黒柳徹子「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」「窓際のトットちゃん」「ユニセフ親善大使」「笑っていいとも!」「世界・ふしぎ発見!」

黒柳徹子「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」「窓際のトットちゃん」「ユニセフ親善大使」「笑っていいとも!」「世界・ふしぎ発見!」

衝撃の「徹子の部屋」第1回放送。「ザ・ベストテン」開始。戦後最大のベストセラー「窓際のトットちゃん」発売。ユニセフ親善大使任命。「笑っていいとも!」ジャック事件。「世界・ふしぎ発見!」における草野仁、スタッフとの戦い。


38歳の徹子は、思い切って1年間、仕事を休んで渡米。
メリー・ターサイ演劇スタジオ、ルイジ・ダンススクールで演技やダンスを学び、
アフターファイブは
「絶対にウケる」
と着物姿でパーティーやディナーなどに参加。
そこで友人となったヘアメイクアーティスト、須賀勇介と「タマネギヘア」を開発。
このヘアスタイルは、
「子供たちに会ったときにプレゼントするため」
にキャンディーを入れたり、海外へ行くときにパスポートも入れたり、小物入れとして活用されるようになった。
またこのニューヨークで
「キツいからいらない」
ブラジャーを外して以来、現在までノーブラ。
1971年10月に渡米し、1972年9月に新番組「13時ショー」の打ち合わせのための帰国。
この「徹子の部屋」の前身番組で、日本初の女性メイン司会者となったが、男尊女卑が根付いた日本の職場でやっていくのは大変だった。

「40歳になる少し前、ニュースショーの司会を頼まれました。
それまでニュースショーの司会といえば男性。
日本で初めての女性が中心になるニュースショーでした。
そのときはすごかったわね。
番組スタッフは私以外は全員男性で、しかも年上。
打ち合わせなんかで、やっぱり頭からものをいうような人がいたり。
私が「その次にこれをやるのは変だと思いますけど」といったりすると『何でもいいからやりゃあいいんだよ』という人がいたり。
そのときは「男の世界だなー」と思いまし女の立場が弱いってこういうことをいうんだなあ、『何でもいいからやりゃあいいんだよ』だなんて、そんなのってないんじゃないって。
戦争中だった8歳の頃、みぞれが降る寒い日に寒さと空腹で泣きながら歩いていたら、おまわりさんに 『おいコラ、なんで泣いてるんだ』と呼ばれたの。
「寒いからです」って答えたら『戦地の兵隊さんのことを考えたら泣いてなんかいられないだろ』って怒鳴られて。
男の人にガンガンいわれた時、そんなことを思い出しました。
でもね、結局のところ、自分は自分、人は人。
私の人格もよく知らずにガンガンいう人はロクなもんじゃないと思って「はい」とはいいながらも気にしない。
私は私よ、勝手にいってれば?って。
子どもの頃から、学校でも家庭でも人格を大切にしてもらったお陰で、自分が何ができるかはわからないけど「何かはできるだろう」とずっと思ってきました。
人は人って思えたのは、自己肯定感を育んでもらったことが大きかったと思います」


帰国直後の10月28日、日中友好の証しとして中国から贈られた2頭のパンダが上野動物園に到着した。
徹子は
「日本で1番パンダに詳しい人」
ということで取材が殺到し、「パンダと私」というエッセイ本も出版された。
徹子にパンダ好きは、6歳くらいのとき、叔父にアメリカのお土産としてぬいぐるみをもらったことがきっかけ。
「何よりも大切にしていたくらいで、いつも抱いていました。
戦争中も常にリュックにしまって、背負って空襲の中を逃げていました」
それ以来、資料が少ない中でも独自にパンダの研究を始め、テレビ出演をするようになってからは、まったく知られていなかったパンダを積極的に紹介。
このパンダの初来日のときも仕事のを抜け出して上野動物園の裏口へいき、長時間待った末、トラックが到着したが、パンダはコンテナの中にいたためにまったくみることが出来ず、逆にその徹子の姿がニュース番組の映像に映し出された。
「パンダの魅力は、まん丸くて、どこからみても可愛いところ。
中国のものなので、なかなか中国にも行けず、1968年、わざわざロンドンの動物園までみに行きました。
パンダが上野に初めてやって来たのは1972年です。
中国からオスのカンカンとメスのランランが寄贈されました。
パンダが日本に来るなんて夢のように思いました。
初めてみたとき、カンカンは子どもっぽく、ランランは少しお姉さんのようで、はっきりと個性がわかって興奮しました」
そういう徹子は、日本パンダ保護協会名誉会長となり、四川省の成都パンダ繁育研究基地から、パンダの命名権を与えられたこともある。

