぜひ遊びにお出で下さい。
手話を習いたいかたのための手話教室もあります。
もう1つの事業は、「日本ろう者劇団」の運営です。
日本ろう者劇団では、俳優達が、日本の伝統芸能でユネスコの世界無形遺産にもなっている狂言や、そのほかの演劇を手話で演じ、全国各地で公演しています。
ろう者の俳優が、テレビにも出演して手話の普及につとめています。
聞こえる人も聞こえない人も一緒に楽しめる演劇を作ったことで、文化庁芸術祭賞や内閣総理大臣表彰も受けました。
また世界の色々な国からお招き頂いて、手話狂言を披露しています」
という徹子は、自身も手話を使うことができる。
1984年、徹子はユニセフ親善大使に任命され、アフリカのタンザニアを訪問。
子供ことをスワヒリ語で「トット」ということを知って、驚き、その偶然に感謝した。
ユニセフ親善大使を引き受けることにした大きな理由は、緒方貞子(日本人初の国連難民高等弁務官)から自分自身がユニセフの恩恵を受けていたことを教わったことだった。
「第2次世界大戦後、ヨーロッパをはじめほとんどの子供たちが飢えてる中、アメリカなどは『日本とドイツの子供には食料を送らなくてもよい』といっていたそうです。
ところがユニセフの初代事務局長のモーリス・ペイトさんは『子供達には敵も味方もないのだから』と日本に対して物資を送り続けてくださった。
何の見返りも考えないで敗戦国の子供に。
そうやって私たちは人からの愛情や思いやりを受けているんです」
1984年 - タンザニア
1985年 - ニジェール
1986年 - インド
1987年 - モザンビーク
1988年 - ベトナム、カンボジア
1989年 - アンゴラ
1990年 - バングラデシュ
1991年 - イラク
1992年 - エチオピア
1993年 - スーダン
1994年 - ルワンダ、旧ザイール
1995年 - ハイチ
1996年 - ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア
1997年 - モーリタニア
1998年 - ウガンダ
1999年 - コソボ、アルバニア、マケドニア
2000年 - リベリア
2001年 - アフガニスタン
2002年 - アフガニスタン
2003年 - ソマリア
2004年 - シエラレオネ
2005年 - コンゴ民主共和国
2006年 - インドネシア
2007年 - アンゴラ
2008年 - カンボジア
2009年 - ネパール
2011年 - ハイチ、東北地方(日本)
2013年 - 南スーダン
2014年 - フィリピン
2016年 - ネパール
2017年 - ミャンマー
と1年1ヵ国のペースで、27年間、飢餓、戦争、病気に苦しむ世界の子供たちを訪ね、テレビを通してその実情を伝える活動を続けた。
インフラが整わず、健康面が危惧され、肉体的に負担が大きく、また地雷や殺戮も存在する危険な地域も多く
「なぜ行くのか? 」
「怖くないの?」
「何かあったらどうするの?」
と聞かれると
「何かあったら、その時はその時ね」
と答えた。
「戦争を経験してきた人間って、そういう所がありますよ。
だっていつ死ぬか分からなかったんですから・・・」
「やってあげる」
という支援ではなく、トモエ学園時代の経験、
「皆、一緒に行う」
というのが活動の基本姿勢。
「世界を広くみること、いろんなことに関心を持つこと、よその国で悲しい事件があったら知ろうとすること。
そういうことも大切ね。
『自分は大丈夫、だから関係ない』ではなくて。
何も海外に出てボランティアをするってことじゃなくてもいいの。
ちょっと知っておくってことだって、何か人に優しくできることにつながると思うんですよね。
隣のおばあさんに『スーパーに行きますけど何か買ってきましょうか』って声をかけるとか。
そのほうが、自分自身も豊かな人生を送れると思うの」
個人的にも募金を募り、これまでに寄せられた50億円以上を、事務処理費用など一切引かず、ユニセフの本部へ送金。
ちなみにユニセフ親善大使としての報酬は、年間1ドル(アメリカドル)だという。
「緒方貞子先生の紹介で始めたユニセフ親善大使の仕事は、私自身の戦争の体験が生きています。
極限までおなかが減るというのはどういうことなのか、夜に親がそばにいないというのはどんな気持ちなのか、1つの家族がバラバラになるというのは・・・・
自分が経験したことをまたみているような気持ちです。
私ができることは、訪れた国で子どもたちがどういう暮らしをしているか、テレビを通じて広く報告すること。
大人のせいで子どもがこんなひどい目にあっているということを伝える責務があると思っています」
1984年3月14日、「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」に初出演。
通常、15分程度のコーナーで43分にしゃべり続け、後のレギュラーコーナーを1つ潰した上、エンディングにも出演。
「番組ジャック」
といわれた。
「黒柳さんは『この話をするね』と。
CM明けてその話をすると、またCM中に『この話をするね』と隙間がない」
(タモリ)
「人間って1人でずっといて、しゃべらないでいると、必ず絶望へと向かっていくものなんですって。
だから気分が沈みそうになったら、どこでもいいから人のいるところに行くといいそうです」
(黒柳徹子)
1985年、高額納税者ランキングの俳優・タレント部門で1位の徹子は、政府の税制調査会に参考人として招かれ、
「現在の私の収入の90%が税金。
1時間の番組の何分か話したら後は全部税金。
原稿用紙400字詰めの2行書いたら、後の18行は全部税金。
勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。
