多くの団体を渡り歩った永源さん、1980年6月にはストロング小林さんと組んで国際プロレスに出場されています。
その時は、マイティ井上選手&寺西勇選手を下し、前王者アニマル浜口さんの返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座を奪取されています。
ジャパンプロレス
1984年になると長州力さんら維新軍団と共に新日本を離脱し、ジャパンプロレスの設立に参画されました。
しかし翌1985年1月より、提携先の全日本プロレスに活動の場を移され、ジャパンプロレスが分裂した1987年には、新日本へ出戻った長州さんらと袂を分かって全日本へ残留し正式に全日本所属となられています。
全然悪役に見えなかったが、全日本では渕正信さんや大熊元司さんらとユニットを組み、馬場さんや木村さんらの「ファミリー軍団」と前座試合(通称「ファミ悪決戦」)を行うようになりました。
名物ツバ飛ばし💦
前座がメインになった永源さん、全日本における名物マッチのお約束で、永源さんはロープサイドの攻防の最中にリングから観客席に向かってツバを吐く事が名物となり、観客もそれを見越して新聞などをあらかじめ持参してガードしていましたね。
現役の拘り!!
永源さん1990年には、こんな話も舞い込んできました。
天龍源一郎さんらを全日本プロレスから引き抜いて旗揚げしたSWSの親会社メガネスーパーからも、その人脈や営業手腕を買われ、億単位の支度金を用意されて参加を要請されていたが、自ら入団を断っています。
永源さんは現役に拘っており、SWSに移籍したら早々と現役を引退させられてフロント専任になるであろうことが容易に想像できたからだとか・・・。
プロレスリング・ノア
1999年1月31日、馬場さんが肝不全の為亡くなられると5月7日、三沢光晴さんが社長に就任しましたが、伝統の保持を第一優先と主張する馬場夫人である馬場元子さんとの軋轢が生じ、三沢さんは社長を解任され三沢さんを含めた選手26名、練習生1名、大半の職員が全日本を離脱してプロレスリング・ノアを設立し永源さんも移籍されています。
この時、支援者・スポンサーのほとんどがノアに追随した背景には営業能力の高さが知られていた永源さんの力が大きかったといわれています。(ノアでは取締役営業部長の役職)