1975年8月30日、タモリが「土曜ショー」という番組の夏休み特集「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」でテレビ初出演。
ジャズが好きでジャズをするために浪人をしながら早稲田大学に進んだタモリは、学費未納で退学になった後もジャズに携わり続けて収入を得ていたが、家の事情で故郷の福岡県に戻った。
数年後、喫茶店のマスターをしていたタモリは、博多で行われたジャズコンサートを観に行き、公演後、渡辺貞夫のマネージャーをやっていた学生時代の友人と一緒にホテルで飲んでいた。
午前2時頃、家に帰るために部屋を出ると、ドンチャン騒ぎする声が聞こえた。
それは山下洋輔(ピアノ)の部屋で、ドア越しに会話を聞いて
「こいつらとは気が合う」
と思い、ドアを少しだけ開けて中をうかがうと、浴衣姿の中村誠一(サックス)が頭に籐のゴミ箱をかぶって虚無僧となて歌舞伎口調で奇声を上げていた。
とっさに
(俺の出番だ)
と思ったタモリは、
「ヨォ~」
と歌舞伎口調で部屋に乱入。
中村誠一からゴミ箱を奪ってかぶり、踊った。
そして朝まで彼らとスウィングした。
東京に帰った山下洋輔が、新宿ゴールデン街のバー「ジャックと豆の木」で
「九州にモリタというすごいやつがいる」
と話すと、有志らによって「伝説の九州の男・モリタを呼ぶ会」が発足。
タモリは「呼ぶ会」から新幹線代をもらって7年ぶりに上京し、ジャックと豆の木で様々な芸を披露。
以後、福岡で生活しつつ月1回上京して芸を披露し、メンバーの家で一定期間居候するという二重生活を始めた。

3度目の上京で赤塚不二夫がジャックと豆の木に来店。
赤塚不二夫に
「君はおもしろい。
お笑いの世界に入れ。
それまでは住むところがないなら、私のマンションに居ろ」
といわれ、家賃17万円、4LDK、冷暖房完備の高級マンションで飲み放題食べ放題、服も着放題、ベンツ450SLCに乗り放題、30万円の小遣い支給という好条件で居候を開始。
赤塚はまったく家に帰って来ず
「別に住むところがあるんだろう」
と思っていたが、優しい赤塚は仕事場のロッカーを倒してベッド代わりにして泊まり、どうしても必要なものがあって取りに帰るときは
「今から行っていい?」
とタモリにお伺いを立てた。
居候を始めて半年後、赤塚が仕事場で寝泊まりしていることに知ったタモリは
「もう出ます」
といおうと思ったが
「せっかくの好意がグチャグチャになっちゃあ、居候道に反する」
と思い直し、福岡に残していた妻を呼び寄せ、2人で居候を続けた。
そんなハチャメチャなプロセスを経て、テレビ初出演を果たしたわけだが、たまたま「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」をみていた徹子は、タモリのパフォーマンスをみて、すぐに赤塚不二夫に電話。
「今日、出ていた、誰?
すごいじゃない」
その後、タモリは「ニュースショー」で2回目のテレビ番組出演を果たした。
「今でも覚えています。
あのとき電話のすぐ横にいたんです。
赤塚さんから黒柳さんがお前のことみて、おもしろいから番組に出てほしいっていってるよって、その場でいわれたんですよ」
(タモリ)


1976年、「徹子の部屋」が放送開始。
このとき徹子は、42歳。
「徹子の部屋」は、放送が始まった1976年から1989年まで14年連続「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO.1」に選出。
2011年4月27日には放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定され、2015年5月27日には放送10000回を突破。
そんなモンスター番組の第1回のゲストは森繁久彌。
番組冒頭、森繁はタキシードを着た徹子の衣装をたしかめるフリをして胸を触った。
森繁は、戦前、NHKのアナウンサー試験に合格し、満州で勤務。
終戦後、ソ連で強制労働を経験し、帰国後、劇団を渡り歩き、ラジオドラマで人気を獲得。
テレビがスタートすると、まだ録画放送や編集という作業がなく、撮り始めると失敗が許されない生放送のドラマで活躍。
「本当にセリフがうまい方でアドリブで自分な好きなことをいっているとしか思えないように自然なんです。
そんなセリフの自然な言い方、間、お客さんを笑わせるコツ、すべて森繁さんから教わったと思っています」
徹子にとって森繁は、師匠であり、テレビという新しいメディアをつくり上げていった同志でもあった。