最高税率を10%下げて欲しい。」
と発言。
2年後、最高税率が60%まで下がった。
1986年、「世界・ふしぎ発見!」が放送開始。
この30年以上続く長寿番組に初回から毎回出演。
「みんな回答が遅いから収録が延びて、この26年間、収録後に人に会えなかった。
だから私の婚期が遅れているの。
いつも番組で新婚旅行先はどこがいいか考えていたのに」
板東英二に
『お母さん』
と呼ばれ
「年齢はあまり変わらないのに。あなたのような子供を産んだ覚えはない」
と答えるなど徹子節全開で、司会の草野仁、板東英二、野々村真らと「アタマもはしゃぐサタデーナイト」という番組キャッチコピーにたがわぬトークを展開。
そして世界各地の歴史、風土、不思議、ミステリーに関するクイズに挑戦し続け、2016年4月23日放送(1392回)時点で、徹子のクイズの正解率は、59.4%、パーフェクト217回。
(ちなみに野々村真の正解率は21.9%)
東大卒の草野仁も驚く驚異的な数字を出して
「黒船をみた女」
といわれた。
徹子は、この番組への出演に当たり、番組プロデューサーに1つだけ条件を出した。
それは
「歴史を真剣に勉強したいので、せめて毎回のテーマを教えていただけませんか?」
と収録前に放送回の大まかな「テーマ」を教えて欲しいというものだった。
「当時、黒柳さんは50歳をちょっと過ぎた頃。
それまで50年生きてきて、「音楽」「お芝居」「パンダ」「ユニセフ」といったことに関しては他の人には絶対に負けない。
でも科学とかスポーツなどでは「えっ、こんなことも知らなかったの!?」と自分自身で愕然することもあったそうで、だからこそ、このまま黒柳徹子の人生を終わらせてはならないと。
自分の知識レベルを上げるためにも本を読んで勉強したいから、事前にテーマを教えてください、という条件を出されたわけです」
(草野仁)
番組は、収録に1週間前、すべての出演者に出題テーマが知らされることを決定。
徹子は、テーマに沿った本を買ったり、図書館で借りて勉強することにした。
草野仁は
「テーマを事前に教えたところで、多忙を極める黒柳さんが毎回本を読んで勉強するなんて無理だ」
と思っていた。
ある日の収録で目を真っ赤に充血させた徹子がスタジオに現れたため
「どうしたんですか?」
とたずねると
「今週は3冊の本を買い揃えたのに、他のことに追われて本に手が伸びなかったの。
ようやく昨夜10時過ぎ、1冊目を読み始めたんだけど、内容が頭に入ってこないの。
それでも我慢して1冊目、2冊目とページを進めて、さっきようやく3冊目の最後のページに目を通し終えたの」
と収録直前の15時まで16時間以上、一睡もせずに本を読んだと聞かされ、自分の考えが間違いだったことに気づかされた。
(これは本気だ!)
結局、徹子は、30年以上、1回もサボらずに勉強を続けた。
「はじめの頃は「ジャンヌ・ダルク」とか「エジソン」とか人物名でテーマを教えてくれたので、その人にまつわる本を何冊か読めば良かったんです。
でも私が人間のことはすぐに憶えちゃうというのに気づいたらしく、だんだんテーマが難しく、アバウトになっていきました。
ある時のテーマが「クリミア戦争」。
でも何年も続く戦争ですから、せめて「ナイチンゲール」だけでも勉強しておこうと思って本を読んだら、番組でナイチンゲールが出てきて「うわぁああ!」と喜んだこともあります。
でも最近は山を掛けても全然当たらなくなってきましたね」
といい、読書量は少ないときでも平均5冊、1番多い時で16冊を1週間で読破し、収録に臨んだ。
知識と正解を求め、努力を怠らない徹子は、勉強だけでなく番組中、駆け引きをすることもある。
「私の手元には皆さんの回答が映るモニターがあります。
ある問題で黒柳さんが『待って!』といって、長い時間考えて間違えた答えを書いたことがありました。
書き終わった瞬間、私が「フフッ」と笑ったんだそうです。
それをみた黒柳さんは『あ、違う!』と書き直されたこともありました」
草野仁は、無表情に努めつつ、ときに逆に表情をつくって徹子を揺さぶることもある。
『ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を回った際、上陸した先々であるものを残していきましたが、それは一体なんでしょうか?』という問題を出したときに、私の手が無意識で十字を描いてしまっていたんです。
黒柳さんは『ウフフ』と笑って「十字架」と書いて、お1人だけが正解だったということもありました」
一挙手一投足を見逃さない徹子に、以降、草野仁は本当に神経質に対策をとるようになった。
「徹子 vs 草野仁」だけでなく「徹子 vs 番組スタッフ」の攻防もあった。
「私のクイズの正解率が上がってくるとディレクターがいろいろ用心するようになって。
前にロケのスタッフと偶然パリ行きの飛行機が一緒だったことがあるんですけど、そのとき、「どこに行くの?」って声かけたら『いえいえ』って返されちゃった。
(ミステリーハンターの)竹内海南江ちゃんもいたんで「海南江ちゃん、どこに行くの?」と聞いても『いえいえ』
どこに行くかぐらい教えてくれたっていいじゃない、ねぇ。
私はパリで乗り換えてからアフリカに向かう予定でした。
それで乗り換えのときに「荷物を出すの?」って訊いたら、その答えも『いえいえ』
そこまで用心しなくてもと思うのだけれど、私が勉強するといけないから、何一つ漏らさないようにしているんです」
勉強のために利用している図書館で、ある本に手を伸ばしたとき、隣の人が「ドサッ」っと抱えていた大量の本を落とした。
そしてあわてて退散していった。
徹子は知らない人間だったが、実は番組の問題製作スタッフ、
問題を考えた本に徹子が手を伸ばしていたので驚いてしまったのだ。
結局、その本からの出題はボツとなった。