アナタハン島事件の概要

まず事件の概要からご紹介します。
アナタハン島を含む南洋群島(北マリアナ諸島、パラオ・マーシャル諸島など)は第一次世界大戦の戦勝国となった際に日本がドイツから割譲された委任統治領でした。
そして南洋諸島には、国策によって設立された南洋興発という企業が進出していたのです。
比嘉和子さんの夫の正一さんは南洋開発の社員で、上司の比嘉菊一郎さんと共に、現地民を労働力とした椰子畑の経営事業を任されていました。
比嘉菊一郎さんは妻と子供を、そして比嘉正一さんは妻である和子さんを伴ってアナタハン島に赴いていたのです。
戦争の激化に伴い、菊一郎さんは妻子をサイパン島に移住させていて、正一さんはサイパン島に妹を迎えに行き戻れなくなってしまいました。
結果的にアナタハン島の日本人は、菊一郎さんと和子さんの2人だけになってしまったのです。

そして運命の1944年(昭和19年)6月12日。
トラック諸島に向け進んでいた、カツオ漁船数隻がアナタハン近海でアメリカ軍の爆撃を受けてしまったのです。
このうち3隻は沈没し、一隻は大破してしまい乗組員たちは、命からがらアナタハン島に泳ぎ着いたのでした。
漁船4隻分、合計31人の男性たちでした。
職業内訳は軍人10人。
軍属船員21人。
大半は10代~20代の若者たちで、最年少はまだ16歳という少年と言っても良い若さです。
そして帰る船を全て失ってしまったため、この島で生活をすることにしたのでした。
バナナやパパイヤなど自生するこの島は、幸い当面の食べ物は確保することが出来たのです。

そして男性たちは菊一郎さんと、和子さんにも会いました。
この小さな島に男性32人と女性1人。
そしてこの暑さから、男性たちも前を覆うだけの格好で、女性も腰蓑を巻くだけの刺激的な格好です。
菊一郎さんと和子さんは夫婦を装い離れて暮らし、男性たちも当初は乗っていた船ごとのメンバーで暮らしていました。
でも男性たちは次第に全員で共同生活を送るようになっていったのです。
人数が一度に増えたことで、食料がつきネズミやコウモリなども食べて飢えを凌いでいました。
タロイモの栽培も始めましたが、アメリカ軍からの空襲のためなかなか、量産という訳にはいかなかったようです。
終戦で空襲が止んだことから、食糧事情は回復しアナタハン島にも平和が訪れたのでした。

ただ島に訪れた束の間の平和は、B29 の残骸から見つけた拳銃がもとで破られてしまったのです。
壊れた4丁の拳銃を解体して、2丁の拳銃を作り出すことに成功しました。
2丁の拳銃は2人の軍人が管理することになりましたが、日ごろから2人と折り合いが悪かった男性が、木から落下して亡くなってしまったのです。
目撃者も軍人2人のみだったことから、島内の人間が疑心暗鬼になっていったのでした。
菊一郎さんと和子さんの間にも変化が起こります。
元々気が小さかった菊一郎さんは、嫉妬やストレスなど色々あったのでしょう。
日常的に和子さんに暴力をふるっていました。
そんな菊一郎さんの暴力に耐えかねた和子さんは、ある船員と駆け落ちしてしまいます。
狭い島内ですぐに見つかり。和子さんは連れ戻されましたが、菊一郎さんと夫婦ではないことがわかったため、2人と男性たちの関係にも変化が起こっていきました。

拳銃を管理していた軍人が、菊一郎さんを脅して和子さんを奪ってしまいます。
そして和子さんを自分の事実上の妻にしてしまいますが、もう1人の拳銃を管理していた軍人とケンカになり、殺害されてしまったのでした。
そして殺した軍人に変わって、和子さんを事実上の妻にしてしまいましたが、拳銃を持ち出していた菊一郎さんに射殺されるという末路を迎えてしまいます。

そして再び、菊一郎さんのもとに戻った和子さん。
でも2人の夫婦生活も束の間で、菊一郎さんはコックに射殺されてしまったのです。
コックも水夫長に射殺されてしまいますが、その水夫長も崖から転落という不審死を遂げたのでした。
その後恋人となった別の水夫長も食中毒で死亡し、和子さんの周りで次々と人が亡くなっていったのです。

和子さんの周囲で次々に犠牲者が出たことで、この争いの元凶は和子さんではないか?という空気が高まり、身の危険を感じた和子さんはとうとう1950年6月、アメリカ軍に投降しいびつなアナタハン島での生活にピリオドを打ったのです。
そして沖縄に帰った和子さんでしたが、アナタハン島に残った男性たちの救出を訴え、遂に男性たちも日本に帰国することが叶ったのでした。
32名の男性のうち、生き残り帰国できたのは20名。
過酷な環境に、12人が命を落としてしまったのです。
この事件はセンセーショナルに書き立てられ、「アナタハン」は流行語にもなりました。
ただ他の生存者は、人間関係については濁しているため真相は不明です。
男を惑わす女として報道され、映画化もされた和子さんでしたが、後にサンデー毎日にアナタハン島の真相として「和子さんを巡って殺されたのは菊一郎さんとコックの2人だけ」と語っています。
優しく母性本能の強い和子さんは、極限の状態で求めてくる男性を突き放せなかったようです。
島に女性は1人だけという特殊な状況になれば、倫理観や価値観も変わってしまうでしょう。
和子さんは、戦争に翻弄された女性で生き残ろうと必死だったのだと思われます。
その後の比嘉和子

帰国後のアナタハン島ブームがひと段落した和子さんは、沖縄に帰り旅館で仲居として働いたあと、「アナタハン」という食堂を開きます。
ただ、その間もメディアは和子さんを「稀代の毒婦」「女王蜂」などとスキャンダラスに書き立てたため、耐えきれなくなった和子さんは本土に戻りました。
そしてストリップ劇場などに出演しますが、興行師たちにアナタハン事件を散々利用されてしまいます。
そして再び沖縄に帰った和子さんは、34歳のときに2人の子供がいる男性と再婚し、夫婦でたこ焼き屋やかき氷屋を仲良く営みました。
その9年後に夫は亡くなってしまいますが、連れ子たちと良い関係を続け、52歳で脳腫瘍のため亡くなっています。
連れ子との関係も良好だったことから、優しい人柄が偲ばれますね。
時代に翻弄された和子さんですが、再婚後に幸せな時間を過ごしたことは救いです。
故郷沖縄の地で、静かに眠られていることを祈りたいですね。