2人はドラマやバラエティー番組で何度も共演し、「徹子の部屋」の共演も14回に及んだが、森繁は徹子に会うと必ず
「1回どう?」
と聞いた。
徹子は最初、意味がわからず
「何を?」
と聞き返したが、その後も会う度にずっと
「1回どう?」
といわれ続け、
「はい、今度ね」
とはぐらかしていた。
すると
「シワクチャになってからじゃイヤよ」
といわれることもあった。
「危険なオジサン」
と警戒しつつ
「かわいがってくださっている」
と思っていた徹子が、最後に森繁に会ったのは、彼が亡くなる4年前。
食事の後、車に乗り込んだ森繁に手を引っ張られ
「1回どう?」

1977年8月11日、まだ無名のタモリが「徹子の部屋」に初出演。
そして翌年の1978年から2013年まで、「徹子の部屋」の年末の最後のゲストはタモリとなり

・産まれたての仔馬
・コンドルの着地
・イグアナのモノマネ
・北京放送
・中国人の田中角栄
・中国製のターザン映画
・宇宙飛行士になった大河内傅次郎が宇宙船の中で空気漏れで苦しんでいるのを韓国語で
・日本製ウイスキーを、これは悪しき飲み物であると説教しながら飲み始めた中国人が、やがてこんなすばらしいものはないと言い始める
・4カ国語麻雀(ベトナム人が中国人の捨てた牌に『ロン』といい、中国人が『チョンボ』とクレームをつけ、アメリカ人が仲裁し、それを後ろから見ていた田中角栄が口を出して乱闘に発展する)
・アメリカの宇宙飛行士と中国の宇宙飛行士の絡み合い
・国連Aセット(台湾国連脱退をめぐる韓国、台湾、中国の演説、Bセット、Cセットもあった)
・強要特別番組、李参平と白磁の由来
・明日の農作業の時間
・松正丸事件の真相
・肥前ナイロビ・ケニヤ線乗換え

など新宿ゴールデン街で「恐怖の密室芸」と呼ばれた芸を披露。
また

・マヨネーズ石狩鍋
・たくあんを洗った水で作ったクリームソーダ
・チョコレートしゃぶしゃぶ
・あんこ鍋

などゲテモノ料理を作って2人で食べることもあった。


1978年、TBSの毎週木曜日21時に「ザ・ベストテン」が放送開始。
徹子は久米宏と2人で司会を担当。
2人のトーク。
レコード売り上げだけでなく、有線放送、ラジオのリクエスト、番組へのリクエストハガキを集計し、若者たちのリアルな声を反映したランキング。
生放送ならではのハプニング。
ゲスト出演した歌手が垣間みせる素顔。
斬新な音楽番組は、最高視聴率41.9%を記録した。
「ランキング形式の音楽番組をやるなら、絶対に嘘をつかないでほしいというのが徹子さんの主張で、もしやらせがあったら降りますと宣言して始めたんです。
そのこだわりは番組スタート直後から波紋を呼びました。
人気絶頂だった山口百恵さんが11位になり、高視聴率が期待できるスターが出演できない!
一方では、テレビ出演しないことを宣言していた中島みゆきさんが4位にランクインしてしまいました」
(久米宏)
徹子は、この番組の衣装を、ニューヨークコレクションをみて感激した森英恵のものを好んで着用。
靴は、
「ドレス着てるから足はみえないんじゃない?」
と透明のサンダル1足だけで通した。
スタイリスト、メイク、ヘアメイクなどはつけず、全部自分でメーキャップした。
「20代はドーラン(ファンデーション)を伸ばして粉をはたいて口紅を塗るだけ。
30代になってからオードリー・ヘプバーンをお手本にしてアイラインを描くようになった。
だって時間がかかるでしょう?
早くスタジオ入りするのが好きじゃなくて・・・
その点、自分だとチャッチャッと早いですから!」

寺尾聰 の「ルビーの指環」が12週連続1位になったとき
「パンダの中に入ります」
と約束していた徹子は、目のまわりを黒く塗って着ぐるみを着た
近藤真彦は、ビルの窓ガラス清掃に使うゴンドラに乗って「ギンギラギンにさりげなく」を歌ったとき、
「この番組はヤバい」
と思ったが、その後も夜の海に飛び込んだり、修学旅行生が泊める宿舎に潜入して生徒たちに押し潰されて、スタジオの徹子を慌てさせた。
地元が近いシャネルズ(ラッツ&スター)と横浜銀蠅が共演したとき、横浜銀蠅がステージに立って、リーダーの翔がMCで大学の話をした。
すると歌い終わってソファーに座っていたシャネルズが
「へえ~、ツッパリなのに大学に行くんだ」
と冷やかにいい、徹子は
「シャネルズのほうが本物なのね」
と理解しつつ、一触即発に備えた。
ある年、夏休み中の徹子は、ノルウェーから中継で番組に出演。
現地の人間に
「山口百恵 1位おめでとう」
って書いてもらった紙を巻いて、ヒモを引いて上から垂らしてみせようとしたが、巻物のままボタッと落ちてきた。

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